私は何か計算違いをしていたんだろうか・・・麻子は震える身体を抱きしめながらそう考えた。
陽平と付き合えば、もう男を探して新宿の街をさまようこともなくなると思っていた。でも、会うたびに陽平とのセックスを繰り返しても終った途端にまた欲しくなる。まるで麻薬患者が麻薬を打てば打つほどそこから逃れられなくなるように、セックスをすればするほどもっともっとと心が叫ぶ。その心の声を無視できなくて、以前よりも頻繁に夜の街にさまよい出るようになった。
もしかして陽平は、そのことに気付いてしまったんだろうか。このところ陽平は、いくらせがんでもセックスをしてくれなくなった。それどころかとにかくクリニックへ行こう、2人で家にいちゃダメだと繰り返す。なぜ突然そんなことを言い出したのかと危ぶんでいたけれど、やはり知ってしまったということなのだろうか。しかしどうやって?
そういえば、銀行を辞める時部長が噂がどうのこうのと言っていたような気がする。噂ってなんなんだろう。噂ってもしかして・・・。ああ、最近はなかなか考えがまとまらない。セックスをしている時以外、人の話もまともに耳に届かない。セックスがしたくてしたくて我慢ができず、黙って座っていることさえできなくなった。
前はこれほどではなかったように思う。そう・・・初めて一晩だけのセックスをした時、その思い出だけで数ヶ月は持った。それが徐々に1ヶ月、数週間、そして数日と短くなっていった。近頃は数時間と持たないように思う。いつからこんなセックス中心の生活になってしまったんだろう。セックスのことを考えただけで身体の芯が熱くなり、いてもたってもいられなくなる。セックスができないなら生きてはいけない。死んだ方がましだと思う。もう前のように衝動を我慢することはできなくなった。自分はいつからこれほどセックスが好きになったんだろう。
セックスが好き。私はセックスが好き? ・・・本当にそうなんだろうか。
セックスの快楽はいつも、終わったあとの絶望感とセットだ。虚無感や焦燥感が大波のように押し寄せて私を溺れさせる。それが怖くて怖くて、何もかも忘れさせてくれる次のセックスに走ってしまう。まるでメビュースの輪のように、裏も表もなく、何が正しくて何が間違っているのかもわからない。
私は病気なんだろうか。セックスという病に冒されているんだろうか。
そうかもしれない。だから陽平に愛していると言われるたびに、胸が苦しくなってイライラが募るのだ。
愛してるなんて余計な言葉を発している暇があったら、私の身体から服をむしり取り、おもむろに抱いてくれればいい。愛してるなんて、そんないい加減なありえない言葉を聞いてる余裕など私にはない。一刻でも早く、一回でも多くセックスをしなければならないのだし、私を愛する人間などこの世にいるはずがないのだから・・・。
こんなことを考える私はやっぱりおかしいのだろうか。こんな私だから、誰も愛してはくれないのだろうか。
・・・わからない。誰か教えてほしい。誰か私を・・・救ってほしい・・・。
麻子は震える身体を引きずりながら、ベッドルームを出てリビングの明かりをつけた。
雑然と散らかった空間が、薄明かりの中にぼんやりと浮びあがる。
ここの明かりをつけるのは2週間ぶりだ。ここ数ヶ月は掃除もしていない。する気力などどこにも残ってないのだ。
ダイニングテーブルの上には、いつ食べたのかもわからないコンビニ弁当の残りや、ペットボトルのまま放置されたウーロン茶が置かれている。しかしそれらが麻子の目に映ることはない。真っ直ぐリビングを通り過ぎ、仕事部屋のパソコンデスクに向かい電源を入れた。インターネットに繋ぎ、セックス、病気、震えと検索をかけてみた。羅列された文章の中に、『セックス依存症』という言葉を見つけた。
セックス、依存症? 何それ? それは病名なの?
恐る恐るクリックしてみると、そこはセックス依存症患者が自分で開いているサイトだった。震える手で症状というところをクリックする。
『セックス依存症とは、アルコール依存や買い物依存、薬物依存などと同じ、精神的病理現象をいう。セックスに異常なまでに執着し、それをしなければ恐怖や不安、焦燥感にさいなまれ、いてもたってもいられなくなる。セックスができなくなると、吐き気や嘔吐、貧血やめまい、身体の震えや思考能力の停止などの病的な症状に見舞われる。・・・適切な医療行為を受ける必要がある』
まるで自分のことを言っているのではないかと麻子は思った。信じられない思いでサイトの隅から隅までをむさぼり読む。あっという間に数時間の時が流れた。
麻子はふと、パソコンの隣に置いてあった鏡に目をやった。そこには、みすぼらしいほどに痩せ細ったひとりの女が映っていた。
陽平は何もかも知っていたに違いない。・・・彼に会わなければ・・・。
いつの間にか麻子は、ポロポロと涙を流し、肩を震わせて泣いていた。
2009年02月22日
2009年02月14日
9
サツキが言った言葉の意味を、すぐに理沙が理解できたわけではなかった。しかし理沙の耳は、サツキがとても大切な何かを伝えようとしているのだと感じていた。
「心の・・・目?」
「ええ。新宿二丁目でオカマなんかやってると、それこそいろんなことがあるわ。男同士の痴話喧嘩や自殺さわぎ。女とオカマが、ひとりの男を取り合って大喧嘩なんてこともある。テレビをつけりゃ、あたしたちの表面上だけを取り上げて面白おかしく騒いだり。まぁ、オカマであることをネタにしてタレント活動してる子もいるから、しかたないんだけどね」
サツキはあっけらかんと苦笑まじりでそう言った。オカマたちもみんな顔を見合わせ、肩をすくめて笑っている。
「そんなこと、ここらじゃ日常茶飯事なの。それを見たまま受け止めてたらとてもじゃないけどやってられないわ。それこそストレスで病気になっちゃう」
「そうそう。第一あたしたちは、生きたいように生きてくだけでいろんなこと言われるのよ。変態だとか、気持ち悪いとか、頭おかしいなんて言われたことも、一度や二度じゃないもんね」
リリィはそう言うと、プーっと頬を膨らませた。
「つまりこういうことよ。何でも重く受け止めないこと。それから物事を見たまま捉えないこと。物事にはいつでも原因があって結果がある。見たことをそのまま受け止めると、原因まで考えることをしなくなるの。原因をしっかり見極めようとすることが、心の目を開けること。わかった?」
理沙はサツキを見つめ、小さくつぶやいた。
「原因と、結果・・・」
「・・・理沙さん、・・・麻子さんがとっかえひっかえ男を誘っていることにも、必ず原因があるの。原因のない結果なんてないのよ。たぶん彼女もあなたと同じ。見たくないものから目をそむけたのね。麻子さんが見たくなかったものが何かなんてあたしにはわからない。でもそのツケはいつか必ずその人に回ってくる。彼女のツケは、ああいう形で回ってきたんだと思うの」
「・・・お姉ちゃんの見たくないものって、いったい何なんでしょうか?」
「あたしにはわからないって言ったでしょ? それにね、何でもかんでも人に教えてもらおうとしちゃダメ。あなたの目は、もうちゃんと見えてるんでしょ? だったら自分ひとりで行動しなさい。今何をすればいいのか。ちゃんとひとりで考えるの。そうしたらおのずと心の目が開いて、あなたのやるべき事が見えてくるはずよ」
サツキはそう言うと、深く考え込んでしまった理沙に、新しいウーロン茶割りを作ってやった。
「心の・・・目?」
「ええ。新宿二丁目でオカマなんかやってると、それこそいろんなことがあるわ。男同士の痴話喧嘩や自殺さわぎ。女とオカマが、ひとりの男を取り合って大喧嘩なんてこともある。テレビをつけりゃ、あたしたちの表面上だけを取り上げて面白おかしく騒いだり。まぁ、オカマであることをネタにしてタレント活動してる子もいるから、しかたないんだけどね」
サツキはあっけらかんと苦笑まじりでそう言った。オカマたちもみんな顔を見合わせ、肩をすくめて笑っている。
「そんなこと、ここらじゃ日常茶飯事なの。それを見たまま受け止めてたらとてもじゃないけどやってられないわ。それこそストレスで病気になっちゃう」
「そうそう。第一あたしたちは、生きたいように生きてくだけでいろんなこと言われるのよ。変態だとか、気持ち悪いとか、頭おかしいなんて言われたことも、一度や二度じゃないもんね」
リリィはそう言うと、プーっと頬を膨らませた。
「つまりこういうことよ。何でも重く受け止めないこと。それから物事を見たまま捉えないこと。物事にはいつでも原因があって結果がある。見たことをそのまま受け止めると、原因まで考えることをしなくなるの。原因をしっかり見極めようとすることが、心の目を開けること。わかった?」
理沙はサツキを見つめ、小さくつぶやいた。
「原因と、結果・・・」
「・・・理沙さん、・・・麻子さんがとっかえひっかえ男を誘っていることにも、必ず原因があるの。原因のない結果なんてないのよ。たぶん彼女もあなたと同じ。見たくないものから目をそむけたのね。麻子さんが見たくなかったものが何かなんてあたしにはわからない。でもそのツケはいつか必ずその人に回ってくる。彼女のツケは、ああいう形で回ってきたんだと思うの」
「・・・お姉ちゃんの見たくないものって、いったい何なんでしょうか?」
「あたしにはわからないって言ったでしょ? それにね、何でもかんでも人に教えてもらおうとしちゃダメ。あなたの目は、もうちゃんと見えてるんでしょ? だったら自分ひとりで行動しなさい。今何をすればいいのか。ちゃんとひとりで考えるの。そうしたらおのずと心の目が開いて、あなたのやるべき事が見えてくるはずよ」
サツキはそう言うと、深く考え込んでしまった理沙に、新しいウーロン茶割りを作ってやった。
2009年02月07日
8
「あなたは知りたいって言った。だったらどんな辛く重い現実であっても、とことん付き合うの」
サツキの言葉は、真っ直ぐ理沙の心に突き刺さった。その言葉ひとつひとつが理沙の全身に覆われた怒りの衣をはがし、今度は悲しみで覆い尽くした。
理沙はやっと、自分が何に対して怒っていたのかを理解した。怒りの根本は、サツキでもなければ純也でもなく、ましてや麻子にではなかった。理沙の怒りは自分に向いていたのだ。
何も知らない自分。それがイヤだと思った自分。知ったうえでの覚悟など何もなかった。それでも闇雲に知りたいと思った。家族なんだから私には知る権利があると思っていた。
この人たちは、全てを知っていながらあえて言おうとしなかった。それを無理矢理聞きだし、勝手に傷ついたのは私だ。私の・・・方だ・・・。
見えるということは、こんなにも辛いことだったのかと、理沙は今更ながら思っていた。
小さいころから、再び目が見えるようになりたいと、ただそれだけを願い続けていた。
見たかった。この世の全てが見たかった。
美しくきらめくような海や空。木々の葉が涼しげな風に揺れる心地いい景色。人々が注ぎあう優しい微笑み。
目の見える人の世界には、キレイなものが溢れていると思っていた。そう思わせてくれたのは、他でもない麻子だったのだ。しかし見えるようになった途端、麻子は自分の前から姿を消した。
なんて皮肉なんだろう。きっと麻子の目に映る世界には、美しいものなどどこにもなかったのだ。
世界は美しいと教えてくれた麻子の本当の心・・・。それはいったいどこにあるのだろうか。
理沙は、聞き耳を立てなければならないほどかすかな声で、ポツリポツリとつぶやきはじめた。
「小さいころ、目が見えたらどんなに素晴らしいだろうって、ずっと想像してました。飼っていた犬の顔や、お姉ちゃんが私のために作ってくれる美味しいご飯。楽しそうなテレビや、公園に咲いているいい香りの花。それが見えたらどんなに素敵だろうって。でも、目が見えるって、こんなにも苦しくてイヤらしくて、重い現実を見ることなんですか? 何も知らない無知でバカな自分を知るためなんですか?」
理沙の声は、かすれながらも徐々に大きくなっていった。その声は絶望に色濃く染まり、理沙を見えなかった時よりももっともっと暗い、闇に包まれた世界へと運んでいった。
「見えないままなら知らずにすんだんですか? だからお姉ちゃんは私から離れていったんでしょうか。・・・そんなこと、誰も教えてくれなかった。お母さんも純也さんも・・・私の目が治ることをあんなに喜んでた。それは、これを見せるためだったんですか? ・・・私・・・見えることがこんなに辛いなんて思わなかった。全然・・・知りませんでした」
理沙は力なくソファに座り、ポロポロと泣きはじめた。
サツキは半分呆れ、しかし半分で、無性に愛しいものを見るように微笑んだ。
「あなたは本当に、何も知らないまま育ってしまったお嬢さんなのね。きっと麻子さんが、あなたを大事に大事に守ってきたのね・・・」
理沙は涙で潤んだ瞳をゆっくりとサツキに向けた。
何も知らないお嬢さん・・・それはそうかとサツキは思った。この子はまだ、目が見えるようになってたった2年しか経っていないのだ。つまりは2歳の赤ちゃんと同じということだ。何も知らなくて当たり前。見えなくて当然なのかもしれない。
「あのね、理沙さん。目が見えるって、っていうかこの世界って、キレイなものや正しいものばかりじゃないわ。もっと言えば、汚いものとか醜いものばかりで溢れてるの。でもね、私思うのよ。本当にキレイなものや正しいものって、汚いものや醜いものの奥にあるんじゃないかって」
「・・・奥?」
「そう。汚いものや醜いものの奥にある真実。それを見極める目を持っていれば、いつだって本当にキレイなものや正しいものを見られるわ。表面上どんなに薄汚れて見えても、その奥にあるものが同じように薄汚れているかなんて誰にもわからない。世の中には、理沙さんみたいに実際にものが見えなかった人、今も見えない人っては少ないわ。でも、物事の真実が見える人は、もっともっと少ないの。それは、実際に目が見える見えないには関係ない。誰でも持っている心の目が開いているかどうかの問題なのよ」
サツキはそう言うと、まるで母親が、生まれたての赤ん坊に見せるような笑顔を理沙に向けた。
サツキの言葉は、真っ直ぐ理沙の心に突き刺さった。その言葉ひとつひとつが理沙の全身に覆われた怒りの衣をはがし、今度は悲しみで覆い尽くした。
理沙はやっと、自分が何に対して怒っていたのかを理解した。怒りの根本は、サツキでもなければ純也でもなく、ましてや麻子にではなかった。理沙の怒りは自分に向いていたのだ。
何も知らない自分。それがイヤだと思った自分。知ったうえでの覚悟など何もなかった。それでも闇雲に知りたいと思った。家族なんだから私には知る権利があると思っていた。
この人たちは、全てを知っていながらあえて言おうとしなかった。それを無理矢理聞きだし、勝手に傷ついたのは私だ。私の・・・方だ・・・。
見えるということは、こんなにも辛いことだったのかと、理沙は今更ながら思っていた。
小さいころから、再び目が見えるようになりたいと、ただそれだけを願い続けていた。
見たかった。この世の全てが見たかった。
美しくきらめくような海や空。木々の葉が涼しげな風に揺れる心地いい景色。人々が注ぎあう優しい微笑み。
目の見える人の世界には、キレイなものが溢れていると思っていた。そう思わせてくれたのは、他でもない麻子だったのだ。しかし見えるようになった途端、麻子は自分の前から姿を消した。
なんて皮肉なんだろう。きっと麻子の目に映る世界には、美しいものなどどこにもなかったのだ。
世界は美しいと教えてくれた麻子の本当の心・・・。それはいったいどこにあるのだろうか。
理沙は、聞き耳を立てなければならないほどかすかな声で、ポツリポツリとつぶやきはじめた。
「小さいころ、目が見えたらどんなに素晴らしいだろうって、ずっと想像してました。飼っていた犬の顔や、お姉ちゃんが私のために作ってくれる美味しいご飯。楽しそうなテレビや、公園に咲いているいい香りの花。それが見えたらどんなに素敵だろうって。でも、目が見えるって、こんなにも苦しくてイヤらしくて、重い現実を見ることなんですか? 何も知らない無知でバカな自分を知るためなんですか?」
理沙の声は、かすれながらも徐々に大きくなっていった。その声は絶望に色濃く染まり、理沙を見えなかった時よりももっともっと暗い、闇に包まれた世界へと運んでいった。
「見えないままなら知らずにすんだんですか? だからお姉ちゃんは私から離れていったんでしょうか。・・・そんなこと、誰も教えてくれなかった。お母さんも純也さんも・・・私の目が治ることをあんなに喜んでた。それは、これを見せるためだったんですか? ・・・私・・・見えることがこんなに辛いなんて思わなかった。全然・・・知りませんでした」
理沙は力なくソファに座り、ポロポロと泣きはじめた。
サツキは半分呆れ、しかし半分で、無性に愛しいものを見るように微笑んだ。
「あなたは本当に、何も知らないまま育ってしまったお嬢さんなのね。きっと麻子さんが、あなたを大事に大事に守ってきたのね・・・」
理沙は涙で潤んだ瞳をゆっくりとサツキに向けた。
何も知らないお嬢さん・・・それはそうかとサツキは思った。この子はまだ、目が見えるようになってたった2年しか経っていないのだ。つまりは2歳の赤ちゃんと同じということだ。何も知らなくて当たり前。見えなくて当然なのかもしれない。
「あのね、理沙さん。目が見えるって、っていうかこの世界って、キレイなものや正しいものばかりじゃないわ。もっと言えば、汚いものとか醜いものばかりで溢れてるの。でもね、私思うのよ。本当にキレイなものや正しいものって、汚いものや醜いものの奥にあるんじゃないかって」
「・・・奥?」
「そう。汚いものや醜いものの奥にある真実。それを見極める目を持っていれば、いつだって本当にキレイなものや正しいものを見られるわ。表面上どんなに薄汚れて見えても、その奥にあるものが同じように薄汚れているかなんて誰にもわからない。世の中には、理沙さんみたいに実際にものが見えなかった人、今も見えない人っては少ないわ。でも、物事の真実が見える人は、もっともっと少ないの。それは、実際に目が見える見えないには関係ない。誰でも持っている心の目が開いているかどうかの問題なのよ」
サツキはそう言うと、まるで母親が、生まれたての赤ん坊に見せるような笑顔を理沙に向けた。
2009年01月31日
7
「あの・・・理沙さん? 大丈夫?」
ショックで口を開くこともできない理沙に、リリィが心配そうに声をかけた。
理沙は身動きひとつせず、人形のように固まっていた。
勘違いだ。この人たちは何か大きな勘違いをしているんだ。
理沙は何度も何度も心の中でそうつぶやき続けた。しかしそのたびに繰り返し起こる疑問が理沙を苦しめた。では、純也が見たのはいったい誰なのか。
純也さんが嘘をついたというの? そんな・・・そんなはずはない。それはわかってる。ああ! でも・・・。
理沙はとうとう黙っていることに耐え切れなくなった。黙っていると恐ろしい考えが頭を支配しようとする。理沙は突然大きな声を張り上げ、猛然と否定の言葉を口にした。
「嘘です! 何かの勘違いです。純也さんはお姉ちゃんとあまり会ったことがないから、たぶん他の人と見間違えたんです。絶対にそうです。そうに決まってます」
「理沙さん、そう思いたいのはわかるけど」
ため息交じりのサツキの言葉を、理沙は勢いよくさえぎった。
「思いたいんじゃない! そうなんです! だってお姉ちゃんがそんなことするはずないもの。ありえないもの。お姉ちゃんはそんな人じゃない。あなたたちお姉ちゃんのこと全然知らないでしょ? お姉ちゃんのこと何もわかってないでしょ? 私はよく知ってます。小さいころからずっと一緒にいたんです。誰よりも一番よくわかってるんです。お姉ちゃんのこと、これ以上悪く言わないでください。そんなありもしない噂立てられて、お姉ちゃんがかわいそうです。あんまりです。ひどいです! ・・・私帰ります。こんなの耐えられません。・・・失礼します」
理沙はまくし立てるようにそういうと勢いよく立ちあがった。
もう何も聞きたくない。
今にも泣き出しそうな理沙の瞳は、かたくなにそういっていた。オカマたちもつかさたちも、重苦しい空気の中で理沙の顔を見上げている。
「逃げるの?」
低く鋭く落ち着いた声が響いた。理沙がその声の主を振り返ると、そこには薄い微笑を浮かべるサツキがいた。
「自分に抱えきれない事実は全て嘘ってことにしてしまえば、これほど簡単で楽なことはないわね。そうやって自分を騙して生きていけば、見たくないものは見ずにすむもの。そういう人とても多いわ。見ようと思えば見えるのに、決して見ようとしない人。あなたと麻子さんはすごく似てるのね、そういうとこ」
理沙の目に力がこもった。怒りが一気に込み上げてくる。理沙は止めどもない怒りに胸が詰まった。生まれてはじめて感じる激しい怒りの塊。その塊が怒涛のごとく全身を駆け抜ける。
同時に理沙は、その持て余すほどの激しさに戸惑いを覚えた。怒りの塊をどのように処理していいのかわからない。怒りの捌け口を見つけることができない理沙は、際限なく湧きあがる怒りになすすべもなく、黙ってサツキをにらみ続けるしかなかった。
「知りたかったのよね? あなたは全てを知りたかったんでしょ? あたし何度も聞いたわよね。覚悟がないままに真実を知ったらイヤな目に遭う。それでもいいのかって。あなた自分で言ったのよ。大丈夫だって。覚えてないの?」
理沙は何も答えない。答えることができない。怒りと混乱で息がつまり、声が出なかったのだ。
そんな理沙とサツキを、みんなは固唾を呑んで見つめていた。
「理沙さん、あたし言ったわね。人には家族であっても、ううん家族だからこそ知られたくないことがたくさんあるって。・・・例えばこのあたしよ。うちの両親は、あたしがオカマやってるなんて知らないわ。知ってほしくないの。もし知ってしまったら、ひどく傷つくでしょうからね。だから言わない。いくら家族であっても、血はつながってても、ひとりひとりが違う人間なの。性格も考え方も、人との付き合い方もみんな違う。あたしはあたし。あなたはあなただし、麻子さんは麻子さんの考え方や生き方がある。家族なんだから何でも知ってて当たり前だと思うのは傲慢なのよ。知らないでいた方がいいことなんて、それこそごまんとあるわ」
サツキは一気にそこまで言うと、軽く息を吐き、理沙を正面から見つめなおした。
「それでもあなたは知りたいって言った。どんなことでも大丈夫だって言った。だったらその言葉に最後まで責任を持ちなさい。知ってしまったら最後、知らなかった時には戻れない。知ったあとに知りたくなかったなんて、口が裂けても言っちゃダメ。そんな覚悟のないやつに限って、何を聞いても驚かないから大丈夫なんて言うのよ。知ったら最後、責任を取るの。最後までとことん付き合うの。どんなに自分にとって辛く重い現実であってもね」
理沙の胸に、サツキの言葉が強く重く突き刺さった。
ショックで口を開くこともできない理沙に、リリィが心配そうに声をかけた。
理沙は身動きひとつせず、人形のように固まっていた。
勘違いだ。この人たちは何か大きな勘違いをしているんだ。
理沙は何度も何度も心の中でそうつぶやき続けた。しかしそのたびに繰り返し起こる疑問が理沙を苦しめた。では、純也が見たのはいったい誰なのか。
純也さんが嘘をついたというの? そんな・・・そんなはずはない。それはわかってる。ああ! でも・・・。
理沙はとうとう黙っていることに耐え切れなくなった。黙っていると恐ろしい考えが頭を支配しようとする。理沙は突然大きな声を張り上げ、猛然と否定の言葉を口にした。
「嘘です! 何かの勘違いです。純也さんはお姉ちゃんとあまり会ったことがないから、たぶん他の人と見間違えたんです。絶対にそうです。そうに決まってます」
「理沙さん、そう思いたいのはわかるけど」
ため息交じりのサツキの言葉を、理沙は勢いよくさえぎった。
「思いたいんじゃない! そうなんです! だってお姉ちゃんがそんなことするはずないもの。ありえないもの。お姉ちゃんはそんな人じゃない。あなたたちお姉ちゃんのこと全然知らないでしょ? お姉ちゃんのこと何もわかってないでしょ? 私はよく知ってます。小さいころからずっと一緒にいたんです。誰よりも一番よくわかってるんです。お姉ちゃんのこと、これ以上悪く言わないでください。そんなありもしない噂立てられて、お姉ちゃんがかわいそうです。あんまりです。ひどいです! ・・・私帰ります。こんなの耐えられません。・・・失礼します」
理沙はまくし立てるようにそういうと勢いよく立ちあがった。
もう何も聞きたくない。
今にも泣き出しそうな理沙の瞳は、かたくなにそういっていた。オカマたちもつかさたちも、重苦しい空気の中で理沙の顔を見上げている。
「逃げるの?」
低く鋭く落ち着いた声が響いた。理沙がその声の主を振り返ると、そこには薄い微笑を浮かべるサツキがいた。
「自分に抱えきれない事実は全て嘘ってことにしてしまえば、これほど簡単で楽なことはないわね。そうやって自分を騙して生きていけば、見たくないものは見ずにすむもの。そういう人とても多いわ。見ようと思えば見えるのに、決して見ようとしない人。あなたと麻子さんはすごく似てるのね、そういうとこ」
理沙の目に力がこもった。怒りが一気に込み上げてくる。理沙は止めどもない怒りに胸が詰まった。生まれてはじめて感じる激しい怒りの塊。その塊が怒涛のごとく全身を駆け抜ける。
同時に理沙は、その持て余すほどの激しさに戸惑いを覚えた。怒りの塊をどのように処理していいのかわからない。怒りの捌け口を見つけることができない理沙は、際限なく湧きあがる怒りになすすべもなく、黙ってサツキをにらみ続けるしかなかった。
「知りたかったのよね? あなたは全てを知りたかったんでしょ? あたし何度も聞いたわよね。覚悟がないままに真実を知ったらイヤな目に遭う。それでもいいのかって。あなた自分で言ったのよ。大丈夫だって。覚えてないの?」
理沙は何も答えない。答えることができない。怒りと混乱で息がつまり、声が出なかったのだ。
そんな理沙とサツキを、みんなは固唾を呑んで見つめていた。
「理沙さん、あたし言ったわね。人には家族であっても、ううん家族だからこそ知られたくないことがたくさんあるって。・・・例えばこのあたしよ。うちの両親は、あたしがオカマやってるなんて知らないわ。知ってほしくないの。もし知ってしまったら、ひどく傷つくでしょうからね。だから言わない。いくら家族であっても、血はつながってても、ひとりひとりが違う人間なの。性格も考え方も、人との付き合い方もみんな違う。あたしはあたし。あなたはあなただし、麻子さんは麻子さんの考え方や生き方がある。家族なんだから何でも知ってて当たり前だと思うのは傲慢なのよ。知らないでいた方がいいことなんて、それこそごまんとあるわ」
サツキは一気にそこまで言うと、軽く息を吐き、理沙を正面から見つめなおした。
「それでもあなたは知りたいって言った。どんなことでも大丈夫だって言った。だったらその言葉に最後まで責任を持ちなさい。知ってしまったら最後、知らなかった時には戻れない。知ったあとに知りたくなかったなんて、口が裂けても言っちゃダメ。そんな覚悟のないやつに限って、何を聞いても驚かないから大丈夫なんて言うのよ。知ったら最後、責任を取るの。最後までとことん付き合うの。どんなに自分にとって辛く重い現実であってもね」
理沙の胸に、サツキの言葉が強く重く突き刺さった。
2009年01月24日
6
サツキは理沙の瞳を正面から見つめ、話を続けた。
「理沙さん、あなたがお姉さんを思う気持ちは充分わかったわ。もしかしたらそれが麻子さんを助けることに繋がるかもしれない。でもね、人には家族であっても・・・ううん、家族だからこそ知られたくないことがたくさんあるの。それでも知りたいのなら覚悟がなければいけない。じゃないと、イヤな思いをするだけよ」
そのちょっと突き放したような言い方に、理沙は一瞬躊躇した。しかしこのまま何も知らないでいることはできない。元の仲のいい姉妹に戻りたいのだ。
理沙はゴクリを唾を飲み込むと、ためらいを押し隠して強く言った。
「大丈夫です。私は元のお姉ちゃんに戻ってほしいんです。そのためだったら、どんなことでもします」
サツキは大きくため息を吐いた。
この子は何も知らないお嬢さんなのだ。もちろん彼女の目のことは田島から聞いた。社会に出たことなど一度もないらしい。キレイな、美しいものしか知らないのだ。もしかしたらそれが、麻子を追い詰めた原因のひとつなのかもしれないとサツキは思った。
「元に戻ることなんてできないわ。できるのは前に進むことだけ。わかる?」
サツキの言っている意味がわかっているのかいないのか、理沙は軽く眉間にシワを寄せた。
「知ってもあなたとお姉さんの仲が元に戻るわけじゃないの。逆に二度と埋まらない溝ができるかもしれない。その覚悟があるのかって聞いてるのよ」
理沙は唇をギュッと結び、サツキの言葉を否定するようにジッと見つめた。
この人は私とお姉ちゃんの関係を何も知らない。お姉ちゃんは私にとって何ものにも代えがたいかけがえのない存在だ。それはお姉ちゃんにとってもそうであったはず。埋まらない溝なんてあるわけがないのだ。
理沙は少々ムキになって言った。
「大丈夫ですから言ってください。私は全てが知りたいんです」
「・・・わかったわ」
サツキは覚悟を決めたように大きく息を吸い、それをはき出してから話し始めた。
「あたしが知っているのは、電話の男が言っていた噂の内容だけ。麻子さんがそれが原因で銀行を辞めたっていうのは、さっき始めて聞いたわ。・・・麻子さんは、愛っていう名前で『新宿メトロプラザホテル』のバーラウンジで男を誘っていたの。ありていに言えば、そこでつかまえた男の部屋に行って、セックスしてたってこと。それも毎回違う男と。もう何年も繰り返してたらしいわ。制服のように、いつも派手なピンクのミニドレスを着て、最初に声をかけてきた男について行った。それがどんなデブでも不細工でも、全くえり好みすることなくね。それが歌舞伎町界隈で噂になったの。メトロプラザのバーラウンジに行けば、ピンクのドレスを着たものすごくキレイな女とタダでやれるって。噂が広まって、いろんな男がバーラウンジを訪れるようになった。ホテルからしてみたらいい迷惑よ。そんなとんでもない噂がこれ以上広まったら、ホテルのイメージに計り知れない傷がつくでしょ? あそこはラブホテルじゃないんだから。で、ついに出入り禁止になった。これは歌舞伎町に詳しいある人から聞いたの。確かな情報よ。もしあなたが直接聞きたいと言うなら、いつでも案内するわ」
全く言葉を挟むことなく、理沙は黙ってサツキの言葉を聞いていた。頭が真っ白になり、口を開くことすらできなかったのだ。
まさか・・・ありえない・・・お姉ちゃんがそんなことするはずがない。
理沙は否定の言葉を求めてつかさと美鈴に視線を移した。2人はあまりの居たたまれなさに理沙の視線を外した。
その途端、理沙の視界が霞んだ。心臓が大きな手に鷲づかみされたかのように痛み、その痛みはどんどんと耐えがたいほどに高まっていった。
苦しそうに顔を歪ませる理沙に、まるで追い討ちをかけるようにサツキが言った。
「このことは、あなたの婚約者である田島さんも知ってるわ」
純也さんが・・・? なぜ? どうしてこの人が純也さんのことを知ってるの?
喉に得体の知れない何かがつっかえ、スムーズに声が出ない。
理沙はひしゃげたような、しわがれた声でサツキに尋ねた。
「どうして彼が、知ってるんですか?」
「あなたとお姉さんの仲を元に戻したくて、ひとりで麻子さんの家に行ったのよ。その時の成り行きで、彼は麻子さんのあとをつけるはめになった。そして彼女が男を引っ掛けているところを見ちゃったの」
純也さんが、お姉ちゃんが男を引っ掛けているところを、見た?
理沙はすさまじいショックに顔を歪めた。ありえない。絶対にありえない。私の知っているお姉ちゃんはそんなことをする人じゃない。お姉ちゃんのことは私が一番よく知ってる。きっとなにかの間違いだ。この人たちは勘違いをしているんだ。純也さんだってそうだ。見間違いだ。たぶん・・・そうなのだ。そうに、決まってる・・・。
理沙は壊れ出そうとする自分の心を保つため、必死で自分にそう言い聞かせた。
「理沙さん、あなたがお姉さんを思う気持ちは充分わかったわ。もしかしたらそれが麻子さんを助けることに繋がるかもしれない。でもね、人には家族であっても・・・ううん、家族だからこそ知られたくないことがたくさんあるの。それでも知りたいのなら覚悟がなければいけない。じゃないと、イヤな思いをするだけよ」
そのちょっと突き放したような言い方に、理沙は一瞬躊躇した。しかしこのまま何も知らないでいることはできない。元の仲のいい姉妹に戻りたいのだ。
理沙はゴクリを唾を飲み込むと、ためらいを押し隠して強く言った。
「大丈夫です。私は元のお姉ちゃんに戻ってほしいんです。そのためだったら、どんなことでもします」
サツキは大きくため息を吐いた。
この子は何も知らないお嬢さんなのだ。もちろん彼女の目のことは田島から聞いた。社会に出たことなど一度もないらしい。キレイな、美しいものしか知らないのだ。もしかしたらそれが、麻子を追い詰めた原因のひとつなのかもしれないとサツキは思った。
「元に戻ることなんてできないわ。できるのは前に進むことだけ。わかる?」
サツキの言っている意味がわかっているのかいないのか、理沙は軽く眉間にシワを寄せた。
「知ってもあなたとお姉さんの仲が元に戻るわけじゃないの。逆に二度と埋まらない溝ができるかもしれない。その覚悟があるのかって聞いてるのよ」
理沙は唇をギュッと結び、サツキの言葉を否定するようにジッと見つめた。
この人は私とお姉ちゃんの関係を何も知らない。お姉ちゃんは私にとって何ものにも代えがたいかけがえのない存在だ。それはお姉ちゃんにとってもそうであったはず。埋まらない溝なんてあるわけがないのだ。
理沙は少々ムキになって言った。
「大丈夫ですから言ってください。私は全てが知りたいんです」
「・・・わかったわ」
サツキは覚悟を決めたように大きく息を吸い、それをはき出してから話し始めた。
「あたしが知っているのは、電話の男が言っていた噂の内容だけ。麻子さんがそれが原因で銀行を辞めたっていうのは、さっき始めて聞いたわ。・・・麻子さんは、愛っていう名前で『新宿メトロプラザホテル』のバーラウンジで男を誘っていたの。ありていに言えば、そこでつかまえた男の部屋に行って、セックスしてたってこと。それも毎回違う男と。もう何年も繰り返してたらしいわ。制服のように、いつも派手なピンクのミニドレスを着て、最初に声をかけてきた男について行った。それがどんなデブでも不細工でも、全くえり好みすることなくね。それが歌舞伎町界隈で噂になったの。メトロプラザのバーラウンジに行けば、ピンクのドレスを着たものすごくキレイな女とタダでやれるって。噂が広まって、いろんな男がバーラウンジを訪れるようになった。ホテルからしてみたらいい迷惑よ。そんなとんでもない噂がこれ以上広まったら、ホテルのイメージに計り知れない傷がつくでしょ? あそこはラブホテルじゃないんだから。で、ついに出入り禁止になった。これは歌舞伎町に詳しいある人から聞いたの。確かな情報よ。もしあなたが直接聞きたいと言うなら、いつでも案内するわ」
全く言葉を挟むことなく、理沙は黙ってサツキの言葉を聞いていた。頭が真っ白になり、口を開くことすらできなかったのだ。
まさか・・・ありえない・・・お姉ちゃんがそんなことするはずがない。
理沙は否定の言葉を求めてつかさと美鈴に視線を移した。2人はあまりの居たたまれなさに理沙の視線を外した。
その途端、理沙の視界が霞んだ。心臓が大きな手に鷲づかみされたかのように痛み、その痛みはどんどんと耐えがたいほどに高まっていった。
苦しそうに顔を歪ませる理沙に、まるで追い討ちをかけるようにサツキが言った。
「このことは、あなたの婚約者である田島さんも知ってるわ」
純也さんが・・・? なぜ? どうしてこの人が純也さんのことを知ってるの?
喉に得体の知れない何かがつっかえ、スムーズに声が出ない。
理沙はひしゃげたような、しわがれた声でサツキに尋ねた。
「どうして彼が、知ってるんですか?」
「あなたとお姉さんの仲を元に戻したくて、ひとりで麻子さんの家に行ったのよ。その時の成り行きで、彼は麻子さんのあとをつけるはめになった。そして彼女が男を引っ掛けているところを見ちゃったの」
純也さんが、お姉ちゃんが男を引っ掛けているところを、見た?
理沙はすさまじいショックに顔を歪めた。ありえない。絶対にありえない。私の知っているお姉ちゃんはそんなことをする人じゃない。お姉ちゃんのことは私が一番よく知ってる。きっとなにかの間違いだ。この人たちは勘違いをしているんだ。純也さんだってそうだ。見間違いだ。たぶん・・・そうなのだ。そうに、決まってる・・・。
理沙は壊れ出そうとする自分の心を保つため、必死で自分にそう言い聞かせた。
2009年01月20日
5
その夜、つかさと美鈴は、約束通り理沙を『紫頭巾』に連れてきた。
問題が大きくなり過ぎ、自分たちだけでは処理しきれないと考えたのだ。事情は自分たちよりオカマたちの方が詳しく知っているかもしれないし、できたら「あとはママたちに任せるからよろしくお願いしますぅ・・・」くらいの心境になっていた。
理沙は期待に満ちた目でオカマたちを見回し、「ここには姉がしょっちゅう遊びに来てるとお聞きしました。最近ではいつごろ来ましたか?」と尋ねた。その目は「ここに来さえすれば、いろんなことがわかるはず」と言っていた。
ダンボは理沙の澄んだ視線に耐えきれず、ぎこちない笑顔を彼女に向けると、「ちょっと失礼しまぁす」とつかさを店の入り口に引っ張って行った。
「ちょっと! いったいどういうことよ! 野村さんはここに3回も来たことないのよ! 何でいつの間にしょっちゅう遊びに来てることになってんのよ!」
「だってしょうがないじゃない。野村さんがよく行くところに連れていけって言うんだもん。そんなの私、隣しか知らないの! この状況で精神科のクリニックになんて、妹さん連れてけるわけないじゃない」
「そりゃそうかもしれないけど、何もうちにくることないじゃないの」
「だって噂の内容知りたいって言うんだもん。そんなの困るじゃない、私たち。妹さんに言えるわけないもん」
「あたしたちだって困るわよ! ママにこれ以上あの件には首突っ込むなって言われてるのよ」
「こうなれば一蓮托生じゃない。一緒に困ろうよ。第一私たちがクリニックに行き辛くなったのだって、元はといえばリリィちゃんが理沙さんの婚約者、えっと田島さんだっけ? 彼をここに連れてきたことが原因じゃない。従業員の責任は、店全体で取ってもらわなくちゃ!」
「そうはいうけどねぇ、あれはあたしたちだって被害者なのよ」
つかさはダンボの抗議を当然の如くスルーし、話を続ける。
「変な電話の男って、たぶん新宿支店の本永俊介だと思うのよね。あの人が噂をばらまいた張本人だってことで、今支店で悪者扱いらしいの。野村さんが銀行辞めたのは本永の嫌がらせのせいだとか、野村さんを相当妬んでたらしいとかね。銀行側が噂の真相確かめる前に野村さんが辞めちゃったから、行内では噂は本永が流したガセってことになってるのよね」
「・・・そう」
「理沙さんにはまだ何も言ってないけど」
「どうして? ガセってことになってるなら、隠すことないじゃないの」
つかさはペロッと舌を出し、肩をすくめて言った。
「そうは言ってもぉ、万が一泣かれたら困るじゃない私たち」
「あのね、困るのはあたしたちだって一緒なのよ!」
店の入り口でコソコソと話を続けるダンボとつかさ。いつまでも戻ってこない2人を、理沙はいぶかしげに見つめた。
「ほら理沙さん、ボーッとしないで飲んで飲んで!」
マルコが明るい声をあげて飲み物を勧める。
「あらヤダ! グラス空っぽじゃないの。やぁねぇ、すぐ新しいの作るわね」
つい先ほど、麻子が銀行を辞めたという衝撃の事実で、全てのグラスをオカマたちが飲み干していたのだった。
理沙はマルコにぎこちない笑顔を向けながら、オカマたちの間に流れる微妙な空気を感じて取っていた。
つかさたちは、ここに来さえすればいろいろなことを教えてくれるはずだと言っていた。しかしそれは間違いだったのか・・・。
すっかり考え込んでしまった理沙に身体を向け、サツキはゆっくりと口を開いた。
「理沙さん、この隣のビルに『新宿メンタルクリニック』という精神科の病院があるのを知ってるかしら」
サツキの思わぬ言葉に、『紫頭巾』の空気が一気に張り詰めた。
理沙は戸惑いながら答える。
「・・・いえ、知りません」
「そこのクリニックの先生は、岩田陽平っていう人よ。彼は麻子さんの中学時代の同級生で、今お姉さんとお付き合いをしている人なの」
「ママ・・・そんなこと言っちゃって大丈夫なの?」
リリィが心配そうに囁く。
サツキは大きく息を吐き出すと、リリィに疲れたような笑みを向けた。
「仕方がないわ。こうなったら覚悟を決めましょう」
問題が大きくなり過ぎ、自分たちだけでは処理しきれないと考えたのだ。事情は自分たちよりオカマたちの方が詳しく知っているかもしれないし、できたら「あとはママたちに任せるからよろしくお願いしますぅ・・・」くらいの心境になっていた。
理沙は期待に満ちた目でオカマたちを見回し、「ここには姉がしょっちゅう遊びに来てるとお聞きしました。最近ではいつごろ来ましたか?」と尋ねた。その目は「ここに来さえすれば、いろんなことがわかるはず」と言っていた。
ダンボは理沙の澄んだ視線に耐えきれず、ぎこちない笑顔を彼女に向けると、「ちょっと失礼しまぁす」とつかさを店の入り口に引っ張って行った。
「ちょっと! いったいどういうことよ! 野村さんはここに3回も来たことないのよ! 何でいつの間にしょっちゅう遊びに来てることになってんのよ!」
「だってしょうがないじゃない。野村さんがよく行くところに連れていけって言うんだもん。そんなの私、隣しか知らないの! この状況で精神科のクリニックになんて、妹さん連れてけるわけないじゃない」
「そりゃそうかもしれないけど、何もうちにくることないじゃないの」
「だって噂の内容知りたいって言うんだもん。そんなの困るじゃない、私たち。妹さんに言えるわけないもん」
「あたしたちだって困るわよ! ママにこれ以上あの件には首突っ込むなって言われてるのよ」
「こうなれば一蓮托生じゃない。一緒に困ろうよ。第一私たちがクリニックに行き辛くなったのだって、元はといえばリリィちゃんが理沙さんの婚約者、えっと田島さんだっけ? 彼をここに連れてきたことが原因じゃない。従業員の責任は、店全体で取ってもらわなくちゃ!」
「そうはいうけどねぇ、あれはあたしたちだって被害者なのよ」
つかさはダンボの抗議を当然の如くスルーし、話を続ける。
「変な電話の男って、たぶん新宿支店の本永俊介だと思うのよね。あの人が噂をばらまいた張本人だってことで、今支店で悪者扱いらしいの。野村さんが銀行辞めたのは本永の嫌がらせのせいだとか、野村さんを相当妬んでたらしいとかね。銀行側が噂の真相確かめる前に野村さんが辞めちゃったから、行内では噂は本永が流したガセってことになってるのよね」
「・・・そう」
「理沙さんにはまだ何も言ってないけど」
「どうして? ガセってことになってるなら、隠すことないじゃないの」
つかさはペロッと舌を出し、肩をすくめて言った。
「そうは言ってもぉ、万が一泣かれたら困るじゃない私たち」
「あのね、困るのはあたしたちだって一緒なのよ!」
店の入り口でコソコソと話を続けるダンボとつかさ。いつまでも戻ってこない2人を、理沙はいぶかしげに見つめた。
「ほら理沙さん、ボーッとしないで飲んで飲んで!」
マルコが明るい声をあげて飲み物を勧める。
「あらヤダ! グラス空っぽじゃないの。やぁねぇ、すぐ新しいの作るわね」
つい先ほど、麻子が銀行を辞めたという衝撃の事実で、全てのグラスをオカマたちが飲み干していたのだった。
理沙はマルコにぎこちない笑顔を向けながら、オカマたちの間に流れる微妙な空気を感じて取っていた。
つかさたちは、ここに来さえすればいろいろなことを教えてくれるはずだと言っていた。しかしそれは間違いだったのか・・・。
すっかり考え込んでしまった理沙に身体を向け、サツキはゆっくりと口を開いた。
「理沙さん、この隣のビルに『新宿メンタルクリニック』という精神科の病院があるのを知ってるかしら」
サツキの思わぬ言葉に、『紫頭巾』の空気が一気に張り詰めた。
理沙は戸惑いながら答える。
「・・・いえ、知りません」
「そこのクリニックの先生は、岩田陽平っていう人よ。彼は麻子さんの中学時代の同級生で、今お姉さんとお付き合いをしている人なの」
「ママ・・・そんなこと言っちゃって大丈夫なの?」
リリィが心配そうに囁く。
サツキは大きく息を吐き出すと、リリィに疲れたような笑みを向けた。
「仕方がないわ。こうなったら覚悟を決めましょう」
2009年01月12日
4
三友銀行本店前で、理沙は麻子の携帯に電話をかけた。案の定コール音のあとに留守番電話サービスセンターに繋がった。
ため息を吐いて電話を切り、すぐさまもう一度かける。今度は三友銀行本店人事部人事課への直通電話だ。3回ほどコール音が続いたあと、若々しい女性の声が聞こえた。
「お世話になっております。三友銀行本店人事課の川崎でございます」
三友銀行では、新人の電話研修の時必ず叩き込まれることがある。それはまず、最初に自分の部署と名前を名乗れということだ。
理沙には川崎という名前に聞き覚えがあった。確か随分前に麻子から聞いたことがある。おっちょこちょいだけど可愛らしい新人が入ってきたというのだ。
電話研修で名前を名乗れと言われ、「お世話になっております。三友銀行人事課のつかさでございます!」と張り切って答えたらしい。
「川崎さんにとって名前っていうのは下の名前のことで、苗字じゃなかったみたいなの」と、麻子は可笑しそうにクスクスと笑いながら教えてくれた。その後も麻子の話には度々川崎の名前が混じるようになった。もしかして彼女なら何かを知っているかもしれない。
理沙はゴクリと唾を飲み込みオズオズと尋ねた。
「あの・・・申し訳ありません。川崎つかささんでしょうか?」
戸惑ったような間のあと、つかさが怪訝そうに言った。
「・・・はい。そうですけどどちら様でしょうか」
「野村です。野村麻子の妹の、野村理沙と申します」
電話の向こう側で、息を呑むような音が聞こえた。理沙はそれを聞いた途端、麻子が銀行を辞めたという昨日の電話は事実なのだと分かった。
「お願いです川崎さん、電話を切らないで下さい! あの・・・会っていただけませんか? 姉はいつ銀行を辞めたんでしょうか? 部屋にはしばらく帰ってないみたいなんです。姉が辞めた理由をご存知じゃありませんか? お願いです! 会って下さい。昨日家に変な電話がかかってきて私・・・」
勢い込んで喋りすぎ、理沙は思わず咳き込んだ。咳をしていると涙も一緒に流れてきた。この隙に電話を切られたらいけないと、喉を詰まらせながらも話し続ける。
「お願いです。会っていただけ、ませんか? 今銀行の前、まで来てるんです!」
しばらくの沈黙のあと、つかさは少しだけ声を落として言った。
「あと40分ほどで昼休みに入ります。このビルの正面を背にして、左に少し行くと『Well Cafe』という喫茶店がありますから、そこで待っててもらえませんか?」
「ありがとうございます! お待ちしてます」
約50分後、つかさは美鈴を伴って理沙の待つ『Well Cafe』のドアを開けた。
昼時ということもあって、『Well Cafe』は大層混み合っていた。
お互いの顔がわからない状況で、おまけに携帯電話の番号も交換し忘れていた。困ったなぁとつかさがキョロキョロと辺りを見回していると、美鈴が奥まった窓際の席を指差した。
「いた。たぶん彼女だと思う」
とても可愛らしい雰囲気の女性が、窓から外を見つめていた。
麻子とは人に与える印象がまるで違うけれど、横顔には面影がある。細く小柄な身体を包むバーバリーチェックのワンピースがよく似合う。清楚で可憐なお嬢さんという雰囲気だった。
「お待たせしました。野村さんですよね。川崎です。こちらは先輩の浅倉さんです」
「すいません、一緒に来ちゃって。お姉さんにはとてもお世話になりました。浅倉美鈴です」
「こちらこそ突然尋ねて行って申し訳ありませんでした。野村理沙です、はじめまして」
つかさと美鈴が一通り注文を済ませると、理沙は改まって2人に尋ねた。
「あの、姉が銀行を辞めたっていうのは本当なんでしょうか」
つかさは美鈴と気まずそうに視線を合わせたあと、口を開いた。
「・・・2週間くらい前です。全然知らなかったんですか?」
「・・・はい・・・」
「先ほどお電話でおっしゃっていた、変な電話ってなんなんですか?」
理沙は、つかさと美鈴に昨日の電話の内容を話して聞かせた。
「噂っていったいなんなのかおわかりですか? それが本当に姉が銀行を辞めた理由なんでしょうか? それから、電話の男は誰なんでしょう。電話の内容を考えると、銀行関係者だと思うんです。でも口の利き方に気を付けろとか、男をないがしろにすると痛い目に遭うとか、ただの仕事仲間とは思えません。わかることはなんでもいいですから教えていただけませんか? それと、姉が行きそうな場所ってどこかわかりませんか? ・・・私、どうしても姉に会いたいんです。会わなきゃいけないんです。教えてください! お願いします!」
理沙はテーブルに額が付きそうなくらいに頭を下げた。
突然降って湧いた大量の質問に、つかさたちは途方に暮れた。どこまで答えていいのか、それとも何も言わない方がいいのか・・・。
ほんの少しの間のあと、美鈴がおもむろに口を開いた。
「あの・・・理沙さん。申し訳ないんですけど、ここでは詳しくお話しする時間もないし、銀行の人が来るかもしれません。なのでもしお時間がありましたら、今日の夜もう一度お会いできませんか? 野村さんがよく行ってた場所にお連れします。『紫頭巾』っていうオカマバーなんですけど・・・」
ため息を吐いて電話を切り、すぐさまもう一度かける。今度は三友銀行本店人事部人事課への直通電話だ。3回ほどコール音が続いたあと、若々しい女性の声が聞こえた。
「お世話になっております。三友銀行本店人事課の川崎でございます」
三友銀行では、新人の電話研修の時必ず叩き込まれることがある。それはまず、最初に自分の部署と名前を名乗れということだ。
理沙には川崎という名前に聞き覚えがあった。確か随分前に麻子から聞いたことがある。おっちょこちょいだけど可愛らしい新人が入ってきたというのだ。
電話研修で名前を名乗れと言われ、「お世話になっております。三友銀行人事課のつかさでございます!」と張り切って答えたらしい。
「川崎さんにとって名前っていうのは下の名前のことで、苗字じゃなかったみたいなの」と、麻子は可笑しそうにクスクスと笑いながら教えてくれた。その後も麻子の話には度々川崎の名前が混じるようになった。もしかして彼女なら何かを知っているかもしれない。
理沙はゴクリと唾を飲み込みオズオズと尋ねた。
「あの・・・申し訳ありません。川崎つかささんでしょうか?」
戸惑ったような間のあと、つかさが怪訝そうに言った。
「・・・はい。そうですけどどちら様でしょうか」
「野村です。野村麻子の妹の、野村理沙と申します」
電話の向こう側で、息を呑むような音が聞こえた。理沙はそれを聞いた途端、麻子が銀行を辞めたという昨日の電話は事実なのだと分かった。
「お願いです川崎さん、電話を切らないで下さい! あの・・・会っていただけませんか? 姉はいつ銀行を辞めたんでしょうか? 部屋にはしばらく帰ってないみたいなんです。姉が辞めた理由をご存知じゃありませんか? お願いです! 会って下さい。昨日家に変な電話がかかってきて私・・・」
勢い込んで喋りすぎ、理沙は思わず咳き込んだ。咳をしていると涙も一緒に流れてきた。この隙に電話を切られたらいけないと、喉を詰まらせながらも話し続ける。
「お願いです。会っていただけ、ませんか? 今銀行の前、まで来てるんです!」
しばらくの沈黙のあと、つかさは少しだけ声を落として言った。
「あと40分ほどで昼休みに入ります。このビルの正面を背にして、左に少し行くと『Well Cafe』という喫茶店がありますから、そこで待っててもらえませんか?」
「ありがとうございます! お待ちしてます」
約50分後、つかさは美鈴を伴って理沙の待つ『Well Cafe』のドアを開けた。
昼時ということもあって、『Well Cafe』は大層混み合っていた。
お互いの顔がわからない状況で、おまけに携帯電話の番号も交換し忘れていた。困ったなぁとつかさがキョロキョロと辺りを見回していると、美鈴が奥まった窓際の席を指差した。
「いた。たぶん彼女だと思う」
とても可愛らしい雰囲気の女性が、窓から外を見つめていた。
麻子とは人に与える印象がまるで違うけれど、横顔には面影がある。細く小柄な身体を包むバーバリーチェックのワンピースがよく似合う。清楚で可憐なお嬢さんという雰囲気だった。
「お待たせしました。野村さんですよね。川崎です。こちらは先輩の浅倉さんです」
「すいません、一緒に来ちゃって。お姉さんにはとてもお世話になりました。浅倉美鈴です」
「こちらこそ突然尋ねて行って申し訳ありませんでした。野村理沙です、はじめまして」
つかさと美鈴が一通り注文を済ませると、理沙は改まって2人に尋ねた。
「あの、姉が銀行を辞めたっていうのは本当なんでしょうか」
つかさは美鈴と気まずそうに視線を合わせたあと、口を開いた。
「・・・2週間くらい前です。全然知らなかったんですか?」
「・・・はい・・・」
「先ほどお電話でおっしゃっていた、変な電話ってなんなんですか?」
理沙は、つかさと美鈴に昨日の電話の内容を話して聞かせた。
「噂っていったいなんなのかおわかりですか? それが本当に姉が銀行を辞めた理由なんでしょうか? それから、電話の男は誰なんでしょう。電話の内容を考えると、銀行関係者だと思うんです。でも口の利き方に気を付けろとか、男をないがしろにすると痛い目に遭うとか、ただの仕事仲間とは思えません。わかることはなんでもいいですから教えていただけませんか? それと、姉が行きそうな場所ってどこかわかりませんか? ・・・私、どうしても姉に会いたいんです。会わなきゃいけないんです。教えてください! お願いします!」
理沙はテーブルに額が付きそうなくらいに頭を下げた。
突然降って湧いた大量の質問に、つかさたちは途方に暮れた。どこまで答えていいのか、それとも何も言わない方がいいのか・・・。
ほんの少しの間のあと、美鈴がおもむろに口を開いた。
「あの・・・理沙さん。申し訳ないんですけど、ここでは詳しくお話しする時間もないし、銀行の人が来るかもしれません。なのでもしお時間がありましたら、今日の夜もう一度お会いできませんか? 野村さんがよく行ってた場所にお連れします。『紫頭巾』っていうオカマバーなんですけど・・・」
2009年01月04日
3
理沙がつかさと美鈴に連れられ『紫頭巾』を訪れた前日・・・。
トゥルルルル、トゥルルルル、トゥルルルル・・・。
理沙はリビングに急ぎ、受話器を取り上げた。
「もしもし、野村さんのお宅ですか?」
低い男の声だった。理沙は目が不自由だったせいもありとても耳がいい。一度聞いたことのある声を忘れることはほとんどなかったが、この声を聞いたのは初めてだと思った。なんとなく陰湿な響きをしている。セールスマンじゃないな・・・。
「そうですが、どちら様でしょうか?」
「・・・野村麻子が新宿でやりまくってるって噂になってるぞ。そのせいで銀行も辞めたよ。状況的には辞めざるを得なかったってことだろうけどな。噂っていうのはあっという間に広がるもんだ。・・・いいか、これからは口の利き方に気を付けろって言っておけ。男をないがしろにすると痛い目に遭うってな」
男はそれだけ言うと、ブチっと電話を切った。
理沙は驚きのあまりひと言も口をはさむことができなかった。
お姉ちゃんが銀行を辞めた? 男をないがしろにする? 意味がわからない。新宿でやりまくってる噂ってなに? やりまくるってなにを? 男が言った「噂」という言葉が気になる。それが原因でお姉ちゃんが銀行を辞めた・・・。いったい何が起こったというのか。
とにかく一刻も早くお姉ちゃんに会わなければならない。もうすぐ夕方の6時を回る。もし銀行を辞めているのだとしたら家にいるかもしれない。
理沙は無我夢中で支度をして家を飛び出し、タクシーを止めた。
理沙の心臓はバクバクと悲鳴を上げ、言い知れぬ不安が胸一杯に広がっていた。
高田馬場近辺の明治通り沿いでタクシーを降りる。目の前に小奇麗な7階建てのマンションが建っていた。前に純也とドライブをした時、麻子の部屋はこのマンションの5階の左から3番目だと教えられた。見上げると、窓からの明かりはない。理沙はほんの少しだけホッとした。忙しい麻子は、平日の7時前に家にいることなど滅多にない。つまり銀行を辞めたというのはデマだったのだ。
高鳴る心臓を抑えながら、理沙は必死でそう思い込もうとしていた。しかし陰湿でねっとりと響く電話の声は、理沙に真実の響きをもたらしていた。
ずっと耳だけを頼りに生きてきた理沙の耳は、人の声の調子やニュアンスなどをとても敏感に感じ取れるようになっている。理沙の瞳からは、いつの間にか大粒の涙がポロポロと流れ出していた。
理沙は玄関ホールのオートロックに503と打ち込んだ。・・・応答はない。やはりいないのだ。数回押してみたが出る気配はない。
ふと玄関ホールの端に目を留めると、そこにはマンションのポストボックスがあった。近寄ってみると、503と書かれたポストからは、大量の新聞が入りきらずに飛び出していた。どう見ても1週間以上は家に帰ってないようだ。
お姉ちゃんはどこへ行ってしまったのだろうか。もしかしたら出張? それとも会社に泊まりこみ? ありえないと思いながらも考えてみる。
どこへ行けば麻子に会えるのだろう。考えてみればもう2年近く会ってはいない。ここ1年あまり、声さえ聞いていないように思う。唯一麻子の声を聞けるのは、留守番電話の応答メッセージだけ。いつからこんな関係になってしまったのか。自分の何が気に入らないのか。・・・本当に、あの電話の男が言ったことは真実なのか。噂とはいったいなんなのか。わからない。何もかもわからなくなってしまった。
目が不自由だった時、理沙は自分の耳を信じていた。目が見えるようになった今、その耳から入ってくる音さえも、全てが自分を裏切っていくように感じる。
理沙の全身は、何もかもを見失ってしまったような不安に震え、ただただその場にしゃがみ込むことしかできなかった。
翌朝定期検診を受けたその足で、理沙はたったひとり三友銀行本店に向かった。
トゥルルルル、トゥルルルル、トゥルルルル・・・。
理沙はリビングに急ぎ、受話器を取り上げた。
「もしもし、野村さんのお宅ですか?」
低い男の声だった。理沙は目が不自由だったせいもありとても耳がいい。一度聞いたことのある声を忘れることはほとんどなかったが、この声を聞いたのは初めてだと思った。なんとなく陰湿な響きをしている。セールスマンじゃないな・・・。
「そうですが、どちら様でしょうか?」
「・・・野村麻子が新宿でやりまくってるって噂になってるぞ。そのせいで銀行も辞めたよ。状況的には辞めざるを得なかったってことだろうけどな。噂っていうのはあっという間に広がるもんだ。・・・いいか、これからは口の利き方に気を付けろって言っておけ。男をないがしろにすると痛い目に遭うってな」
男はそれだけ言うと、ブチっと電話を切った。
理沙は驚きのあまりひと言も口をはさむことができなかった。
お姉ちゃんが銀行を辞めた? 男をないがしろにする? 意味がわからない。新宿でやりまくってる噂ってなに? やりまくるってなにを? 男が言った「噂」という言葉が気になる。それが原因でお姉ちゃんが銀行を辞めた・・・。いったい何が起こったというのか。
とにかく一刻も早くお姉ちゃんに会わなければならない。もうすぐ夕方の6時を回る。もし銀行を辞めているのだとしたら家にいるかもしれない。
理沙は無我夢中で支度をして家を飛び出し、タクシーを止めた。
理沙の心臓はバクバクと悲鳴を上げ、言い知れぬ不安が胸一杯に広がっていた。
高田馬場近辺の明治通り沿いでタクシーを降りる。目の前に小奇麗な7階建てのマンションが建っていた。前に純也とドライブをした時、麻子の部屋はこのマンションの5階の左から3番目だと教えられた。見上げると、窓からの明かりはない。理沙はほんの少しだけホッとした。忙しい麻子は、平日の7時前に家にいることなど滅多にない。つまり銀行を辞めたというのはデマだったのだ。
高鳴る心臓を抑えながら、理沙は必死でそう思い込もうとしていた。しかし陰湿でねっとりと響く電話の声は、理沙に真実の響きをもたらしていた。
ずっと耳だけを頼りに生きてきた理沙の耳は、人の声の調子やニュアンスなどをとても敏感に感じ取れるようになっている。理沙の瞳からは、いつの間にか大粒の涙がポロポロと流れ出していた。
理沙は玄関ホールのオートロックに503と打ち込んだ。・・・応答はない。やはりいないのだ。数回押してみたが出る気配はない。
ふと玄関ホールの端に目を留めると、そこにはマンションのポストボックスがあった。近寄ってみると、503と書かれたポストからは、大量の新聞が入りきらずに飛び出していた。どう見ても1週間以上は家に帰ってないようだ。
お姉ちゃんはどこへ行ってしまったのだろうか。もしかしたら出張? それとも会社に泊まりこみ? ありえないと思いながらも考えてみる。
どこへ行けば麻子に会えるのだろう。考えてみればもう2年近く会ってはいない。ここ1年あまり、声さえ聞いていないように思う。唯一麻子の声を聞けるのは、留守番電話の応答メッセージだけ。いつからこんな関係になってしまったのか。自分の何が気に入らないのか。・・・本当に、あの電話の男が言ったことは真実なのか。噂とはいったいなんなのか。わからない。何もかもわからなくなってしまった。
目が不自由だった時、理沙は自分の耳を信じていた。目が見えるようになった今、その耳から入ってくる音さえも、全てが自分を裏切っていくように感じる。
理沙の全身は、何もかもを見失ってしまったような不安に震え、ただただその場にしゃがみ込むことしかできなかった。
翌朝定期検診を受けたその足で、理沙はたったひとり三友銀行本店に向かった。
2008年12月28日
2
「こんばんはぁ・・・」
「つかさちゃんじゃないの! ご無沙汰ねぇ。元気だった?」
ダンボが嬉しそうに声をかけた。
つかさと美鈴は、純也を最悪のタイミングで陽平に出会わせてしまってからというもの、なんとなく責任を感じて店から足が遠のいていた。
「うん・・・私は元気。えっと、まだお客さん誰も来てないよね」
つかさは店の入口に立ったまま、客の入りを確かめるように店内を見回した。
まだ開店間もない午後8時ちょっとすぎ。『紫頭巾』が賑わいをみせるのはいつももう少しあとになってからだ。
「そんなところで突っ立ってないで入ったら?」
ダンボがそう言うと、つかさはヘヘッと笑いながら入ってきた。
つかさのあとから、美鈴が見慣れない女の子をひとり連れて入ってくる。それを見たサツキは、満面の笑みで3人を迎えた。
「あらぁ、美鈴ちゃん! 新しいお客さんを連れてきてくれたの? 会社の後輩かしら? さぁさぁここに座って。とりあえずビールでいい? それとも焼酎?」
美鈴が連れてきた女の子は、このような店に入るのは初めてのようで、サツキたちのいつもの濃〜いメイクや紫に統一された服装と店内を、落ち着かなげに見回している。23、4歳と思われる女の子は、可憐で初々しい空気を醸し出し、『紫頭巾』には思いっきり場違いだった。
サツキは女の子と目が合った瞬間、誰かに似ていると思った。他のオカマたちも同様の印象を持ったらしい。つかさたちが席に着いた途端、オカマ全員で3人を取り囲み、ジロジロと遠慮などどこにも存在しないといった視線で彼女を眺めまくった。
マルコは以前美鈴がキープした焼酎のボトルから、3人にウーロン茶割りを作りながら言った。
「ねぇねぇ、彼女芸能人の誰かに似てるって言われない? なんか見たことある気がするのよねぇ」
「あたしもそう思ったの! やっぱりマルコちゃんも思ってたのね」
「リリィちゃんも?!」
「誰かしら? ねぇダンボちゃん、誰だと思う?」
「う〜ん・・・」
その会話を聞きながら、つかさと美鈴はこそこそと『あんた言いなさいよ、え〜言ってくださいよぉ』とのジェスチャーを繰り広げていた。
それに気づいたダンボが「何? なんかあったの?」と尋ねると、美鈴は仕方なく口を開いた。
「えっと、彼女は会社の後輩とかじゃないの。あの・・・物凄く言い難いんだけど・・・野村さんの妹さん・・・なの」
「野村理沙です。はじめまして」
驚いたのはオカマたちだ。
なんで野村さんの妹がここに来るの? 自分たちはもうあの件には首を突っ込まないようにしようと決めたのよ。困るわ! 困るわよぉ! と蜂の巣を突いたような大騒ぎを見せ、動揺しまくった挙句に3人のために作ったウーロン茶割りをつかみ上げ、おもむろにゴクゴクと呑み干した。
ウーロン茶割りのおかげで少しだけ冷静さを取り戻したサツキは、理沙の様子を伺いながらオズオズと尋ねた。
「あの・・・美鈴ちゃん? いったいどういうことなのかしら?」
「それは・・・」
理沙が美鈴を庇うように言った。
「私が突然銀行に押しかけたのがいけないんです。姉が銀行を辞めたって聞いて私・・・」
「え〜!!! 銀行を辞めたぁ〜!!!」
驚きの末に出たオカマたちのびっくり声は、表を歩いていた通行人7人の耳を難聴にさせた。
「つかさちゃんじゃないの! ご無沙汰ねぇ。元気だった?」
ダンボが嬉しそうに声をかけた。
つかさと美鈴は、純也を最悪のタイミングで陽平に出会わせてしまってからというもの、なんとなく責任を感じて店から足が遠のいていた。
「うん・・・私は元気。えっと、まだお客さん誰も来てないよね」
つかさは店の入口に立ったまま、客の入りを確かめるように店内を見回した。
まだ開店間もない午後8時ちょっとすぎ。『紫頭巾』が賑わいをみせるのはいつももう少しあとになってからだ。
「そんなところで突っ立ってないで入ったら?」
ダンボがそう言うと、つかさはヘヘッと笑いながら入ってきた。
つかさのあとから、美鈴が見慣れない女の子をひとり連れて入ってくる。それを見たサツキは、満面の笑みで3人を迎えた。
「あらぁ、美鈴ちゃん! 新しいお客さんを連れてきてくれたの? 会社の後輩かしら? さぁさぁここに座って。とりあえずビールでいい? それとも焼酎?」
美鈴が連れてきた女の子は、このような店に入るのは初めてのようで、サツキたちのいつもの濃〜いメイクや紫に統一された服装と店内を、落ち着かなげに見回している。23、4歳と思われる女の子は、可憐で初々しい空気を醸し出し、『紫頭巾』には思いっきり場違いだった。
サツキは女の子と目が合った瞬間、誰かに似ていると思った。他のオカマたちも同様の印象を持ったらしい。つかさたちが席に着いた途端、オカマ全員で3人を取り囲み、ジロジロと遠慮などどこにも存在しないといった視線で彼女を眺めまくった。
マルコは以前美鈴がキープした焼酎のボトルから、3人にウーロン茶割りを作りながら言った。
「ねぇねぇ、彼女芸能人の誰かに似てるって言われない? なんか見たことある気がするのよねぇ」
「あたしもそう思ったの! やっぱりマルコちゃんも思ってたのね」
「リリィちゃんも?!」
「誰かしら? ねぇダンボちゃん、誰だと思う?」
「う〜ん・・・」
その会話を聞きながら、つかさと美鈴はこそこそと『あんた言いなさいよ、え〜言ってくださいよぉ』とのジェスチャーを繰り広げていた。
それに気づいたダンボが「何? なんかあったの?」と尋ねると、美鈴は仕方なく口を開いた。
「えっと、彼女は会社の後輩とかじゃないの。あの・・・物凄く言い難いんだけど・・・野村さんの妹さん・・・なの」
「野村理沙です。はじめまして」
驚いたのはオカマたちだ。
なんで野村さんの妹がここに来るの? 自分たちはもうあの件には首を突っ込まないようにしようと決めたのよ。困るわ! 困るわよぉ! と蜂の巣を突いたような大騒ぎを見せ、動揺しまくった挙句に3人のために作ったウーロン茶割りをつかみ上げ、おもむろにゴクゴクと呑み干した。
ウーロン茶割りのおかげで少しだけ冷静さを取り戻したサツキは、理沙の様子を伺いながらオズオズと尋ねた。
「あの・・・美鈴ちゃん? いったいどういうことなのかしら?」
「それは・・・」
理沙が美鈴を庇うように言った。
「私が突然銀行に押しかけたのがいけないんです。姉が銀行を辞めたって聞いて私・・・」
「え〜!!! 銀行を辞めたぁ〜!!!」
驚きの末に出たオカマたちのびっくり声は、表を歩いていた通行人7人の耳を難聴にさせた。
2008年12月21日
第4章 1
新宿歌舞伎町の月曜深夜3時過ぎ。
いかにも夜の職業についてます的な女の子数人が、今夜もリリィの占い屋に列を作っている。
「先生! ちゃんと聞いてます?」
占い中だというのに、リリィはボーッと考えごとをしていた。
目の下には濃いクマがあり、長期間の寝不足を物語っている。
純也と会い、信じられないような話を聞いてからもう1ヶ月近くが経っていた。陽平はこちらで対処すると言ったきり何も言ってはこない。いったい今はどうなっているのかとリリィは気になって仕方がなかった。つかさと美鈴もあれから一度も店に顔を見せない。そのうえママから、当分『新宿メンタルクリニック』へ行ってはいけないし、この問題に首を突っ込むことも禁止と言われてしまった。もうクリニックの玄関に鍵はかかってないし、行けばなにかしらの情報が得られるはずなのにそれもできない。リリィの目の下のクマは、我慢がついに限界に達した証拠で、ここ一週間ばかり、寝る時間を削っていろいろ調べていたのだ。
純也の話を聞き終わった時、陽平は確かにこう言った。
「こちらで対処の方法を考えます」
あの様子を見た限りでは、麻子がなんらかの病気にかかっていることは間違いないと思う。そしてそれは、当初麻子が言っていたただの不眠症ではないはずだ。ではいったい何の病気なのだろう。パソコンでの検索や書籍等を駆使し、リリィはできうる限りの方法で調べまくった。
リリィはあの日の自分の行動を後悔していた。後先考えず純也をみんなに紹介し、話を聞かせた。もちろんあの時はそうすべきだと思ったからだ。
あのままでは先生がかわいそうだ。麻子さんは先生と付き合っていながら、繰り返し他の男と寝ている。いくらなんでもあんまりではないか。
もちろんその行動に辻褄の合わなさを感じてはいても、麻子の行為はひどすぎると思った。先生を裏切るものだと怒りが込み上げていた。だからこそみんなに話を聞かせ、先生に真実を見てもらい、目を覚ましてほしかったのだ。先生の選んだ人はこんなひどいことをしてますよ。淫乱で最低の尻軽女ですよ。
でもあの時ママはこう言った。
「行動には全て原因があって、それがわからないうちは何も言えないわ。もしかして本当にかわいそうなのは、先生ではなく野村さんかもしれないのよ」
そんなママの言葉の意味を理解する前に先生が店にやってきてしまった。自分が純也を連れて行ったことで、最悪の形で全てを知らせる結果となった。
自分はなんてバカだったんだろう。なんて考え足らずだったんだろうかとリリィは思っていた。
だからこそ知りたいと思った。知らなかったんだから仕方がない。そう言ってしまうのは簡単だ。だが無知というのは、悪気がないだけに一番罪深いのではないか。わかったからといって何もできないかもしれない。けれどももしかしたら、自分にも何か力になれることがあるかもしれない。
そして昨日の明け方、ついにリリィは、麻子の病気は『セックス依存症』なのではないかとの結論に達した。
リリィはそんな病気があることなどこれっぽっちも知らなかったが、純也の話や美鈴の話、そして自分が寝食を忘れて調べつくした結果、全てはそれを示していたのだ。
里山の話では、つい最近麻子は『新宿メトロプラザホテル』から出入り禁止となったらしい。
いったい麻子はなぜそんな病気になってしまったのだろう。その原因はどこにあるのか?
わからない。自分にはまるでわからない。
でも、自分は何もわかっていないのだと知ることは、決して悪いことじゃないのだとリリィは思っていた。
「先生ったら! 早く占ってください」
「えっ? ああ・・・」
リリィはボーッと水晶玉を見つめていたが、全く占いに集中できない自分を感じた。集中できないのだから、いくら水晶玉を凝視しても何も見えてはこない。
ふと顔を上げると、諦めたような顔で帰っていく数人の女の子が見えた。
「リリィ先生最近おかしいよ。どうかしちゃったみたい」
「失恋かなぁ?」
「恋愛専門の占い師が?」
「ほら、占い師って自分のことは占えないって言うじゃん」
「並んでても無駄だよぉ」
列の前の方にいた女の子が、後ろの子たちに声をかけた。
自分のことは占えないか・・・。自分を知るって一番難しかったんだわ。『自分のことは自分が一番よくわかってる』と言う人は結構いるけど、それは違うわね。だって本当にそうならこんなに占いが流行るわけないもん。あ〜あ・・・誰か私がこれからどうすればいいのか占ってくれないかしら。
リリィは本日108回目の大きなため息を漏らすと、肩をがっくりと落として落ち込んだ。
いかにも夜の職業についてます的な女の子数人が、今夜もリリィの占い屋に列を作っている。
「先生! ちゃんと聞いてます?」
占い中だというのに、リリィはボーッと考えごとをしていた。
目の下には濃いクマがあり、長期間の寝不足を物語っている。
純也と会い、信じられないような話を聞いてからもう1ヶ月近くが経っていた。陽平はこちらで対処すると言ったきり何も言ってはこない。いったい今はどうなっているのかとリリィは気になって仕方がなかった。つかさと美鈴もあれから一度も店に顔を見せない。そのうえママから、当分『新宿メンタルクリニック』へ行ってはいけないし、この問題に首を突っ込むことも禁止と言われてしまった。もうクリニックの玄関に鍵はかかってないし、行けばなにかしらの情報が得られるはずなのにそれもできない。リリィの目の下のクマは、我慢がついに限界に達した証拠で、ここ一週間ばかり、寝る時間を削っていろいろ調べていたのだ。
純也の話を聞き終わった時、陽平は確かにこう言った。
「こちらで対処の方法を考えます」
あの様子を見た限りでは、麻子がなんらかの病気にかかっていることは間違いないと思う。そしてそれは、当初麻子が言っていたただの不眠症ではないはずだ。ではいったい何の病気なのだろう。パソコンでの検索や書籍等を駆使し、リリィはできうる限りの方法で調べまくった。
リリィはあの日の自分の行動を後悔していた。後先考えず純也をみんなに紹介し、話を聞かせた。もちろんあの時はそうすべきだと思ったからだ。
あのままでは先生がかわいそうだ。麻子さんは先生と付き合っていながら、繰り返し他の男と寝ている。いくらなんでもあんまりではないか。
もちろんその行動に辻褄の合わなさを感じてはいても、麻子の行為はひどすぎると思った。先生を裏切るものだと怒りが込み上げていた。だからこそみんなに話を聞かせ、先生に真実を見てもらい、目を覚ましてほしかったのだ。先生の選んだ人はこんなひどいことをしてますよ。淫乱で最低の尻軽女ですよ。
でもあの時ママはこう言った。
「行動には全て原因があって、それがわからないうちは何も言えないわ。もしかして本当にかわいそうなのは、先生ではなく野村さんかもしれないのよ」
そんなママの言葉の意味を理解する前に先生が店にやってきてしまった。自分が純也を連れて行ったことで、最悪の形で全てを知らせる結果となった。
自分はなんてバカだったんだろう。なんて考え足らずだったんだろうかとリリィは思っていた。
だからこそ知りたいと思った。知らなかったんだから仕方がない。そう言ってしまうのは簡単だ。だが無知というのは、悪気がないだけに一番罪深いのではないか。わかったからといって何もできないかもしれない。けれどももしかしたら、自分にも何か力になれることがあるかもしれない。
そして昨日の明け方、ついにリリィは、麻子の病気は『セックス依存症』なのではないかとの結論に達した。
リリィはそんな病気があることなどこれっぽっちも知らなかったが、純也の話や美鈴の話、そして自分が寝食を忘れて調べつくした結果、全てはそれを示していたのだ。
里山の話では、つい最近麻子は『新宿メトロプラザホテル』から出入り禁止となったらしい。
いったい麻子はなぜそんな病気になってしまったのだろう。その原因はどこにあるのか?
わからない。自分にはまるでわからない。
でも、自分は何もわかっていないのだと知ることは、決して悪いことじゃないのだとリリィは思っていた。
「先生ったら! 早く占ってください」
「えっ? ああ・・・」
リリィはボーッと水晶玉を見つめていたが、全く占いに集中できない自分を感じた。集中できないのだから、いくら水晶玉を凝視しても何も見えてはこない。
ふと顔を上げると、諦めたような顔で帰っていく数人の女の子が見えた。
「リリィ先生最近おかしいよ。どうかしちゃったみたい」
「失恋かなぁ?」
「恋愛専門の占い師が?」
「ほら、占い師って自分のことは占えないって言うじゃん」
「並んでても無駄だよぉ」
列の前の方にいた女の子が、後ろの子たちに声をかけた。
自分のことは占えないか・・・。自分を知るって一番難しかったんだわ。『自分のことは自分が一番よくわかってる』と言う人は結構いるけど、それは違うわね。だって本当にそうならこんなに占いが流行るわけないもん。あ〜あ・・・誰か私がこれからどうすればいいのか占ってくれないかしら。
リリィは本日108回目の大きなため息を漏らすと、肩をがっくりと落として落ち込んだ。