『新宿メンタルクリニック』の診察室のソファで、麻子はすっかり眠り込んでいたようだ。
「私、寝てたんだ」
腕時計を見る。夜の8時10分。
診察が始まったのが7時30分からで、最初のうちは、今の状況や症状を陽平に話したはずだ。
眠ってしまったのはそれからなのだから、長くても20分くらいのものだろう。
麻子がふと顔を触ると、頬に涙が伝っていた。慌てて涙を拭い、自分はなぜ泣いているのだろうと考えた。
途端、今しがたまで見ていた夢がまざまざと蘇り、足元から恐怖がせり上がった。全身を戦慄のような震えが走る。
まずい・・・。この感じはまずい。またあの感覚が・・・くる! 怖い。ああどうしよう、誰か助けて!
「どうした? 震えてるじゃないか。また怖い夢でも見た?」
陽平が麻子の変化を感じ取り、慌てて傍らに駆け寄った。
「処方した眠剤は飲んでる? 安定剤は? あれ飲めば、怖い夢もだいぶ治まるはずなんだけど」
「あんまり・・・飲んでないの・・・」
「どうして?」
「寝たら・・・いけないから」
ガタガタと身体を震わせ、まるでうわ言のように麻子は言った。
寝たらいけないとはどういうことなのだろうかと、陽平は麻子の背中を撫でながら思った。
麻子は不眠を改善するためにクリニックへ来ているのではないか。もちろん怖い夢を見るのが嫌だというのはわかる。しかし安定剤を飲んでいれば、それも治まるだろうという説明は充分にしたはずだ。
麻子の息が浅くなり、額から冷や汗のようなものが流れ出ていた。身体の震えは一層強くなった。
陽平は背中を撫でるのを止め、麻子を両手でギュッと抱きしめた。
ガタガタと震えながら、麻子は陽平のシャツにしがみつく。
「・・・助けて・・・」
浅い息の中、か細く漏れる麻子の声。
陽平の胸に、今まで感じたことのない熱く激しい何かが溢れ出した。
ふいに麻子を抱きしめる腕に力がこもる。麻子はそれに無意識に反応し、自分の頬を陽平の胸に押し当てた。
陽平は麻子の背中を一定のリズムでぽんぽんと叩き、優しくささやくように声をかける。
「大丈夫だ。大丈夫だよ。何も心配いらない。ただの夢だよ。怖くない。怖くない。大丈夫。大丈夫」
その声が、麻子の全身を包んでいた恐怖を徐々に溶かしていき、震えも段々収まってきた。
陽平は、麻子の震えが完全に収まるまで、ずっと彼女を抱きしめ、大丈夫だよとささやき続けた。
数十分後、麻子は新しく入れてもらったハーブティーを飲み、少しだけ落ち着きを取り戻した。
「大丈夫?」
麻子はコクンとうなずいた。しかしまだ恐怖の余韻から完全に抜けきれていないのか、うつろな目をしたまま黙りこんでいる。
「野村、ちゃんと安定剤飲んでほしいな。そうすれば、たぶん今みたいなことは起こり難くなるはずだよ」
陽平の言葉に、麻子は全く反応しない。黙ってハーブティーを啜っているだけだ。
不眠症でここへ来たというのに、なぜ麻子は眠ることを拒否しているのだろう。
本人は仕事が原因だと言っているが、それは本当なのだろうか。仕事のストレスが、あれほど麻子を怖がらせる夢を見せているのか。
・・・わからない。その答えはいったいどこにあるのだろう。
「相変わらず仕事忙しいの?」
陽平は意図的に話題を仕事に移した。
麻子はしばらくして「うん」とひと言だけ答えた。
仕事の方が話をしやすいらしいと陽平は感じ、そのまま続けて仕事の話題を振ってみる。
「まだリストラメンバー決められないってこと?」
麻子はどんどん落ち着きを取り戻していくように見える。大きく息を吐き出すと、ポツポツと話しはじめた。
「うん・・・。あとちょっとなんだけど・・・。誰だって、リストラされて嬉しいわけないもの。だからって、相手の立場ばっかり考えてるといつまで経っても終らないし、かといって、こっちの都合だけで選ぶのはね・・・」
相当難航しているのだろうということは充分に見て取れる。ありとあらゆることを考え、行動し、それでも決めかねているのだろう。
このことが、麻子を不眠にするほどのストレスを与えている・・・。
果たして本当にそうだろうか。もちろん要因のひとつである可能性はある。けれど陽平には、それが根本の原因だとはどうしても思えなかった。
麻子はいったい何を隠しているのだろう。それとも隠していることに自分でも気付いていないのだろうか・・・。
麻子が大きなため息を吐いた。美しく、少しやつれたその横顔。ティーカップを包む細い指。肩にかかる栗色の髪・・・。
なんてキレイなんだろう・・・。陽平はぼんやりとそう考え、麻子の横顔に見惚れた。
すると麻子が、ふいに疲れきった笑み漏らした。その微笑を見たとき、陽平の心臓が突如大きな音を立てて鳴り始めた。それは思いもかけないほどの大きさで、陽平は鳴り続けるその音に戸惑った。
中学の時、確かに自分は麻子が好きだった。もちろん憧れの域を出ていなかったけれど、それでも好きという気持ちは本物だった。
あれ以来、そんな想いを感じたことはない気がする。幼くはあったけれど、あれは本物の恋だったのだと、陽平は今強く感じていた。
2008年07月13日
12
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| 14番目の月
2008年07月05日
11
気が付くと、麻子は透明の球体の中でしゃがみ込んでいた。
継ぎ目はどこにもなく完全な球状。かすかな光を受けてツヤツヤと輝いている。
麻子はその優しい光に照らされて、まどろみの中に落ちていった。
トロトロとした眠りはとても心地いい。この球体に守られ、敵はどこからも入ってこられない。
もう何年も、こんな安らいだ気持ちになったことがないと麻子は思った。
ふと外を見ると、真っ白な霧に覆われていた。何も見えない。 ここがどこであるのかもわからない。
あれっ? と思った。何かを忘れているような気がする。
・・・そうだ。私は確か探し物をしていたんだっけ。とても大事な何か。それさえあれば生きていけるというくらい大切なもの。でも思い出せない。何もわからない。
・・・それでもいいやと思えた。こんなに穏やかに安らかになれる場所なのだ。何かを探していたとしても、もういいじゃないか。 思い出せないくらいなんだから、大したことじゃなかったんだ。
そう・・・もうこのまま何も考えることなく過ごしたい。何かを考えるということはとても辛い。自分にとって大切なことであればあるだけ辛くなる。もうそんなことはしなくていい。止めよう。楽なこと、愉快なこと、楽しいことだけを見つめるんだ。
麻子は口元に笑みを浮かべ、再びまどろみの中に落ちていこうとした。
・・・その時、外の霧がスーッと晴れた。麻子の目の前には理沙が立っていた。
「お姉ちゃん」
理沙は幸せにはちきれそうな笑みをたたえて、麻子の前に立っていた。
突然胸が締め付けられた。苦しい。痛い。辛い。
麻子の全身が総毛だった。それに合わせ、なぜか球体が一回り小さくなった。
「どうしたの? お姉ちゃん。そんな怖い顔して」
そうだ! 探していたのはこの子だ。どうしてこんな大切なことを忘れていたんだろう。
「理沙! 勝手にひとりで出かけちゃ危ないじゃないの!」
麻子の声が球体の中で響き渡り、麻子に跳ね返った。
声が大きければ大きいだけ、跳ね返りの衝撃は大きかった。
耳が痛い。でも叫ばずにはいられない。理沙が危ないのだ。あの子は目が不自由だ。たったひとりで歩くなんてできないのだ。
球体をこぶしで叩き、また叫ぶ。
「どうして私にひと言言わないの。どれだけ探したと思ってるの?」
球体の外で、理沙は相変わらずニコニコと笑っている。
・・・私の声が聞こえないのか。
この球体は、敵が入ってこない代わりに中のものは声すら通さないのか。
麻子は急に、すさまじいほどの恐怖を感じた。
怖くなり、何度も何度も球体を叩く。その衝撃は、麻子自身に跳ね返ってきた。
「お姉ちゃん。私はもう大丈夫。ちゃんと見えるのよ。だから心配しないで」
「理沙・・・いつの間に目が・・・?」
突然麻子の全身を、鉛のように重い絶望が覆いかぶさった。
私は理沙の目の代わり。この子が見えるようになったら、私を必要としなくなったら、私の居場所はどこにもない・・・。もう・・・どこにも・・・ない。
球体は、麻子の絶望に敏感に反応したように再び小さくなった。
「私ね、好きな人が出来たの。その人と結婚するわ」
「待って理沙! そんなこと勝手に決めたらダメ。私は許さないわよ」
「本当にステキな人なの。お姉ちゃんもきっと好きになるわ」
「理沙、行っちゃダメ。お願い」
「今まで本当にありがとうお姉ちゃん。私、絶対幸せになるからね」
そう言い残すと、理沙は麻子の目の前であっという間に霧に包まれた。
「待ちなさい理沙! 戻ってきなさい。行っちゃダメ! 理沙!」
麻子は必死に叫んだ。いつの間にか、目から涙がほとばしっていた。
こぶしが悲鳴を上げるほど球体を叩く。
叩いても叩いてもビクともせず、麻子の絶望を喜ぶように、球体はますます小さくなっていった。
いつの間にかそれは、麻子を押し潰すほどの大きさになっていた。
助けて! 誰か私をここから出して。イヤだ! もうイヤだ! た・す・け・・・て。
・・・グチャ!・・・
ついに球体は麻子を押し潰した。
粉々に砕けた球体のカケラと、バラバラに千切れた麻子の手・足・胴・そして頭。
それはゴチャゴチャに混ざり合って血を流し、深い霧の中に無惨に散らばっていた・・・。
「随分ぐっすり眠ってますね」
遥か彼方から、かすかな声が聞こえてきた。
それは霞がかかったように、ぼんやりと麻子の耳に届いた。
「本島さん、ハーブティーに睡眠薬でも入れたんじゃないの?」
「あ、バレました?」
次第にはっきりと聞こえてきた朗らかな笑い声は、確かに陽平と由紀だ。
麻子がハッとしたように目を開けると、由紀が麻子の顔を覗き込んだ。
「あれ、涙・・・。野村さんどうかしました?」
意識はまだぼんやりしている。
麻子は自分がどこにいるのか、何をしていたのか思い出せなかった。
「先生、野村さんが・・・」
麻子の目から溢れる涙。それを見た由紀は、麻子に優しく微笑みかけると、静かにそこから出て行った。
「大丈夫?」
陽平が優しく声をかける。
麻子は何がなんだかわからないまま、ゆっくりと身体を起こした。
そこは、『新宿メンタルクリニック』の診察室であった。
継ぎ目はどこにもなく完全な球状。かすかな光を受けてツヤツヤと輝いている。
麻子はその優しい光に照らされて、まどろみの中に落ちていった。
トロトロとした眠りはとても心地いい。この球体に守られ、敵はどこからも入ってこられない。
もう何年も、こんな安らいだ気持ちになったことがないと麻子は思った。
ふと外を見ると、真っ白な霧に覆われていた。何も見えない。 ここがどこであるのかもわからない。
あれっ? と思った。何かを忘れているような気がする。
・・・そうだ。私は確か探し物をしていたんだっけ。とても大事な何か。それさえあれば生きていけるというくらい大切なもの。でも思い出せない。何もわからない。
・・・それでもいいやと思えた。こんなに穏やかに安らかになれる場所なのだ。何かを探していたとしても、もういいじゃないか。 思い出せないくらいなんだから、大したことじゃなかったんだ。
そう・・・もうこのまま何も考えることなく過ごしたい。何かを考えるということはとても辛い。自分にとって大切なことであればあるだけ辛くなる。もうそんなことはしなくていい。止めよう。楽なこと、愉快なこと、楽しいことだけを見つめるんだ。
麻子は口元に笑みを浮かべ、再びまどろみの中に落ちていこうとした。
・・・その時、外の霧がスーッと晴れた。麻子の目の前には理沙が立っていた。
「お姉ちゃん」
理沙は幸せにはちきれそうな笑みをたたえて、麻子の前に立っていた。
突然胸が締め付けられた。苦しい。痛い。辛い。
麻子の全身が総毛だった。それに合わせ、なぜか球体が一回り小さくなった。
「どうしたの? お姉ちゃん。そんな怖い顔して」
そうだ! 探していたのはこの子だ。どうしてこんな大切なことを忘れていたんだろう。
「理沙! 勝手にひとりで出かけちゃ危ないじゃないの!」
麻子の声が球体の中で響き渡り、麻子に跳ね返った。
声が大きければ大きいだけ、跳ね返りの衝撃は大きかった。
耳が痛い。でも叫ばずにはいられない。理沙が危ないのだ。あの子は目が不自由だ。たったひとりで歩くなんてできないのだ。
球体をこぶしで叩き、また叫ぶ。
「どうして私にひと言言わないの。どれだけ探したと思ってるの?」
球体の外で、理沙は相変わらずニコニコと笑っている。
・・・私の声が聞こえないのか。
この球体は、敵が入ってこない代わりに中のものは声すら通さないのか。
麻子は急に、すさまじいほどの恐怖を感じた。
怖くなり、何度も何度も球体を叩く。その衝撃は、麻子自身に跳ね返ってきた。
「お姉ちゃん。私はもう大丈夫。ちゃんと見えるのよ。だから心配しないで」
「理沙・・・いつの間に目が・・・?」
突然麻子の全身を、鉛のように重い絶望が覆いかぶさった。
私は理沙の目の代わり。この子が見えるようになったら、私を必要としなくなったら、私の居場所はどこにもない・・・。もう・・・どこにも・・・ない。
球体は、麻子の絶望に敏感に反応したように再び小さくなった。
「私ね、好きな人が出来たの。その人と結婚するわ」
「待って理沙! そんなこと勝手に決めたらダメ。私は許さないわよ」
「本当にステキな人なの。お姉ちゃんもきっと好きになるわ」
「理沙、行っちゃダメ。お願い」
「今まで本当にありがとうお姉ちゃん。私、絶対幸せになるからね」
そう言い残すと、理沙は麻子の目の前であっという間に霧に包まれた。
「待ちなさい理沙! 戻ってきなさい。行っちゃダメ! 理沙!」
麻子は必死に叫んだ。いつの間にか、目から涙がほとばしっていた。
こぶしが悲鳴を上げるほど球体を叩く。
叩いても叩いてもビクともせず、麻子の絶望を喜ぶように、球体はますます小さくなっていった。
いつの間にかそれは、麻子を押し潰すほどの大きさになっていた。
助けて! 誰か私をここから出して。イヤだ! もうイヤだ! た・す・け・・・て。
・・・グチャ!・・・
ついに球体は麻子を押し潰した。
粉々に砕けた球体のカケラと、バラバラに千切れた麻子の手・足・胴・そして頭。
それはゴチャゴチャに混ざり合って血を流し、深い霧の中に無惨に散らばっていた・・・。
「随分ぐっすり眠ってますね」
遥か彼方から、かすかな声が聞こえてきた。
それは霞がかかったように、ぼんやりと麻子の耳に届いた。
「本島さん、ハーブティーに睡眠薬でも入れたんじゃないの?」
「あ、バレました?」
次第にはっきりと聞こえてきた朗らかな笑い声は、確かに陽平と由紀だ。
麻子がハッとしたように目を開けると、由紀が麻子の顔を覗き込んだ。
「あれ、涙・・・。野村さんどうかしました?」
意識はまだぼんやりしている。
麻子は自分がどこにいるのか、何をしていたのか思い出せなかった。
「先生、野村さんが・・・」
麻子の目から溢れる涙。それを見た由紀は、麻子に優しく微笑みかけると、静かにそこから出て行った。
「大丈夫?」
陽平が優しく声をかける。
麻子は何がなんだかわからないまま、ゆっくりと身体を起こした。
そこは、『新宿メンタルクリニック』の診察室であった。
posted by 夢野さくら at 02:27| Comment(0)
| 14番目の月
2008年06月29日
10
電話のベルが3度鳴り、留守番電話に切り替わった。
「はい、野村です。ただいま出かけておりますので、発信音のあとにメッセージをお願いいたします」
ピーという音のあとに、若い女のためらうような声がした。
「・・・理沙です。お姉ちゃん元気ですか? 何度も何度もごめんなさい。でも・・・返事をもらえないのでまたかけてしまいました。田島さんも気にしてるの。・・・もちろん忙しいのは充分わかってます。わがまま言ってるのもわかってます。でも、お姉ちゃんには出てもらいたいの。ほんの一時間、ううん、30分でもいいです。お姉ちゃんがいない結婚式なんて、私には考えられません。どうか返事を下さい。待っています」
・・・疲れた。ここ数日、会社と家の往復だけしかしていない。そして今も、耐えがたい焦燥感と虚無感に押し潰されそうになりながら、震える足で家路を急いでいる。
今日の昼過ぎ、仕事中に電話がかかってきた。母からだ。携帯は電源を切ってあるので、家と会社にかかってくる。
最近その回数が増え、数日おきになった。いつも同じ用件。
何度断わっても何度理由を説明しても、それが母に響くことはない。
私が「うん」と言うまで、何回でもかけてくるのだろう。
私は母のなんなのだろう。いつまでも、「はい、わかりました」と言い続ける人形なのか。
疲れた。無性に悲しくなった。もう何もかもメチャクチャになってしまえばいい。
電話を切ると、身体が震えた。手がブルブルとわななき、パソコンのキーボードが打てない。
身体の奥からねっとりとしたものが流れ出し、あっという間に下着を濡らす。セックスがしたいという突き上げるほどの欲望が全身を駆け巡った。
今すぐしたい。男のモノが欲しい。今ここで突き立てて欲しい。何もかもが忘れられるあの快感。乾いた泉が満たされていくあの感じ。
身体がどんどん敏感になり、感覚が研ぎ澄まされていく・・・。
ああ・・・頭がおかしくなりそうだ。
私のデスクの周りには、こんなにもたくさんの男がいる。なのになぜ誰も私の望みを叶えてはくれないのだろう。
それはやはり、相手が私だからなのか。
・・・たぶん、きっとそうだ。
私は自分がどんな人間なのかよくわかっている。どうしようもなく心がいびつで醜く、この世に存在する価値などまるでない人間だ。私は私が大嫌いだ。そんな私のことを、他人が好きになるはずはない。当たり前のことだ。
でも私にはセックスが必要だ。どうしてもどうしても必要なのだ。
だから・・・。お願いします。私を見て下さい。私のここを見て下さい。私は待っている。私のここは、もうこんなに濡れている。今すぐ欲しいの。今すぐにでも!
そうだ。このまま仕事を放って帰ろうか。帰ってすぐに着替えをし、私のことを誰も知らない新宿に向かう。メトロプラザホテルのバーラウンジは何時からだっけ? ・・・ダメだ。確か6時だ。あそこに行くにはまだ早い。ではどうすればいい。どこに行けばいい。セックスをするためにはどこに行けばいい?!
どうしようもないほど身体の震えが大きくなった時、遠くの方からかすかな声が聞こえた。
まただ。また私を止めようとしている。その衝動通りに行動すれば、すさまじいほどの後悔が襲う。それでもいいのかとその声は言った。
・・・イヤだ。もうあんな思いはしたくない。身体を引き裂きたくなるような激しい絶望と恐怖。そんな思いはもうたくさんだ!
心がそう叫んだ時、少しずつ、本当に少しずつ身体の震えが収まってきた。
息を大きく吐き出し、深呼吸を繰り返す。乗り切れるだろうか。頑張れるだろうか。
・・・わからない。でも何とかしなければ。
私は何度も深呼吸を繰り返し、せり上がってくる欲望と必死に戦い続けた。
着いた。何とか今日も頑張れた。
壮絶な戦いを終えたかのように疲れきった私の身体。それを引きずり玄関のドアを開ける。
ふとリビングの電話を見ると、留守番電話のランプがチカチカ点滅していた。
また母か? そう思っただけで、押さえつけていたイライラがぶり返した。
乱暴に留守番電話の再生ボタンを押す。
「理沙です・・・」
その声が流れ出た途端、私は思わずその場にしゃがみ込んだ。
ガクガクと身体の芯が震える。両手でギュッと身体を抱きしめたのに、震えはいっそう強くなった。
・・・気持ち悪い。今すぐセックスをしなければ気が狂う。私が救われる道はそれしかないと思った。
世界が揺れる。めまいを起こしているのかもしれない。・・・遠くで、私を救おうとするかすかな声が聞こえてきた。でも、その声に従うだけの心の強さが、今の私には残っていなかった。
身体の奥からトロリとした液体が流れ出し、今日2枚目の下着を濡らした。
「はい、野村です。ただいま出かけておりますので、発信音のあとにメッセージをお願いいたします」
ピーという音のあとに、若い女のためらうような声がした。
「・・・理沙です。お姉ちゃん元気ですか? 何度も何度もごめんなさい。でも・・・返事をもらえないのでまたかけてしまいました。田島さんも気にしてるの。・・・もちろん忙しいのは充分わかってます。わがまま言ってるのもわかってます。でも、お姉ちゃんには出てもらいたいの。ほんの一時間、ううん、30分でもいいです。お姉ちゃんがいない結婚式なんて、私には考えられません。どうか返事を下さい。待っています」
・・・疲れた。ここ数日、会社と家の往復だけしかしていない。そして今も、耐えがたい焦燥感と虚無感に押し潰されそうになりながら、震える足で家路を急いでいる。
今日の昼過ぎ、仕事中に電話がかかってきた。母からだ。携帯は電源を切ってあるので、家と会社にかかってくる。
最近その回数が増え、数日おきになった。いつも同じ用件。
何度断わっても何度理由を説明しても、それが母に響くことはない。
私が「うん」と言うまで、何回でもかけてくるのだろう。
私は母のなんなのだろう。いつまでも、「はい、わかりました」と言い続ける人形なのか。
疲れた。無性に悲しくなった。もう何もかもメチャクチャになってしまえばいい。
電話を切ると、身体が震えた。手がブルブルとわななき、パソコンのキーボードが打てない。
身体の奥からねっとりとしたものが流れ出し、あっという間に下着を濡らす。セックスがしたいという突き上げるほどの欲望が全身を駆け巡った。
今すぐしたい。男のモノが欲しい。今ここで突き立てて欲しい。何もかもが忘れられるあの快感。乾いた泉が満たされていくあの感じ。
身体がどんどん敏感になり、感覚が研ぎ澄まされていく・・・。
ああ・・・頭がおかしくなりそうだ。
私のデスクの周りには、こんなにもたくさんの男がいる。なのになぜ誰も私の望みを叶えてはくれないのだろう。
それはやはり、相手が私だからなのか。
・・・たぶん、きっとそうだ。
私は自分がどんな人間なのかよくわかっている。どうしようもなく心がいびつで醜く、この世に存在する価値などまるでない人間だ。私は私が大嫌いだ。そんな私のことを、他人が好きになるはずはない。当たり前のことだ。
でも私にはセックスが必要だ。どうしてもどうしても必要なのだ。
だから・・・。お願いします。私を見て下さい。私のここを見て下さい。私は待っている。私のここは、もうこんなに濡れている。今すぐ欲しいの。今すぐにでも!
そうだ。このまま仕事を放って帰ろうか。帰ってすぐに着替えをし、私のことを誰も知らない新宿に向かう。メトロプラザホテルのバーラウンジは何時からだっけ? ・・・ダメだ。確か6時だ。あそこに行くにはまだ早い。ではどうすればいい。どこに行けばいい。セックスをするためにはどこに行けばいい?!
どうしようもないほど身体の震えが大きくなった時、遠くの方からかすかな声が聞こえた。
まただ。また私を止めようとしている。その衝動通りに行動すれば、すさまじいほどの後悔が襲う。それでもいいのかとその声は言った。
・・・イヤだ。もうあんな思いはしたくない。身体を引き裂きたくなるような激しい絶望と恐怖。そんな思いはもうたくさんだ!
心がそう叫んだ時、少しずつ、本当に少しずつ身体の震えが収まってきた。
息を大きく吐き出し、深呼吸を繰り返す。乗り切れるだろうか。頑張れるだろうか。
・・・わからない。でも何とかしなければ。
私は何度も深呼吸を繰り返し、せり上がってくる欲望と必死に戦い続けた。
着いた。何とか今日も頑張れた。
壮絶な戦いを終えたかのように疲れきった私の身体。それを引きずり玄関のドアを開ける。
ふとリビングの電話を見ると、留守番電話のランプがチカチカ点滅していた。
また母か? そう思っただけで、押さえつけていたイライラがぶり返した。
乱暴に留守番電話の再生ボタンを押す。
「理沙です・・・」
その声が流れ出た途端、私は思わずその場にしゃがみ込んだ。
ガクガクと身体の芯が震える。両手でギュッと身体を抱きしめたのに、震えはいっそう強くなった。
・・・気持ち悪い。今すぐセックスをしなければ気が狂う。私が救われる道はそれしかないと思った。
世界が揺れる。めまいを起こしているのかもしれない。・・・遠くで、私を救おうとするかすかな声が聞こえてきた。でも、その声に従うだけの心の強さが、今の私には残っていなかった。
身体の奥からトロリとした液体が流れ出し、今日2枚目の下着を濡らした。
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| 14番目の月
2008年06月21日
9
陽平に夢の内容を聞かれ、麻子の呼吸がほんの少し浅くなった。
大人になってから、夢の話をしたのはこれが初めてだ。改めて声にすると、それを見た時の息苦しさがこみ上げてくる。
・・・そういえば、つい最近も似たような夢を見た気がする。あれはいったいいつのことだったのか・・・。
麻子の変化に気付いた陽平が、大丈夫だよとばかりにうなずき、問いかけた。
「最近の眠れない原因はなんだと思う?」
「仕事だと思うわ。・・・うちの銀行リストラしているの。私の今の仕事、リストラメンバーの選出なの」
リストラ・・・。それが原因で心を病み、精神科を訪れる人は大勢いる。
世間ではリストラされた人が鬱病になるという話をよく聞く。しかしリストラは、された側だけではなく、する側の方が心を病むケースも多いのだ。麻子の今の不眠はそれが原因なんだろうか。
ある程度の問診を終えると、次には心理テストが待っている。 ここ『新宿メンタルクリニック』では、心理テスト前に患者にハーブティーを飲んでもらうことにしている。好き嫌いやアレルギーなどを聞いたあと、ひとりひとりにあったものを由紀がブレンドするのだ。これはリラックス効果が高く、なかなか好評だった。
「美味しい」
一口飲んで、麻子はホッとした声を出した。由紀は嬉しそうにニコッと笑い、妹が紅茶とハーブの専門店に勤めていて、いろいろ教えてくれるのだと言った。
由紀が「妹」と言った時、麻子の表情が微妙に変化した。ジッと注意して見ていなければ気付くことはないほどの、ほんの小さな変化。しかし陽平はその一瞬を見逃さなかった。
おどけたような明るい笑いを残して由紀が隣の部屋へ戻っていくと、陽平は問診表を見ながらさり気なく尋ねた。
「妹さん、元気?」
瞬間麻子の顔が強張った。
「・・・元気よ。なぜ?」
「目は大丈夫なの?」
麻子の妹は、幼い時のある事故が原因で目が不自由だった。失明まではしていなかったが、光を辛うじて認識できる程度の視力しかなかった。
「2年前やっと手術ができて、ある程度見えるようになったの。だからっていうわけじゃないんだけど、あの子今度結婚するのよ」
麻子は取り繕ったような笑顔で言った。
・・・結婚するのよ・・・。
言葉の余韻に、不可思議な影が漂う。この影はなんだ。不眠の原因はそこにあるのか・・・?
陽平が知っている麻子は、まるで母親にでもなったかのように、よく妹の面倒を見ていた。
あの頃陽平は、部活帰りの道で、妹の手を引いて歩く麻子を何度も見かけた。
妹が小石につまづいて転ばないように、ガードレールにぶつからないように、それこそ麻子は、妹を抱え込むようにして歩いていた。
たぶんあの頃の妹にとって、麻子の存在はこの世の全てであっただろう。それは麻子にとっても同じだったと陽平は感じていた。
しかし今の彼女の様子はなんなのだろう。2人の間に何かあったのか。それともこれは思い過ごしで、やはり不眠の原因は仕事のストレスなのだろうか?
陽平が麻子を初診してわかったのは、彼女の心は何かに抑圧されているということだけ。その原因を彼女は仕事だと言うし、本当にそう思っているのだろう。けれど陽平には、麻子の自意識にのぼってこない、根深い何かがあるのを感じていた。それが何なのか、今の陽平にはわからなかった。
「野村さんと先生が、中学の同級生?!」
初診後の『紫頭巾』に、オカマたちの嬌声と怒声が響き渡った。つかさたちも、麻子の同級生発言には目を丸くしている。
何と言っても憧れの陽平先生の前に、突然懐かしの同級生が登場したのだ。しかも相手はモデル並みに美しいときている。オカマたちがショックで失神しないだけマシというものだろう。
しかし! 『あたしたちに勝ち目はあるかしら? 6対4くらい? 当然私が6。決まってるわ』
あくまで図々しく自分たちにいいように考えるのがオカマたちの特技だと言っていい。
その時、マルコの脳裏にリリィの占いがよぎった。
「そういえばリリィちゃん! さっき占いで、先生に好きな人が現われるって言ってなかった?それって野村さんのことなの?」
いっせいにリリィと麻子を交互に見つめるオカマたち。麻子には何のことだかさっぱりわからず、戸惑うばかりだ。
リリィは先ほどから、ずっとひとり黙って麻子を見つめている。その視線にマルコは真実を知る思いだった。
「・・・やっぱりそうなのねリリィちゃん・・・。はっきり言ってちょうだい」
「ちょっとマルコ! リリィの占いなんて当たらないって言ってるでしょ」
「ダンボちゃんは黙ってて!」
悲壮感漂う顔で、マルコはリリィの答えを待った。しかしリリィの口から出た言葉は、マルコへの返事ではなかった。
「ねぇ野村さん。あたしとどっかで会ったことない? あたし何度も野村さんを見てる気がするの」
「・・・さぁ。ごめんなさい、思い出せないわ」
「そう・・・あたしの思い過ごしなのかな・・・。でも確かに・・・」
う〜ん・・・と言いながら考え続けるリリィ。マルコの質問に答えてやる思考の余裕が、今のリリィにはまるでなかった。
大人になってから、夢の話をしたのはこれが初めてだ。改めて声にすると、それを見た時の息苦しさがこみ上げてくる。
・・・そういえば、つい最近も似たような夢を見た気がする。あれはいったいいつのことだったのか・・・。
麻子の変化に気付いた陽平が、大丈夫だよとばかりにうなずき、問いかけた。
「最近の眠れない原因はなんだと思う?」
「仕事だと思うわ。・・・うちの銀行リストラしているの。私の今の仕事、リストラメンバーの選出なの」
リストラ・・・。それが原因で心を病み、精神科を訪れる人は大勢いる。
世間ではリストラされた人が鬱病になるという話をよく聞く。しかしリストラは、された側だけではなく、する側の方が心を病むケースも多いのだ。麻子の今の不眠はそれが原因なんだろうか。
ある程度の問診を終えると、次には心理テストが待っている。 ここ『新宿メンタルクリニック』では、心理テスト前に患者にハーブティーを飲んでもらうことにしている。好き嫌いやアレルギーなどを聞いたあと、ひとりひとりにあったものを由紀がブレンドするのだ。これはリラックス効果が高く、なかなか好評だった。
「美味しい」
一口飲んで、麻子はホッとした声を出した。由紀は嬉しそうにニコッと笑い、妹が紅茶とハーブの専門店に勤めていて、いろいろ教えてくれるのだと言った。
由紀が「妹」と言った時、麻子の表情が微妙に変化した。ジッと注意して見ていなければ気付くことはないほどの、ほんの小さな変化。しかし陽平はその一瞬を見逃さなかった。
おどけたような明るい笑いを残して由紀が隣の部屋へ戻っていくと、陽平は問診表を見ながらさり気なく尋ねた。
「妹さん、元気?」
瞬間麻子の顔が強張った。
「・・・元気よ。なぜ?」
「目は大丈夫なの?」
麻子の妹は、幼い時のある事故が原因で目が不自由だった。失明まではしていなかったが、光を辛うじて認識できる程度の視力しかなかった。
「2年前やっと手術ができて、ある程度見えるようになったの。だからっていうわけじゃないんだけど、あの子今度結婚するのよ」
麻子は取り繕ったような笑顔で言った。
・・・結婚するのよ・・・。
言葉の余韻に、不可思議な影が漂う。この影はなんだ。不眠の原因はそこにあるのか・・・?
陽平が知っている麻子は、まるで母親にでもなったかのように、よく妹の面倒を見ていた。
あの頃陽平は、部活帰りの道で、妹の手を引いて歩く麻子を何度も見かけた。
妹が小石につまづいて転ばないように、ガードレールにぶつからないように、それこそ麻子は、妹を抱え込むようにして歩いていた。
たぶんあの頃の妹にとって、麻子の存在はこの世の全てであっただろう。それは麻子にとっても同じだったと陽平は感じていた。
しかし今の彼女の様子はなんなのだろう。2人の間に何かあったのか。それともこれは思い過ごしで、やはり不眠の原因は仕事のストレスなのだろうか?
陽平が麻子を初診してわかったのは、彼女の心は何かに抑圧されているということだけ。その原因を彼女は仕事だと言うし、本当にそう思っているのだろう。けれど陽平には、麻子の自意識にのぼってこない、根深い何かがあるのを感じていた。それが何なのか、今の陽平にはわからなかった。
「野村さんと先生が、中学の同級生?!」
初診後の『紫頭巾』に、オカマたちの嬌声と怒声が響き渡った。つかさたちも、麻子の同級生発言には目を丸くしている。
何と言っても憧れの陽平先生の前に、突然懐かしの同級生が登場したのだ。しかも相手はモデル並みに美しいときている。オカマたちがショックで失神しないだけマシというものだろう。
しかし! 『あたしたちに勝ち目はあるかしら? 6対4くらい? 当然私が6。決まってるわ』
あくまで図々しく自分たちにいいように考えるのがオカマたちの特技だと言っていい。
その時、マルコの脳裏にリリィの占いがよぎった。
「そういえばリリィちゃん! さっき占いで、先生に好きな人が現われるって言ってなかった?それって野村さんのことなの?」
いっせいにリリィと麻子を交互に見つめるオカマたち。麻子には何のことだかさっぱりわからず、戸惑うばかりだ。
リリィは先ほどから、ずっとひとり黙って麻子を見つめている。その視線にマルコは真実を知る思いだった。
「・・・やっぱりそうなのねリリィちゃん・・・。はっきり言ってちょうだい」
「ちょっとマルコ! リリィの占いなんて当たらないって言ってるでしょ」
「ダンボちゃんは黙ってて!」
悲壮感漂う顔で、マルコはリリィの答えを待った。しかしリリィの口から出た言葉は、マルコへの返事ではなかった。
「ねぇ野村さん。あたしとどっかで会ったことない? あたし何度も野村さんを見てる気がするの」
「・・・さぁ。ごめんなさい、思い出せないわ」
「そう・・・あたしの思い過ごしなのかな・・・。でも確かに・・・」
う〜ん・・・と言いながら考え続けるリリィ。マルコの質問に答えてやる思考の余裕が、今のリリィにはまるでなかった。
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| 14番目の月
2008年06月15日
8
「先生、野村さんです」
由紀は診察室のドアを開け、緊張している様子の麻子に入るよう促した。
診察室にはモーツァルトのピアノ協奏曲第17番が小さく流れている。
「こんばんは」
陽平が麻子に笑いかけた。思いもかけないほどの暖かい笑顔。麻子もつられて微笑む。不安が少し薄まるのを感じた。
なるほど、つかさが見たがるのもわかると思えるなかなかの二枚目だ。手には麻子が先ほど書いた問診表を持っている。
問診表とは、クリニックを受診しようと思った動機や、不眠・憂鬱な気分・食欲不振など、実際自分が感じている症状、そして個人歴、家族歴など、診察に必要だと思われることを事前に患者本人に書いてもらうものだ。
「どうぞお掛け下さい」
陽平が指し示すソファに、麻子はゆっくり腰を下ろした。
まだ多少だが緊張感が残っている。何を聞かれるのだろう。そう思って身構えた瞬間、陽平が問診表と麻子の顔を交互に見つめた。しかも数回。
・・・先生は何をしているのだろう。何か変なことでも書いてしまったのだろうか。
「あの・・・何か?」
「野村、麻子さん?」
陽平は、さっきまでの人を安心させるような響きとは裏腹な、妙に上ずったような声で言った。そしてその目は、興奮したように麻子を見つめている。
何? 何なのよ、と麻子は思った。
「覚えてない? 俺のこと」
麻子の顔から血の気が引いた。何? 誰? ・・・まさか!
思わず席を立ち、「すいません、私ちょっと」と言おうとすると、陽平が突然、満面の笑みをたたえて懐かしそうに言った。
「俺だよ、野村。ほら、中学1年の時、同じクラスだった岩田陽平。覚えてない?」
岩田・・・岩田陽平・・・。覚えがない。
「俺、印象薄いのかなぁ。一緒に学級委員したこともあるんだけど」
陽平が苦笑しながら頭を掻く。医者の顔ではなく、陽平の素の顔。そして学級委員。2つのイメージが重なった。少しずつ、麻子の頭の中に陽平の記憶の断片が蘇る。知らず知らずのうちに止めていた息を大きく吐き出し、麻子はホッと胸を撫で下ろした。
「一緒に学級委員やったのは、確か2学期の時だったよね?」
「そう! 思い出した?」
陽平が嬉しそうに微笑んだ。
麻子の脳裏に、徐々にいろいろな思い出が蘇った。陽平がちょっとイジメられっ子だったこと。よくお昼のパンなんかを買いに行かされていたこと。でも勉強はよくできたこと。イジメていたのは・・・そうそう武藤君だ。彼はケンカが強くて身体が大きかった。確か野球部に入っていた気がする。岩田君は天文部・・・。
2人はひとしきり昔話で盛り上がった。
陽平はニコニコと楽しそうに話をしながら、一方で懐かしそうに笑う麻子を冷静な目で見つめいてた。
朗らかで明るい笑顔。あの頃と何も変わらないように見えるまなざし。
しかし問診表を見ると不眠が続いているという。そして陽平が「覚えてない?」と聞いた時に見せた、あの動揺した顔。
ただの仕事上のストレスではないと陽平は感じた。何かがある。彼女の中に何が隠れている。
「・・・そろそろ診察はじめようか」
診察室に入ってから、あっという間に30分という時間が経っていた。待合室にはつかさと美鈴も待っている。これは同窓会ではなく診察なんだということを、麻子はやっと思い出した。
「眠れないの?」
「たいしたことじゃないんだけどね」
麻子は何でもなさそうに答えた。陽平がゆったりとしたリズムでさらに聞く。
「いつから眠れないの?」
・・・いつから? そういえば、昔にもこんなことがあった。そう・・・あれはお父さんが亡くなった時。小学校4年の時だった。
愛にはいろんな形がある。お父さんのそれは、力づくで私を飲み込むようなものだった。唯一愛してくれる人に嫌われたくなかったから、私はお父さんに従った。お父さんは、あの頃の私の全てだった。全ての感情の源がそこにあった。・・・そこにしかなかったと言うべきか・・・。
唐突にその存在が消えたあの日から、眠ることが怖くなった。毎晩布団に入ると、恐ろしい夢を見た。私はこの世の中で、誰からも愛されず、たった一人で生きていくのだと思い知らされるような、そんな夢・・・。
「夢の内容とか覚えてる?」
「・・・なんとなく」
「大体でいいよ」
麻子を安心させるように、穏やかに響く陽平の声。その声に背中を押され、麻子は目をつぶって記憶をたどった。
「・・・うちにいたら、いつの間にか床がアリ地獄になって、地面に吸い込まれるの。・・・それから、細い一本の糸で身体を空に吊るされてる。でもそれが突然切れて、まっさかさまに落ちていく・・・」
陽平はそんな麻子を静かな目で観察していた。
鬱・・・? イヤ・・・診断はこのあとやる心理テストを見てからだ。ただ・・・相当抑圧されている感じを受ける。不眠はかなり長い間続いているようだ。
明るくキレイで男子の憧れの的だった麻子。もちろん陽平も例外ではなかった。だが不眠の根っこは、すでにその頃にはできていたということなのか・・・。
陽平は複雑な思いを抱きつつ、麻子をジッと見つめていた。
由紀は診察室のドアを開け、緊張している様子の麻子に入るよう促した。
診察室にはモーツァルトのピアノ協奏曲第17番が小さく流れている。
「こんばんは」
陽平が麻子に笑いかけた。思いもかけないほどの暖かい笑顔。麻子もつられて微笑む。不安が少し薄まるのを感じた。
なるほど、つかさが見たがるのもわかると思えるなかなかの二枚目だ。手には麻子が先ほど書いた問診表を持っている。
問診表とは、クリニックを受診しようと思った動機や、不眠・憂鬱な気分・食欲不振など、実際自分が感じている症状、そして個人歴、家族歴など、診察に必要だと思われることを事前に患者本人に書いてもらうものだ。
「どうぞお掛け下さい」
陽平が指し示すソファに、麻子はゆっくり腰を下ろした。
まだ多少だが緊張感が残っている。何を聞かれるのだろう。そう思って身構えた瞬間、陽平が問診表と麻子の顔を交互に見つめた。しかも数回。
・・・先生は何をしているのだろう。何か変なことでも書いてしまったのだろうか。
「あの・・・何か?」
「野村、麻子さん?」
陽平は、さっきまでの人を安心させるような響きとは裏腹な、妙に上ずったような声で言った。そしてその目は、興奮したように麻子を見つめている。
何? 何なのよ、と麻子は思った。
「覚えてない? 俺のこと」
麻子の顔から血の気が引いた。何? 誰? ・・・まさか!
思わず席を立ち、「すいません、私ちょっと」と言おうとすると、陽平が突然、満面の笑みをたたえて懐かしそうに言った。
「俺だよ、野村。ほら、中学1年の時、同じクラスだった岩田陽平。覚えてない?」
岩田・・・岩田陽平・・・。覚えがない。
「俺、印象薄いのかなぁ。一緒に学級委員したこともあるんだけど」
陽平が苦笑しながら頭を掻く。医者の顔ではなく、陽平の素の顔。そして学級委員。2つのイメージが重なった。少しずつ、麻子の頭の中に陽平の記憶の断片が蘇る。知らず知らずのうちに止めていた息を大きく吐き出し、麻子はホッと胸を撫で下ろした。
「一緒に学級委員やったのは、確か2学期の時だったよね?」
「そう! 思い出した?」
陽平が嬉しそうに微笑んだ。
麻子の脳裏に、徐々にいろいろな思い出が蘇った。陽平がちょっとイジメられっ子だったこと。よくお昼のパンなんかを買いに行かされていたこと。でも勉強はよくできたこと。イジメていたのは・・・そうそう武藤君だ。彼はケンカが強くて身体が大きかった。確か野球部に入っていた気がする。岩田君は天文部・・・。
2人はひとしきり昔話で盛り上がった。
陽平はニコニコと楽しそうに話をしながら、一方で懐かしそうに笑う麻子を冷静な目で見つめいてた。
朗らかで明るい笑顔。あの頃と何も変わらないように見えるまなざし。
しかし問診表を見ると不眠が続いているという。そして陽平が「覚えてない?」と聞いた時に見せた、あの動揺した顔。
ただの仕事上のストレスではないと陽平は感じた。何かがある。彼女の中に何が隠れている。
「・・・そろそろ診察はじめようか」
診察室に入ってから、あっという間に30分という時間が経っていた。待合室にはつかさと美鈴も待っている。これは同窓会ではなく診察なんだということを、麻子はやっと思い出した。
「眠れないの?」
「たいしたことじゃないんだけどね」
麻子は何でもなさそうに答えた。陽平がゆったりとしたリズムでさらに聞く。
「いつから眠れないの?」
・・・いつから? そういえば、昔にもこんなことがあった。そう・・・あれはお父さんが亡くなった時。小学校4年の時だった。
愛にはいろんな形がある。お父さんのそれは、力づくで私を飲み込むようなものだった。唯一愛してくれる人に嫌われたくなかったから、私はお父さんに従った。お父さんは、あの頃の私の全てだった。全ての感情の源がそこにあった。・・・そこにしかなかったと言うべきか・・・。
唐突にその存在が消えたあの日から、眠ることが怖くなった。毎晩布団に入ると、恐ろしい夢を見た。私はこの世の中で、誰からも愛されず、たった一人で生きていくのだと思い知らされるような、そんな夢・・・。
「夢の内容とか覚えてる?」
「・・・なんとなく」
「大体でいいよ」
麻子を安心させるように、穏やかに響く陽平の声。その声に背中を押され、麻子は目をつぶって記憶をたどった。
「・・・うちにいたら、いつの間にか床がアリ地獄になって、地面に吸い込まれるの。・・・それから、細い一本の糸で身体を空に吊るされてる。でもそれが突然切れて、まっさかさまに落ちていく・・・」
陽平はそんな麻子を静かな目で観察していた。
鬱・・・? イヤ・・・診断はこのあとやる心理テストを見てからだ。ただ・・・相当抑圧されている感じを受ける。不眠はかなり長い間続いているようだ。
明るくキレイで男子の憧れの的だった麻子。もちろん陽平も例外ではなかった。だが不眠の根っこは、すでにその頃にはできていたということなのか・・・。
陽平は複雑な思いを抱きつつ、麻子をジッと見つめていた。
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| 14番目の月
2008年06月08日
7
「ねぇみんな! 野村さんたらこの若さで人事課長さんなんですって! 本当に優秀でいらっしゃるのねぇ。おまけに物凄く美人だし。そう思わない?」
「思いまぁす!」
ダンボたちが声を合わせて賞賛する。
確実に超上客をGETしなければならない! そんなサツキたちの勢いに、麻子はちょっと怯んだ。
ただサツキの人柄なのだろうか、露骨な褒め言葉にも不思議と嫌味な感じはない。むしろ笑ってしまう。
麻子は先ほどまでの緊張が、徐々にほぐれていくのを感じた。
「まだいたんですか」
麻子たちの頭上から、もういい加減にしてくれ! という響きに満ち満ちた声が降ってきた。
声の主は当然の如く看護師の由紀。いつまで経っても帰らないオカマたちを、階段途中から冷ややかな目で見下ろしていた。
「本当に懲りない人たちですね。いつまで待ったって先生は」
そこまで言ったところで、由紀はやっと麻子たちに気付いた。シマッタ! とばかりに顔を真っ赤に染め、慌てて階段をかけ降りてくる。
「すいません・・・。え〜と、7時半にご予約の野村さんですか」
「・・・ええ」
そう応えながら、麻子は再び軽い緊張を感じた。由紀はそれを敏感に感じ取り、安心させるように微笑んだ。
「お待たせして申し訳ありません。どうぞこちらへ」
「はーい!」
突然つかさと美鈴が、片手を上げて元気よく答えた。
いよいよ噂の超二枚目医師に会えるのだという期待感で、2人の身も心もはちきれそうだ。
由紀は突然、2人にオカマたちと同じニオイを感じた。
「付き添いの方はこちらでお待ち下さい」
「一緒に行っちゃいけないんですか?」
「申し訳ありませんが、決まりですので」
由紀は2人に、極上の慇懃無礼(いんぎんぶれい)さで会釈をすると、戸惑う麻子を引き連れ、階段を上がって行った。
診察室の扉が閉まる音が、待合室にむなしく響いた。
由紀に取り付く島なく一刀両断にされたつかさと美鈴は、「何のために私たちはここまで来たのか・・・。それは先生を見るためだったのではないか! 超むかつくぅ!」とばかり、怒りをメラメラと燃え上がらせた。
「何あれ、超感じ悪い!」
つかさは文句タラタラ状態。美鈴も思いっきり憮然としている。
当然オカマたちもその意見に大賛成だ。陽平と自分たちの仲を、由紀がこれ見よがしに妨害しているのだと口々に言い募る。
マルコが悔しそうに2人に訴えた。
「あんなのいつもより全然マシ。あたしなんてこの間、竹ぼうきでお尻叩かれたのよ!」
「え〜! ありえないぃ!」
「ねぇねぇ、あたしたちもうそろそろ店に戻らなくちゃならないから、野村さんの診察終わったら店に来ない? あの女の悪口で盛り上がりましょうよ!」
「行く行く! 絶対行く!」
盛り上がるオカマたちを尻目に、リリィだけはひとり何かを考え込んでいた。
眉間にしわを寄せ、ピクリとも動かずに遠くを見つめている。
「・・・リリィちゃん?」
返事がない。
早くしなさいと言うサツキの声に、ああ・・・といった様子でようやくリリィは我に帰った。
「どうかしたの?」
「ん・・・野村さんなんだけど、あたし、あの人と初めて会った気がしないのよ。たぶん、そんな前じゃない時にどこかで会ってる。しかも1回や2回じゃないと思うの。でも全然思い出せないのよぉ・・・」
喉まで出掛かっていることが出てこない気持ち悪さに、リリィがイライラと自慢のモヒカンをかきむしった。
「ああ! どこだったかしらぁ!」
「もしかして占いのお客とか?」
「・・・ううん。それは違うと思う」
リリィは猛烈に頭を回転させながら答えた。
リリィの中で何かが引っかかっていた。リリィの行動範囲といえば、ほとんどが店近くのマンションと『紫頭巾』と歌舞伎町の占い屋。そのどれもがさっき会った麻子のイメージとは食い違っている。
彼女の理知的だが清楚な雰囲気。身に着けている質の良さそうなシャンパンゴールドのテーラードスーツ。いかにも大会社の総合職エリート然としている。
リリィの行動範囲と彼女のそれは、おそろしくかけ離れているように思う。
でも会っている。確かにどこかで会っているのだ。
もちろんそれを思い出せなかったらどうなんだと言われれば、別にどうということはない。ダンボなどは、だからなんなのよと言わんばかりだ。つかさも美鈴も全く興味を示していない。ただひとりリリィだけは、占い師の勘とでも言うのだろうか。そこにとんでもないものが隠されているような気がして、いつまでもひとり、悶々と悩み続けていた。
「思いまぁす!」
ダンボたちが声を合わせて賞賛する。
確実に超上客をGETしなければならない! そんなサツキたちの勢いに、麻子はちょっと怯んだ。
ただサツキの人柄なのだろうか、露骨な褒め言葉にも不思議と嫌味な感じはない。むしろ笑ってしまう。
麻子は先ほどまでの緊張が、徐々にほぐれていくのを感じた。
「まだいたんですか」
麻子たちの頭上から、もういい加減にしてくれ! という響きに満ち満ちた声が降ってきた。
声の主は当然の如く看護師の由紀。いつまで経っても帰らないオカマたちを、階段途中から冷ややかな目で見下ろしていた。
「本当に懲りない人たちですね。いつまで待ったって先生は」
そこまで言ったところで、由紀はやっと麻子たちに気付いた。シマッタ! とばかりに顔を真っ赤に染め、慌てて階段をかけ降りてくる。
「すいません・・・。え〜と、7時半にご予約の野村さんですか」
「・・・ええ」
そう応えながら、麻子は再び軽い緊張を感じた。由紀はそれを敏感に感じ取り、安心させるように微笑んだ。
「お待たせして申し訳ありません。どうぞこちらへ」
「はーい!」
突然つかさと美鈴が、片手を上げて元気よく答えた。
いよいよ噂の超二枚目医師に会えるのだという期待感で、2人の身も心もはちきれそうだ。
由紀は突然、2人にオカマたちと同じニオイを感じた。
「付き添いの方はこちらでお待ち下さい」
「一緒に行っちゃいけないんですか?」
「申し訳ありませんが、決まりですので」
由紀は2人に、極上の慇懃無礼(いんぎんぶれい)さで会釈をすると、戸惑う麻子を引き連れ、階段を上がって行った。
診察室の扉が閉まる音が、待合室にむなしく響いた。
由紀に取り付く島なく一刀両断にされたつかさと美鈴は、「何のために私たちはここまで来たのか・・・。それは先生を見るためだったのではないか! 超むかつくぅ!」とばかり、怒りをメラメラと燃え上がらせた。
「何あれ、超感じ悪い!」
つかさは文句タラタラ状態。美鈴も思いっきり憮然としている。
当然オカマたちもその意見に大賛成だ。陽平と自分たちの仲を、由紀がこれ見よがしに妨害しているのだと口々に言い募る。
マルコが悔しそうに2人に訴えた。
「あんなのいつもより全然マシ。あたしなんてこの間、竹ぼうきでお尻叩かれたのよ!」
「え〜! ありえないぃ!」
「ねぇねぇ、あたしたちもうそろそろ店に戻らなくちゃならないから、野村さんの診察終わったら店に来ない? あの女の悪口で盛り上がりましょうよ!」
「行く行く! 絶対行く!」
盛り上がるオカマたちを尻目に、リリィだけはひとり何かを考え込んでいた。
眉間にしわを寄せ、ピクリとも動かずに遠くを見つめている。
「・・・リリィちゃん?」
返事がない。
早くしなさいと言うサツキの声に、ああ・・・といった様子でようやくリリィは我に帰った。
「どうかしたの?」
「ん・・・野村さんなんだけど、あたし、あの人と初めて会った気がしないのよ。たぶん、そんな前じゃない時にどこかで会ってる。しかも1回や2回じゃないと思うの。でも全然思い出せないのよぉ・・・」
喉まで出掛かっていることが出てこない気持ち悪さに、リリィがイライラと自慢のモヒカンをかきむしった。
「ああ! どこだったかしらぁ!」
「もしかして占いのお客とか?」
「・・・ううん。それは違うと思う」
リリィは猛烈に頭を回転させながら答えた。
リリィの中で何かが引っかかっていた。リリィの行動範囲といえば、ほとんどが店近くのマンションと『紫頭巾』と歌舞伎町の占い屋。そのどれもがさっき会った麻子のイメージとは食い違っている。
彼女の理知的だが清楚な雰囲気。身に着けている質の良さそうなシャンパンゴールドのテーラードスーツ。いかにも大会社の総合職エリート然としている。
リリィの行動範囲と彼女のそれは、おそろしくかけ離れているように思う。
でも会っている。確かにどこかで会っているのだ。
もちろんそれを思い出せなかったらどうなんだと言われれば、別にどうということはない。ダンボなどは、だからなんなのよと言わんばかりだ。つかさも美鈴も全く興味を示していない。ただひとりリリィだけは、占い師の勘とでも言うのだろうか。そこにとんでもないものが隠されているような気がして、いつまでもひとり、悶々と悩み続けていた。
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| 14番目の月
2008年05月31日
6
待合室の壁に掛けられた時計が7時25分を指した。『紫頭巾』の開店は夜の8時なので、いくらなんでも戻らなくてはならない時間だ。
「今日も先生には会えなかったわ・・・」と、サツキが診察室のドアを見つめてため息を吐いたその時、リリィが突然、ガラステーブルの上に置いた水晶玉を見つめて叫んだ。
「大変! ここ数週間以内に、先生に好きな人ができるわ。しかも彼女を巡って、何かとてつもないできごとが起こる・・・」
「何それ! 好きな女ってどういうことよ」
リリィの占いを全く信じてないはずのダンボが声を荒げた。
先生に好きな人ができる・・・それはオカマたちにとって人生を左右する大問題である。そろそろ店にと立ち上がったサツキも、「どういうことなの?」と座り直す。
リリィは稀代の天才占い師よろしく厳かにこう言った。
「呼吸を整えて、水晶玉のここをよく見てちょうだい。かすかに濁って見えるでしょ?」
サツキ以下3名は、鼻息も荒く深呼吸を繰り返し、目を限界まで見開くと、リリィが指し示す水晶玉の一部をジッと見つめた。
・・・何も見当たらない。リリィが指し示す場所だけが濁っているわけじゃない。かといって他の部分が特別に澄んでいるようにも見えない。つまりはどこを見ても同じように見えるのだ。
「どこよ。全然濁ってなんかいないわよ」
「ほらここよ、ここ。よく見てちょうだい」
ダンボには、そんなリリィの言葉が段々空々しく聞こえてきた。
「気のせいよ。あ〜あ焦って損しちゃった。リリィの占いなんか当たるわけないんだった」
「待ってよダンボちゃん。あたしたちには見えないだけで、リリィちゃんにはちゃんと見えてるんだと思う。リリィちゃんの占いって本当に当たるのよ」
マルコは身動きひとつせず、水晶玉を見つめながらそう言った。リリィご自慢の紫のモヒカンが嬉しそうに揺れる。
「最近『歌舞伎町のモヒカンリリィ』って言ったらあの辺では有名よ。占ってもらうために並ぶこともあるんだから」
マルコはまるで自分のことのように自慢しつつ、水晶玉の濁りを探し続けた。
つかさたちの乗ったエレベーターが3Fに着く。麻子の予約時間は7時半。ギリギリだがなんとか間に合いそうだ。急いで『新宿メンタルクリニック』のドアを開けると、そこには水晶玉に真剣なまなざしを送るマルコとリリィ、それを呆れたように見つめるサツキとダンボがいた。
「ヤダ〜! みんな〜偶然!」
つかさが嬉しそうに大声を上げ、サツキたちに走り寄った。
「つかさちゃん! どうしたのよ」
「ママったら今日もメイク濃いね」
「あんたも似たようなもんよ」
サツキはつかさにいつものツッコミを入れると、麻子たちにニコッと笑顔を向けて会釈した。
「ママ、こちら私の上司の野村朝子さん、そしてこちらが先輩の浅倉美鈴さんよ」
「まぁまぁ、はじめましてぇ。私こちらの隣のビルのB1でバー『紫頭巾』をやっております、サツキと申します」
サツキはとびきりの営業スマイルで2人に名刺を渡した。
つかさは結構いい給料をもらっているOLだ。『紫頭巾』にも2週間に一度の割合で通ってくるまあまあの上客。そのつかさの上司と先輩であるこの2人はもしかしたら・・・!
麻子から手渡された名刺には「三友銀行 本店 人事部 人事課 課長」と明記されている。何とあの三友銀行の人事課長! 伸び悩む店の売上。その救世主に出会ったとばかり、サツキは満面の笑みを漏らした。
「今日も先生には会えなかったわ・・・」と、サツキが診察室のドアを見つめてため息を吐いたその時、リリィが突然、ガラステーブルの上に置いた水晶玉を見つめて叫んだ。
「大変! ここ数週間以内に、先生に好きな人ができるわ。しかも彼女を巡って、何かとてつもないできごとが起こる・・・」
「何それ! 好きな女ってどういうことよ」
リリィの占いを全く信じてないはずのダンボが声を荒げた。
先生に好きな人ができる・・・それはオカマたちにとって人生を左右する大問題である。そろそろ店にと立ち上がったサツキも、「どういうことなの?」と座り直す。
リリィは稀代の天才占い師よろしく厳かにこう言った。
「呼吸を整えて、水晶玉のここをよく見てちょうだい。かすかに濁って見えるでしょ?」
サツキ以下3名は、鼻息も荒く深呼吸を繰り返し、目を限界まで見開くと、リリィが指し示す水晶玉の一部をジッと見つめた。
・・・何も見当たらない。リリィが指し示す場所だけが濁っているわけじゃない。かといって他の部分が特別に澄んでいるようにも見えない。つまりはどこを見ても同じように見えるのだ。
「どこよ。全然濁ってなんかいないわよ」
「ほらここよ、ここ。よく見てちょうだい」
ダンボには、そんなリリィの言葉が段々空々しく聞こえてきた。
「気のせいよ。あ〜あ焦って損しちゃった。リリィの占いなんか当たるわけないんだった」
「待ってよダンボちゃん。あたしたちには見えないだけで、リリィちゃんにはちゃんと見えてるんだと思う。リリィちゃんの占いって本当に当たるのよ」
マルコは身動きひとつせず、水晶玉を見つめながらそう言った。リリィご自慢の紫のモヒカンが嬉しそうに揺れる。
「最近『歌舞伎町のモヒカンリリィ』って言ったらあの辺では有名よ。占ってもらうために並ぶこともあるんだから」
マルコはまるで自分のことのように自慢しつつ、水晶玉の濁りを探し続けた。
つかさたちの乗ったエレベーターが3Fに着く。麻子の予約時間は7時半。ギリギリだがなんとか間に合いそうだ。急いで『新宿メンタルクリニック』のドアを開けると、そこには水晶玉に真剣なまなざしを送るマルコとリリィ、それを呆れたように見つめるサツキとダンボがいた。
「ヤダ〜! みんな〜偶然!」
つかさが嬉しそうに大声を上げ、サツキたちに走り寄った。
「つかさちゃん! どうしたのよ」
「ママったら今日もメイク濃いね」
「あんたも似たようなもんよ」
サツキはつかさにいつものツッコミを入れると、麻子たちにニコッと笑顔を向けて会釈した。
「ママ、こちら私の上司の野村朝子さん、そしてこちらが先輩の浅倉美鈴さんよ」
「まぁまぁ、はじめましてぇ。私こちらの隣のビルのB1でバー『紫頭巾』をやっております、サツキと申します」
サツキはとびきりの営業スマイルで2人に名刺を渡した。
つかさは結構いい給料をもらっているOLだ。『紫頭巾』にも2週間に一度の割合で通ってくるまあまあの上客。そのつかさの上司と先輩であるこの2人はもしかしたら・・・!
麻子から手渡された名刺には「三友銀行 本店 人事部 人事課 課長」と明記されている。何とあの三友銀行の人事課長! 伸び悩む店の売上。その救世主に出会ったとばかり、サツキは満面の笑みを漏らした。
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| 14番目の月
2008年05月24日
5
そろそろ夜の帳が下りてくる7時半少し前。
新宿三丁目駅C8出口から地上に上がると、ザワザワとした夜の活気がワーンと耳鳴りのように聞こえてくる。
野村麻子は7時半に予約を入れた『新宿メンタルクリニック』へ向かい、急ぎ足で歩きはじめた。このクリニックは、最近眠れないと漏らした自分に、部下の川崎つかさが勧めてくれた病院だ。何でもつかさがよく行くゲイバー『紫頭巾』の隣のビルにあるらしい。
「本当にこの辺なの?」
一緒について来た部下の浅倉美鈴が、案内役であるつかさに不安そうに尋ねた。
無理もない。ここは日本一のゲイタウン新宿二丁目。バー密集度としては世界一とも言われている。しかも時間が時間だけに、どんどん猥雑さを増してきたようだ。誰もがこんなところにメンタルクリニックなど存在するのだろうかと心配になるはずだ。
「もうすぐ着きます。あっ、こっちですよ。」
不安そうな美鈴を尻目に、つかさはウキウキ状態だ。実はこのクリニックの院長が超二枚目なのだと、『紫頭巾』のサツキから聞いていたのだ。しかしメンタルクリニックなど、なかなか足を踏み入れる機会がない。そんな時、麻子に不眠の話を聞かされたのだ。
「ここですよ」
つかさが指差したのは、いつ建てられたのかもわからない古い4階建ての雑居ビル。
美鈴の不安そうな顔が不信に変わった。こんな汚いところに、美形の先生などいるはずがないといった感じだ。
「本当にそんな格好いいの? ここの先生」
「本当らしいです。私も初めてなんですけどね」
「どう思います? 麻子さん」
「格好いいかどうかはどうでもいいんだけど、なんかちょっと緊張してきちゃったわ」
そんな自分に苦笑し、麻子はハァと息を吐いた。
麻子たち3人が勤めるのは、日本4大銀行の一つである三友銀行。麻子はそこで、本店の人事課課長をしている。
実はこのことが、麻子の不眠とひどく関係があった。
麻子が人事課長に出世したのは約2年前の33歳の時。それは行内をあっと言わせる驚きの人事だった。もちろん麻子にその資格がなかったというのではない。それどころか、入社当時からその仕事振りは評判だった。ただ日本の銀行の古い体質として、若い女性をそこまで出世させるのが異例だったのだ。
当然それを妬む輩もいた。人事異動後しばらくして、行内でこんな噂が流れた。麻子の出世の本当の理由は、彼女の日本人離れしたその美貌にあるのではないか。
身長170cmを超える長身。クールで切れ長の瞳と、ポテッとした唇が印象的な美しい顔立ち。その美貌を、彼女は大いに利用したのではないか。
麻子の仕事振りを知らない人間が聞けば、さもありなんとうなずいただろう。
あれから2年、根も葉もない噂は消えたが、麻子には大きな後遺症が残ってしまった。人事課長という役職に見合う仕事をしなければ、また何を言われるかわからないという強いプレッシャー。その結果、自分は不眠症になってしまったのだと麻子は思っていた。
「やっぱりメンタルクリニックって、何だか怖いわね」
「大丈夫ですよ、野村さん。格好いい先生が診てくださるんですから、安心してください」
わかったようなわからないような慰めをしつつ、つかさは腕時計を見た。あと数分で予約時間の7時半となってしまう。
「大変。時間ですよ」
つかさは狭いエレベーターに麻子と美鈴を押し込み、3Fのボタンを押した。
『新宿メンタルクリニック』では、今日も4人のオカマたちが暑苦しく群れていた。本当なら、そろそろ店を開ける準備をしなければいけない時間なのだが、今日はまだ一度も陽平の姿を見ていない。何となく立ち去りがたく、グズグズと待合室のソファに座り続けるオカマたちだった。
こんなに先生に会えないのは、絶対看護師・本島由紀の妨害に違いないとマルコは決めてかかった。「先生を無理矢理診察室に押し込んで、仕事の山を押し付けているんだわ。いかにもあの女がやりそうなこと。ああ、いますぐ2階へさえ上がれたら!」何てことを考え、由紀への怒りに震えるマルコだった。
やりたい放題しまくってる観のあるオカマたちではあるが、実はキチンとしたルールを決めている。
1、何があっても、クリニックで先生のお仕事のお邪魔はしないこと。
2、患者しか上がれない診察室には行かないこと。
3、待合室でも無理矢理チューをせまらないこと。
4、服を脱いで抱きつかないこと。
サツキの考えた「先生にご迷惑をおかけしないための4ヶ条」は、彼らなりにキッチリ守っているのだ。
だから決して2階には上がらない。そのため陽平の姿を拝むには、陽平自身に下に降りてきてもらう必要があるのだ。
せまりくるタイムリミットを感じながら、マルコは待合室をウロウロと歩き回った。
新宿三丁目駅C8出口から地上に上がると、ザワザワとした夜の活気がワーンと耳鳴りのように聞こえてくる。
野村麻子は7時半に予約を入れた『新宿メンタルクリニック』へ向かい、急ぎ足で歩きはじめた。このクリニックは、最近眠れないと漏らした自分に、部下の川崎つかさが勧めてくれた病院だ。何でもつかさがよく行くゲイバー『紫頭巾』の隣のビルにあるらしい。
「本当にこの辺なの?」
一緒について来た部下の浅倉美鈴が、案内役であるつかさに不安そうに尋ねた。
無理もない。ここは日本一のゲイタウン新宿二丁目。バー密集度としては世界一とも言われている。しかも時間が時間だけに、どんどん猥雑さを増してきたようだ。誰もがこんなところにメンタルクリニックなど存在するのだろうかと心配になるはずだ。
「もうすぐ着きます。あっ、こっちですよ。」
不安そうな美鈴を尻目に、つかさはウキウキ状態だ。実はこのクリニックの院長が超二枚目なのだと、『紫頭巾』のサツキから聞いていたのだ。しかしメンタルクリニックなど、なかなか足を踏み入れる機会がない。そんな時、麻子に不眠の話を聞かされたのだ。
「ここですよ」
つかさが指差したのは、いつ建てられたのかもわからない古い4階建ての雑居ビル。
美鈴の不安そうな顔が不信に変わった。こんな汚いところに、美形の先生などいるはずがないといった感じだ。
「本当にそんな格好いいの? ここの先生」
「本当らしいです。私も初めてなんですけどね」
「どう思います? 麻子さん」
「格好いいかどうかはどうでもいいんだけど、なんかちょっと緊張してきちゃったわ」
そんな自分に苦笑し、麻子はハァと息を吐いた。
麻子たち3人が勤めるのは、日本4大銀行の一つである三友銀行。麻子はそこで、本店の人事課課長をしている。
実はこのことが、麻子の不眠とひどく関係があった。
麻子が人事課長に出世したのは約2年前の33歳の時。それは行内をあっと言わせる驚きの人事だった。もちろん麻子にその資格がなかったというのではない。それどころか、入社当時からその仕事振りは評判だった。ただ日本の銀行の古い体質として、若い女性をそこまで出世させるのが異例だったのだ。
当然それを妬む輩もいた。人事異動後しばらくして、行内でこんな噂が流れた。麻子の出世の本当の理由は、彼女の日本人離れしたその美貌にあるのではないか。
身長170cmを超える長身。クールで切れ長の瞳と、ポテッとした唇が印象的な美しい顔立ち。その美貌を、彼女は大いに利用したのではないか。
麻子の仕事振りを知らない人間が聞けば、さもありなんとうなずいただろう。
あれから2年、根も葉もない噂は消えたが、麻子には大きな後遺症が残ってしまった。人事課長という役職に見合う仕事をしなければ、また何を言われるかわからないという強いプレッシャー。その結果、自分は不眠症になってしまったのだと麻子は思っていた。
「やっぱりメンタルクリニックって、何だか怖いわね」
「大丈夫ですよ、野村さん。格好いい先生が診てくださるんですから、安心してください」
わかったようなわからないような慰めをしつつ、つかさは腕時計を見た。あと数分で予約時間の7時半となってしまう。
「大変。時間ですよ」
つかさは狭いエレベーターに麻子と美鈴を押し込み、3Fのボタンを押した。
『新宿メンタルクリニック』では、今日も4人のオカマたちが暑苦しく群れていた。本当なら、そろそろ店を開ける準備をしなければいけない時間なのだが、今日はまだ一度も陽平の姿を見ていない。何となく立ち去りがたく、グズグズと待合室のソファに座り続けるオカマたちだった。
こんなに先生に会えないのは、絶対看護師・本島由紀の妨害に違いないとマルコは決めてかかった。「先生を無理矢理診察室に押し込んで、仕事の山を押し付けているんだわ。いかにもあの女がやりそうなこと。ああ、いますぐ2階へさえ上がれたら!」何てことを考え、由紀への怒りに震えるマルコだった。
やりたい放題しまくってる観のあるオカマたちではあるが、実はキチンとしたルールを決めている。
1、何があっても、クリニックで先生のお仕事のお邪魔はしないこと。
2、患者しか上がれない診察室には行かないこと。
3、待合室でも無理矢理チューをせまらないこと。
4、服を脱いで抱きつかないこと。
サツキの考えた「先生にご迷惑をおかけしないための4ヶ条」は、彼らなりにキッチリ守っているのだ。
だから決して2階には上がらない。そのため陽平の姿を拝むには、陽平自身に下に降りてきてもらう必要があるのだ。
せまりくるタイムリミットを感じながら、マルコは待合室をウロウロと歩き回った。
posted by 夢野さくら at 01:28| Comment(0)
| 14番目の月
2008年05月17日
4
苦しい・・・。
私はベッドサイドで両膝を抱えてうずくまり、早く早くと叫ぶ心臓の音を聞いていた。
ふと外を見る。カーテンを開け放した窓から見える夜は、闇がますます濃く、ねっとりと濃度を増している。星は全く出ていない。ぬばたま色とでも言うのだろうか、まるで私の心のように穢れた漆黒の闇が、プカプカと空に浮んでいるようだ。
こうやっていると、どんどん現実感というものがなくなってくる。私は今日会社に行ったのだろうか、ちゃんと仕事をこなせたのだろうか。・・・当然知っていてしかるべき一日の記憶さえも、徐々に空ろになってくる。
・・・今は何時なんだろう。もうそろそろ寝なくてはと思うけれど、一人でベッドに入ることがどうしてもできない。そんなことをしたら、空虚さと焦燥感に押し潰され、気が狂ってしまいそうだ。
・・・身体の震えが強くなってきた。欲しい・・・どうしても今欲しい・・・。ここ数日間耐えに耐え、この衝動と必死に戦ってきたけれど、今日はもう戦いに勝つのは無理なんじゃないだろうか・・・。
というより、どうしていつまでもこの部屋にうずくまり、身体の震えと苦しさに耐えなければいけないんだろうと思う。
―――外に行けばいいじゃないか。そうしてこの辛さから救ってくれる唯一の方法を・・・セックスをすればいいじゃないか。何を迷う必要がある。セックスさえすれば、今の苦しさや身体の震えもなくなるし、お前を必要としてくれる男が現われて、その空虚な部分を激しく突いてくれる。その快感を思い出せ。充足感を感じろ―――
私を誘う悪魔が、何度も何度も耳元でささやく。ふいに私の空虚な部分から、トロッとした液体が溢れ出した。慌てて両膝をギュッと抱え、これ以上流れ出ないようにと力を入れる。でも一度堰を切ってしまったものは、乾くことを知らない泉のように、次から次へとトロトロと湧いて出た。
窓際に置いたテレビから漏れ聞こえる、深夜のバラエティー番組のにぎやかな声。それが現実の音であることは充分わかっているけれど、まるでリアリティーを感じない。
―――外へ行け。セックスをしろ―――
悪魔のささやきはますます現実味を帯びて大きくなっていく。これこそが唯一の、真実の声なのだと、私の身体の空虚な部分を熱く燃え立たせ、激しくせきたてる。
怖い・・・もうダメだ。このささやきに従ってしまいそうだ。
・・・・・・ダメだ、いけない・・・・・・
遠くの方で、必死に私に訴えかける声が聞こえたような気がするけれど、それはあまりに頼りなく、あっという間に消えていくシャボン玉のように儚げだった。
―――外へ行け。セックスをしろ―――
悪魔の声がどんどん大きくなっていく。私は膝を抱えてギュッと目を閉じ、両手で耳を塞いだ。しかしすでに頭の中に進入してしまったその声は、耳を塞ぐことによりより一層強くなった。そしてすぐさまこの声に従うのだと命令していた。
息がどんどん荒くなり、呼吸が浅くなっていく。気持ちが悪い。世界が揺れる。押さえても押さえても身体の震えが止まらない。誰か助けて!
身体を抱えていた手を緩める。力なく床に片手を付き、私はゆらりと立ち上がった。
途端一時(いっとき)止まっていた液体が、タラタラと流れて足を伝った。何者かに操られるようにパジャマのズボンを脱ぎ、ジットリと濡れてしまったショーツを剥ぎ取る。私はそのままの格好でクローゼットへ向かい、外出のための衣装を取り出した。
私はベッドサイドで両膝を抱えてうずくまり、早く早くと叫ぶ心臓の音を聞いていた。
ふと外を見る。カーテンを開け放した窓から見える夜は、闇がますます濃く、ねっとりと濃度を増している。星は全く出ていない。ぬばたま色とでも言うのだろうか、まるで私の心のように穢れた漆黒の闇が、プカプカと空に浮んでいるようだ。
こうやっていると、どんどん現実感というものがなくなってくる。私は今日会社に行ったのだろうか、ちゃんと仕事をこなせたのだろうか。・・・当然知っていてしかるべき一日の記憶さえも、徐々に空ろになってくる。
・・・今は何時なんだろう。もうそろそろ寝なくてはと思うけれど、一人でベッドに入ることがどうしてもできない。そんなことをしたら、空虚さと焦燥感に押し潰され、気が狂ってしまいそうだ。
・・・身体の震えが強くなってきた。欲しい・・・どうしても今欲しい・・・。ここ数日間耐えに耐え、この衝動と必死に戦ってきたけれど、今日はもう戦いに勝つのは無理なんじゃないだろうか・・・。
というより、どうしていつまでもこの部屋にうずくまり、身体の震えと苦しさに耐えなければいけないんだろうと思う。
―――外に行けばいいじゃないか。そうしてこの辛さから救ってくれる唯一の方法を・・・セックスをすればいいじゃないか。何を迷う必要がある。セックスさえすれば、今の苦しさや身体の震えもなくなるし、お前を必要としてくれる男が現われて、その空虚な部分を激しく突いてくれる。その快感を思い出せ。充足感を感じろ―――
私を誘う悪魔が、何度も何度も耳元でささやく。ふいに私の空虚な部分から、トロッとした液体が溢れ出した。慌てて両膝をギュッと抱え、これ以上流れ出ないようにと力を入れる。でも一度堰を切ってしまったものは、乾くことを知らない泉のように、次から次へとトロトロと湧いて出た。
窓際に置いたテレビから漏れ聞こえる、深夜のバラエティー番組のにぎやかな声。それが現実の音であることは充分わかっているけれど、まるでリアリティーを感じない。
―――外へ行け。セックスをしろ―――
悪魔のささやきはますます現実味を帯びて大きくなっていく。これこそが唯一の、真実の声なのだと、私の身体の空虚な部分を熱く燃え立たせ、激しくせきたてる。
怖い・・・もうダメだ。このささやきに従ってしまいそうだ。
・・・・・・ダメだ、いけない・・・・・・
遠くの方で、必死に私に訴えかける声が聞こえたような気がするけれど、それはあまりに頼りなく、あっという間に消えていくシャボン玉のように儚げだった。
―――外へ行け。セックスをしろ―――
悪魔の声がどんどん大きくなっていく。私は膝を抱えてギュッと目を閉じ、両手で耳を塞いだ。しかしすでに頭の中に進入してしまったその声は、耳を塞ぐことによりより一層強くなった。そしてすぐさまこの声に従うのだと命令していた。
息がどんどん荒くなり、呼吸が浅くなっていく。気持ちが悪い。世界が揺れる。押さえても押さえても身体の震えが止まらない。誰か助けて!
身体を抱えていた手を緩める。力なく床に片手を付き、私はゆらりと立ち上がった。
途端一時(いっとき)止まっていた液体が、タラタラと流れて足を伝った。何者かに操られるようにパジャマのズボンを脱ぎ、ジットリと濡れてしまったショーツを剥ぎ取る。私はそのままの格好でクローゼットへ向かい、外出のための衣装を取り出した。
posted by 夢野さくら at 13:23| Comment(2)
| 14番目の月
2008年05月10日
3
「当然ご存知だと思いますけど、うちはメンタルクリニックなんですよね」
『紫頭巾』最大の敵である看護師の由紀は、最近徐々に患者数が減っている現状を、『紫頭巾』の濃〜いオカマたちのせいであると決めつけている。
何といってもここはメンタルクリニックだ。精神的にストレスを抱えた患者がやってくる場所なのだ。
そんなクリニックに、化け物ZONEに両足を踏み入れたオカマが4人、毎日にようにたむろしているのだから、由紀の気持ちもわからないではない。
だが困ったことに、オカマを駆逐するために最大限役立つであろう当の陽平が、「お隣さんなんだから仲良くやろうよ」なんてことを言っているのだ。当然オカマたちは、その言葉を笠にやりたい放題。
勤め始めた当初、由紀は真剣に、陽平はそっちの組合の人なのでは? と疑っていた。しかし徐々に陽平の人柄を知っていくうちに、単に人が良いだけ(頭にバカがつくほどに)なのだとわかった。
顔は由紀が見ても二枚目だと思う。笑った顔はちょっと坂口憲二似だなぁとも思う。ファッションも「精神科医=ちょっと変わった暗い人」という一般のイメージを覆す爽やか系。
なのにいつまで経っても彼女ができない。顔が二枚目で性格も良く、爽やかでおまけに医者。全ての条件が揃っているにも関わらず、陽平に集まってくるのはオカマだけ。
オカマが集まれば集まるほど女性は寄ってこないしクリニックは寂びれる。このままいったら由紀に給料が払われなくなる日がくるかもしれない。
由紀にとって、自分の生活を脅かすほどの敵、それはこのオカマたちなのだった。
今日こそはこのバカ騒ぎを止めさせるのだとの固い決意をみなぎらせ、由紀は思いっきり嫌味っぽく言い放った。
「もう一度言いますけど、ここはメンタルクリニックなんです。患者さんにとって、あなたたちみたいな人がいるとストレスが倍増するんです。わかります?」
「あ! 今オカマを差別したわね」
すかさずマルコが言った。
オカマは喋りの腕で食べていると言っても過言ではない。普通なら完全に聞き逃すであろう言葉の端をサッと捉えて揚げ足を取り、マルコは反撃を開始した。
「あなたたちみたいな人って、今確かに言ったわよね。これは完全にあたしたちを、オカマという種類にわけて差別したのよ。あーあ、そういう差別発言って、精神医療の現場に携(たずさ)わる者としてどうなのかしらぁ?」
ムカつく!
由紀はその思いを如実に顔に出した。ああでもないこうでもない。何を言ってもめげずに反撃し、自分たちの意見を押し通そうとする。
由紀にはオカマを差別する気持ちなど毛頭ないが、『紫頭巾』のメンバーを差別する気は満々だ。
両者が一歩も引かずににらみ合う。
約3分が経過した頃、待合室での争いを知る由もない陽平がカルテを見ながら降りてきた。
「本島君、ちょっといいかな」
オカマたちは、すかさず由紀を押しのけ陽平に群がった。
「あらぁ! 先生〜」
「サツキさんたち、またいらしてたんですか」
陽平はニコッと微笑み、爽やかさを増幅させる真っ白い歯を覗かせて言った。
この笑顔にオカマたちはメロメロ状態。先ほど由紀とタイマンを張っていた連中とは思えないほど、一瞬にしてふにゃ〜と顔と腰が崩れていく。その様子は、塩をまかれたナメクジのようだと由紀は思った。
サツキが、すかさず陽平に擦り寄りながら言った。
「センセ〜、どうして全然お店にいらしてくださらないんですかぁ」
「お隣さんのよしみで大サービスいたしますわ。・・・当然身体を使ったサービスも準備万端よ。寂しい時にはいつでも言ってくださいね」
ダンボの言葉にギャーッと盛り上がるオカマたち。あまりに露骨な弾丸アタック攻撃に、さすがの陽平も苦笑している。
「早速今日はいかがですか? 何かご予定あります? ないんでしたらぜひぜひぜひぃ!」
陽平は答えに詰まり、由紀に助けを求める視線を送った。しかし由紀は、自業自得なのよとそっぽを向いた。
その時診察室と受付の電話がほぼ同時に鳴った。由紀が受付の受話器に手を伸ばすと、陽平が慌てて言った。
「いいよ本島君、上で取るから。多分武藤だと思うんだ。すいません、ちょっと失礼します」
陽平はホッと胸を撫でおろすと、追いすがるオカマたちを必死に振り切り、急いで階段を上がっていった。
『紫頭巾』最大の敵である看護師の由紀は、最近徐々に患者数が減っている現状を、『紫頭巾』の濃〜いオカマたちのせいであると決めつけている。
何といってもここはメンタルクリニックだ。精神的にストレスを抱えた患者がやってくる場所なのだ。
そんなクリニックに、化け物ZONEに両足を踏み入れたオカマが4人、毎日にようにたむろしているのだから、由紀の気持ちもわからないではない。
だが困ったことに、オカマを駆逐するために最大限役立つであろう当の陽平が、「お隣さんなんだから仲良くやろうよ」なんてことを言っているのだ。当然オカマたちは、その言葉を笠にやりたい放題。
勤め始めた当初、由紀は真剣に、陽平はそっちの組合の人なのでは? と疑っていた。しかし徐々に陽平の人柄を知っていくうちに、単に人が良いだけ(頭にバカがつくほどに)なのだとわかった。
顔は由紀が見ても二枚目だと思う。笑った顔はちょっと坂口憲二似だなぁとも思う。ファッションも「精神科医=ちょっと変わった暗い人」という一般のイメージを覆す爽やか系。
なのにいつまで経っても彼女ができない。顔が二枚目で性格も良く、爽やかでおまけに医者。全ての条件が揃っているにも関わらず、陽平に集まってくるのはオカマだけ。
オカマが集まれば集まるほど女性は寄ってこないしクリニックは寂びれる。このままいったら由紀に給料が払われなくなる日がくるかもしれない。
由紀にとって、自分の生活を脅かすほどの敵、それはこのオカマたちなのだった。
今日こそはこのバカ騒ぎを止めさせるのだとの固い決意をみなぎらせ、由紀は思いっきり嫌味っぽく言い放った。
「もう一度言いますけど、ここはメンタルクリニックなんです。患者さんにとって、あなたたちみたいな人がいるとストレスが倍増するんです。わかります?」
「あ! 今オカマを差別したわね」
すかさずマルコが言った。
オカマは喋りの腕で食べていると言っても過言ではない。普通なら完全に聞き逃すであろう言葉の端をサッと捉えて揚げ足を取り、マルコは反撃を開始した。
「あなたたちみたいな人って、今確かに言ったわよね。これは完全にあたしたちを、オカマという種類にわけて差別したのよ。あーあ、そういう差別発言って、精神医療の現場に携(たずさ)わる者としてどうなのかしらぁ?」
ムカつく!
由紀はその思いを如実に顔に出した。ああでもないこうでもない。何を言ってもめげずに反撃し、自分たちの意見を押し通そうとする。
由紀にはオカマを差別する気持ちなど毛頭ないが、『紫頭巾』のメンバーを差別する気は満々だ。
両者が一歩も引かずににらみ合う。
約3分が経過した頃、待合室での争いを知る由もない陽平がカルテを見ながら降りてきた。
「本島君、ちょっといいかな」
オカマたちは、すかさず由紀を押しのけ陽平に群がった。
「あらぁ! 先生〜」
「サツキさんたち、またいらしてたんですか」
陽平はニコッと微笑み、爽やかさを増幅させる真っ白い歯を覗かせて言った。
この笑顔にオカマたちはメロメロ状態。先ほど由紀とタイマンを張っていた連中とは思えないほど、一瞬にしてふにゃ〜と顔と腰が崩れていく。その様子は、塩をまかれたナメクジのようだと由紀は思った。
サツキが、すかさず陽平に擦り寄りながら言った。
「センセ〜、どうして全然お店にいらしてくださらないんですかぁ」
「お隣さんのよしみで大サービスいたしますわ。・・・当然身体を使ったサービスも準備万端よ。寂しい時にはいつでも言ってくださいね」
ダンボの言葉にギャーッと盛り上がるオカマたち。あまりに露骨な弾丸アタック攻撃に、さすがの陽平も苦笑している。
「早速今日はいかがですか? 何かご予定あります? ないんでしたらぜひぜひぜひぃ!」
陽平は答えに詰まり、由紀に助けを求める視線を送った。しかし由紀は、自業自得なのよとそっぽを向いた。
その時診察室と受付の電話がほぼ同時に鳴った。由紀が受付の受話器に手を伸ばすと、陽平が慌てて言った。
「いいよ本島君、上で取るから。多分武藤だと思うんだ。すいません、ちょっと失礼します」
陽平はホッと胸を撫でおろすと、追いすがるオカマたちを必死に振り切り、急いで階段を上がっていった。
posted by 夢野さくら at 18:56| Comment(0)
| 14番目の月