2008年09月19日

第3章 1

 『新宿メンタルクリニック』の待合室に『紫頭巾』のオカマ総勢4名がたむろっていた。
 ここに来るのは3ヶ月ぶり。いつ先生にお目にかかれるのかとそわそわドキドキ落ち着きがない。
 なぜなら昨日までのクリニックには玄関に鍵がかかり、オカマたちは撃退の憂き目にあっていたのだ。
 陽平先生を見る! その事に命を懸けていたオカマたちにとって、この3ヶ月は好物を奪われた子供のように、毎日をしょんぼりと過ごすしかなかったのだ。
 しかし諦めるということを知らないオカマたちは、毎日必ず鍵のかかり具合を確かめに来ていた。
 するとどういうわけか今日は鍵が開いている。罠かもしれないわと思いつつ、本日の鍵当番であったマルコがそっと玄関ドアを開けた。
 待合室には天敵の由紀がいて、クラシックのBGMを聞きつつ自分で入れたハーブティーを優雅に飲んでいる。
「あら、『紫頭巾』のマルコさんじゃないですか。お久しぶりですね」
 どういう風の吹き回しなのか、由紀はニコニコとマルコに挨拶をした。
「な・・・ななななんなのよ、あんた。なんの罠よ!」
 驚いてちょっとどもっちゃったマルコは、目をむき出しすかさず由紀への戦闘態勢を取った。
「罠だなんて何言ってるんですか? イヤだなぁもう。何もありませんよ。よかったらまたみなさんでいらっしゃいませんか?」などと、とても彼女らしくない言葉が由紀の口をついて出た。
 あまりのことに口をあんぐりと開け、マルコは逆にビビった。
正面切って、出て行けだの、いい加減にしろだのと言われているうちはいくらでも反撃できた。しかしこういう態度に出られると、反って何を言っていいのかわからない。
 どこかにとんでもない罠が隠されているのではないか。今にもソファの影から屈強な女子プロレスラーが躍り出て、遠くに売られるんじゃないかしら。
 まるで現実的ではないことを考え、マルコはビビリまくった。
 由紀はそれを面白そうに眺めながら「美味しいハーブティーがあるんです。よろしかったらみなさんもいかがです? 私、心を込めて淹れますから」と微笑んだ。
「わかったわ! あんたハーブティーに毒薬仕込むつもりね。そうは問屋が卸さないわよ。あたしたちは騙されませんからね。そうか、そういうことだったのね。あんたの悪事はお見通しよ」
「・・・そうですか。何もないって言ってるのに、そんなに信じられないならもういいです。せっかくみなさんをまた待合室にご招待しようかなぁと思ったけど、しょうがないですね。じゃあまた鍵かけますから出て行ってくださいな」
 由紀はいかにも残念そうにため息を吐いた。
「先生とも全然会ってないだろうから、かわいそうだなぁと思ってたのに。あ〜あ・・・気ぃ遣って損しちゃった」
「あんたがあたしたちに気を遣ったですって?」
 今までのバトルがあるので、マルコはいまいち由紀の言葉を信用しきれない。しかしまた鍵をかけられてしまえば、今度いつ陽平に会えるかわからない。
 マルコはどうしたらいいのかと迷い、悩みまくった。
 悩みつつ、そっと上目使いに由紀を見る。由紀はしらっとした顔でハーブティーを飲んでいる。
 ええい! 毒を食らえば皿までよとばかり、マルコは決意を固めて言った。
「・・・わかったわ。ちょっと待ってて。みんなを連れてくるから」
「すぐ来てくださいね。あんまり遅くなるようだったらまた鍵かけちゃいますよ」
 由紀がニヤッと笑う。やっぱり騙されている・・・そんな考えがマルコの脳裏をよぎるが、背に腹は代えられない。
「わ、わかったわよ。あんたそこ動かないでよ。すぐ連れてくるから!」
 全く釈然としないが、マルコは『紫頭巾』のオカマたちの総意「先生に会いたいんだも〜ん!」を最優先にし、待合室を飛び出していった。
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2008年09月12日

9

 翌日、麻子は会社に遅刻した。入社してからはじめてのことだ。
 一晩中セックスを繰り返し、明け方心の底から安心して眠りに落ちた。
 気が付くと朝の10時を回っていた。男はもういなかった。荷物もない。ベッドのサイドテーブルに「昨日はとても素晴らしかった。ゆっくり寝ていきなさい」というメッセージが置かれていた。
 名前も素性も、何ひとつ聞いていない。もちろん連絡先もわからない。あの素晴らしい夜を味わうことは、もう二度とできないのだろうか。
 麻子は急いで支度をし、フロントへと降りていった。
 当然のことながら男のことは何もわからずじまいだった。
 何だか夢を見ているようだ。あれは本当にあったことなんだろうか。
 麻子の頭は混乱していた。会社へとタクシーを飛ばしながら、昨晩の出来事をひとつひとつ思い出してみた。
 男の手がどんなふうに自分に触れたのか。どういうふうに胸をまさぐり、舌を這わせたのか。胸、腹、腰と手が降りていき、濡れた谷間に指が触れた時、自分はどんな声を出したのか。
 ああ・・・あれは幻ではなかった。私はあの時、確かに価値のある存在になっていた。男を喜ばせ、有頂天にさせる存在だった。
 麻子は昨夜の思い出に酔い、快感に身をゆだね、身体の芯が熱く燃えた。激しい快感が麻子の全身に鳥肌を立たせ、小さい吐息を吐き出させる。
 タクシーの運転手がそれを怪訝そうに見ていたが、今の麻子はそれを恥ずかしいとは思わない。誰にも邪魔されず、ただそうしていたかった。止めてしまえば現実は容易に麻子に迫り来る。それを止めることができるのは、セックスの快感を思い出し、それに溺れることだけなのだ。

 その日以来、麻子は度々あの快感を思い出すようになった。理沙の手術の準備が着々と進み、麻子はさらに忙しくなった。
 疲れさえ取れればきっと理沙に「頑張って」と言える。そう思っていたのだけど、日一日と手術が近づき、麻子の胸の重苦しさはますます増していった。
 自分は理沙を心から愛しいと思っていたはずだ。なのになぜ手術を喜べないのか。どうしてこんなに悲しく、イラつくのか。
 麻子の心には濃い霧がかかっていた。自分の本当の心の行方を、自分で見ることができなかった。

 眠れない日々が続いた。手術はもうそこまで迫ってきている。
 理沙は毎日不安そうな顔を見せ、見えない目で麻子を見つめ、「大丈夫。お姉ちゃんがついてるから」と、麻子に言ってほしがっていた。
 それを十分わかっていながら、麻子は優しい言葉のひとつもかけてやれなかった。
 理沙は何も悪くない。悪いのは私なのだと麻子は自分を責め続けた。

「誰のせいで理沙の目が見えなくなったと思ってるんだ。全てお前のせいじゃないか。お前の心は歪んでいる。どうしようもなくいびつだ。この世にいる価値など少しもない存在。いっそ消えてしまえばいい」

 毎晩毎晩、眠ろうとする麻子に誰かがそうささやくのが聞こえた。
 そんな時、まるで宝物のように、あの男とのセックスを思い出した。
 男はあれほど自分を賛美したではないか。目を細め、麻子の身体を素晴らしいと言ったではないか。私に価値がないわけじゃない。そう、消えてなくなる必要なんてどこにもないのだ・・・。
 あの記憶ひとつひとつを思い出す時、麻子の心はほんの少し軽くなった。もう一度男に会いたいと思った。会って抱いてほしいと願った。しかしあれから一度も『新宿メトロプラザホテル』のバーラウンジには行っていない。そんな時間の余裕などまるでなかったのだ。

 日が経つにつれ、あんなに強烈だった男との記憶も徐々に薄れていった。顔も空ろになり、声も思い出せない。
 男の名前を聞かなかったことを、麻子は心の底から後悔した。想い出を蘇らせる時、男の名を呼ぶことができない。そのことがあの夢のようなセックスを、どんどん現実感のない幻に変えていく。
 麻子は無性に怖くなった。この記憶全てが無くなってしまったら、自分はどうなってしまうのだろう。またひとり、深い霧の中に取り残されるのか。足掻いても足掻いても見ることができない自分の心と、たったひとりで対面しなくてはならないのか。そうなったら、自分は正気でいられるだろうか・・・。

 セックスをしなくてはいけない。

 突然麻子の心が命令を下した。もうあの男とは会えない。それはわかっている。だったら他の男でもいい。
 自分を欲しいと言ってくれる男。抱きたいという男を今すぐ手に入れるのだ。その男と一晩中、身体が悲鳴を上げるほどセックスをし続ける。
 自分を賛美してくれる男。麻子でなければダメだと言ってくれる男。自分に価値を見出してくれる男。そして力強く、壊れるほど突いてくれる男。

 麻子の全身に、ブルッと震えが起こった。同時に薄らいでいたセックスの快感が鮮やかに蘇った。
 そうだ。なんでもっと早く気付かなかったんだろう。さっさとこうすればよかったんだ。何をグズグズ悩んでいたんだろう。
 麻子は急に可笑しくなった。心の底から笑いがこみ上げてくる。クスクスと笑いながら、麻子はクローゼットに向かった。
「スーツじゃ地味ね。でも派手な服は・・・持ってないな。こんなんじゃダメだわ。これからもっといろんな服を買わなくちゃ」
 麻子は楽しそうにつぶやいた。瞳がキラキラと輝き、生気が満ちてきた。
 クローゼットの中は、紺や黒やベージュといった堅そうな色のスーツばかりが目立つ。
 麻子はゴソゴソとクローゼットを漁り、なるたけ男の気を引きそうな明るめの服を探した。
「しょうがない。今はこれしかないんだもの」
 白いノースリーブのブラウスに、若草色のタイトスカートを身に付け、麻子は鏡に向かって念入りにメイクを始めた・・・。
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2008年09月07日

8

 ここはどこなんだろうと麻子は思った。
 延々と続く担当医の話から開放されたあと、仕事に戻るからと駅に向かい電車に乗った。
 何も考えられなくて、適当に乗り換え適当に降りた。
 そこから行くあてもなく、ただただ歩き回った。
 腕時計を見る。いつの間にか夜の8時を回っていた。
 いつ日が暮れたのかも覚えてない。
 忙しくて昼食を食べていなかったのに、お腹が空いたという感覚もない。
 ・・・疲れた。歩き回ったせいなのか。それとも理沙の手術のせいか。
 たくさんの高いビルが立ち並ぶ通りを見上げると、正面に一軒のホテルがあった。
 一軒というにはあまりにも大きく、正面玄関には『新宿メトロプラザホテル』とある。
 いつの間にか、麻子は歌舞伎町に来ていたのだ。
 ここで少し休もう。私は疲れすぎてるんだと麻子は思った。人事課長になってから仕事の内容も変わり、とてつもなく忙しくなった。理沙に「よかった」と言ってやれないのもたぶんそのせいだ。ここで少し休めば、きっと元の私に戻れる。

 麻子は正面玄関からホテルに入り、ロビーに向かった。
 部屋を取ろうと思った時、25階にバーラウンジがあるのがわかった。
 急激に喉に渇きを覚えた。そうだ、まずは何か飲んで、休むのはそのあとにしよう。
 麻子はエレベーターホールに向かい、25階を押した。

 まだ時間が早いせいなのか、それほど混んではいない。
 お一人様ですかと聞かれ、窓際の新宿新都心が見渡せる席に案内された。
 ジントニックを頼み、一気に飲み干す。お代わりを頼み、それもすぐに飲み干した。
 ラウンジ内を歩き回っているボーイがオーダーを取りに来た。
「お飲み物のお代わりはいかがですか?」
「もう少し強めのものが欲しいんだけど」
「かしこまりました。それではオリジナルを作らせましょう」

 足の細いカクテルグラスは、キレイな真珠色の液体を湛えている。それは薄暗い明かりにもキラキラと美しく輝いて、一口飲むと、適度な辛みとほんの少しの甘みが喉を通過する。
「美味しい・・・」
 フワフワとした感覚がやってきた。ほんの少しだけ酔いが回ったのだと、麻子は冷めた頭で考えた。
 ただ、その酔いに全てを任せるには、麻子の心と身体は疲れ切っていた。一時(いっとき)も理沙の手術のことが頭から離れない。理沙の手術が成功したら、自分はどうなってしまうのだろう。もう私は理沙に必要な人間じゃなくなるのか。
 イライラが消えない。何も考えたくない。でもどうしても理沙の事が頭から離れない。このままじゃどうにかなってしまいそうだ。

「隣、よろしいですか?」
 背中の方で、低く響く声がした。
振り向くと、40代後半くらいだろうと思われる身なりのいい男が立っていて、ニコニコと微笑みながら麻子を見下ろしていた。

 麻子は男という存在が嫌いだった。亡くなった父がいつもこう言っていたからだ。
『男というものは、どんな時でも麻子の身体を狙っている。だから決して近寄ってはいけないよ』
 ・・・本当にそうだと思う。男はみんな、いつも全身を舐めまわすようなぶしつけな視線を送ってくる。汚くてイヤらしい生き物だ。

 普段なら即座に立ち上がり、もう出ますからと冷たく言うところだ。
 だが今日の麻子は違っていた。フワフワとした現実感の薄い感覚の中で、麻子は男にニコッと笑い掛け、「どうぞ」と隣のスツールを指差していた。

 24階にある男の部屋からも、新宿新都心の夜景が美しく光り輝いている。
 ここはスイートルームになっているようだ。ベッドルームとリビングがわかれていて、バスルームはゆったりと広く作ってある。
 男は、リビングのソファに自ら脱がせた麻子のスーツを几帳面に置いていった。
 ジャケット、ブラウス、スカート、ストッキング、ブラジャー、そしてショーツ。
 麻子はまるで赤ん坊のように、されるがままに立っていた。
 男も仕立てのいいスーツを脱ぐと、麻子をバスルームへ連れて行った。
 たっぷりと張った湯に麻子を入れ、自分も一緒にバスタブに浸かる。
 男はまるで作り物のように美しい麻子の身体にスポンジを這わせ、優しく洗ってやった。
 その優しさと男の面影は、麻子に死んだ父を連想させた。
 徐々に麻子の身体から緊張が消え、小さな吐息が漏れる。
男はスポンジを置き、自らの手を麻子の首、肩、胸、腹、腰と順に降ろしていった。男の手が優しくねっとりと動くたび、麻子の吐息が大きくなった。
 男は麻子の濡れた茂みの奥を、指でもてあそびながらささやいた。
「名前、聞いてなかったね」
「あ・・・愛」
 麻子は突き上げる快感を身体一杯に感じながら、どうして自分は「愛」などと言ったのかと考えた。しかし次第に強くなる激しい快感に、もう何もかもがどうでもいいと思った。
「愛・・・いい名前だ。愛か、愛」
 男は何度も何度もそう言って、麻子の胸に舌を這わせ、身体中をまさぐり続けた。
「お願い・・・欲しい・・・」
 麻子が吐息交じりにつぶやく。
 男はじらすようにニヤッと笑い、バスルームの壁に両手を付いて屈むよう命じる。
 麻子は言われるがままに従った。男は麻子のくびれた腰に手を回し、自分のモノをゆっくりと背中から突き刺しはじめた。
 その動きは徐々に早くリズミカルになっていく。
 ミシッ! ミシッ! と身体の奥が軋み、今にも壊れそうだ。その勢いが頂点に達した時、麻子の心は空っぽになった。
 自分では抱えきれなくなったたくさんの現実。その全てが心と頭から開放され、麻子の中から消えていった。
 今まで何をしても決して消えることのなかったさまざまなものが、きれいさっぱり無くなっていた。
「いいよ、愛。すごくステキだ。もっと腰を動かしてごらん。そう、上手だ。とてもいいよ。愛の身体は最高だ。こんなのは初めてだよ」
 男にそう言われるたび、麻子の快感はますます大きくなっていった。

 今この男にとって、私はとても価値のある存在なのだ。私の身体は素晴らしい。私の女の部分がこんなにも男を酔わせ、喜ばせている。ああ! 何てステキなんだろう。こんな感覚、こんな喜び、私は今まで味わったことがない。何もかも忘れさせてくれる素晴らしいセックス。どうして今まで知らずにいたんだろう。
 ああ・・・私は今幸せだ・・・。もうこのまま時が止まってしまえばいい・・・。
 麻子は足先から頭の天辺まで駆け抜ける快感に身をゆだね、繰り返し繰り返し、一晩中突かれ続けた。
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2008年08月31日

7

 陽平に激しく貫かれながら、麻子は初めて一夜限りのセックスをした日を思い出していた。
 普段セックスをしはじめると、一切何も考えられなくなる。とにかく身体を突き上げる快感だけに身をゆだね、耳を澄ませる。そうすれば、耐え難い現実も、何の価値をも見出せない自分自身も、全て泡となって消えていくのだ。
 しかし、なぜか今日は違っていた。
この数年間繰り返してきたさまざまな男とのセックスが、次から次へとまるで走馬灯のように麻子の脳裏をよぎった。

 初めての日・・・。あれは約2年前の初夏だったと思う。
 人事課長となって間もない頃。毎日毎日必死に仕事をこなしていた。
 その日もいつもと変わらずに仕事をしていたのだが、昼過ぎに突然母から電話がかかってきた。大至急理沙が通院している病院に来いと言うのだ。
 一瞬理沙の身にとんでもないことが起こったのではないかと焦った。目に異常が見つかったのか、それとも事故にでも遭ったのか。しかし母の声は思いのほか明るい。とにかく来てくれの一点張りで、理由はあとでと言うのだ。
 ダメだと言っても聞く母ではない。
 昔から母の言うことには全て従ってきた。そうしなければ母は私を認めてくれないのだから仕方がない。何とか仕事を調整し、急いで病院に向かった。

 太陽が夏の色合いを濃くしていた。街路樹がまばゆいほどの日を浴びて、道に濃い影を作る。
 理沙は私のせいで、太陽をサンサンと浴びて輝くこの景色を生涯見ることはできない。
 私は、なぜあの時理沙を置いて家を出てしまったのだろうという、今まで何千回何万回も考えた繰言をまた考えはじめた。
理沙が愚図ったからといってそれがどうだというのだ。そんなことは問題じゃない。私は母から理沙を任されていた。例えどれほど理沙が愚図ろうと、無理矢理にでも連れて行くべきだった。
 今更後悔しても遅い。何度考えても何度悔やんでも、理沙の目が見えることは決してないのだ。

 大通りに出てタクシーを拾う。すぐに一台が止まり、病院に向かって走り出した。
 病院までの20分間、いったい何が起きたのだろうかと考えた。
母の声の明るさからいえば、悪いことが起こったわけではないらしい。しかし病院へ来いということは、理沙の目に関係のあることだ。
 もしかして、理沙の目が治る?
 イヤ、そんなことはありえない。私は勢いよくその考えを打ち消した。そんなバカなことが起こるわけがない。理沙の目は手術もできない状態なのだ。治るわけがない。そう、治るわけなどないのだ・・・。
 タクシーが病院の正面玄関に着いた。急いで待合室に向かうと、そこには顔を輝かせて私を待つ理沙と母が立っていた。
 2人を見た瞬間「あれ?」と思った。どういうわけか、急に足元が揺れはじめた。リノリュームの床がアリ地獄にでもなったかのように、足が全く前に進まない。顔が強張っているのが自分でもわかる。なぜ急にそんな状態になったのだろう。

「お姉ちゃんが着たわよ」
 母の声が優しく労わるように響く。理沙の顔が先ほどよりも一層輝きを増したかのように思えた。その輝きを見れば見るほど、どんどん足が床に埋もれていく。
 何だろうこの感じは。
 身がすくむような感覚が全身を覆いつくし、心がボロ雑巾のように絞られていく。喉に何か異物が挟まっているようで、呼吸が浅くなり、空気が胸まで入っていかない。
 母が理沙を庇いながらじれったそうに私に近づいた。
「麻子、そんなところで何突っ立ってるの。さ、先生がお待ちなの。早く来てちょうだい」
 母は私の変化など何も感じていないようだ。
母の目にはいつも理沙しか入っていない。理沙が無事であればあとはどうでもいいのだ。
 わかっている。今始まったことじゃない。なのにどうしてこんなに胸が苦しいのだろう。
 母は担当医が待つ部屋へと急ぎながら、一度だけ私を振り返ってこう言った。
「麻子、急いでちょうだい。先生はお忙しいんだから」
 足はまるで錘(おもり)を付けられたかのように重い。スタスタと廊下を歩く母の後ろを、足を引きづり必死について行った。

「妹さんの手術には、羊膜の移植、輪部の移植、そして・・・」
 理沙の担当医が手術の説明をしている。
 でもその声は遠くかすんで聞こえ、ほとんど私の耳には入ってこない。
 何でも理沙の目は治る可能性があるらしい。簡単な手術ではない。しかしやってみるかと聞いているみたいだ。
 この医者はいったい何を言っているのだろう。そんなことが現実に起こるわけがない。もしそんなことが起こったら・・・もしそんなことが・・・。
 理沙の目が治る? それはすごいことだ。素晴らしいと思う。・・・素晴ら・・・しい・・・。

 本当に? 本当にそう?

 ・・・何だかよく、わからなくなってきた。本当に治るのなら、もちろん喜ばしいに決まっている。それは間違いない。当然のことだ。頭では充分わかっているのに、私はどうしてこんなにイライラしているのだろう。なぜこれほどの焦燥感が、私の心をかき乱すのだろう。私はおかしい。私は変だ。理沙に心からよかったと言ってあげられない。言いたくない。なぜなんだろう。

 私は自分がよくわからない。
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2008年08月24日

6

「・・・何? 私の顔に何か付いてる?」
 麻子はいぶかしげに陽平に言った。
 夜の7時40分。
 クリニックの診察室に、2人は向かい合うかたちで座っていた。
 間を隔てるものは何もない。陽平は自分でも気付かないうちに、麻子の顔を穴が開くほど見つめていたのだ。
 陽平はハッと我に帰り、ここは病院で、麻子は診察に来ているのだと自分に言い聞かせた。
 陽平の頭の中には、夕方由紀に言われた「先生は野村さんが好きなんですよね」という言葉が渦を巻いている。「先生が野村さんを好きだってことは、誰が見てもわかります」とも言っていた。つまりは麻子にもわかっているということか?!
 慌てた陽平は、一気に顔が赤く染まるのを感じた。
「どうしたの? 岩田君。顔真っ赤だよ」
 麻子がクスッと笑ったように見えた。
「いやあの・・・これはその・・・」
「ん?」
 俯いてしまった陽平の頭の中から、今が診察中であることも、麻子が患者なのだということも全て消えてなくなった。
 麻子への想いが抑えきれないほど膨れあがり、陽平はたどたどしく口を開いた。
「あのさ、野村・・・。えっと、ごめん・・・。こんなこと突然言うのはどうかと思うんだけど、あの・・・俺・・・」
 陽平はゆっくりと麻子の顔を見上げた。
 麻子は陽平の真っ赤な顔をニコッと微笑みながら見つめ、先を促すようにささやいた。
「何?」
 麻子が陽平の気持ちを知っていたことは明白だ。わかっていながら先を言って欲しがっているのだと陽平は思った。
 その考えに背中を押され、陽平はひと言ひと言を噛み締めるように言った。
「野村・・・俺・・・。俺、野村のことが好きだ。中学の時からずっとずっと好きだったみたいだ。医者として、患者である野村にこんなこと言うのはどうかと思ってたんだけど、でも・・・」
 その先を言わないうちに、陽平の唇は麻子の唇でふさがれた。
軽く触れる程度のキス。陽平の全身は、一気に火がついたように燃え上がった。
 唇が離れていく前に麻子の身体を抱き寄せ、もう一度自分から唇を合わせていく。2人のキスは徐々に激しさを増していった。
 麻子は陽平の手を取ると、ゆっくり自分の胸へといざなっていく。陽平は服の上からそっと麻子の胸に触れた。次第にその手は激しさを増し、ブラウスの中へと入っていった。
「ずっと、こうして欲しかったの・・・」
 麻子は喘ぐようにそう言うと、ホッと小さく息を吐いた。
 麻子の下着は濡れていた。トロトロとした液体が流れ、ストッキングを濡らす。
 麻子はセックスができるという快感に酔いしれていた。

 こうして欲しかった。ずっとこうして欲しかったのだ。

 今日の昼、また会社に母から電話がかかってきた。内容はわかっている。理沙の結婚式に出ろと言うのだ。
 電話を切ると、またあの感覚が蘇った。

 セックスがしたい! どうしようもなくしたい。

 今の私の苦しさを癒すことができるのはセックスだけなのだと思った途端、強烈なめまいが襲ってきた。
 身体がグラリと揺れ、倒れ込みそうになる。
 その時、麻子は今日、クリニックに予約を入れていることを思い出した。
 めまいが急激に薄れ、視界がクリアになった。
 陽平なら、この苦しさから私を救ってくれる。彼とセックスをすればいいのだ。陽平がずっと私の身体を求めていたことは、ずいぶん前からわかっていた。どうして早く言ってくれないのだろうと思っていた。
 よかった。相手がいた。
 麻子は心の底からホッとして、夜になるまでの長い時間を、必死な思いで待ち続けた。

 ここが診察室であるという認識は、2人の頭から完全に消えていた。
 診察用のソファに横たわり、激しく求め合った。麻子のスカートをたくしあげ、陽平の手が下着に伸びる。ストッキングをおろし、彼女の空虚な部分を隠す最後の布に手をかける。
 隙間から手を滑らせ、麻子のぐっしょりと濡れたくぼみに指を這わせた。麻子の全身に稲妻のような快感が駆け抜け、昼間のイヤな出来事を全て忘れさせた。
「・・・麻子・・・麻子、愛してるよ」
 うめくような陽平のささやき。
「私も・・・」
 麻子はそう言いながら、・・・これでいつでもセックスできる。よかった・・・と、小さく安心の吐息を漏らした。
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2008年08月17日

5

『新宿メンタルクリニック』の看護師、本島由紀は暇だった。
 最近クリニックでは、玄関に鍵をかけ、オカマたちを撃退するというナイスアイディアを実行している。おかげで予約患者しか入れなくなり、大層静かな待合室となった。
 BGMのクラシックも軽やかに響き渡りいい感じ。
 しかし・・・と由紀は思った。
 クリニックに勤め出してから約5年。毎日のようにオカマたちとのバトルを繰り返してきた。そんな由紀には、この静けさが何だか物足りないのだった。
 鍵をかけるっていうのはちょっとやりすぎだったかなぁ・・・と、今までの由紀らしくないことまで考えてしまう。
 こんなことを思うのも、全て暇がいけないのよと由紀はため息を吐いた。
 今日も、さっき帰った患者を除くと、夜に麻子の予約が入っているだけだ。
「暇だなぁ・・・」
 そうつぶやくと、由紀は診察室のある2階を見上げた。
近頃陽平の様子がおかしい。そわそわしているというか、落ち着きがないというか、いつもボーっとしていてうわの空なのだ。さっき帰った患者にも、
「近頃先生、ちょっとおかしくないですか?」
と言われたばかりだ。
 何でも、患者は陽平に気分転換を兼ねた温泉旅行の話をしたという。
「とてもいい気分転換になりました。先生も温泉がお好きだっておっしゃってましたよね」
「えっ、好き? いや・・・好きっていうか、気になるっていうか・・・。つまり助けたいんです。救ってあげたいって思うんです。本当です! 他意はありません」とキッパリ言い切ったと言うのだ。
 原因はわかる過ぎるくらいにわかっている。陽平は麻子が好きなのだ。麻子の予約が入っている日は、うわの空度数が高いという証拠も上がっている。
 最近由紀は予約を調整し、麻子の診察のある日は極力他の患者を入れないようにしている。
「全くもう・・・」
 玄関に鍵がかかっているのをいいことに、由紀はソファに寝ころびブツブツ文句を言い始めた。
「先生が野村さんを好きなのは確か。それは全然いい! ただ先生もいい大人なんだから、初めて恋をした中学生みたいになるのはやめてほしいのよね。患者さんにだっていい迷惑じゃないの。う〜ん・・・どうしたもんだかねぇ・・・」
 暇を持て余している由紀は、そんなことをつぶやきながらウトウトと眠りに落ちていった。

「本島君、本島君って。起きなさいよ」
 ハッと気が付くと、由紀の目の前に陽平が呆れ顔で立っていた。時計を見ると夕方の5時半すぎ。なんと1時間以上も寝ていたことになる。
「すいませ〜ん。患者さんが来ないからつい・・・」
「ついって、いつ電話がかかってくるかわからないんだよ。気を付けてよね」
「・・・はい。申し訳ありませんでした」
 謝りながらも、由紀はちょっと不満げだ。
 麻子の予約日を暇にしなくちゃならないせいで、他の日にシワ寄せが来て大変なのよ。それもこれも、先生が初恋中学生になって何にも手に付かなくなったのが原因じゃない。暇になったら居眠りぐらいするっつうの!
 そんな由紀の文句タラタラな視線にさらされた陽平は、ちょっと仏頂面になって由紀を見た。
「・・・何」
 いつまでもこんな状態が続くのはまずい。今がいい機会だ。ちゃんと言っておいたほうがいいと由紀は思った。
 由紀は自分の座っているソファの向かいを指差した。
「先生、ちょっとそこに座ってください。大事なお話があります」
 由紀の改まった声と態度に戸惑いながら、陽平は黙ってソファに座った。
「単刀直入に言っちゃいます。先生はLikeじゃなくloveの意味で、野村麻子さんが好きなんですよね」
 あまりの単刀直入さに、陽平はしどろもどろになった。自分でも何を言っているのかわからない。
「なっ! ななななな」
 何を突然言い出すの? と言いたかったらしい。しかし陽平の言語感覚は乱れまくってしまった。
「そっ! そそそそそ」
 今度は、そんなことないよぉ、と言いたかったようだ。しっちゃかめっちゃかになっている陽平の姿は由紀の哀れを誘った。ため息をひとつ吐き、優しげな口調で話し出す。
「・・・先生。そんなに慌てないでください。先生が野村さんを好きだってことは、誰が見てもわかります。野村さんを好きなのは何の問題もないんです。問題なのは、先生が初めて恋をした中学生みたいになっていることなんです。いいですか」
 恥ずかしさに顔を真っ赤に染め、下を向いてしまった陽平に、由紀は得々と説教をはじめた。
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2008年08月09日

4

「最近課長の様子がおかしいんだよね。何か知ってる?」
 つい先日、同じ部署にいる彼氏・新田栄司に、つかさは突然そう聞かれた。
 最近仕事の最中も恋愛モードのつかさは、自分と彼氏以外の何も見えていない。麻子どころか、周りがどんなに激しい変化をしたところで、見ていないのだから気付くはずもないのだった。

 ある日、栄司は急ぎの書類をプリントアウトして、課長である麻子のデスクに向かった。
「課長、これにハンコをお願いします」
 麻子はそれに全く反応することなく、黙ってデスクのパソコン画面を見つめていた。
 不思議に思った栄司が覗き込むと、土気色の顔をした麻子が身体を小刻みに震わせている。具合でも悪いのだろうかと、栄司は慌てて麻子を呼んだ。
「課長、課長? どうしました?」
 何度も呼ばれると、麻子はハッとしたように顔を上げた。
唇は、まるで一晩中水に浸かっていたかのように真っ青で、完全に血の気が引いている。
 これは大変だ。風邪だろうか。それにしてもこの顔色は・・・。
「課長、医務室に行きましょう」
 栄司は麻子を立たせようと、デスクに手をかけた。
すると麻子が突然、これが最後の命綱だと言わんばかりにその手を握った。
 栄司は握られた手の冷たさに驚き、まるで死人のようだと思った。
「大丈夫よ。ちょっとこのままで」
 かすれ、震える麻子の声。大きな音など出したら壊れてしまいそうだ。
 周りは何も気付いていない。
 リストラの情報が行内を席巻している今、みんな自分の評価を上げようと必死だ。他人を気にかける余裕などどこにもないのだ。
 いつの間にか麻子の震えが止まっていた。顔にも血の気が戻ってきた。
 麻子はホッと息を吐いて、何事もなかったかのように言った。
「ごめんなさい。もう大丈夫よ。えっと、何?」
「お疲れのようですね。ちゃんと寝てます? 顔色悪いみたいだし」
「・・・大丈夫よ。心配しないで」
 麻子は曖昧な微笑みを返すだけで、具体的なことは何ひとつ言わなかった。

 それからというもの、栄司は麻子の様子を気にかけるようになった。
「何かの病気かな。ここのところ、度々真っ青になる課長を見るんだけど、何か知ってる?」
「う〜ん・・・わかんないなぁ。最近あんまり野村さんと話してないし。でも私が紹介した病院には、ちゃんと通ってるみたいよ」

 つかさからだいたいの事情を聞いたリリィが、早速得意の水晶占いを開始した。
「陽平先生のところで治療はじめて、もう2ヶ月くらい経つのに、まだ不眠症治らないのかしら」
 水晶玉を見つめつつ、リリィが心配そうにそう言うと、マルコがまるで原因の一端をつかんでいるかのようにキッパリと言った。
「眠れないだけで顔が土気色になると思う? 身体だって震えないと思うわ。これは何か別の原因があると思うの!」
「別の原因って何?」
 サツキもダンボもつかさも美鈴も、全員瞳を輝かせてマルコの答えを待った。
 マルコは一同をゆっくり見回すと、さらにキッパリと言い切った。
「それはわからない!」
 『紫頭巾』中に鳴り響くブーイングの嵐を上手くかわしながら、マルコは美鈴に聞いた。
「美鈴ちゃん何か知ってる?」
「関係あるかどうかわからないけど、最近野村さんのお母さんから、よく銀行に電話かかってくるの。その電話がある度に、野村さん具合悪そうにしてたのよね」
「・・・そう言えばそうですね。この間なんて私、いないって言ってくれって言われました」
「川崎さんも言われたの?! 私も言われた」
「美鈴さんも?」
「ええ・・・。お母さんと何があるのかはわからないけど、でもそれだけで身体が震えるわけないじゃない? だからそれが原因かって言われると、違うような気はするのよねぇ・・・」
 つかさと美鈴の話を聞いても、麻子に何があるのかはまるでわからない。でも麻子の体調は、何かの病気ではないかと思わせるほど悪そうだ。
 いまだ不眠も改善されていないらしい。
 一同の頭の中に『?』マークが10個ほど浮かび、いつの間にか全員が腕組みをして考え込んでいた。
posted by 夢野さくら at 16:15| Comment(0) | 14番目の月

2008年08月02日

3

「ありがとうございましたぁ! またいらしてね〜ん」
 サツキとマルコが、お客を地上入り口で見送る。
 新宿二丁目のあちこちから同じようなダミ声が上がった。
 もうすぐ終電が出る時刻。さまざまな店からお客が一斉に溢れ出し、駅への道を急いでいく。
 ふとサツキが、『新宿メンタルクリニック』の入っている隣のビルを見上げた。
 全ての部屋の電気が消え、真っ暗だ。
「あ〜あ・・・今日はもう、先生お帰りになったのね」
 最近クリニックの玄関には鍵がかかるようになった。診察の予約を入れてチャイムを鳴らさないと、待合室に入れない仕組みになったのだ。全て由紀の仕業である。
 店への階段を降りながら、マルコはブツブツとサツキに愚痴った。
「ねぇママ、あたしたちもうどのくらい先生と会ってないのかしら」
「そうねぇ・・・かれこれ2週間くらいになるわね」
 ため息をつきながら店のドアを開けると、最後に残っていたつかさと美鈴が、まだまだ宵の口だといわんばかりに盛り上がっていた。
 美鈴はすっかり『紫頭巾』の常連となり、週に一度は通って来ていた。
 麻子が来ることはなかったけれど、『紫頭巾』はまぁまぁの上客をひとりGETしたことになった。
「ここって、なんとなく居心地がいいのよね。なんでなのかな」
 美鈴はそう言うと、面白そうに店内を見渡した。
壁は一面キレイなラベンダー色。テーブルや椅子にもどこかに必ず紫色が入っている。
 これはもちろん、店名『紫頭巾』にかけているのだけれど、実はそれだけではない。ラベンダー色というのは、精神を癒す効果があると言われているのだ。
 『紫頭巾』はそのカラー効果によって、自然にお客がくつろげる空間になっていたのだ。

「そうそうつかさちゃん。また今度野村さん連れてきてよ」
「あ〜ダンボちゃん! 先生と野村さんがどうなってるのか知りたいんでしょ」
「あら、つかさちゃんは気にならないわけ?」
「実はぁ、最近彼氏ができました! なので野村さんと先生がくっついてもいっこうに構いませ〜ん」
 つかさの彼氏ゲット宣言に、『紫頭巾』が揺れた。
「何それ〜! 裏切り者〜!」
 悲鳴にも似た怒声が響き渡り、阿鼻叫喚の渦を巻き起こす。
 一同が冷静さを取り戻すまで、約15分という時間を要した。
 興奮しまくりで、ハァハァと肩で息をしながら、新しい彼氏のことを根掘り葉掘り聞き出すオカマたち。
 彼氏の新田栄司が同じ部署にいると聞いたダンボは、思いっきりつかさを罵った。
「いやぁねぇ、身近で手を打ったりして! この根性なし。もっと高みを目指しなさいよ。第一同じ職場なんて、周りの皆さんに迷惑じゃないの。ねぇ美鈴ちゃん!」
「そうそう、仕事中に目配せなんかしちゃったりして。気が散って仕方がないわぁ」
 美鈴がつかさをからかうが、当の本人はヘッヘッヘッと笑うだけ。いっこうに反省の色を見せる気配すらなかった。
「そういえば美鈴さん」
「何よ」
「この前新田さんが言ってたんですけど、最近の野村さんっておかしいと思いますか?」
「おかしい?」
「そうなんです。実はね・・・」
posted by 夢野さくら at 22:56| Comment(0) | 14番目の月

2008年07月26日

2

「もう平気。痛みもだいぶ引いたわ」
 理沙は座り込んでいたレストランの階段から立ち上がり、確かな足取りで歩き出した。

 日曜の午後二時過ぎ。歩行者天国となっている銀座中央通りはとんでもない人の多さだ。
 純也は理沙が人にぶつかるのではないかと気が気ではない。理沙をギュッと自分に引き寄せ、落ち着かなげに周囲を見つめていた。そのあまりの真剣さに、理沙は噴き出しそうになった。
「本当にもう大丈夫。純也さんはお姉ちゃんと同じくらい心配性ね。昔ね、お姉ちゃんがね、」
 理沙の話にはしょっちゅう麻子が出てくる。
 純也が理沙と出会ったのは、大学を卒業し、東京都福祉保健局に勤め出してまもなくのことだった。
 知り合ってから8年、付き合い出して5年経った今でも、いつも理沙の話の中心は麻子だった。
 この前お姉ちゃんがこう言った。昨日お姉ちゃんがこんなことをしてくれた。お姉ちゃんはすごいのよ。お姉ちゃんはね・・・。
 理沙が麻子のことをどんなに心の支えにしているのか。麻子がどれほど理沙を慈しみ、守ろうと努力しているのか。純也には理沙の表情を見ているだけで、わかりすぎるくらいにわかった。
 目の見えなかった十数年、理沙にとって麻子はこの世の全てだった。理沙と麻子のこれまでを考えれば、それは当然の結果だと思う。
 それは充分わかっていながら、純也は麻子に対し、徐々に嫉妬を覚えるようになっていった。
 自分が麻子の代わりになりたい、自分が理沙を支えたい。
 ・・・そして純也は、理沙に結婚を申し込んだのだった。
「君の目が見えないことは、僕にとって本当に些細なことなんだ。僕は理沙と一緒にいたい。2人で一緒に年を取っていきたい。大丈夫。2人で支えあっていけば、どんなことだって乗り越えられる。そう思わない? ・・・僕と、結婚してください」
「・・・はい。よろしくお願いします」
 理沙の見えない目から、涙がポロポロとこぼれ落ちた。

 だが、理沙の母は猛反対した。目の見えない理沙との生活がどういうものか、あなたには全然わかってないと言われた。当然麻子も同じ理由で反対した。
 それから1年、純也と理沙は、母と麻子への説得を続けた。
 徐々に母の心が動きはじめた時、目の手術が可能となった。
 簡単な手術ではない。輪部と言われる部分を移植するのだ。確実に視力が戻るという保証があるわけでもない。しかし成功すれば、理沙の目は見えるようになる。このまま手術をしなければ、それこそ何も変わらない。なによりも理沙自身が、手術を心から望んでいた。

 理沙の手術は成功した。ついに念願の視力を取り戻したのだ。
初めて純也の顔を見た理沙は、茶目っ気たっぷりにこう言った。
「意外とハンサムだったのね。もっと変な顔かと思った」
 幸せに満たされたその笑顔。純也は一生その笑顔を見て暮したいと思った。
 もう理沙の母は結婚に反対しなかった。する理由などどこにもない。
 手術後の経過も順調に進み、1年が経った頃、純也は正式に理沙と婚約した。
 母は理沙の手をギュッと握り、溢れる涙に声を詰まらせながら言った。
「おめでとう、理沙。純也さん、理沙をよろしくお願いします」

 麻子は何も言わなかった。理沙の目が治った途端、黙って実家を出て行った。
 あれほど理沙を可愛がり慈しんでいたはずの麻子が、なぜか突然理沙との連絡を絶つようになった。
 理沙には何が起こったのかわからなかった。自分が何か麻子を怒らせるようなことでもしたのだろうか。
 何も思い当たらない。留守番電話に用件を吹きこんでも、携帯やパソコンにメールを入れても、返事が来ることはない。結婚式も多忙を理由に断わられた。いったいどういうことなのだろう。

 混雑した銀座中央通りを歩きながら、理沙は急に黙り込んだ。
どうして連絡をくれないのだろう。いくら忙しいといっても、電話ぐらいできるはずだ。
 話がしたい。お姉ちゃんがどう思っているのか。なぜ急に私と距離を置くようになったのか。こんな気持ちのままじゃ結婚なんてできない。お姉ちゃんが出席できない結婚式なんて、私にとって何の意味もない。

「お姉ちゃんが出席でき」
 理沙はハッとして口をつぐんだ。
 ・・・お姉ちゃんが出席できないなら、やっぱり結婚式は伸ばしたい・・・。
 隣には純也がいた。こんな自分と結婚したいと言ってくれた純也に、そんなことが言えるはずはなかった。
 理沙は急に泣きたくなった。目が見えなかった時、手に取るようにわかっていると思っていた麻子の気持ちが、見えるようになった途端何もわからなくなった。
 本来なら幸せの絶頂であるはずの理沙の全身が、見る見るうちに途方もない悲しみに包まれる。
 それを黙って見つめる純也の目に、ある決意が宿った・・・。
posted by 夢野さくら at 01:37| Comment(0) | 14番目の月

2008年07月19日

第2章 1

 夏の日差しがまだ残る9月中旬の日曜日。銀座4丁目交差点に建つ和光の時計が午後二時を指した。
 歩行者天国となっている中央通りには、日曜の銀座を楽しむ人で溢れ返っている。
 田島純也も、久しぶりに婚約者の野村理沙を連れ、銀座でランチを取っていた。
 食事を済ませ、薄暗い地下の店からさんさんと光る太陽の下へ出る。あまりのまぶしさに、純也は一瞬目を細めた。ハッと後ろを振り返ると、すでに太陽の光は理沙の目を射抜いている。純也にすら強烈と感じる日差しが、目の悪い理沙にとって毒でないはずがない。
 痛い! 理沙は思わず階段に座り込み、ギュッと目を閉じた。サングラスをし忘れていたのだ。目を開けられず、手探りでバッグの中を漁る。慌てた純也が、代わりにバッグの中からサングラスを取り出し理沙に渡した。
「ごめん、気が付かなくて。大丈夫? えっとどうしよう。病院行った方がいいかな。あ、でも今日は日曜日だ・・・」
 純也は焦った。どうしよう・・・理沙の目に何かあったら・・・。そんな純也の気配を感じ、理沙は目をつぶったまま顔を上げて微笑んだ。
「そんなに心配しないで。私は大丈夫よ。目薬さして、しばらくこうしてれば治るから」
「でも・・・本当にごめん。僕がもっと注意してれば」
「本当に大丈夫。サングラスをし忘れた私がいけないの。もう手術して2年も経つのに、まだ目が見えるってことに慣れてないのね」
 そう言うと、理沙はクスッと笑った。
目は痛い。でもこの痛みは目が見えるという証拠なのだ。それを思えば少しぐらいの痛さは我慢できる。目が見えなかった20数年間を思ったら、こんな痛みなどなんでもない。むしろ理沙には、目が見えるという信じられないほどの幸福を、何度何度も実感させてくれる嬉しい痛みなのだ。

 理沙が3歳の時、父が亡くなった。母は働きに出なければならず、幼い理沙の面倒は、7歳年上の姉・麻子が見ることとなった。
 理沙が4歳になったある日、その事故は起こった。
 その日麻子は、母に頼まれていた買い物へと出かけていた。いつもなら必ず理沙を一緒に連れて行くのだが、出かけに理沙が「出かけたくない! 家で遊びたい」と散々駄々をこねた。
 頭にきた麻子は、理沙を放ってひとりで家を出ていってしまった。
 置いていかれた理沙は無性に悲しくなり、ワーワーと泣き叫んで麻子を呼び、そこら中にあるものを投げ散らかした。
 おもちゃ、座布団、麻子のランドセルなど、手当たり次第に放り投げた。投げるものがなくなると、理沙はトコトコと洗面所に向かった。
 洗面台の下の戸を開けると、中にはさまざまなものが詰まっていた。シャンプーやリンスの買い置き、トイレットペーパー、洗濯洗剤。その他見たこともない色鮮やかな数々のボトル。
 理沙の手がその中の一本に触れた。キャップが緩んでいる液体のカビ取り剤だった。
 理沙は容器をギュッとつかむと、それを持ち上げた。途端中身の液体が勢いよく飛び出し、理沙の顔面を直撃した。見開いた目にも大量の液体がかかった。
 あっという間の出来事で、理沙には何が起こったのかわからなかった。ただ猛烈に痛いと思い、理沙はゴシゴシと目を擦った。 何万本もの針が目に刺さったような痛みが走り、瞼を開けることができない。まだたった4歳の理沙には、目を洗うという考えは浮ばなかった。麻子が帰ってきて、自分を助けてくれるのを待つしかなかったのだ。
 怖かった。理沙は今まで、これほどの恐怖を味わったことがなかった。どうすることもできない時間が、そして理沙の視力を奪うのに充分な時間が過ぎていった。

 買い物から戻ってきた麻子が目にしたのは、あまりの痛さと恐怖に気を失い、倒れ込んでいる理沙だった。
 夕暮れの日差しが入り込んだアパートに、麻子の理沙を呼ぶ悲鳴が響き渡った。

 適切な初期治療ができず、病院に行くのも遅すぎた。
 理沙の目の角膜は濁り、視力が極端に低下した。
 白目と黒目の境で、輪部と言われる部分にも障害が出ていた。そのため角膜移植すらできないと言われた。
 理沙の目は、医療技術の進歩で、輪部移植が可能になるまでの長い間、モノを見る能力をほとんど失っていたのだった。
posted by 夢野さくら at 14:34| Comment(0) | 14番目の月