2008年12月14日

11

 純也は全てを話し終え、黙り込んでひと言も口をはさもうとしなかった陽平を見つめた。
 あまりのショックで頭が混乱し、つかさや美鈴も口を開こうとしない。
 『紫頭巾』には、いまだかつてないほどの暗い緊張が張り詰めていた。

 陽平は純也の話を笑い飛ばそうとした。
 そんな話はバカげている。麻子がそんなことをするはずがないし、する必要もない。自分は麻子の彼であると同時に主治医でもある。なぜその自分が何も知らないのか? ありえない。その話は全て嘘か勘違いだ。そうだ、そうに決まっている。
 陽平は思いっきり笑おうとした。お腹を抱えて笑おうとした。しかし、笑おうとする口元は歪んでいくばかりで、微笑むことすらできない。陽平には思い当たることがあまりにも多すぎたのだ。
 麻子と付き合い出して3ヶ月、相変わらず麻子と外で会ったことはない。それどころか、部屋の中ですら、食事をしたことも、音楽を聴いたり映画を観たりといった、普通の恋人同士なら当たり前にすることを、今まで一切してこなかった。
 麻子は会った途端に服を脱ぎ捨て、セックスをせまる。麻子から漏れる『愛してる』という言葉を聞きたいがために、暖かい身体のぬくもりに触れたいがために、陽平は黙って麻子に従う。
 こんなことはいけないとわかっていた。麻子は病気だ。セックス依存症なのだ。
 陽平の頭はそう確信していた。だが心はその考えに霧をかけ、見ないようにしていた。
 ・・・それも終わりにしなければならない。これ以上こんな関係を続けていたら、麻子の病気はますます悪くなる一方だ。
 セックス依存症はそのひとつの症状、つまり今の麻子のように、知らない男とのセックスを繰り返すという行動を取り続けた場合、性病を患ったり、危険なことに巻き込まれる可能性が非常に高いのだ。だからどうしてもその前に止めさせなければならない。
 わかっている。わかり過ぎるほどわかっていながら、陽平の心は切ない悲鳴をあげていた。
 麻子の心が自分に向いていなくても、肌を合わせている時の麻子はあまりにも暖かく愛しかった。どんどん独りぼっちになっていく心と反比例して、身体はますます熱くなっていった。飽きることなく麻子を求め、むさぼった。こんな恋愛関係はおかしい、普通じゃないとわかっていながら、どうしても止めることができなかった。セックスを拒絶したら、麻子は自分の元を去っていくのではないか。それがどうしようもなく怖かった。
 なぜこんなことになってしまったんだろう。麻子はなぜ自分と付き合い始めたのか。麻子にとって、自分はいったいどんな存在なのだろうか。
 陽平はその答えを、どうしても麻子の口から聞きたかった。そして、絶対に聞きたくなかった・・・。

「先生・・・大丈夫ですか?」
 ジッと下を向いたまま黙り込んでいる陽平に、マルコがオズオズと声をかけた。
 陽平は、心配そうに彼を見つめる一同にぎこちない笑顔を見せると、医者としての態度を取り繕った。
「・・・大丈夫ですよ。心配しないで下さい。田島さん、話して頂いてよかったです。こちらで対処の方法を考えます。妹さんにはまだおっしゃらない方がいいでしょう」
「対処、ですか?」
 対処・・・それはいったい何をすることなのだろうかと純也は思った。
「詳しいことは申し上げられませんが、一刻も早くなんとかしなくてはと思っています」
「それは、お義姉さんが病気だということですか? いったい何の病気なんです?」
「・・・守秘義務というものがありますのでそれは言えません。野村さんと会って話をしなければ、私にも正確なところはわからないんです」
「でもお義姉さんは、今までずっと先生の診察を受けてたんですよね? なのになぜわからないんですか?」
 純也の純粋な疑問が、陽平にはまるで、自分を責めているように感じられた。
 そうだ。この人の言う通りだ。あれだけずっと麻子を診ていながら、自分はいったい何をしてきたのだろうか。
 麻子はあんなに眠ることを嫌がっていた。夢を見ることを怖がっていた。そこに大きなヒントがあったのではないか。麻子をそこまで追い込んだ原因はどこにあるのか。どうしてもっとちゃんと追求しなかったのだろう。それに、原因はどうあれ、自分は麻子がセックス依存症であることをとっくに気付いていたはずではないのか。セックス依存症患者にとって、セックスの衝動を抑えることが一番大事であるはずなのに、全く止めさせることができなかったばかりか、一緒になって溺れていった。どうしてあの時すぐに対処をしなかったのか。麻子が自分から離れていくかもしれないという恐ろしさに、その時一番しなければならなかったことから目を背けた。麻子の心がボロボロになるかもしれないのに、麻子の身体に危険が及ぶかもしれないのに、その全てに目を背け、自分が心地いいと感じることだけを選択した。自分には麻子を愛する資格も、ましてや主治医である資格などない・・・。
 陽平の心は、自分への絶望感に叫び出しそうだった。生まれて初めて、自分の心があげる、全てを切り裂くような悲鳴を聞いた。

 もしかしたら麻子は、こんな声を途切れることなく聞き続けていたのかもしれない・・・。
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2008年11月29日

10

「最初に噂を流したのが、うちの銀行の新宿支店に勤めてる、野村さんの同期の本永という人らしいんです」

 ある日、三友銀行新宿通り支店・法人営業部に所属している本永俊介は、融資相談のため、『新宿メトロプラザホテル』のロビーで人を待っていた。
 約束の時間まであと5分という頃、携帯電話が鳴り、融資先の社長が仕事の都合で遅れそうだと連絡を入れてきた。
 忙しいのにワザワザ呼び出しておいてと思いつつも、相手は新宿の老舗中華レストラン社長。業績好調で新店舗を出すことになった相手だ。三友銀行にとって、確実な資金融資先の機嫌を損ねるわけにもいかない。
「大丈夫ですよ。では19時半で。はい、お待ちしております」
 愛想よく言ったあと、電話を切り舌打ちをした。約束が1時間ほど伸びてしまった。いったん銀行に戻ろうか。それともどこかで食事でもして待っていようか。そんなことを考えながら、本永は何気なくロビーを眺めた。
 週半ばのホテルは、地方からの出張客や夕食を取ろうとする人でなかなかの混雑振りだった。
 本永はその中に、見覚えのある美しい横顔を見つけた。同期の野村麻子だ。
『なんであいつがここに?』と思いながら、本永はその服装に驚きの目を向けた。
 麻子は背中が大きく開き、身体にぴたりとあったピンクのミニドレスを着ていたのだ。一瞬麻子ではないのかと思った。それくらいいつもの彼女からは考えられない格好だった。
 
 本永ももちろんだが、麻子は同期入社の男性陣にとって羨望と嫉妬の的だった。
 モデル並みの美しい顔立ちに抜群のプロポーション。同期では1、2を争う出世頭。当然今まで、同期先輩後輩含め何人もの男が麻子にアプローチをした。しかし麻子は自分は誰とも付き合う気がないと、どんな男も全く寄せ付けなかった。
 あっさり引き下がるものもいれば、しつこく食い下がるものもいた。どうしてダメなんだ。俺の何が悪い。本当は好きなヤツでもいるんだろう。麻子がいくら違うと言っても、全く耳を貸そうとはしない。
 本永はしつこいグループの中でも、筆頭と言っていい存在だった。
 一流大学を出て、一流企業に就職し、容姿も人並み以上。当然自分に相当の自信を持っていた。
 入社すぐに麻子に目をつけ、あっさりと振られた。ムキになり、その後何度もアプローチを続けたがまるで相手にされなかった。
 本永のプライドはいたく傷ついた。そのうえ仕事でも麻子の役職は本永の上だったのだ。
 たぶん2年前の麻子の人事課長昇進時に流れた噂も本永が発信元なのだろうと思われた。

 麻子は本永の目の前を通り過ぎ、エレベーターホールへ向かった。
 盛んに爪を噛んでいるように見える口元は、真っ赤な口紅で彩られ、怯えたような目は落ち着きなく辺りを見回している。
 麻子はまるで本永に気づいてはいなかった。それを幸いに、本永は麻子のあとを追い、一緒にエレベーターに乗りこんだ・・・。

「私の彼の同期が新宿支店にいて、本永さんが噂を流してるっていうんです。まだ本店の方には来てないですけど、噂ってすぐに広まっちゃうし・・・」
 つかさは隣に立ちすくんでいる陽平を見て口をつぐんだが、代わりに美鈴があとを繋いだ。
「私たちは全然信じてないんです。だってその女の人、愛って名乗ってたらしいし。でも本永さんは絶対に野村さんだって言い張ってるんです。信じないなら本人に聞いてみろって」
 つかさは陽平を気にしつつ純也に言った。
「あの人野村さんに何度も振られてるから、腹いせに言ってるだけだと思います。すごくねちっこくて陰湿な人らしいし。ただ・・・噂になってることは事実だから、嘘なら嘘でハッキリしないと野村さんが困るだろうって思うんです。仕事だってやりにくくなるだろうし。だから・・・これって嘘なんですよね? 田島さんがさっきおっしゃってた噂って、このことなんですか?」
 純也はしばらく言い難そうに黙っていた。オカマたちも心配そうに純也と陽平を交互に見つめる。
 ここまで来たら陽平に黙っているわけにはいかないとサツキは思った。噂は会社にまで広がっている。知らないですむ段階ではない。
 サツキは純也の目を見つめると、黙ってひとつうなずいた。
「実は・・・」
 純也は意を決し、陽平にことの次第を話し始めた。
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9

「みなさん、いったい何の話をしているんです?」
「先生! ・・・つかさちゃんに美鈴ちゃんまで・・・」
「えっと・・・来ちゃ、まずかった?」
 洋平のうしろから顔を出したつかさと美鈴は、オカマたちの動揺振りに戸惑った。
 ママたちは何を話していたのだろう。やはり臨時休業とあったのを無視して入ってきたのはまずかったのだろうか。

 つかさたちは今日、久しぶりのショッピングで新宿に来ていた。夕飯を食べたあと、最近あまり顔を出してなかった『紫頭巾』に行こうと話がまとまった。店がある路地に入っていくと、『新宿メンタルクリニック』のビルから、メチャクチャ二枚目の男性が出てきた。2人は思わず顔を見合わせ、あれはクリニックの陽平先生に違いない! と見当を付けた。
 サツキママの話では、野村さんと先生は付き合い出したという。でも野村さんにそんな素振りは全然ないし、本当かどうかは怪しい。仮に本当であったとしても、いい男であることに違いはないし、ママたちも喜ぶから連れてっちゃおう! そう思い、つかさと美鈴は陽平を無理矢理店に誘ったのだった。
 よく見ると、『紫頭巾』入り口に看板が出ていない。定休日でもないのにおかしいなぁと思いつつそのまま階段を降りると、店のドアには臨時休業の札がかかっていた。
 ガラスがはまったドアから目を凝らして店内を覗いてみると、店の奥でオカマたち4人と見慣れない男性1人が話し込んでいた。
「静かに入ってびっくりさせましょうよ」
 つかさはニヤッと微笑みつつ、人差し指を唇にあててそう言った。美鈴は親指と人差し指で丸を作り、楽しそうにクスクスと笑う。陽平は苦笑いを浮かべながらも、黙って2人に従った。
 そっと音の出ないようにドアノブを回してみる。鍵はかかっていない。静かにドアを開け、気付かれないよう注意をしつつ身を屈めて店内に入る。
 すると3人の耳に、今まで一度として聞いたことのない、重々しいサツキの声が飛び込んできた。
「・・・よく考えて。あたしたちは野村さんをよく知らない。でも彼女は先生が選んだ人なのよ。その人が、バカみたいに勝手な事情で、噂になるまで辻褄が合わない行動を取るかしら?」
 3人は驚き、顔を見合わせた。
 店内には、麻子に何か大変なことが起こったのだと思わせる雰囲気が漂っている。思わず声を上げそうになる陽平に向かい、つかさは再び人差し指を唇にあててみせた。
「もしかしたら一番かわいそうなのは、先生でもなく理沙さんでもない。野村さんかもしれないでしょ?」
 陽平は急に嫉妬と苛立ちを覚えた。
 あの見慣れない男はいったい誰なんだ。なぜ彼らが、僕の知らない麻子のことを話し合っているのか。あいつは麻子の何だというんだ。
 陽平は我慢ができずに立ち上がった。
「麻子がかわいそうというのは、どういうことですか?」
 軽い怒りを含んだその言い方に、オカマたちも驚いただろうがつかさと美鈴も驚いた。
 うわっ・・・先生怒ってる・・・。
 そのまましゃがんでいるわけにもいかず、2人もそろそろと立ち上がった。
「えっと・・・来ちゃ、まずかった?」
 陽平が少し苛立ったようにサツキに言った。
「その男性はいったい誰なんです? どうして僕がかわいそうなんですか。辻褄が合わないことってなんですか? ・・・答えてくれませんか、サツキさん」
 なんと言ったらいいのだろうかとサツキは答えに窮していると、「岩田先生ですね?」と、純也が陽平に声を掛けた。純也には、オカマたちの狼狽ぶりを見て、店に入ってきたのが麻子の彼・岩田陽平だとわかったのだ。
「僕は麻子さんの妹、野村理沙の婚約者です。田島純也といいます。はじめまして」
「理沙ちゃんの?」
「はい。お姉さんからお聞きなってませんか? 再来月結婚式があるって」
「それは・・・聞いています。おめでとう・・・ございます」
「・・・ありがとうございます」
 まさか理沙ちゃんの婚約者だったとは・・・と、陽平の戸惑いと混乱は頂点に達しそうだった。
 どうして理沙ちゃんの婚約者が『紫頭巾』にいるのだろうか。しかも話していたのは理沙ちゃんではなく麻子の話をだったはずだ。いったいどうして・・・?

「あの・・・田島さん、でしたっけ。私野村さんの部下で、浅倉美鈴といいます。彼女は後輩の」
「川崎つかさです。はじめまして。・・・噂っていうのはもしかして、あの噂・・・ですか?」
「ご存知なんですか?」
 つかさは一瞬陽平を見て躊躇したが、そのままポツポツと話し始めた。
「えっと、本当かどうかは全然わかんないし、私たちは嘘だって思ってます。ありえないと思うし。ただ・・・最近ちょっと会社で噂になってて・・・」
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8

 その日・・・夜8時の『紫頭巾』。
 純也は店の一番奥まった席に座り、オカマたちに昨日の出来事の全てを話して聞かせた。
 誰ひとり口を開くことができず、臨時休業中の店内はしんと静まり返っていた。

「ママ、先生に知らせるべきじゃない?」
 沈黙に耐え切れなくなったリリィがサツキを急かすようにそう言った。
 マルコもリリィに賛成の意を示し、大きく何度もうなずいている。
「まだ先生はクリニックにいると思うの。だから今から先生に」
「リリィちゃん、ちょっと黙っててちょうだい」
「だってママ!」
 今すぐにでも立ち上がり店を出て行きたい様子のリリィを止め、サツキはひと言ひと言言葉を選ぶように純也に話しかけた。
「田島さんでしたわね。話はよくわかりました。で、あなたはどうしたいと思っているのかしら? あなたの考えを聞かせてくれない?」
 どうと言われても、純也には具体的なことは何も浮かばない。麻子に付き合っている人がいるということも今初めて知ったばかりなのだ。ただ理沙に、このことをそのままを伝えることはできないと思った。
「・・・僕にはよく分からないんです。なぜお姉さんは付き合っている人がいるのに、あんなことを繰り返すのか。そして、どうして理沙をここまで避けるのか。僕はその理由が知りたいんです。もし原因が昨日のお姉さんの行動にあるのだとしたら、今すぐにでも止めてもらいたい。じゃなきゃ理沙がかわいそうです」
「そう・・・でもそれは難しいかもしれないわね」
「難しい?」
「ええ・・・」
 サツキはひとり考え込んだ。ダンボもマルコも心配そうにサツキを見つめている。
 リリィは、なぜママはすぐにでも陽平のところへ行かないのかといぶかしんでいた。
 そりゃあもちろんはじめはショックを受けるだろうし、すぐには信じないかもしれない。でもこのまま放っておくなんてできるわけがない。もちろん理沙さんもかわいそうだけど、先生の方がもっともっとかわいそうじゃないの・・・。
「ママ! なんで黙ってるの? どうして先生のところに行かないのよ。ねぇママったら」
「リリィ! 静かにしなさい」
 サツキの考えを邪魔しないようにと、ダンボがリリィを叱った。
 サツキはリリィの顔を見つめ、疲れたような笑みを浮かべた。
「リリィちゃんの言いたいことはよくわかるわ。でもね、これはあたしたちが口を出すことじゃないの」
「そんな! じゃあ黙ってみてろってこと? そんなの先生がかわいそうじゃないの」
「かわいそうかどうかは先生が決めることよ」
 リリィはサツキの顔をジッと見つめ、勢いよく立ち上がった。
「ママの考えはわかったわ。でもあたしはこのままにはできない。今から行ってくる」
「待ちなさい! 行っちゃダメよ」
「どうしてよ!」
 リリィはあまりのじれったさにサツキに向かって声を荒げた。
なぜ行ってはいけないのか。意味がわからない。あんなに先生のことが好きだったのに、彼女ができればもう関係がないというのか。
 かんしゃくを起こしそうなリリィに、サツキは強い口調で言った。
「あなただって事情も知らない他人に、『お前の彼氏はお前がいるにも関わらず、外で女を抱きまくってるぞ』なんて言われたらイヤでしょ! 違う?」
「事情なら知ってるわ! そのために田島さんを呼んだんじゃないの!」
「野村さんの行動は辻褄が合わない、変だって言ったのはあなたでしょ、リリィちゃん! それでも事情を知ってるって言えるの?」
 サツキの言葉にリリィはグッと言葉を飲み込んだ。
 サツキは自分を見つめるみんなの顔をゆっくりと見回し、ひとりひとりに言い聞かせるよう話をした。
「物事にはね、全てに原因があるの。事情を知ってるっていうのは、その全てをわかってる人だけが言っていいの。一見周囲が眉をひそめて、一番大事な人の信頼を裏切るような行動にも、必ず原因がある。もちろんそれは、呆れるような理由の場合もあるわ。でもね、野村さんの場合はどうなのかしら。・・・よく考えて。あたしたちは野村さんをよく知らない。でも彼女は先生が選んだ人なのよ。その人がバカみたいに勝手な事情で、噂になるまで辻褄が合わない行動を取るかしら?」
 サツキはもう一度みんなを見回し、自分の言いたいことが伝わったのかどうかを確かめた。
「いい? 一概に先生がかわいそうなんて、あたしたちが決めてはいけないの。その原因がハッキリした時に、先生自身が決めることなの。もしかしたら一番かわいそうなのは、先生でもなければ理沙さんでもない。野村さんかもしれないでしょ?」
 純也はしばらく考えたあと、静かに口を開いた。
「でも、お姉さんのことが噂になっているのは事実です。僕はこのまま放っておくことはできません」
 サツキは純也に、自分の考えを話すために口を開こうとしたまさにその時、「麻子がかわいそうというのはどういうことですか?」と、微妙に怒りをはらんだ低い声がした。
 オカマたちと純也が声の方へ顔を向けると、どこから話を聞いていたのか、いつの間にか陽平が店の入り口に立っていた。
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2008年11月02日

7

 もう金曜の夜とは言わず、土曜の早朝と言った方がいい午前4時半過ぎ。
 純也と里山は、リリィに『紫頭巾』に連れて来られた。
 飲みすぎて店に泊まることもあるので、鍵はオカマたち全員が持っている。
 ここなら誰の邪魔も入らず里ちゃんと2人っきりになれるわ! と、リリィは早く純也との話を終わらせたい一心で、「あたしに話って何?」と純也に尋ねる。
「さっきリリィさん、ピンクの服を着た女の人のこと、野村さんって呼んでましたね」
 純也からどんな話が飛び出すのかはほとんどどうでもいいと思っていたリリィだったが、まさか麻子の話が出てくるとは思わなかった。
「えっ・・・ええ。言ったわよ」
「ピンクの服って、もしかして愛のことが?」
 里山がリリィに尋ねた。
「愛?」
「んだ。いづもピンクの背中の開いだ服着てる女だべ。そろそろ『メトロプラザホテル』から出入り禁止にされそうだって噂だ。苗字は野村っていうのか・・・」
 里山の言葉に、純也はショックを隠せずにうなだれた。
「そうです。その人です。やっぱり噂になってたんですね・・・」
「まぁな・・・。ここらでも立ちんぼはいるどもよ、あの女は金は一切取らないらしいんだ。しかもあれだけの美人だべ。最初はホテル側も見て見ぬ振りしてたんだ。売春でもねぇしな。でも『メトロプラザ』はラブホテルじゃねぇべ? あそこのバーラウンジに行げば、ピンクの服着ためっちゃくちゃキレイな女とやれるなんて噂になってみれ。商売柄まずいべ」

 里山は歌舞伎町の顔役といった役割をしている。その関係で歌舞伎町界隈で起こっていることは、ほとんどの事情を把握しているようだ。
「ちょっと待ってよ里ちゃん。その人愛っていうんでしょ? あたしが知ってるのは、野村麻子っていう人よ。愛じゃないわ。違う人じゃないの?」
「いえ。その愛って名乗っている人が野村麻子だと思います。たぶん間違いありません」
 里山の、金は取っていないという言葉に少しだけ安心した純也は、戸惑うリリィにキッパリと言った。
「あんたはいったい誰なのよ。何で野村さんのこと知ってるの? 野村さんはね、三友銀行の人事課長さんなのよ。そんなバカなことするわけないじゃないの」
 この目の前の男は、いったい何を言っているのだろうとリリィは思った。
 麻子には陽平というれっきとした彼氏がいる。お金に困ってというならまだしも、金を一切もらってないのだとしたら、そんなことをする理由などどこにあるというのか。里山と田島と名乗る男は、いったい何を言っているのだろう。
「僕は・・・僕は野村麻子の妹、野村理沙の婚約者です」
 麻子の妹の婚約者。
 思いもかけない純也の言葉に、リリィはまさに呆然自失状態。
 野村さんには妹がいたのか・・・リリィの混乱した頭は、そんなどうでもいいはずのことばかりがよぎっていた。
「今日お姉さんにお会いしようと思って家へ行きました。そのあとホテルに急ぐお姉さんを車で追いかけて、バーラウンジに行ったんです・・・」
 純也はショックの連続だった今日一日を、できるだけ簡潔にわかりやすく話そうと努めた。
 説明を聞きながら、リリィはふと、先生はこのことを知っているのだろうかと考えた。
 イヤ、知ってるわけはない。知っていながら放っておくはずがないではないか。だとすると・・・。
 リリィの頭の中から、今日里山を自分のものに! という考えは、いつの間に消えていた。
 はっきりいってそれどころではない。とにかくこの話をママたちに相談しなくてはならない。このままでは先生がかわいそうすぎるし、先生を麻子に取られたオカマたちの面子が立たないではないか。

「ねぇ、田島さん。明日の夜、じゃなくて今日の夜だけど、またここに来れない? お願い、来てほしいの。ダメ?」
「でも・・・何のために?」
「あなたもこの状況をどうにかしたいと思ってるんでしょ? だから野村さんのあとを付けたりしたんでしょ? だったらあたしの仲間にこの話をして。これは占い師の勘なんだけど、なんか野村さんの行動は辻褄が合わない気がするの。どこがどうって言われると困るけど、でもなんか変! 絶対普通じゃない。そう思わない?」
 純也には、状況をよくすることと、再びここに来ることがなぜ繋がるのかはわからなった。
 ただリリィの必死な目と、辻褄が合わないという言葉に引っかかりを覚えた。急に理沙を無視するようになったのも、噂になるまでこんなことを繰り返すのも、理沙から聞いていた麻子の印象とまるで違うのだ。
「田島さん、お願い!」
 リリィのモヒカンが揺れ、純也はコクンとうなずいた。
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2008年10月27日

6

 新宿歌舞伎町の深夜3時過ぎ。
 とぼとぼと当てもなく歩く純也の耳には、真夜中の喧騒も届かない。
 学生と思われる男女6、7人のグループが、コマ劇場前の広場で花火をしていた。キャッキャッという楽しそうな声が小さく聞こえる。
 純也はそちらにぼんやりとした視線を送ったが、再び当てもなくとぼとぼと歩き始めた。
 コマ劇場、東宝会館と通り過ぎ、そのままなんとはなしに右に曲がると、目の前に5人ほどの短い行列ができていた。
 並んでいるのは全て若い女性ばかり。しかも全員、一見して水商売だとわかる、露出の激しい身体のラインを際立たせるきらびやかな服を着ていた。
 なんだろうと純也が近づくと、列の先頭に見事な紫のモヒカン頭が揺れていた。
 小さな簡易テーブルの上には水晶玉があり、占い屋なのだということがわかる。深夜なのにも関わらず、人が並ぶというのがすごい。繁盛しているんだなぁと、純也は単純に感心した。
 占い師はリリィという名前らしい。机の後ろに小さなノボリが立っていて、『歌舞伎町のモヒカンオカマ・リリィの恋愛占い』と書かれていた。
 オカマのリリィは、物凄く威厳がありそうな顔つきで、真剣に占いをしている。もちろん占ってもらっている方も真剣そのものだ。
純也はなんとなく興味を引かれ、道の反対側からその様子を眺めていた。
 1人目が終了し、お客がリリィの手を握り締め、お礼を言って去って行く。長らく待たされた2人目がうれしそうに席に着くと、ふとリリィの視線が客の肩を通り越し、通りの向こう側を見つめた。眉間にしわを寄せ、あれ? といった表情を見せる。
 道の向こうに誰か知り合いでも見つけたのだろうか。客もなんだろうと後ろを振り向くので、純也もそれにつられ、通りの奥を見つめた。
 10メートルほど遠くに、ピンク色の服を着た女が見える。
「野村さん?」
 リリィがハッとしたような声で言った。
 ピンクの女はその声に気付かない。リリィはもう一度大きな声で呼んだ。
「野村さんでしょ?!」
 一瞬立ち止まった女は、チラッとだけこちらを見ると、逃げるように消え去った。
 間違いない、あれは麻子だ。
 このモヒカンオカマの占い師は、なぜ麻子のことを知っているのだろうか。やはりここらで噂になっているというのは本当だったのか。
 純也の心から、さっきまでの投げやりな気持ちは消えていた。しかし反対に、どうしようもないほどの悔しさこみ上げてきた。
あんまりだと思った。これじゃあ理沙があまりにもかわいそうじゃないか。
 彼女はいつも、見えない目をキラキラと輝かせ、麻子のことを語っていた。見えるようになったら、いつかきっとお姉ちゃんのようになりたいと、心の底から願っていた。
 あれが理沙がなりたかった理想なのか? あんな姉を見るために、理沙は危険を犯して大手術を受けたのか?
 違う! 絶対に違う! あんな麻子を見るために、理沙は手術を受けたんじゃない!

「クッソ!」
 いつの間にか純也はそうつぶやいていた。頭を抱え、小石を店のシャッターに向かって蹴り飛ばす。
「クッソ! クソォ!」
 つぶやきは次第に大きくなっていった。占いの列に並ぶ女たちは、危ない人を見る目付きで純也を遠巻きにしている。
「兄ちゃん、どうした?」
 一人の男が、地面にうずくまる純也の肩をトントンと叩いた。
 肩を叩かれ顔を上げると、目の前にThe・クラシカルヤクザといったパンチパーマが立っていた。
 リリィの憧れの男・里山仁平。歌舞伎町の用心棒で山崎会系暴力団仁科組の若頭だ。
 里山は純也の腕をガッチリつかんで立たせると、出身地・秋田の方言がなかなか抜けない独特のイントネーションで言った。
「気持ち悪りぃのか? ここさいると迷惑がかかるから、ちょこっとこっちさ来ねか?」
 純也には自分に降りかかった状況が飲み込めてない。ただただ、リリィに話を聞かなくては! とそれだけを思っていた。
「あの・・・すみません。えっと・・・あの人と話がしたいんです。迷惑はかけません。本当です。あとでも全然構いません。待ちます。お願いです。話をさせてください」
 遠巻きにしていた危なげな男から、突然の指名を受けたリリィ。こちらも純也に負けず劣らず状況が飲み込めない。
 里山に、里ちゃん! あたしどうすれば? と視線を送る。
「お願いです! 本当にご迷惑はおかけしませんから!」
 純也は必死に頼みこむ。
 里山は、純也が酒に酔っているわけではないことを確認し、「じゃリリィ、話っこくれぇ聞いてやれ。俺も一緒にいてやっから」と渋く言った。
 リリィはしぶしぶといった感じでうなずいたが、心の中では、『あたし、里ちゃんと今夜一晩一緒にいられるのねぇ!』との期待感ではちきれんばかりだった。
「いいわ。占いは4時頃終るからそれまで待てる?」
「大丈夫です」
 陽平をGET出来なくなった今、やはりあたしには里ちゃんしかいない!
 リリィは今夜里山を自分のものにする決意を固めた。
posted by 夢野さくら at 17:58| Comment(0) | 14番目の月

2008年10月19日

5

 薄暗い明かりが煌く『新宿メトロプラザホテル』のバーラウンジ。
 壁一面に作られた窓からは、新宿新都心の夜景が美しい。
 夜の10時半を回ったラウンジは、スローテンポの昔懐かしい音楽が流れ、金曜の夜ということもあって、たくさんの人々が酒と会話を楽しんでいた。
 純也は、お一人様ですか? と聞くボーイに「待ち合わせをしてるんで、一周見て回っていいですか?」と尋ねた。
 ボーイはニコッと微笑んで、どうぞとばかりにラウンジ内に手を向けた。
 ラウンジはワンフロアを使った広々とした空間で、純也は麻子を見落とさないよう、慎重にフロアを回った。
 ほとんどを見て回り、やっぱり気のせいだったのだとホッと胸を撫で下ろした時、太い柱の影から濃いピンク色の肩が見えた。
 やはり麻子だった。あの横顔には確かに見覚えがある。たったひとりでカクテルを飲んでいるように見えるが、誰かと待ち合わせをしているのか。
 フロントの女性たちは、麻子がここらで噂になっていると言っていた。しかし麻子がいくら美人だからといって、誰かと頻繁に待ち合わせたくらいで噂になるはずはない。
 声をかけてみようか、でも・・・。
 純也が戸惑いと躊躇の中にいる時、純也の脇をひとりの男が横切り、麻子に向かって歩いて行った。
 茶系の細身のスーツを着た、30代後半に見える背の高い男だ。
「あの・・・おひとり、ですよね?」
 男の声に麻子は振り向き、妖艶に、そして誘うような微笑みを見せた。
 男は満足げにうなずき、「ご一緒してもよろしいですか?」と、断られるはずがないといった確信のありげな口調で言った。
「ええ、どうぞ」
 麻子が、当然のように隣のスツールを指した。
 初対面の男とグラスを傾けながら、麻子の目は誘うように男を見つめている。
 今ここで行われていることは現実なんだろうか。自分はいったいどうすればいいのだろう。出て行って声をかけるべきか。それとも傍観しているべきなのか。
 純也は混乱した頭で、ただただ呆然と麻子を見つめていた。
 グラスに残る美しいピンク色の液体が、シャンデリアの明かりを受けて煌く。麻子はその美しさなど何も感じていないようにグッと飲み干すと、テーブルの上に置かれた男の手をそっと握った。それが合図であるとばかりに麻子と男はスツールから立ち上がると、出口に向かって歩きはじめた。
 純也は気づかれないような距離感を保ちながら麻子のあとを追った。麻子と男だけを乗せたエレベーターが下へと降りていく。
エレベーターの回数表示が23で止まった。・・・宿泊者専用フロアだ。
 バーラウンジから出てきた男が、呆然と立ちすくむ純也を尻目にエレベーターを呼んだ。すぐに麻子たちを乗せていた箱がスルスルと上がってきて、純也の目の前で大きく口を開けた。
 エレベーターは当然のように空だった。
 間違いない。間違えようがない。
 想像すらしえなかった状況に、純也はただただ呆然とするしかなかった。
「乗らないんですか?」
 バーラウンジから出てきた男がエレベーター内から純也に声をかける。
「えっ? ああ・・・」
 何がなんだか分からないまま、純也はエレベーターに乗り込みフロントへと降りていく。エレベーターホールを見渡せるソファに座り、純也は乗り降りする客たちをぼんやりと見つめていた。

 何時間が過ぎたのだろうか。いつの間にか純也は疲れてうたた寝をしていたらしい。軽く肩を揺すられハッと目を覚ますと、目の前に、いい加減にして下さいとばかりに純也を見下ろすフロントマンが立っていた。
「お客様、このような場所で眠られますと困るのですが。お客様?」
「すいません・・・ウトウトしちゃって。もう帰りますから」
 時計を見ると、午前3時を回っていた。あれから5時間近くが経つ。麻子はまだこのホテルにいるのだろうか。それとも自分がうたた寝をしている間に帰ってしまったか。
 ・・・もういい。もう帰ろう。自分がこのままここにいることには、何の意味もない。
 純也はゆっくりとフロントを通りすぎ、正面玄関から表に出た。
 外はホテルのロビーよりも明るかった。目の前には、歌舞伎町は夜がない街なのだと実感させる光景が広がっている。深夜3時過ぎだというのにまだまだたくさんの人が溢れ、ザワザワとした空気が辺りを染めていた。
 あれっ? と純也は思った。車がないのだ。確かに停めたと記憶している場所には車の陰も形もなく、代わりにチョークで、車のナンバーと『レッカー移動 新宿警察署』とあり、電話番号が書かれていた。
 なんなんだよもう!
 純也は当たる相手のない苛立ちに、転がっていた空き缶を蹴り飛ばした。
 時間は午前3時を過ぎ、車もなく、当然電車は動いていない。
 純也は突然、全てのことがどうでもよくなった。
 麻子がホテルで何をしていようといいじゃないか。自分には関係ないし、例え全ての状況がわかったところで、こんなこと理沙に説明できるわけがない。そうだ、もう止めよう。こんなこと、やるだけ無駄だったのだ・・・。
 純也はがっくりと肩を落とし、当てもなく新宿コマ劇場方面に向かって歩き出した。
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2008年10月10日

4

 金曜の夕方、仕事を終えた田島純也は、三友銀行本店人事部に電話入れた。
 麻子はまだ残業をしているようだ。少々お待ちくださいという女性の声のあと、保留メロディーが流れた。

 純也と野村理沙との結婚式が再来月に迫っている。
 諸々の準備も順調に進み、案内状を出したほとんどの招待客から出席の返事が来た。しかしまだ、麻子からの返事はない。
 返事どころか、メール一通、電話一本来ないと、理沙がため息混じりにつぶやいていた。
 最近理沙はあまり食欲がない。この数ヶ月でかなり痩せてしまったようだ。
 なぜ麻子は、ここまで徹底的に理沙を無視するのだろう。
なぜなんだ。いったい何が気に入らないんだという怒りが、純也の中に湧き出していた。
 直接会って話がしたい。自分のことが気に入らないのならそう言ってほしい。何をしても無視される理沙の辛さをわかってもらいたい。もしそれでもダメなら、その時は仕方がない。理沙にきちんと話をして、もう麻子のことは忘れるように言おう。
 そう決意を固めた純也の耳に、先ほどの女性の声が聞こえた。
「お待たせして申し訳ございません。野村は今、他の電話に出ております。こちらからおかけ直しいたしますので、ご連絡先をお願いいたします」
「えっと・・・じゃあ結構です。またかけます」
 教えたところでかけてくるわけがない。純也は苦々しくそう思い、電話を切った。

 夜9時過ぎ、純也は直接麻子の家へ行こうと車を走らせていた。
まだ帰っていないようなら帰るまで待つつもりだ。
 明治通り沿いの麻子のマンションは、こ洒落たエントランスを構える瀟洒な建物だ。

 理沙の目が見えるようになってから、純也は何度も理沙をドライブに連れ出した。今まで見えなかった分を取り戻してやりたいと思っていた。
 そんなある日、理沙が突然お姉ちゃんのところに行きたいと言った。もちろん純也に、それを拒む理由などどこにもない。楽しそうな様子の理沙を乗せ、混雑した明治通りを走った。
 麻子の家が近づくにつれ、なぜか徐々に理沙の口数が少なくなり、顔から笑みが消えていった。
 純也はそれを不思議に思いながら、明治通り沿いに車を止めた。
「どうかしたの?」
「なんでもない。この名前のマンション、どれだかわかる?」
 理沙から渡された紙には、麻子の住むマンション名と部屋番号、住所が書かれていた。
 純也はその付近にある3軒のマンションを見て回った。
「理沙、あのマンションだよ。たぶん5階の左から3番目だと思う。見える?」
「うん、見える。ありがとう純也さん。どんなところか一度でいいから見てみたかったの」
 すでに麻子と連絡が取れなくなって、3ヶ月以上が経っていた。一応部屋まで行ってみようという純也に、理沙は寂しそうな笑顔を向けた。
「ううん、いいの。もう充分。突然行ったらお姉ちゃんに迷惑だと思うし」
 姉妹なんだからそこまで気を遣う必要はないんじゃないかと純也は思った。しかし目を伏せてため息を吐く理沙に、それを言うことはできなかった。

 9時半を少し回った頃、純也は麻子のマンションに到着した。
建物が見渡せる場所に車を止めると、麻子の部屋に目を向ける。
 窓には明かりが点り、レースのカーテン越しに柔らかな光を放っていた。
 純也は車を降り、急いで麻子の部屋へと向かった。
 マンションまであと数メートルと近づいた時、玄関ホールからひとりの女が出てきた。
 肩にかかる栗色の巻き毛。すらっとしたモデルばりの長身。ゾクッとするほどなまめかしい白い背中は、それを傲然と見せ付けるように深く開き、全体に細いプリーツ加工が施してあるピンクのミニワンピースを身に着けていた。
 お義姉さん? イヤ、まさかそんなはずは・・・。
 純也が声をかけるのをためらっていると、麻子と思われる女は、慣れた手つきでタクシーを止め、純也の前から消えようとしていた。
 一瞬の躊躇のあと、純也は急いで車に戻り、女が乗ったタクシーのあとを追いかけ始めた。

 麻子と思われる女は、新宿歌舞伎町近くにある、『新宿メトロプラザホテル』の正面玄関前でタクシーを降りた。
まっすぐにフロントを抜け、エレベーターホールに向かっていくのが見える。
 純也も路上に車を停め、慌ててあとを追った。
 ホテル・・・。ここに来るということは、誰かと待ち合わせでもしているのだろうか。
 あんな派手な服を着て会う相手とはいったい誰なんだろう・・・。
 誰でもいいか。そんなことは自分には関係ない。もし恋人にでも会うというのなら、今日麻子と話をするのは無理だ。
 肩から一気に力が抜けて、純也はフロントにごく近いソファに腰を下ろした。
 もう帰ろうか。いつまでも路上に車を停めておくわけにもいかない。
 今日一日の苦労が全て徒労に終ったのだ思い、純也が深いため息をついて立ち上がろうとした時、フロントから、軽蔑が色濃く混じる女性2人のささやきが聞こえた。
「また来たのね、あの人。今日も同じピンクのワンピ。まるで制服みたい」
「いつもながらあの背中はすごいわね。まさにパックリって感じ。キレイだからまだ見れるけど、どう考えても私は着られない」
 これはもしかして、麻子のことを言っているのだろうか。
「バーラウンジじゃ困ってるんだって。ここらで噂になってるらしいし」
「本当に? それマズイじゃない。うちはラブホテルじゃないんだから」
 バーラウンジ? ラブホテル? いったいどういうことだろう。噂になってるって?
 イヤな予感が、急速に純也の胸にこみ上げてきた。
 バーラウンジに行ってみようか。麻子がいなければ戻ってくればいい。でもいたら・・・。その時はその時だ。ここまで来たんだ。とにかく行ってみよう。
 純也は重い足を引きずり、エレベーターホールに向かっていった。
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2008年10月03日

3

 陽平が診察室へと戻ってから数十分後、なんとかオカマたちは石像から人間へと戻った。
 由紀はソファに座り、淹れ直したハーブティーを美味しそうに飲んでいる。
 思いっきりくつろいだ様子の由紀を、ダンボはギロッと睨み付けた。
「今の何よ!」
「え〜〜〜。何のことですかぁ?」
「何じゃないわよ! 今先生、野村さんのこと麻子って呼び捨てにしたじゃないの」
「あら、気付きました?」
 そうすっとぼける由紀に、ダンボの血管は切れそうだ。
「気付かないわけないじゃないの! いったいどういうことなのか説明しなさいよ!」
「いいんですかぁ? 本当に言っちゃっても。あの2人の雰囲気を見れば、言わなくてもわかるんじゃないですか? うちメンタルクリニックなんで、ショックで息が止まっても治療できませんよ」
 マルコが地を這うような低い声で、恨めしそうに由紀に言った。
「・・・あんたもしかして、あの先生と野村さんを見せつけるために、わざとあたしたちを招き入れたってわけ?」
 由紀はニコッと小首を傾げて微笑むと、茶目っ気たっぷりに答えた。
「あら、それもわかっちゃいました?」
「キーっ! やっぱり罠だったんだわ!」
 マルコが地団太を踏んで悔しがる。
 由紀は満足げにソファから立ち上がると、コホンとひとつ咳払いをして言った。
「え〜みなさんよろしいですか? 先生と野村さんはああいうことになりましたので、これからは玄関の鍵も開けておくことにしました。もし先生をご覧になりたいならいつでもどうぞ。ただし、野村さんがいらっしゃることも多いので、2人のツーショットをご覧になりたくなければ、あまり頻繁にいらっしゃらない方がよろしいかもしれませんね」
 由紀はキーキーとわめきたてるオカマたちを尻目にゆっくりとソファに座り直すと、美味しそうにハーブティーを啜り、満足げなため息を吐いた。

 陽平は、麻子が帰った診察室に、たったひとりで立っていた。
 診察用のソファには、まだ麻子の温もりが残っている。陽平はその暖かさに手をかざし、大きなため息を吐いた。
 麻子と陽平が付き合い出して2ヶ月が経っていた。
 本来なら一番楽しい時期のはずなのに、陽平はとても疲れていた。たった2ヶ月で5歳も年を重ねてしまった気がするほどだ。
 麻子が帰ったあとは、いつでも猛烈な疲労感が押し寄せる。空しく切なく、どうしようもないほど胸が痛い。
 2人は会うと必ず肌を重ねる。麻子が望むからだ。しかしどんなに激しいセックスをしようとも、陽平はいつも麻子とひとつになれないもどかしさを感じていた。
 麻子の身体は開いていても、心は堅く閉じていると思えて仕方がない。
 そう感じてからというもの、陽平のむなしさは、麻子と会えば会うほど、肌を重ねれば重ねるほどより一層強くなっていった。
 麻子を心から愛している。その想いはますます強くなる一方なのに、陽平の「愛している」と言う言葉は、いつもむなしく空回りしていた。
 麻子は一度として、昼間屋外で会うことを承知しない。食事をしようと誘っても、映画を観ないかと言っても、いつも忙しいと断わられる。しかしそんな日にも、夜中に突然訪ねてきてセックスをせがむのだ。麻子から愛しているという言葉が聞けるのはその時だけだ。
 愛してるから私を抱いて。愛しているから早く。岩田君が欲しいの。もっともっと欲しい。
 麻子にそう言われれば、陽平には拒む手立てがない。
 でももう陽平は、麻子を抱きながら独りぼっちになりたくなかった・・・。

 麻子と肌を重ねるようになってから、陽平の頭にはあるひとつの病名が浮んでいた。それは否定しても否定しても湧き出してとめることができない。
 陽平には、まだその病気を患った患者を実際に診察したことがない。そしてそれを、自分への言い訳に使っていることも分かっている。
 もし本当にそうであるなら、麻子は一刻も早く治療を受けなければならない。その病気を多く扱う、専門の医療機関へ連れて行った方がいいかもしれない。しかし・・・。
 陽平は、自分が医者としてしなければならないことを充分に理解していた。理解していながら、男としての自分がその行動を阻止し、考えさせないようにしていた。
 一日一日が空しくあっという間に過ぎていく。毎日毎日麻子からの連絡を待ちながら、陽平は自分自身への嫌悪感に苛(さいな)まれていた。
posted by 夢野さくら at 16:36| Comment(0) | 14番目の月

2008年09月28日

2

 オカマたちは、由紀の罠かもしれない誘いに乗り、『新宿メンタルクリニック』の待合室に集まった。
 3ヶ月ぶりに陽平に会えるのだという期待で全員の胸ははちきれそう。
 一同身だしなみに気を遣い、メイクも怠りなく万全の体制。約3ヶ月ほど漂っていなかったオカマ臭が、今また待合室中に充満していた。
 由紀はそんなオカマたちを、なぜか楽しげに見つめていた。
 オカマたちはそんな由紀に気付くと、油断は禁物とばかり落ち着かなげにキョロキョロと周囲を見渡したり、物音に気を配ったりしていた。
 耳を済ませたオカマたちに、トントンと階段を降りる軽やかな足音が聞こえてきた。
 いよいよ先生が登場するのねぇ! という緊張と感激で、オカマたちは一斉に階段を振り返った。
「サツキさん? あら、みなさんお揃いだったんですね。お久しぶりです」
 階段を降りてきたのは、たった今診察を終えたばかりの麻子だった。
 顔がほんのり上気していて血色がいい。
 2ヶ月ほど前、つかさたちから聞いた麻子とはまるで違って見える。つかさたたちは、麻子の体調が相当悪くなっていると言っていたのだ。
 しかし今見る麻子は、まるで体調が悪そうには見えない。
 不眠症もその他の問題も、クリニックに通い続けることで解消したのだろうとサツキは思った。
「まぁまぁ野村さん! お久しぶり。お元気そうですね。ねぇみんなそう思わない?」
「顔色もすごくいいわぁ。なんだか見違えちゃいました。一層おキレイになられたみたい」
 ダンボがすかさずサツキの意図・・・超上客ゲット作戦・・・を汲み取り追い討ちをかける。
「ありがとうございます。お店全然伺えなくて申し訳ありません。相変わらず仕事が山積なもので」
「大変ですねぇ。この前つかさちゃんたちが、野村さんの具合が悪そうだって言ってたんで、心配してたんですよ」
 そうサツキが言った途端、麻子の顔色がサッと変わった。声も幾分低くなったように感じ、表情がわずかに険しくなった。
「川崎さんが?」
「えっ? ええ・・・。美鈴ちゃんもいたんですけどね。2人とも心配してましたよ」
 サツキは麻子の変化に戸惑った。
 いったいどうしたというのだろう。何か変なことでも言ってしまったのか。
 オカマたちと麻子の会話を聞いていた由紀も、怪訝そうな顔で麻子を見つめている。
 その時、陽平がA4サイズの書類袋を片手に階段を降りてきた。
「麻子! 忘れ物」
 その途端、オカマたちの血の気が一斉に引いた。

 ・・・先生今、野村さんのこと麻子って呼んだ・・・。

「あれ? サツキさん。みなさん久しぶりですね。お元気でしたか?」
 オカマたちは、自分たちにとってとてつもなく恐ろしい事態が起きたことを直感した。

 何これ! どういうことなの?!

 全員ショックで失神しそうだ。
 陽平が愛しそうに麻子を見つめ、書類袋を手渡した。
「大事なんだろ。気を付けろよ」
「ごめん、ありがとう」
 麻子も陽平にニコッと微笑みを返す。
 オカマたちは、3ヶ月間ここにいなかったことを今猛烈に、そして激しく後悔していた。
「それじゃあ私行くね」
「ああ」
 麻子はオカマたちに丁寧に頭を下げてクリニックを出て行った。
 由紀はその後姿を見送り、満足そうに微笑んだ。
「先生。次の患者さんは1時間後ですから」
「OK。じゃあ皆さん、ゆっくりしていってください」
 ショックのあまり石像化したオカマたちを残し、陽平は足取りも軽やかに診察室へと戻っていった。
posted by 夢野さくら at 14:07| Comment(0) | 14番目の月