2008年12月14日

11

 純也は全てを話し終え、黙り込んでひと言も口をはさもうとしなかった陽平を見つめた。
 あまりのショックで頭が混乱し、つかさや美鈴も口を開こうとしない。
 『紫頭巾』には、いまだかつてないほどの暗い緊張が張り詰めていた。

 陽平は純也の話を笑い飛ばそうとした。
 そんな話はバカげている。麻子がそんなことをするはずがないし、する必要もない。自分は麻子の彼であると同時に主治医でもある。なぜその自分が何も知らないのか? ありえない。その話は全て嘘か勘違いだ。そうだ、そうに決まっている。
 陽平は思いっきり笑おうとした。お腹を抱えて笑おうとした。しかし、笑おうとする口元は歪んでいくばかりで、微笑むことすらできない。陽平には思い当たることがあまりにも多すぎたのだ。
 麻子と付き合い出して3ヶ月、相変わらず麻子と外で会ったことはない。それどころか、部屋の中ですら、食事をしたことも、音楽を聴いたり映画を観たりといった、普通の恋人同士なら当たり前にすることを、今まで一切してこなかった。
 麻子は会った途端に服を脱ぎ捨て、セックスをせまる。麻子から漏れる『愛してる』という言葉を聞きたいがために、暖かい身体のぬくもりに触れたいがために、陽平は黙って麻子に従う。
 こんなことはいけないとわかっていた。麻子は病気だ。セックス依存症なのだ。
 陽平の頭はそう確信していた。だが心はその考えに霧をかけ、見ないようにしていた。
 ・・・それも終わりにしなければならない。これ以上こんな関係を続けていたら、麻子の病気はますます悪くなる一方だ。
 セックス依存症はそのひとつの症状、つまり今の麻子のように、知らない男とのセックスを繰り返すという行動を取り続けた場合、性病を患ったり、危険なことに巻き込まれる可能性が非常に高いのだ。だからどうしてもその前に止めさせなければならない。
 わかっている。わかり過ぎるほどわかっていながら、陽平の心は切ない悲鳴をあげていた。
 麻子の心が自分に向いていなくても、肌を合わせている時の麻子はあまりにも暖かく愛しかった。どんどん独りぼっちになっていく心と反比例して、身体はますます熱くなっていった。飽きることなく麻子を求め、むさぼった。こんな恋愛関係はおかしい、普通じゃないとわかっていながら、どうしても止めることができなかった。セックスを拒絶したら、麻子は自分の元を去っていくのではないか。それがどうしようもなく怖かった。
 なぜこんなことになってしまったんだろう。麻子はなぜ自分と付き合い始めたのか。麻子にとって、自分はいったいどんな存在なのだろうか。
 陽平はその答えを、どうしても麻子の口から聞きたかった。そして、絶対に聞きたくなかった・・・。

「先生・・・大丈夫ですか?」
 ジッと下を向いたまま黙り込んでいる陽平に、マルコがオズオズと声をかけた。
 陽平は、心配そうに彼を見つめる一同にぎこちない笑顔を見せると、医者としての態度を取り繕った。
「・・・大丈夫ですよ。心配しないで下さい。田島さん、話して頂いてよかったです。こちらで対処の方法を考えます。妹さんにはまだおっしゃらない方がいいでしょう」
「対処、ですか?」
 対処・・・それはいったい何をすることなのだろうかと純也は思った。
「詳しいことは申し上げられませんが、一刻も早くなんとかしなくてはと思っています」
「それは、お義姉さんが病気だということですか? いったい何の病気なんです?」
「・・・守秘義務というものがありますのでそれは言えません。野村さんと会って話をしなければ、私にも正確なところはわからないんです」
「でもお義姉さんは、今までずっと先生の診察を受けてたんですよね? なのになぜわからないんですか?」
 純也の純粋な疑問が、陽平にはまるで、自分を責めているように感じられた。
 そうだ。この人の言う通りだ。あれだけずっと麻子を診ていながら、自分はいったい何をしてきたのだろうか。
 麻子はあんなに眠ることを嫌がっていた。夢を見ることを怖がっていた。そこに大きなヒントがあったのではないか。麻子をそこまで追い込んだ原因はどこにあるのか。どうしてもっとちゃんと追求しなかったのだろう。それに、原因はどうあれ、自分は麻子がセックス依存症であることをとっくに気付いていたはずではないのか。セックス依存症患者にとって、セックスの衝動を抑えることが一番大事であるはずなのに、全く止めさせることができなかったばかりか、一緒になって溺れていった。どうしてあの時すぐに対処をしなかったのか。麻子が自分から離れていくかもしれないという恐ろしさに、その時一番しなければならなかったことから目を背けた。麻子の心がボロボロになるかもしれないのに、麻子の身体に危険が及ぶかもしれないのに、その全てに目を背け、自分が心地いいと感じることだけを選択した。自分には麻子を愛する資格も、ましてや主治医である資格などない・・・。
 陽平の心は、自分への絶望感に叫び出しそうだった。生まれて初めて、自分の心があげる、全てを切り裂くような悲鳴を聞いた。

 もしかしたら麻子は、こんな声を途切れることなく聞き続けていたのかもしれない・・・。
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2008年11月29日

10

「最初に噂を流したのが、うちの銀行の新宿支店に勤めてる、野村さんの同期の本永という人らしいんです」

 ある日、三友銀行新宿通り支店・法人営業部に所属している本永俊介は、融資相談のため、『新宿メトロプラザホテル』のロビーで人を待っていた。
 約束の時間まであと5分という頃、携帯電話が鳴り、融資先の社長が仕事の都合で遅れそうだと連絡を入れてきた。
 忙しいのにワザワザ呼び出しておいてと思いつつも、相手は新宿の老舗中華レストラン社長。業績好調で新店舗を出すことになった相手だ。三友銀行にとって、確実な資金融資先の機嫌を損ねるわけにもいかない。
「大丈夫ですよ。では19時半で。はい、お待ちしております」
 愛想よく言ったあと、電話を切り舌打ちをした。約束が1時間ほど伸びてしまった。いったん銀行に戻ろうか。それともどこかで食事でもして待っていようか。そんなことを考えながら、本永は何気なくロビーを眺めた。
 週半ばのホテルは、地方からの出張客や夕食を取ろうとする人でなかなかの混雑振りだった。
 本永はその中に、見覚えのある美しい横顔を見つけた。同期の野村麻子だ。
『なんであいつがここに?』と思いながら、本永はその服装に驚きの目を向けた。
 麻子は背中が大きく開き、身体にぴたりとあったピンクのミニドレスを着ていたのだ。一瞬麻子ではないのかと思った。それくらいいつもの彼女からは考えられない格好だった。
 
 本永ももちろんだが、麻子は同期入社の男性陣にとって羨望と嫉妬の的だった。
 モデル並みの美しい顔立ちに抜群のプロポーション。同期では1、2を争う出世頭。当然今まで、同期先輩後輩含め何人もの男が麻子にアプローチをした。しかし麻子は自分は誰とも付き合う気がないと、どんな男も全く寄せ付けなかった。
 あっさり引き下がるものもいれば、しつこく食い下がるものもいた。どうしてダメなんだ。俺の何が悪い。本当は好きなヤツでもいるんだろう。麻子がいくら違うと言っても、全く耳を貸そうとはしない。
 本永はしつこいグループの中でも、筆頭と言っていい存在だった。
 一流大学を出て、一流企業に就職し、容姿も人並み以上。当然自分に相当の自信を持っていた。
 入社すぐに麻子に目をつけ、あっさりと振られた。ムキになり、その後何度もアプローチを続けたがまるで相手にされなかった。
 本永のプライドはいたく傷ついた。そのうえ仕事でも麻子の役職は本永の上だったのだ。
 たぶん2年前の麻子の人事課長昇進時に流れた噂も本永が発信元なのだろうと思われた。

 麻子は本永の目の前を通り過ぎ、エレベーターホールへ向かった。
 盛んに爪を噛んでいるように見える口元は、真っ赤な口紅で彩られ、怯えたような目は落ち着きなく辺りを見回している。
 麻子はまるで本永に気づいてはいなかった。それを幸いに、本永は麻子のあとを追い、一緒にエレベーターに乗りこんだ・・・。

「私の彼の同期が新宿支店にいて、本永さんが噂を流してるっていうんです。まだ本店の方には来てないですけど、噂ってすぐに広まっちゃうし・・・」
 つかさは隣に立ちすくんでいる陽平を見て口をつぐんだが、代わりに美鈴があとを繋いだ。
「私たちは全然信じてないんです。だってその女の人、愛って名乗ってたらしいし。でも本永さんは絶対に野村さんだって言い張ってるんです。信じないなら本人に聞いてみろって」
 つかさは陽平を気にしつつ純也に言った。
「あの人野村さんに何度も振られてるから、腹いせに言ってるだけだと思います。すごくねちっこくて陰湿な人らしいし。ただ・・・噂になってることは事実だから、嘘なら嘘でハッキリしないと野村さんが困るだろうって思うんです。仕事だってやりにくくなるだろうし。だから・・・これって嘘なんですよね? 田島さんがさっきおっしゃってた噂って、このことなんですか?」
 純也はしばらく言い難そうに黙っていた。オカマたちも心配そうに純也と陽平を交互に見つめる。
 ここまで来たら陽平に黙っているわけにはいかないとサツキは思った。噂は会社にまで広がっている。知らないですむ段階ではない。
 サツキは純也の目を見つめると、黙ってひとつうなずいた。
「実は・・・」
 純也は意を決し、陽平にことの次第を話し始めた。
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9

「みなさん、いったい何の話をしているんです?」
「先生! ・・・つかさちゃんに美鈴ちゃんまで・・・」
「えっと・・・来ちゃ、まずかった?」
 洋平のうしろから顔を出したつかさと美鈴は、オカマたちの動揺振りに戸惑った。
 ママたちは何を話していたのだろう。やはり臨時休業とあったのを無視して入ってきたのはまずかったのだろうか。

 つかさたちは今日、久しぶりのショッピングで新宿に来ていた。夕飯を食べたあと、最近あまり顔を出してなかった『紫頭巾』に行こうと話がまとまった。店がある路地に入っていくと、『新宿メンタルクリニック』のビルから、メチャクチャ二枚目の男性が出てきた。2人は思わず顔を見合わせ、あれはクリニックの陽平先生に違いない! と見当を付けた。
 サツキママの話では、野村さんと先生は付き合い出したという。でも野村さんにそんな素振りは全然ないし、本当かどうかは怪しい。仮に本当であったとしても、いい男であることに違いはないし、ママたちも喜ぶから連れてっちゃおう! そう思い、つかさと美鈴は陽平を無理矢理店に誘ったのだった。
 よく見ると、『紫頭巾』入り口に看板が出ていない。定休日でもないのにおかしいなぁと思いつつそのまま階段を降りると、店のドアには臨時休業の札がかかっていた。
 ガラスがはまったドアから目を凝らして店内を覗いてみると、店の奥でオカマたち4人と見慣れない男性1人が話し込んでいた。
「静かに入ってびっくりさせましょうよ」
 つかさはニヤッと微笑みつつ、人差し指を唇にあててそう言った。美鈴は親指と人差し指で丸を作り、楽しそうにクスクスと笑う。陽平は苦笑いを浮かべながらも、黙って2人に従った。
 そっと音の出ないようにドアノブを回してみる。鍵はかかっていない。静かにドアを開け、気付かれないよう注意をしつつ身を屈めて店内に入る。
 すると3人の耳に、今まで一度として聞いたことのない、重々しいサツキの声が飛び込んできた。
「・・・よく考えて。あたしたちは野村さんをよく知らない。でも彼女は先生が選んだ人なのよ。その人が、バカみたいに勝手な事情で、噂になるまで辻褄が合わない行動を取るかしら?」
 3人は驚き、顔を見合わせた。
 店内には、麻子に何か大変なことが起こったのだと思わせる雰囲気が漂っている。思わず声を上げそうになる陽平に向かい、つかさは再び人差し指を唇にあててみせた。
「もしかしたら一番かわいそうなのは、先生でもなく理沙さんでもない。野村さんかもしれないでしょ?」
 陽平は急に嫉妬と苛立ちを覚えた。
 あの見慣れない男はいったい誰なんだ。なぜ彼らが、僕の知らない麻子のことを話し合っているのか。あいつは麻子の何だというんだ。
 陽平は我慢ができずに立ち上がった。
「麻子がかわいそうというのは、どういうことですか?」
 軽い怒りを含んだその言い方に、オカマたちも驚いただろうがつかさと美鈴も驚いた。
 うわっ・・・先生怒ってる・・・。
 そのまましゃがんでいるわけにもいかず、2人もそろそろと立ち上がった。
「えっと・・・来ちゃ、まずかった?」
 陽平が少し苛立ったようにサツキに言った。
「その男性はいったい誰なんです? どうして僕がかわいそうなんですか。辻褄が合わないことってなんですか? ・・・答えてくれませんか、サツキさん」
 なんと言ったらいいのだろうかとサツキは答えに窮していると、「岩田先生ですね?」と、純也が陽平に声を掛けた。純也には、オカマたちの狼狽ぶりを見て、店に入ってきたのが麻子の彼・岩田陽平だとわかったのだ。
「僕は麻子さんの妹、野村理沙の婚約者です。田島純也といいます。はじめまして」
「理沙ちゃんの?」
「はい。お姉さんからお聞きなってませんか? 再来月結婚式があるって」
「それは・・・聞いています。おめでとう・・・ございます」
「・・・ありがとうございます」
 まさか理沙ちゃんの婚約者だったとは・・・と、陽平の戸惑いと混乱は頂点に達しそうだった。
 どうして理沙ちゃんの婚約者が『紫頭巾』にいるのだろうか。しかも話していたのは理沙ちゃんではなく麻子の話をだったはずだ。いったいどうして・・・?

「あの・・・田島さん、でしたっけ。私野村さんの部下で、浅倉美鈴といいます。彼女は後輩の」
「川崎つかさです。はじめまして。・・・噂っていうのはもしかして、あの噂・・・ですか?」
「ご存知なんですか?」
 つかさは一瞬陽平を見て躊躇したが、そのままポツポツと話し始めた。
「えっと、本当かどうかは全然わかんないし、私たちは嘘だって思ってます。ありえないと思うし。ただ・・・最近ちょっと会社で噂になってて・・・」
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8

 その日・・・夜8時の『紫頭巾』。
 純也は店の一番奥まった席に座り、オカマたちに昨日の出来事の全てを話して聞かせた。
 誰ひとり口を開くことができず、臨時休業中の店内はしんと静まり返っていた。

「ママ、先生に知らせるべきじゃない?」
 沈黙に耐え切れなくなったリリィがサツキを急かすようにそう言った。
 マルコもリリィに賛成の意を示し、大きく何度もうなずいている。
「まだ先生はクリニックにいると思うの。だから今から先生に」
「リリィちゃん、ちょっと黙っててちょうだい」
「だってママ!」
 今すぐにでも立ち上がり店を出て行きたい様子のリリィを止め、サツキはひと言ひと言言葉を選ぶように純也に話しかけた。
「田島さんでしたわね。話はよくわかりました。で、あなたはどうしたいと思っているのかしら? あなたの考えを聞かせてくれない?」
 どうと言われても、純也には具体的なことは何も浮かばない。麻子に付き合っている人がいるということも今初めて知ったばかりなのだ。ただ理沙に、このことをそのままを伝えることはできないと思った。
「・・・僕にはよく分からないんです。なぜお姉さんは付き合っている人がいるのに、あんなことを繰り返すのか。そして、どうして理沙をここまで避けるのか。僕はその理由が知りたいんです。もし原因が昨日のお姉さんの行動にあるのだとしたら、今すぐにでも止めてもらいたい。じゃなきゃ理沙がかわいそうです」
「そう・・・でもそれは難しいかもしれないわね」
「難しい?」
「ええ・・・」
 サツキはひとり考え込んだ。ダンボもマルコも心配そうにサツキを見つめている。
 リリィは、なぜママはすぐにでも陽平のところへ行かないのかといぶかしんでいた。
 そりゃあもちろんはじめはショックを受けるだろうし、すぐには信じないかもしれない。でもこのまま放っておくなんてできるわけがない。もちろん理沙さんもかわいそうだけど、先生の方がもっともっとかわいそうじゃないの・・・。
「ママ! なんで黙ってるの? どうして先生のところに行かないのよ。ねぇママったら」
「リリィ! 静かにしなさい」
 サツキの考えを邪魔しないようにと、ダンボがリリィを叱った。
 サツキはリリィの顔を見つめ、疲れたような笑みを浮かべた。
「リリィちゃんの言いたいことはよくわかるわ。でもね、これはあたしたちが口を出すことじゃないの」
「そんな! じゃあ黙ってみてろってこと? そんなの先生がかわいそうじゃないの」
「かわいそうかどうかは先生が決めることよ」
 リリィはサツキの顔をジッと見つめ、勢いよく立ち上がった。
「ママの考えはわかったわ。でもあたしはこのままにはできない。今から行ってくる」
「待ちなさい! 行っちゃダメよ」
「どうしてよ!」
 リリィはあまりのじれったさにサツキに向かって声を荒げた。
なぜ行ってはいけないのか。意味がわからない。あんなに先生のことが好きだったのに、彼女ができればもう関係がないというのか。
 かんしゃくを起こしそうなリリィに、サツキは強い口調で言った。
「あなただって事情も知らない他人に、『お前の彼氏はお前がいるにも関わらず、外で女を抱きまくってるぞ』なんて言われたらイヤでしょ! 違う?」
「事情なら知ってるわ! そのために田島さんを呼んだんじゃないの!」
「野村さんの行動は辻褄が合わない、変だって言ったのはあなたでしょ、リリィちゃん! それでも事情を知ってるって言えるの?」
 サツキの言葉にリリィはグッと言葉を飲み込んだ。
 サツキは自分を見つめるみんなの顔をゆっくりと見回し、ひとりひとりに言い聞かせるよう話をした。
「物事にはね、全てに原因があるの。事情を知ってるっていうのは、その全てをわかってる人だけが言っていいの。一見周囲が眉をひそめて、一番大事な人の信頼を裏切るような行動にも、必ず原因がある。もちろんそれは、呆れるような理由の場合もあるわ。でもね、野村さんの場合はどうなのかしら。・・・よく考えて。あたしたちは野村さんをよく知らない。でも彼女は先生が選んだ人なのよ。その人がバカみたいに勝手な事情で、噂になるまで辻褄が合わない行動を取るかしら?」
 サツキはもう一度みんなを見回し、自分の言いたいことが伝わったのかどうかを確かめた。
「いい? 一概に先生がかわいそうなんて、あたしたちが決めてはいけないの。その原因がハッキリした時に、先生自身が決めることなの。もしかしたら一番かわいそうなのは、先生でもなければ理沙さんでもない。野村さんかもしれないでしょ?」
 純也はしばらく考えたあと、静かに口を開いた。
「でも、お姉さんのことが噂になっているのは事実です。僕はこのまま放っておくことはできません」
 サツキは純也に、自分の考えを話すために口を開こうとしたまさにその時、「麻子がかわいそうというのはどういうことですか?」と、微妙に怒りをはらんだ低い声がした。
 オカマたちと純也が声の方へ顔を向けると、どこから話を聞いていたのか、いつの間にか陽平が店の入り口に立っていた。
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2008年11月02日

7

 もう金曜の夜とは言わず、土曜の早朝と言った方がいい午前4時半過ぎ。
 純也と里山は、リリィに『紫頭巾』に連れて来られた。
 飲みすぎて店に泊まることもあるので、鍵はオカマたち全員が持っている。
 ここなら誰の邪魔も入らず里ちゃんと2人っきりになれるわ! と、リリィは早く純也との話を終わらせたい一心で、「あたしに話って何?」と純也に尋ねる。
「さっきリリィさん、ピンクの服を着た女の人のこと、野村さんって呼んでましたね」
 純也からどんな話が飛び出すのかはほとんどどうでもいいと思っていたリリィだったが、まさか麻子の話が出てくるとは思わなかった。
「えっ・・・ええ。言ったわよ」
「ピンクの服って、もしかして愛のことが?」
 里山がリリィに尋ねた。
「愛?」
「んだ。いづもピンクの背中の開いだ服着てる女だべ。そろそろ『メトロプラザホテル』から出入り禁止にされそうだって噂だ。苗字は野村っていうのか・・・」
 里山の言葉に、純也はショックを隠せずにうなだれた。
「そうです。その人です。やっぱり噂になってたんですね・・・」
「まぁな・・・。ここらでも立ちんぼはいるどもよ、あの女は金は一切取らないらしいんだ。しかもあれだけの美人だべ。最初はホテル側も見て見ぬ振りしてたんだ。売春でもねぇしな。でも『メトロプラザ』はラブホテルじゃねぇべ? あそこのバーラウンジに行げば、ピンクの服着ためっちゃくちゃキレイな女とやれるなんて噂になってみれ。商売柄まずいべ」

 里山は歌舞伎町の顔役といった役割をしている。その関係で歌舞伎町界隈で起こっていることは、ほとんどの事情を把握しているようだ。
「ちょっと待ってよ里ちゃん。その人愛っていうんでしょ? あたしが知ってるのは、野村麻子っていう人よ。愛じゃないわ。違う人じゃないの?」
「いえ。その愛って名乗っている人が野村麻子だと思います。たぶん間違いありません」
 里山の、金は取っていないという言葉に少しだけ安心した純也は、戸惑うリリィにキッパリと言った。
「あんたはいったい誰なのよ。何で野村さんのこと知ってるの? 野村さんはね、三友銀行の人事課長さんなのよ。そんなバカなことするわけないじゃないの」
 この目の前の男は、いったい何を言っているのだろうとリリィは思った。
 麻子には陽平というれっきとした彼氏がいる。お金に困ってというならまだしも、金を一切もらってないのだとしたら、そんなことをする理由などどこにあるというのか。里山と田島と名乗る男は、いったい何を言っているのだろう。
「僕は・・・僕は野村麻子の妹、野村理沙の婚約者です」
 麻子の妹の婚約者。
 思いもかけない純也の言葉に、リリィはまさに呆然自失状態。
 野村さんには妹がいたのか・・・リリィの混乱した頭は、そんなどうでもいいはずのことばかりがよぎっていた。
「今日お姉さんにお会いしようと思って家へ行きました。そのあとホテルに急ぐお姉さんを車で追いかけて、バーラウンジに行ったんです・・・」
 純也はショックの連続だった今日一日を、できるだけ簡潔にわかりやすく話そうと努めた。
 説明を聞きながら、リリィはふと、先生はこのことを知っているのだろうかと考えた。
 イヤ、知ってるわけはない。知っていながら放っておくはずがないではないか。だとすると・・・。
 リリィの頭の中から、今日里山を自分のものに! という考えは、いつの間に消えていた。
 はっきりいってそれどころではない。とにかくこの話をママたちに相談しなくてはならない。このままでは先生がかわいそうすぎるし、先生を麻子に取られたオカマたちの面子が立たないではないか。

「ねぇ、田島さん。明日の夜、じゃなくて今日の夜だけど、またここに来れない? お願い、来てほしいの。ダメ?」
「でも・・・何のために?」
「あなたもこの状況をどうにかしたいと思ってるんでしょ? だから野村さんのあとを付けたりしたんでしょ? だったらあたしの仲間にこの話をして。これは占い師の勘なんだけど、なんか野村さんの行動は辻褄が合わない気がするの。どこがどうって言われると困るけど、でもなんか変! 絶対普通じゃない。そう思わない?」
 純也には、状況をよくすることと、再びここに来ることがなぜ繋がるのかはわからなった。
 ただリリィの必死な目と、辻褄が合わないという言葉に引っかかりを覚えた。急に理沙を無視するようになったのも、噂になるまでこんなことを繰り返すのも、理沙から聞いていた麻子の印象とまるで違うのだ。
「田島さん、お願い!」
 リリィのモヒカンが揺れ、純也はコクンとうなずいた。
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2008年10月27日

6

 新宿歌舞伎町の深夜3時過ぎ。
 とぼとぼと当てもなく歩く純也の耳には、真夜中の喧騒も届かない。
 学生と思われる男女6、7人のグループが、コマ劇場前の広場で花火をしていた。キャッキャッという楽しそうな声が小さく聞こえる。
 純也はそちらにぼんやりとした視線を送ったが、再び当てもなくとぼとぼと歩き始めた。
 コマ劇場、東宝会館と通り過ぎ、そのままなんとはなしに右に曲がると、目の前に5人ほどの短い行列ができていた。
 並んでいるのは全て若い女性ばかり。しかも全員、一見して水商売だとわかる、露出の激しい身体のラインを際立たせるきらびやかな服を着ていた。
 なんだろうと純也が近づくと、列の先頭に見事な紫のモヒカン頭が揺れていた。
 小さな簡易テーブルの上には水晶玉があり、占い屋なのだということがわかる。深夜なのにも関わらず、人が並ぶというのがすごい。繁盛しているんだなぁと、純也は単純に感心した。
 占い師はリリィという名前らしい。机の後ろに小さなノボリが立っていて、『歌舞伎町のモヒカンオカマ・リリィの恋愛占い』と書かれていた。
 オカマのリリィは、物凄く威厳がありそうな顔つきで、真剣に占いをしている。もちろん占ってもらっている方も真剣そのものだ。
純也はなんとなく興味を引かれ、道の反対側からその様子を眺めていた。
 1人目が終了し、お客がリリィの手を握り締め、お礼を言って去って行く。長らく待たされた2人目がうれしそうに席に着くと、ふとリリィの視線が客の肩を通り越し、通りの向こう側を見つめた。眉間にしわを寄せ、あれ? といった表情を見せる。
 道の向こうに誰か知り合いでも見つけたのだろうか。客もなんだろうと後ろを振り向くので、純也もそれにつられ、通りの奥を見つめた。
 10メートルほど遠くに、ピンク色の服を着た女が見える。
「野村さん?」
 リリィがハッとしたような声で言った。
 ピンクの女はその声に気付かない。リリィはもう一度大きな声で呼んだ。
「野村さんでしょ?!」
 一瞬立ち止まった女は、チラッとだけこちらを見ると、逃げるように消え去った。
 間違いない、あれは麻子だ。
 このモヒカンオカマの占い師は、なぜ麻子のことを知っているのだろうか。やはりここらで噂になっているというのは本当だったのか。
 純也の心から、さっきまでの投げやりな気持ちは消えていた。しかし反対に、どうしようもないほどの悔しさこみ上げてきた。
あんまりだと思った。これじゃあ理沙があまりにもかわいそうじゃないか。
 彼女はいつも、見えない目をキラキラと輝かせ、麻子のことを語っていた。見えるようになったら、いつかきっとお姉ちゃんのようになりたいと、心の底から願っていた。
 あれが理沙がなりたかった理想なのか? あんな姉を見るために、理沙は危険を犯して大手術を受けたのか?
 違う! 絶対に違う! あんな麻子を見るために、理沙は手術を受けたんじゃない!

「クッソ!」
 いつの間にか純也はそうつぶやいていた。頭を抱え、小石を店のシャッターに向かって蹴り飛ばす。
「クッソ! クソォ!」
 つぶやきは次第に大きくなっていった。占いの列に並ぶ女たちは、危ない人を見る目付きで純也を遠巻きにしている。
「兄ちゃん、どうした?」
 一人の男が、地面にうずくまる純也の肩をトントンと叩いた。
 肩を叩かれ顔を上げると、目の前にThe・クラシカルヤクザといったパンチパーマが立っていた。
 リリィの憧れの男・里山仁平。歌舞伎町の用心棒で山崎会系暴力団仁科組の若頭だ。
 里山は純也の腕をガッチリつかんで立たせると、出身地・秋田の方言がなかなか抜けない独特のイントネーションで言った。
「気持ち悪りぃのか? ここさいると迷惑がかかるから、ちょこっとこっちさ来ねか?」
 純也には自分に降りかかった状況が飲み込めてない。ただただ、リリィに話を聞かなくては! とそれだけを思っていた。
「あの・・・すみません。えっと・・・あの人と話がしたいんです。迷惑はかけません。本当です。あとでも全然構いません。待ちます。お願いです。話をさせてください」
 遠巻きにしていた危なげな男から、突然の指名を受けたリリィ。こちらも純也に負けず劣らず状況が飲み込めない。
 里山に、里ちゃん! あたしどうすれば? と視線を送る。
「お願いです! 本当にご迷惑はおかけしませんから!」
 純也は必死に頼みこむ。
 里山は、純也が酒に酔っているわけではないことを確認し、「じゃリリィ、話っこくれぇ聞いてやれ。俺も一緒にいてやっから」と渋く言った。
 リリィはしぶしぶといった感じでうなずいたが、心の中では、『あたし、里ちゃんと今夜一晩一緒にいられるのねぇ!』との期待感ではちきれんばかりだった。
「いいわ。占いは4時頃終るからそれまで待てる?」
「大丈夫です」
 陽平をGET出来なくなった今、やはりあたしには里ちゃんしかいない!
 リリィは今夜里山を自分のものにする決意を固めた。
posted by 夢野さくら at 17:58| Comment(0) | 14番目の月

2008年10月19日

5

 薄暗い明かりが煌く『新宿メトロプラザホテル』のバーラウンジ。
 壁一面に作られた窓からは、新宿新都心の夜景が美しい。
 夜の10時半を回ったラウンジは、スローテンポの昔懐かしい音楽が流れ、金曜の夜ということもあって、たくさんの人々が酒と会話を楽しんでいた。
 純也は、お一人様ですか? と聞くボーイに「待ち合わせをしてるんで、一周見て回っていいですか?」と尋ねた。
 ボーイはニコッと微笑んで、どうぞとばかりにラウンジ内に手を向けた。
 ラウンジはワンフロアを使った広々とした空間で、純也は麻子を見落とさないよう、慎重にフロアを回った。
 ほとんどを見て回り、やっぱり気のせいだったのだとホッと胸を撫で下ろした時、太い柱の影から濃いピンク色の肩が見えた。
 やはり麻子だった。あの横顔には確かに見覚えがある。たったひとりでカクテルを飲んでいるように見えるが、誰かと待ち合わせをしているのか。
 フロントの女性たちは、麻子がここらで噂になっていると言っていた。しかし麻子がいくら美人だからといって、誰かと頻繁に待ち合わせたくらいで噂になるはずはない。
 声をかけてみようか、でも・・・。
 純也が戸惑いと躊躇の中にいる時、純也の脇をひとりの男が横切り、麻子に向かって歩いて行った。
 茶系の細身のスーツを着た、30代後半に見える背の高い男だ。
「あの・・・おひとり、ですよね?」
 男の声に麻子は振り向き、妖艶に、そして誘うような微笑みを見せた。
 男は満足げにうなずき、「ご一緒してもよろしいですか?」と、断られるはずがないといった確信のありげな口調で言った。
「ええ、どうぞ」
 麻子が、当然のように隣のスツールを指した。
 初対面の男とグラスを傾けながら、麻子の目は誘うように男を見つめている。
 今ここで行われていることは現実なんだろうか。自分はいったいどうすればいいのだろう。出て行って声をかけるべきか。それとも傍観しているべきなのか。
 純也は混乱した頭で、ただただ呆然と麻子を見つめていた。
 グラスに残る美しいピンク色の液体が、シャンデリアの明かりを受けて煌く。麻子はその美しさなど何も感じていないようにグッと飲み干すと、テーブルの上に置かれた男の手をそっと握った。それが合図であるとばかりに麻子と男はスツールから立ち上がると、出口に向かって歩きはじめた。
 純也は気づかれないような距離感を保ちながら麻子のあとを追った。麻子と男だけを乗せたエレベーターが下へと降りていく。
エレベーターの回数表示が23で止まった。・・・宿泊者専用フロアだ。
 バーラウンジから出てきた男が、呆然と立ちすくむ純也を尻目にエレベーターを呼んだ。すぐに麻子たちを乗せていた箱がスルスルと上がってきて、純也の目の前で大きく口を開けた。
 エレベーターは当然のように空だった。
 間違いない。間違えようがない。
 想像すらしえなかった状況に、純也はただただ呆然とするしかなかった。
「乗らないんですか?」
 バーラウンジから出てきた男がエレベーター内から純也に声をかける。
「えっ? ああ・・・」
 何がなんだか分からないまま、純也はエレベーターに乗り込みフロントへと降りていく。エレベーターホールを見渡せるソファに座り、純也は乗り降りする客たちをぼんやりと見つめていた。

 何時間が過ぎたのだろうか。いつの間にか純也は疲れてうたた寝をしていたらしい。軽く肩を揺すられハッと目を覚ますと、目の前に、いい加減にして下さいとばかりに純也を見下ろすフロントマンが立っていた。
「お客様、このような場所で眠られますと困るのですが。お客様?」
「すいません・・・ウトウトしちゃって。もう帰りますから」
 時計を見ると、午前3時を回っていた。あれから5時間近くが経つ。麻子はまだこのホテルにいるのだろうか。それとも自分がうたた寝をしている間に帰ってしまったか。
 ・・・もういい。もう帰ろう。自分がこのままここにいることには、何の意味もない。
 純也はゆっくりとフロントを通りすぎ、正面玄関から表に出た。
 外はホテルのロビーよりも明るかった。目の前には、歌舞伎町は夜がない街なのだと実感させる光景が広がっている。深夜3時過ぎだというのにまだまだたくさんの人が溢れ、ザワザワとした空気が辺りを染めていた。
 あれっ? と純也は思った。車がないのだ。確かに停めたと記憶している場所には車の陰も形もなく、代わりにチョークで、車のナンバーと『レッカー移動 新宿警察署』とあり、電話番号が書かれていた。
 なんなんだよもう!
 純也は当たる相手のない苛立ちに、転がっていた空き缶を蹴り飛ばした。
 時間は午前3時を過ぎ、車もなく、当然電車は動いていない。
 純也は突然、全てのことがどうでもよくなった。
 麻子がホテルで何をしていようといいじゃないか。自分には関係ないし、例え全ての状況がわかったところで、こんなこと理沙に説明できるわけがない。そうだ、もう止めよう。こんなこと、やるだけ無駄だったのだ・・・。
 純也はがっくりと肩を落とし、当てもなく新宿コマ劇場方面に向かって歩き出した。
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2008年10月10日

4

 金曜の夕方、仕事を終えた田島純也は、三友銀行本店人事部に電話入れた。
 麻子はまだ残業をしているようだ。少々お待ちくださいという女性の声のあと、保留メロディーが流れた。

 純也と野村理沙との結婚式が再来月に迫っている。
 諸々の準備も順調に進み、案内状を出したほとんどの招待客から出席の返事が来た。しかしまだ、麻子からの返事はない。
 返事どころか、メール一通、電話一本来ないと、理沙がため息混じりにつぶやいていた。
 最近理沙はあまり食欲がない。この数ヶ月でかなり痩せてしまったようだ。
 なぜ麻子は、ここまで徹底的に理沙を無視するのだろう。
なぜなんだ。いったい何が気に入らないんだという怒りが、純也の中に湧き出していた。
 直接会って話がしたい。自分のことが気に入らないのならそう言ってほしい。何をしても無視される理沙の辛さをわかってもらいたい。もしそれでもダメなら、その時は仕方がない。理沙にきちんと話をして、もう麻子のことは忘れるように言おう。
 そう決意を固めた純也の耳に、先ほどの女性の声が聞こえた。
「お待たせして申し訳ございません。野村は今、他の電話に出ております。こちらからおかけ直しいたしますので、ご連絡先をお願いいたします」
「えっと・・・じゃあ結構です。またかけます」
 教えたところでかけてくるわけがない。純也は苦々しくそう思い、電話を切った。

 夜9時過ぎ、純也は直接麻子の家へ行こうと車を走らせていた。
まだ帰っていないようなら帰るまで待つつもりだ。
 明治通り沿いの麻子のマンションは、こ洒落たエントランスを構える瀟洒な建物だ。

 理沙の目が見えるようになってから、純也は何度も理沙をドライブに連れ出した。今まで見えなかった分を取り戻してやりたいと思っていた。
 そんなある日、理沙が突然お姉ちゃんのところに行きたいと言った。もちろん純也に、それを拒む理由などどこにもない。楽しそうな様子の理沙を乗せ、混雑した明治通りを走った。
 麻子の家が近づくにつれ、なぜか徐々に理沙の口数が少なくなり、顔から笑みが消えていった。
 純也はそれを不思議に思いながら、明治通り沿いに車を止めた。
「どうかしたの?」
「なんでもない。この名前のマンション、どれだかわかる?」
 理沙から渡された紙には、麻子の住むマンション名と部屋番号、住所が書かれていた。
 純也はその付近にある3軒のマンションを見て回った。
「理沙、あのマンションだよ。たぶん5階の左から3番目だと思う。見える?」
「うん、見える。ありがとう純也さん。どんなところか一度でいいから見てみたかったの」
 すでに麻子と連絡が取れなくなって、3ヶ月以上が経っていた。一応部屋まで行ってみようという純也に、理沙は寂しそうな笑顔を向けた。
「ううん、いいの。もう充分。突然行ったらお姉ちゃんに迷惑だと思うし」
 姉妹なんだからそこまで気を遣う必要はないんじゃないかと純也は思った。しかし目を伏せてため息を吐く理沙に、それを言うことはできなかった。

 9時半を少し回った頃、純也は麻子のマンションに到着した。
建物が見渡せる場所に車を止めると、麻子の部屋に目を向ける。
 窓には明かりが点り、レースのカーテン越しに柔らかな光を放っていた。
 純也は車を降り、急いで麻子の部屋へと向かった。
 マンションまであと数メートルと近づいた時、玄関ホールからひとりの女が出てきた。
 肩にかかる栗色の巻き毛。すらっとしたモデルばりの長身。ゾクッとするほどなまめかしい白い背中は、それを傲然と見せ付けるように深く開き、全体に細いプリーツ加工が施してあるピンクのミニワンピースを身に着けていた。
 お義姉さん? イヤ、まさかそんなはずは・・・。
 純也が声をかけるのをためらっていると、麻子と思われる女は、慣れた手つきでタクシーを止め、純也の前から消えようとしていた。
 一瞬の躊躇のあと、純也は急いで車に戻り、女が乗ったタクシーのあとを追いかけ始めた。

 麻子と思われる女は、新宿歌舞伎町近くにある、『新宿メトロプラザホテル』の正面玄関前でタクシーを降りた。
まっすぐにフロントを抜け、エレベーターホールに向かっていくのが見える。
 純也も路上に車を停め、慌ててあとを追った。
 ホテル・・・。ここに来るということは、誰かと待ち合わせでもしているのだろうか。
 あんな派手な服を着て会う相手とはいったい誰なんだろう・・・。
 誰でもいいか。そんなことは自分には関係ない。もし恋人にでも会うというのなら、今日麻子と話をするのは無理だ。
 肩から一気に力が抜けて、純也はフロントにごく近いソファに腰を下ろした。
 もう帰ろうか。いつまでも路上に車を停めておくわけにもいかない。
 今日一日の苦労が全て徒労に終ったのだ思い、純也が深いため息をついて立ち上がろうとした時、フロントから、軽蔑が色濃く混じる女性2人のささやきが聞こえた。
「また来たのね、あの人。今日も同じピンクのワンピ。まるで制服みたい」
「いつもながらあの背中はすごいわね。まさにパックリって感じ。キレイだからまだ見れるけど、どう考えても私は着られない」
 これはもしかして、麻子のことを言っているのだろうか。
「バーラウンジじゃ困ってるんだって。ここらで噂になってるらしいし」
「本当に? それマズイじゃない。うちはラブホテルじゃないんだから」
 バーラウンジ? ラブホテル? いったいどういうことだろう。噂になってるって?
 イヤな予感が、急速に純也の胸にこみ上げてきた。
 バーラウンジに行ってみようか。麻子がいなければ戻ってくればいい。でもいたら・・・。その時はその時だ。ここまで来たんだ。とにかく行ってみよう。
 純也は重い足を引きずり、エレベーターホールに向かっていった。
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2008年10月03日

3

 陽平が診察室へと戻ってから数十分後、なんとかオカマたちは石像から人間へと戻った。
 由紀はソファに座り、淹れ直したハーブティーを美味しそうに飲んでいる。
 思いっきりくつろいだ様子の由紀を、ダンボはギロッと睨み付けた。
「今の何よ!」
「え〜〜〜。何のことですかぁ?」
「何じゃないわよ! 今先生、野村さんのこと麻子って呼び捨てにしたじゃないの」
「あら、気付きました?」
 そうすっとぼける由紀に、ダンボの血管は切れそうだ。
「気付かないわけないじゃないの! いったいどういうことなのか説明しなさいよ!」
「いいんですかぁ? 本当に言っちゃっても。あの2人の雰囲気を見れば、言わなくてもわかるんじゃないですか? うちメンタルクリニックなんで、ショックで息が止まっても治療できませんよ」
 マルコが地を這うような低い声で、恨めしそうに由紀に言った。
「・・・あんたもしかして、あの先生と野村さんを見せつけるために、わざとあたしたちを招き入れたってわけ?」
 由紀はニコッと小首を傾げて微笑むと、茶目っ気たっぷりに答えた。
「あら、それもわかっちゃいました?」
「キーっ! やっぱり罠だったんだわ!」
 マルコが地団太を踏んで悔しがる。
 由紀は満足げにソファから立ち上がると、コホンとひとつ咳払いをして言った。
「え〜みなさんよろしいですか? 先生と野村さんはああいうことになりましたので、これからは玄関の鍵も開けておくことにしました。もし先生をご覧になりたいならいつでもどうぞ。ただし、野村さんがいらっしゃることも多いので、2人のツーショットをご覧になりたくなければ、あまり頻繁にいらっしゃらない方がよろしいかもしれませんね」
 由紀はキーキーとわめきたてるオカマたちを尻目にゆっくりとソファに座り直すと、美味しそうにハーブティーを啜り、満足げなため息を吐いた。

 陽平は、麻子が帰った診察室に、たったひとりで立っていた。
 診察用のソファには、まだ麻子の温もりが残っている。陽平はその暖かさに手をかざし、大きなため息を吐いた。
 麻子と陽平が付き合い出して2ヶ月が経っていた。
 本来なら一番楽しい時期のはずなのに、陽平はとても疲れていた。たった2ヶ月で5歳も年を重ねてしまった気がするほどだ。
 麻子が帰ったあとは、いつでも猛烈な疲労感が押し寄せる。空しく切なく、どうしようもないほど胸が痛い。
 2人は会うと必ず肌を重ねる。麻子が望むからだ。しかしどんなに激しいセックスをしようとも、陽平はいつも麻子とひとつになれないもどかしさを感じていた。
 麻子の身体は開いていても、心は堅く閉じていると思えて仕方がない。
 そう感じてからというもの、陽平のむなしさは、麻子と会えば会うほど、肌を重ねれば重ねるほどより一層強くなっていった。
 麻子を心から愛している。その想いはますます強くなる一方なのに、陽平の「愛している」と言う言葉は、いつもむなしく空回りしていた。
 麻子は一度として、昼間屋外で会うことを承知しない。食事をしようと誘っても、映画を観ないかと言っても、いつも忙しいと断わられる。しかしそんな日にも、夜中に突然訪ねてきてセックスをせがむのだ。麻子から愛しているという言葉が聞けるのはその時だけだ。
 愛してるから私を抱いて。愛しているから早く。岩田君が欲しいの。もっともっと欲しい。
 麻子にそう言われれば、陽平には拒む手立てがない。
 でももう陽平は、麻子を抱きながら独りぼっちになりたくなかった・・・。

 麻子と肌を重ねるようになってから、陽平の頭にはあるひとつの病名が浮んでいた。それは否定しても否定しても湧き出してとめることができない。
 陽平には、まだその病気を患った患者を実際に診察したことがない。そしてそれを、自分への言い訳に使っていることも分かっている。
 もし本当にそうであるなら、麻子は一刻も早く治療を受けなければならない。その病気を多く扱う、専門の医療機関へ連れて行った方がいいかもしれない。しかし・・・。
 陽平は、自分が医者としてしなければならないことを充分に理解していた。理解していながら、男としての自分がその行動を阻止し、考えさせないようにしていた。
 一日一日が空しくあっという間に過ぎていく。毎日毎日麻子からの連絡を待ちながら、陽平は自分自身への嫌悪感に苛(さいな)まれていた。
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2008年09月28日

2

 オカマたちは、由紀の罠かもしれない誘いに乗り、『新宿メンタルクリニック』の待合室に集まった。
 3ヶ月ぶりに陽平に会えるのだという期待で全員の胸ははちきれそう。
 一同身だしなみに気を遣い、メイクも怠りなく万全の体制。約3ヶ月ほど漂っていなかったオカマ臭が、今また待合室中に充満していた。
 由紀はそんなオカマたちを、なぜか楽しげに見つめていた。
 オカマたちはそんな由紀に気付くと、油断は禁物とばかり落ち着かなげにキョロキョロと周囲を見渡したり、物音に気を配ったりしていた。
 耳を済ませたオカマたちに、トントンと階段を降りる軽やかな足音が聞こえてきた。
 いよいよ先生が登場するのねぇ! という緊張と感激で、オカマたちは一斉に階段を振り返った。
「サツキさん? あら、みなさんお揃いだったんですね。お久しぶりです」
 階段を降りてきたのは、たった今診察を終えたばかりの麻子だった。
 顔がほんのり上気していて血色がいい。
 2ヶ月ほど前、つかさたちから聞いた麻子とはまるで違って見える。つかさたたちは、麻子の体調が相当悪くなっていると言っていたのだ。
 しかし今見る麻子は、まるで体調が悪そうには見えない。
 不眠症もその他の問題も、クリニックに通い続けることで解消したのだろうとサツキは思った。
「まぁまぁ野村さん! お久しぶり。お元気そうですね。ねぇみんなそう思わない?」
「顔色もすごくいいわぁ。なんだか見違えちゃいました。一層おキレイになられたみたい」
 ダンボがすかさずサツキの意図・・・超上客ゲット作戦・・・を汲み取り追い討ちをかける。
「ありがとうございます。お店全然伺えなくて申し訳ありません。相変わらず仕事が山積なもので」
「大変ですねぇ。この前つかさちゃんたちが、野村さんの具合が悪そうだって言ってたんで、心配してたんですよ」
 そうサツキが言った途端、麻子の顔色がサッと変わった。声も幾分低くなったように感じ、表情がわずかに険しくなった。
「川崎さんが?」
「えっ? ええ・・・。美鈴ちゃんもいたんですけどね。2人とも心配してましたよ」
 サツキは麻子の変化に戸惑った。
 いったいどうしたというのだろう。何か変なことでも言ってしまったのか。
 オカマたちと麻子の会話を聞いていた由紀も、怪訝そうな顔で麻子を見つめている。
 その時、陽平がA4サイズの書類袋を片手に階段を降りてきた。
「麻子! 忘れ物」
 その途端、オカマたちの血の気が一斉に引いた。

 ・・・先生今、野村さんのこと麻子って呼んだ・・・。

「あれ? サツキさん。みなさん久しぶりですね。お元気でしたか?」
 オカマたちは、自分たちにとってとてつもなく恐ろしい事態が起きたことを直感した。

 何これ! どういうことなの?!

 全員ショックで失神しそうだ。
 陽平が愛しそうに麻子を見つめ、書類袋を手渡した。
「大事なんだろ。気を付けろよ」
「ごめん、ありがとう」
 麻子も陽平にニコッと微笑みを返す。
 オカマたちは、3ヶ月間ここにいなかったことを今猛烈に、そして激しく後悔していた。
「それじゃあ私行くね」
「ああ」
 麻子はオカマたちに丁寧に頭を下げてクリニックを出て行った。
 由紀はその後姿を見送り、満足そうに微笑んだ。
「先生。次の患者さんは1時間後ですから」
「OK。じゃあ皆さん、ゆっくりしていってください」
 ショックのあまり石像化したオカマたちを残し、陽平は足取りも軽やかに診察室へと戻っていった。
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2008年09月19日

第3章 1

 『新宿メンタルクリニック』の待合室に『紫頭巾』のオカマ総勢4名がたむろっていた。
 ここに来るのは3ヶ月ぶり。いつ先生にお目にかかれるのかとそわそわドキドキ落ち着きがない。
 なぜなら昨日までのクリニックには玄関に鍵がかかり、オカマたちは撃退の憂き目にあっていたのだ。
 陽平先生を見る! その事に命を懸けていたオカマたちにとって、この3ヶ月は好物を奪われた子供のように、毎日をしょんぼりと過ごすしかなかったのだ。
 しかし諦めるということを知らないオカマたちは、毎日必ず鍵のかかり具合を確かめに来ていた。
 するとどういうわけか今日は鍵が開いている。罠かもしれないわと思いつつ、本日の鍵当番であったマルコがそっと玄関ドアを開けた。
 待合室には天敵の由紀がいて、クラシックのBGMを聞きつつ自分で入れたハーブティーを優雅に飲んでいる。
「あら、『紫頭巾』のマルコさんじゃないですか。お久しぶりですね」
 どういう風の吹き回しなのか、由紀はニコニコとマルコに挨拶をした。
「な・・・ななななんなのよ、あんた。なんの罠よ!」
 驚いてちょっとどもっちゃったマルコは、目をむき出しすかさず由紀への戦闘態勢を取った。
「罠だなんて何言ってるんですか? イヤだなぁもう。何もありませんよ。よかったらまたみなさんでいらっしゃいませんか?」などと、とても彼女らしくない言葉が由紀の口をついて出た。
 あまりのことに口をあんぐりと開け、マルコは逆にビビった。
正面切って、出て行けだの、いい加減にしろだのと言われているうちはいくらでも反撃できた。しかしこういう態度に出られると、反って何を言っていいのかわからない。
 どこかにとんでもない罠が隠されているのではないか。今にもソファの影から屈強な女子プロレスラーが躍り出て、遠くに売られるんじゃないかしら。
 まるで現実的ではないことを考え、マルコはビビリまくった。
 由紀はそれを面白そうに眺めながら「美味しいハーブティーがあるんです。よろしかったらみなさんもいかがです? 私、心を込めて淹れますから」と微笑んだ。
「わかったわ! あんたハーブティーに毒薬仕込むつもりね。そうは問屋が卸さないわよ。あたしたちは騙されませんからね。そうか、そういうことだったのね。あんたの悪事はお見通しよ」
「・・・そうですか。何もないって言ってるのに、そんなに信じられないならもういいです。せっかくみなさんをまた待合室にご招待しようかなぁと思ったけど、しょうがないですね。じゃあまた鍵かけますから出て行ってくださいな」
 由紀はいかにも残念そうにため息を吐いた。
「先生とも全然会ってないだろうから、かわいそうだなぁと思ってたのに。あ〜あ・・・気ぃ遣って損しちゃった」
「あんたがあたしたちに気を遣ったですって?」
 今までのバトルがあるので、マルコはいまいち由紀の言葉を信用しきれない。しかしまた鍵をかけられてしまえば、今度いつ陽平に会えるかわからない。
 マルコはどうしたらいいのかと迷い、悩みまくった。
 悩みつつ、そっと上目使いに由紀を見る。由紀はしらっとした顔でハーブティーを飲んでいる。
 ええい! 毒を食らえば皿までよとばかり、マルコは決意を固めて言った。
「・・・わかったわ。ちょっと待ってて。みんなを連れてくるから」
「すぐ来てくださいね。あんまり遅くなるようだったらまた鍵かけちゃいますよ」
 由紀がニヤッと笑う。やっぱり騙されている・・・そんな考えがマルコの脳裏をよぎるが、背に腹は代えられない。
「わ、わかったわよ。あんたそこ動かないでよ。すぐ連れてくるから!」
 全く釈然としないが、マルコは『紫頭巾』のオカマたちの総意「先生に会いたいんだも〜ん!」を最優先にし、待合室を飛び出していった。
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2008年09月12日

9

 翌日、麻子は会社に遅刻した。入社してからはじめてのことだ。
 一晩中セックスを繰り返し、明け方心の底から安心して眠りに落ちた。
 気が付くと朝の10時を回っていた。男はもういなかった。荷物もない。ベッドのサイドテーブルに「昨日はとても素晴らしかった。ゆっくり寝ていきなさい」というメッセージが置かれていた。
 名前も素性も、何ひとつ聞いていない。もちろん連絡先もわからない。あの素晴らしい夜を味わうことは、もう二度とできないのだろうか。
 麻子は急いで支度をし、フロントへと降りていった。
 当然のことながら男のことは何もわからずじまいだった。
 何だか夢を見ているようだ。あれは本当にあったことなんだろうか。
 麻子の頭は混乱していた。会社へとタクシーを飛ばしながら、昨晩の出来事をひとつひとつ思い出してみた。
 男の手がどんなふうに自分に触れたのか。どういうふうに胸をまさぐり、舌を這わせたのか。胸、腹、腰と手が降りていき、濡れた谷間に指が触れた時、自分はどんな声を出したのか。
 ああ・・・あれは幻ではなかった。私はあの時、確かに価値のある存在になっていた。男を喜ばせ、有頂天にさせる存在だった。
 麻子は昨夜の思い出に酔い、快感に身をゆだね、身体の芯が熱く燃えた。激しい快感が麻子の全身に鳥肌を立たせ、小さい吐息を吐き出させる。
 タクシーの運転手がそれを怪訝そうに見ていたが、今の麻子はそれを恥ずかしいとは思わない。誰にも邪魔されず、ただそうしていたかった。止めてしまえば現実は容易に麻子に迫り来る。それを止めることができるのは、セックスの快感を思い出し、それに溺れることだけなのだ。

 その日以来、麻子は度々あの快感を思い出すようになった。理沙の手術の準備が着々と進み、麻子はさらに忙しくなった。
 疲れさえ取れればきっと理沙に「頑張って」と言える。そう思っていたのだけど、日一日と手術が近づき、麻子の胸の重苦しさはますます増していった。
 自分は理沙を心から愛しいと思っていたはずだ。なのになぜ手術を喜べないのか。どうしてこんなに悲しく、イラつくのか。
 麻子の心には濃い霧がかかっていた。自分の本当の心の行方を、自分で見ることができなかった。

 眠れない日々が続いた。手術はもうそこまで迫ってきている。
 理沙は毎日不安そうな顔を見せ、見えない目で麻子を見つめ、「大丈夫。お姉ちゃんがついてるから」と、麻子に言ってほしがっていた。
 それを十分わかっていながら、麻子は優しい言葉のひとつもかけてやれなかった。
 理沙は何も悪くない。悪いのは私なのだと麻子は自分を責め続けた。

「誰のせいで理沙の目が見えなくなったと思ってるんだ。全てお前のせいじゃないか。お前の心は歪んでいる。どうしようもなくいびつだ。この世にいる価値など少しもない存在。いっそ消えてしまえばいい」

 毎晩毎晩、眠ろうとする麻子に誰かがそうささやくのが聞こえた。
 そんな時、まるで宝物のように、あの男とのセックスを思い出した。
 男はあれほど自分を賛美したではないか。目を細め、麻子の身体を素晴らしいと言ったではないか。私に価値がないわけじゃない。そう、消えてなくなる必要なんてどこにもないのだ・・・。
 あの記憶ひとつひとつを思い出す時、麻子の心はほんの少し軽くなった。もう一度男に会いたいと思った。会って抱いてほしいと願った。しかしあれから一度も『新宿メトロプラザホテル』のバーラウンジには行っていない。そんな時間の余裕などまるでなかったのだ。

 日が経つにつれ、あんなに強烈だった男との記憶も徐々に薄れていった。顔も空ろになり、声も思い出せない。
 男の名前を聞かなかったことを、麻子は心の底から後悔した。想い出を蘇らせる時、男の名を呼ぶことができない。そのことがあの夢のようなセックスを、どんどん現実感のない幻に変えていく。
 麻子は無性に怖くなった。この記憶全てが無くなってしまったら、自分はどうなってしまうのだろう。またひとり、深い霧の中に取り残されるのか。足掻いても足掻いても見ることができない自分の心と、たったひとりで対面しなくてはならないのか。そうなったら、自分は正気でいられるだろうか・・・。

 セックスをしなくてはいけない。

 突然麻子の心が命令を下した。もうあの男とは会えない。それはわかっている。だったら他の男でもいい。
 自分を欲しいと言ってくれる男。抱きたいという男を今すぐ手に入れるのだ。その男と一晩中、身体が悲鳴を上げるほどセックスをし続ける。
 自分を賛美してくれる男。麻子でなければダメだと言ってくれる男。自分に価値を見出してくれる男。そして力強く、壊れるほど突いてくれる男。

 麻子の全身に、ブルッと震えが起こった。同時に薄らいでいたセックスの快感が鮮やかに蘇った。
 そうだ。なんでもっと早く気付かなかったんだろう。さっさとこうすればよかったんだ。何をグズグズ悩んでいたんだろう。
 麻子は急に可笑しくなった。心の底から笑いがこみ上げてくる。クスクスと笑いながら、麻子はクローゼットに向かった。
「スーツじゃ地味ね。でも派手な服は・・・持ってないな。こんなんじゃダメだわ。これからもっといろんな服を買わなくちゃ」
 麻子は楽しそうにつぶやいた。瞳がキラキラと輝き、生気が満ちてきた。
 クローゼットの中は、紺や黒やベージュといった堅そうな色のスーツばかりが目立つ。
 麻子はゴソゴソとクローゼットを漁り、なるたけ男の気を引きそうな明るめの服を探した。
「しょうがない。今はこれしかないんだもの」
 白いノースリーブのブラウスに、若草色のタイトスカートを身に付け、麻子は鏡に向かって念入りにメイクを始めた・・・。
posted by 夢野さくら at 23:58| Comment(0) | 14番目の月

2008年09月07日

8

 ここはどこなんだろうと麻子は思った。
 延々と続く担当医の話から開放されたあと、仕事に戻るからと駅に向かい電車に乗った。
 何も考えられなくて、適当に乗り換え適当に降りた。
 そこから行くあてもなく、ただただ歩き回った。
 腕時計を見る。いつの間にか夜の8時を回っていた。
 いつ日が暮れたのかも覚えてない。
 忙しくて昼食を食べていなかったのに、お腹が空いたという感覚もない。
 ・・・疲れた。歩き回ったせいなのか。それとも理沙の手術のせいか。
 たくさんの高いビルが立ち並ぶ通りを見上げると、正面に一軒のホテルがあった。
 一軒というにはあまりにも大きく、正面玄関には『新宿メトロプラザホテル』とある。
 いつの間にか、麻子は歌舞伎町に来ていたのだ。
 ここで少し休もう。私は疲れすぎてるんだと麻子は思った。人事課長になってから仕事の内容も変わり、とてつもなく忙しくなった。理沙に「よかった」と言ってやれないのもたぶんそのせいだ。ここで少し休めば、きっと元の私に戻れる。

 麻子は正面玄関からホテルに入り、ロビーに向かった。
 部屋を取ろうと思った時、25階にバーラウンジがあるのがわかった。
 急激に喉に渇きを覚えた。そうだ、まずは何か飲んで、休むのはそのあとにしよう。
 麻子はエレベーターホールに向かい、25階を押した。

 まだ時間が早いせいなのか、それほど混んではいない。
 お一人様ですかと聞かれ、窓際の新宿新都心が見渡せる席に案内された。
 ジントニックを頼み、一気に飲み干す。お代わりを頼み、それもすぐに飲み干した。
 ラウンジ内を歩き回っているボーイがオーダーを取りに来た。
「お飲み物のお代わりはいかがですか?」
「もう少し強めのものが欲しいんだけど」
「かしこまりました。それではオリジナルを作らせましょう」

 足の細いカクテルグラスは、キレイな真珠色の液体を湛えている。それは薄暗い明かりにもキラキラと美しく輝いて、一口飲むと、適度な辛みとほんの少しの甘みが喉を通過する。
「美味しい・・・」
 フワフワとした感覚がやってきた。ほんの少しだけ酔いが回ったのだと、麻子は冷めた頭で考えた。
 ただ、その酔いに全てを任せるには、麻子の心と身体は疲れ切っていた。一時(いっとき)も理沙の手術のことが頭から離れない。理沙の手術が成功したら、自分はどうなってしまうのだろう。もう私は理沙に必要な人間じゃなくなるのか。
 イライラが消えない。何も考えたくない。でもどうしても理沙の事が頭から離れない。このままじゃどうにかなってしまいそうだ。

「隣、よろしいですか?」
 背中の方で、低く響く声がした。
振り向くと、40代後半くらいだろうと思われる身なりのいい男が立っていて、ニコニコと微笑みながら麻子を見下ろしていた。

 麻子は男という存在が嫌いだった。亡くなった父がいつもこう言っていたからだ。
『男というものは、どんな時でも麻子の身体を狙っている。だから決して近寄ってはいけないよ』
 ・・・本当にそうだと思う。男はみんな、いつも全身を舐めまわすようなぶしつけな視線を送ってくる。汚くてイヤらしい生き物だ。

 普段なら即座に立ち上がり、もう出ますからと冷たく言うところだ。
 だが今日の麻子は違っていた。フワフワとした現実感の薄い感覚の中で、麻子は男にニコッと笑い掛け、「どうぞ」と隣のスツールを指差していた。

 24階にある男の部屋からも、新宿新都心の夜景が美しく光り輝いている。
 ここはスイートルームになっているようだ。ベッドルームとリビングがわかれていて、バスルームはゆったりと広く作ってある。
 男は、リビングのソファに自ら脱がせた麻子のスーツを几帳面に置いていった。
 ジャケット、ブラウス、スカート、ストッキング、ブラジャー、そしてショーツ。
 麻子はまるで赤ん坊のように、されるがままに立っていた。
 男も仕立てのいいスーツを脱ぐと、麻子をバスルームへ連れて行った。
 たっぷりと張った湯に麻子を入れ、自分も一緒にバスタブに浸かる。
 男はまるで作り物のように美しい麻子の身体にスポンジを這わせ、優しく洗ってやった。
 その優しさと男の面影は、麻子に死んだ父を連想させた。
 徐々に麻子の身体から緊張が消え、小さな吐息が漏れる。
男はスポンジを置き、自らの手を麻子の首、肩、胸、腹、腰と順に降ろしていった。男の手が優しくねっとりと動くたび、麻子の吐息が大きくなった。
 男は麻子の濡れた茂みの奥を、指でもてあそびながらささやいた。
「名前、聞いてなかったね」
「あ・・・愛」
 麻子は突き上げる快感を身体一杯に感じながら、どうして自分は「愛」などと言ったのかと考えた。しかし次第に強くなる激しい快感に、もう何もかもがどうでもいいと思った。
「愛・・・いい名前だ。愛か、愛」
 男は何度も何度もそう言って、麻子の胸に舌を這わせ、身体中をまさぐり続けた。
「お願い・・・欲しい・・・」
 麻子が吐息交じりにつぶやく。
 男はじらすようにニヤッと笑い、バスルームの壁に両手を付いて屈むよう命じる。
 麻子は言われるがままに従った。男は麻子のくびれた腰に手を回し、自分のモノをゆっくりと背中から突き刺しはじめた。
 その動きは徐々に早くリズミカルになっていく。
 ミシッ! ミシッ! と身体の奥が軋み、今にも壊れそうだ。その勢いが頂点に達した時、麻子の心は空っぽになった。
 自分では抱えきれなくなったたくさんの現実。その全てが心と頭から開放され、麻子の中から消えていった。
 今まで何をしても決して消えることのなかったさまざまなものが、きれいさっぱり無くなっていた。
「いいよ、愛。すごくステキだ。もっと腰を動かしてごらん。そう、上手だ。とてもいいよ。愛の身体は最高だ。こんなのは初めてだよ」
 男にそう言われるたび、麻子の快感はますます大きくなっていった。

 今この男にとって、私はとても価値のある存在なのだ。私の身体は素晴らしい。私の女の部分がこんなにも男を酔わせ、喜ばせている。ああ! 何てステキなんだろう。こんな感覚、こんな喜び、私は今まで味わったことがない。何もかも忘れさせてくれる素晴らしいセックス。どうして今まで知らずにいたんだろう。
 ああ・・・私は今幸せだ・・・。もうこのまま時が止まってしまえばいい・・・。
 麻子は足先から頭の天辺まで駆け抜ける快感に身をゆだね、繰り返し繰り返し、一晩中突かれ続けた。
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2008年08月31日

7

 陽平に激しく貫かれながら、麻子は初めて一夜限りのセックスをした日を思い出していた。
 普段セックスをしはじめると、一切何も考えられなくなる。とにかく身体を突き上げる快感だけに身をゆだね、耳を澄ませる。そうすれば、耐え難い現実も、何の価値をも見出せない自分自身も、全て泡となって消えていくのだ。
 しかし、なぜか今日は違っていた。
この数年間繰り返してきたさまざまな男とのセックスが、次から次へとまるで走馬灯のように麻子の脳裏をよぎった。

 初めての日・・・。あれは約2年前の初夏だったと思う。
 人事課長となって間もない頃。毎日毎日必死に仕事をこなしていた。
 その日もいつもと変わらずに仕事をしていたのだが、昼過ぎに突然母から電話がかかってきた。大至急理沙が通院している病院に来いと言うのだ。
 一瞬理沙の身にとんでもないことが起こったのではないかと焦った。目に異常が見つかったのか、それとも事故にでも遭ったのか。しかし母の声は思いのほか明るい。とにかく来てくれの一点張りで、理由はあとでと言うのだ。
 ダメだと言っても聞く母ではない。
 昔から母の言うことには全て従ってきた。そうしなければ母は私を認めてくれないのだから仕方がない。何とか仕事を調整し、急いで病院に向かった。

 太陽が夏の色合いを濃くしていた。街路樹がまばゆいほどの日を浴びて、道に濃い影を作る。
 理沙は私のせいで、太陽をサンサンと浴びて輝くこの景色を生涯見ることはできない。
 私は、なぜあの時理沙を置いて家を出てしまったのだろうという、今まで何千回何万回も考えた繰言をまた考えはじめた。
理沙が愚図ったからといってそれがどうだというのだ。そんなことは問題じゃない。私は母から理沙を任されていた。例えどれほど理沙が愚図ろうと、無理矢理にでも連れて行くべきだった。
 今更後悔しても遅い。何度考えても何度悔やんでも、理沙の目が見えることは決してないのだ。

 大通りに出てタクシーを拾う。すぐに一台が止まり、病院に向かって走り出した。
 病院までの20分間、いったい何が起きたのだろうかと考えた。
母の声の明るさからいえば、悪いことが起こったわけではないらしい。しかし病院へ来いということは、理沙の目に関係のあることだ。
 もしかして、理沙の目が治る?
 イヤ、そんなことはありえない。私は勢いよくその考えを打ち消した。そんなバカなことが起こるわけがない。理沙の目は手術もできない状態なのだ。治るわけがない。そう、治るわけなどないのだ・・・。
 タクシーが病院の正面玄関に着いた。急いで待合室に向かうと、そこには顔を輝かせて私を待つ理沙と母が立っていた。
 2人を見た瞬間「あれ?」と思った。どういうわけか、急に足元が揺れはじめた。リノリュームの床がアリ地獄にでもなったかのように、足が全く前に進まない。顔が強張っているのが自分でもわかる。なぜ急にそんな状態になったのだろう。

「お姉ちゃんが着たわよ」
 母の声が優しく労わるように響く。理沙の顔が先ほどよりも一層輝きを増したかのように思えた。その輝きを見れば見るほど、どんどん足が床に埋もれていく。
 何だろうこの感じは。
 身がすくむような感覚が全身を覆いつくし、心がボロ雑巾のように絞られていく。喉に何か異物が挟まっているようで、呼吸が浅くなり、空気が胸まで入っていかない。
 母が理沙を庇いながらじれったそうに私に近づいた。
「麻子、そんなところで何突っ立ってるの。さ、先生がお待ちなの。早く来てちょうだい」
 母は私の変化など何も感じていないようだ。
母の目にはいつも理沙しか入っていない。理沙が無事であればあとはどうでもいいのだ。
 わかっている。今始まったことじゃない。なのにどうしてこんなに胸が苦しいのだろう。
 母は担当医が待つ部屋へと急ぎながら、一度だけ私を振り返ってこう言った。
「麻子、急いでちょうだい。先生はお忙しいんだから」
 足はまるで錘(おもり)を付けられたかのように重い。スタスタと廊下を歩く母の後ろを、足を引きづり必死について行った。

「妹さんの手術には、羊膜の移植、輪部の移植、そして・・・」
 理沙の担当医が手術の説明をしている。
 でもその声は遠くかすんで聞こえ、ほとんど私の耳には入ってこない。
 何でも理沙の目は治る可能性があるらしい。簡単な手術ではない。しかしやってみるかと聞いているみたいだ。
 この医者はいったい何を言っているのだろう。そんなことが現実に起こるわけがない。もしそんなことが起こったら・・・もしそんなことが・・・。
 理沙の目が治る? それはすごいことだ。素晴らしいと思う。・・・素晴ら・・・しい・・・。

 本当に? 本当にそう?

 ・・・何だかよく、わからなくなってきた。本当に治るのなら、もちろん喜ばしいに決まっている。それは間違いない。当然のことだ。頭では充分わかっているのに、私はどうしてこんなにイライラしているのだろう。なぜこれほどの焦燥感が、私の心をかき乱すのだろう。私はおかしい。私は変だ。理沙に心からよかったと言ってあげられない。言いたくない。なぜなんだろう。

 私は自分がよくわからない。
posted by 夢野さくら at 14:46| Comment(0) | 14番目の月

2008年08月24日

6

「・・・何? 私の顔に何か付いてる?」
 麻子はいぶかしげに陽平に言った。
 夜の7時40分。
 クリニックの診察室に、2人は向かい合うかたちで座っていた。
 間を隔てるものは何もない。陽平は自分でも気付かないうちに、麻子の顔を穴が開くほど見つめていたのだ。
 陽平はハッと我に帰り、ここは病院で、麻子は診察に来ているのだと自分に言い聞かせた。
 陽平の頭の中には、夕方由紀に言われた「先生は野村さんが好きなんですよね」という言葉が渦を巻いている。「先生が野村さんを好きだってことは、誰が見てもわかります」とも言っていた。つまりは麻子にもわかっているということか?!
 慌てた陽平は、一気に顔が赤く染まるのを感じた。
「どうしたの? 岩田君。顔真っ赤だよ」
 麻子がクスッと笑ったように見えた。
「いやあの・・・これはその・・・」
「ん?」
 俯いてしまった陽平の頭の中から、今が診察中であることも、麻子が患者なのだということも全て消えてなくなった。
 麻子への想いが抑えきれないほど膨れあがり、陽平はたどたどしく口を開いた。
「あのさ、野村・・・。えっと、ごめん・・・。こんなこと突然言うのはどうかと思うんだけど、あの・・・俺・・・」
 陽平はゆっくりと麻子の顔を見上げた。
 麻子は陽平の真っ赤な顔をニコッと微笑みながら見つめ、先を促すようにささやいた。
「何?」
 麻子が陽平の気持ちを知っていたことは明白だ。わかっていながら先を言って欲しがっているのだと陽平は思った。
 その考えに背中を押され、陽平はひと言ひと言を噛み締めるように言った。
「野村・・・俺・・・。俺、野村のことが好きだ。中学の時からずっとずっと好きだったみたいだ。医者として、患者である野村にこんなこと言うのはどうかと思ってたんだけど、でも・・・」
 その先を言わないうちに、陽平の唇は麻子の唇でふさがれた。
軽く触れる程度のキス。陽平の全身は、一気に火がついたように燃え上がった。
 唇が離れていく前に麻子の身体を抱き寄せ、もう一度自分から唇を合わせていく。2人のキスは徐々に激しさを増していった。
 麻子は陽平の手を取ると、ゆっくり自分の胸へといざなっていく。陽平は服の上からそっと麻子の胸に触れた。次第にその手は激しさを増し、ブラウスの中へと入っていった。
「ずっと、こうして欲しかったの・・・」
 麻子は喘ぐようにそう言うと、ホッと小さく息を吐いた。
 麻子の下着は濡れていた。トロトロとした液体が流れ、ストッキングを濡らす。
 麻子はセックスができるという快感に酔いしれていた。

 こうして欲しかった。ずっとこうして欲しかったのだ。

 今日の昼、また会社に母から電話がかかってきた。内容はわかっている。理沙の結婚式に出ろと言うのだ。
 電話を切ると、またあの感覚が蘇った。

 セックスがしたい! どうしようもなくしたい。

 今の私の苦しさを癒すことができるのはセックスだけなのだと思った途端、強烈なめまいが襲ってきた。
 身体がグラリと揺れ、倒れ込みそうになる。
 その時、麻子は今日、クリニックに予約を入れていることを思い出した。
 めまいが急激に薄れ、視界がクリアになった。
 陽平なら、この苦しさから私を救ってくれる。彼とセックスをすればいいのだ。陽平がずっと私の身体を求めていたことは、ずいぶん前からわかっていた。どうして早く言ってくれないのだろうと思っていた。
 よかった。相手がいた。
 麻子は心の底からホッとして、夜になるまでの長い時間を、必死な思いで待ち続けた。

 ここが診察室であるという認識は、2人の頭から完全に消えていた。
 診察用のソファに横たわり、激しく求め合った。麻子のスカートをたくしあげ、陽平の手が下着に伸びる。ストッキングをおろし、彼女の空虚な部分を隠す最後の布に手をかける。
 隙間から手を滑らせ、麻子のぐっしょりと濡れたくぼみに指を這わせた。麻子の全身に稲妻のような快感が駆け抜け、昼間のイヤな出来事を全て忘れさせた。
「・・・麻子・・・麻子、愛してるよ」
 うめくような陽平のささやき。
「私も・・・」
 麻子はそう言いながら、・・・これでいつでもセックスできる。よかった・・・と、小さく安心の吐息を漏らした。
posted by 夢野さくら at 13:57| Comment(0) | 14番目の月

2008年08月17日

5

『新宿メンタルクリニック』の看護師、本島由紀は暇だった。
 最近クリニックでは、玄関に鍵をかけ、オカマたちを撃退するというナイスアイディアを実行している。おかげで予約患者しか入れなくなり、大層静かな待合室となった。
 BGMのクラシックも軽やかに響き渡りいい感じ。
 しかし・・・と由紀は思った。
 クリニックに勤め出してから約5年。毎日のようにオカマたちとのバトルを繰り返してきた。そんな由紀には、この静けさが何だか物足りないのだった。
 鍵をかけるっていうのはちょっとやりすぎだったかなぁ・・・と、今までの由紀らしくないことまで考えてしまう。
 こんなことを思うのも、全て暇がいけないのよと由紀はため息を吐いた。
 今日も、さっき帰った患者を除くと、夜に麻子の予約が入っているだけだ。
「暇だなぁ・・・」
 そうつぶやくと、由紀は診察室のある2階を見上げた。
近頃陽平の様子がおかしい。そわそわしているというか、落ち着きがないというか、いつもボーっとしていてうわの空なのだ。さっき帰った患者にも、
「近頃先生、ちょっとおかしくないですか?」
と言われたばかりだ。
 何でも、患者は陽平に気分転換を兼ねた温泉旅行の話をしたという。
「とてもいい気分転換になりました。先生も温泉がお好きだっておっしゃってましたよね」
「えっ、好き? いや・・・好きっていうか、気になるっていうか・・・。つまり助けたいんです。救ってあげたいって思うんです。本当です! 他意はありません」とキッパリ言い切ったと言うのだ。
 原因はわかる過ぎるくらいにわかっている。陽平は麻子が好きなのだ。麻子の予約が入っている日は、うわの空度数が高いという証拠も上がっている。
 最近由紀は予約を調整し、麻子の診察のある日は極力他の患者を入れないようにしている。
「全くもう・・・」
 玄関に鍵がかかっているのをいいことに、由紀はソファに寝ころびブツブツ文句を言い始めた。
「先生が野村さんを好きなのは確か。それは全然いい! ただ先生もいい大人なんだから、初めて恋をした中学生みたいになるのはやめてほしいのよね。患者さんにだっていい迷惑じゃないの。う〜ん・・・どうしたもんだかねぇ・・・」
 暇を持て余している由紀は、そんなことをつぶやきながらウトウトと眠りに落ちていった。

「本島君、本島君って。起きなさいよ」
 ハッと気が付くと、由紀の目の前に陽平が呆れ顔で立っていた。時計を見ると夕方の5時半すぎ。なんと1時間以上も寝ていたことになる。
「すいませ〜ん。患者さんが来ないからつい・・・」
「ついって、いつ電話がかかってくるかわからないんだよ。気を付けてよね」
「・・・はい。申し訳ありませんでした」
 謝りながらも、由紀はちょっと不満げだ。
 麻子の予約日を暇にしなくちゃならないせいで、他の日にシワ寄せが来て大変なのよ。それもこれも、先生が初恋中学生になって何にも手に付かなくなったのが原因じゃない。暇になったら居眠りぐらいするっつうの!
 そんな由紀の文句タラタラな視線にさらされた陽平は、ちょっと仏頂面になって由紀を見た。
「・・・何」
 いつまでもこんな状態が続くのはまずい。今がいい機会だ。ちゃんと言っておいたほうがいいと由紀は思った。
 由紀は自分の座っているソファの向かいを指差した。
「先生、ちょっとそこに座ってください。大事なお話があります」
 由紀の改まった声と態度に戸惑いながら、陽平は黙ってソファに座った。
「単刀直入に言っちゃいます。先生はLikeじゃなくloveの意味で、野村麻子さんが好きなんですよね」
 あまりの単刀直入さに、陽平はしどろもどろになった。自分でも何を言っているのかわからない。
「なっ! ななななな」
 何を突然言い出すの? と言いたかったらしい。しかし陽平の言語感覚は乱れまくってしまった。
「そっ! そそそそそ」
 今度は、そんなことないよぉ、と言いたかったようだ。しっちゃかめっちゃかになっている陽平の姿は由紀の哀れを誘った。ため息をひとつ吐き、優しげな口調で話し出す。
「・・・先生。そんなに慌てないでください。先生が野村さんを好きだってことは、誰が見てもわかります。野村さんを好きなのは何の問題もないんです。問題なのは、先生が初めて恋をした中学生みたいになっていることなんです。いいですか」
 恥ずかしさに顔を真っ赤に染め、下を向いてしまった陽平に、由紀は得々と説教をはじめた。
posted by 夢野さくら at 13:45| Comment(0) | 14番目の月

2008年08月09日

4

「最近課長の様子がおかしいんだよね。何か知ってる?」
 つい先日、同じ部署にいる彼氏・新田栄司に、つかさは突然そう聞かれた。
 最近仕事の最中も恋愛モードのつかさは、自分と彼氏以外の何も見えていない。麻子どころか、周りがどんなに激しい変化をしたところで、見ていないのだから気付くはずもないのだった。

 ある日、栄司は急ぎの書類をプリントアウトして、課長である麻子のデスクに向かった。
「課長、これにハンコをお願いします」
 麻子はそれに全く反応することなく、黙ってデスクのパソコン画面を見つめていた。
 不思議に思った栄司が覗き込むと、土気色の顔をした麻子が身体を小刻みに震わせている。具合でも悪いのだろうかと、栄司は慌てて麻子を呼んだ。
「課長、課長? どうしました?」
 何度も呼ばれると、麻子はハッとしたように顔を上げた。
唇は、まるで一晩中水に浸かっていたかのように真っ青で、完全に血の気が引いている。
 これは大変だ。風邪だろうか。それにしてもこの顔色は・・・。
「課長、医務室に行きましょう」
 栄司は麻子を立たせようと、デスクに手をかけた。
すると麻子が突然、これが最後の命綱だと言わんばかりにその手を握った。
 栄司は握られた手の冷たさに驚き、まるで死人のようだと思った。
「大丈夫よ。ちょっとこのままで」
 かすれ、震える麻子の声。大きな音など出したら壊れてしまいそうだ。
 周りは何も気付いていない。
 リストラの情報が行内を席巻している今、みんな自分の評価を上げようと必死だ。他人を気にかける余裕などどこにもないのだ。
 いつの間にか麻子の震えが止まっていた。顔にも血の気が戻ってきた。
 麻子はホッと息を吐いて、何事もなかったかのように言った。
「ごめんなさい。もう大丈夫よ。えっと、何?」
「お疲れのようですね。ちゃんと寝てます? 顔色悪いみたいだし」
「・・・大丈夫よ。心配しないで」
 麻子は曖昧な微笑みを返すだけで、具体的なことは何ひとつ言わなかった。

 それからというもの、栄司は麻子の様子を気にかけるようになった。
「何かの病気かな。ここのところ、度々真っ青になる課長を見るんだけど、何か知ってる?」
「う〜ん・・・わかんないなぁ。最近あんまり野村さんと話してないし。でも私が紹介した病院には、ちゃんと通ってるみたいよ」

 つかさからだいたいの事情を聞いたリリィが、早速得意の水晶占いを開始した。
「陽平先生のところで治療はじめて、もう2ヶ月くらい経つのに、まだ不眠症治らないのかしら」
 水晶玉を見つめつつ、リリィが心配そうにそう言うと、マルコがまるで原因の一端をつかんでいるかのようにキッパリと言った。
「眠れないだけで顔が土気色になると思う? 身体だって震えないと思うわ。これは何か別の原因があると思うの!」
「別の原因って何?」
 サツキもダンボもつかさも美鈴も、全員瞳を輝かせてマルコの答えを待った。
 マルコは一同をゆっくり見回すと、さらにキッパリと言い切った。
「それはわからない!」
 『紫頭巾』中に鳴り響くブーイングの嵐を上手くかわしながら、マルコは美鈴に聞いた。
「美鈴ちゃん何か知ってる?」
「関係あるかどうかわからないけど、最近野村さんのお母さんから、よく銀行に電話かかってくるの。その電話がある度に、野村さん具合悪そうにしてたのよね」
「・・・そう言えばそうですね。この間なんて私、いないって言ってくれって言われました」
「川崎さんも言われたの?! 私も言われた」
「美鈴さんも?」
「ええ・・・。お母さんと何があるのかはわからないけど、でもそれだけで身体が震えるわけないじゃない? だからそれが原因かって言われると、違うような気はするのよねぇ・・・」
 つかさと美鈴の話を聞いても、麻子に何があるのかはまるでわからない。でも麻子の体調は、何かの病気ではないかと思わせるほど悪そうだ。
 いまだ不眠も改善されていないらしい。
 一同の頭の中に『?』マークが10個ほど浮かび、いつの間にか全員が腕組みをして考え込んでいた。
posted by 夢野さくら at 16:15| Comment(0) | 14番目の月

2008年08月02日

3

「ありがとうございましたぁ! またいらしてね〜ん」
 サツキとマルコが、お客を地上入り口で見送る。
 新宿二丁目のあちこちから同じようなダミ声が上がった。
 もうすぐ終電が出る時刻。さまざまな店からお客が一斉に溢れ出し、駅への道を急いでいく。
 ふとサツキが、『新宿メンタルクリニック』の入っている隣のビルを見上げた。
 全ての部屋の電気が消え、真っ暗だ。
「あ〜あ・・・今日はもう、先生お帰りになったのね」
 最近クリニックの玄関には鍵がかかるようになった。診察の予約を入れてチャイムを鳴らさないと、待合室に入れない仕組みになったのだ。全て由紀の仕業である。
 店への階段を降りながら、マルコはブツブツとサツキに愚痴った。
「ねぇママ、あたしたちもうどのくらい先生と会ってないのかしら」
「そうねぇ・・・かれこれ2週間くらいになるわね」
 ため息をつきながら店のドアを開けると、最後に残っていたつかさと美鈴が、まだまだ宵の口だといわんばかりに盛り上がっていた。
 美鈴はすっかり『紫頭巾』の常連となり、週に一度は通って来ていた。
 麻子が来ることはなかったけれど、『紫頭巾』はまぁまぁの上客をひとりGETしたことになった。
「ここって、なんとなく居心地がいいのよね。なんでなのかな」
 美鈴はそう言うと、面白そうに店内を見渡した。
壁は一面キレイなラベンダー色。テーブルや椅子にもどこかに必ず紫色が入っている。
 これはもちろん、店名『紫頭巾』にかけているのだけれど、実はそれだけではない。ラベンダー色というのは、精神を癒す効果があると言われているのだ。
 『紫頭巾』はそのカラー効果によって、自然にお客がくつろげる空間になっていたのだ。

「そうそうつかさちゃん。また今度野村さん連れてきてよ」
「あ〜ダンボちゃん! 先生と野村さんがどうなってるのか知りたいんでしょ」
「あら、つかさちゃんは気にならないわけ?」
「実はぁ、最近彼氏ができました! なので野村さんと先生がくっついてもいっこうに構いませ〜ん」
 つかさの彼氏ゲット宣言に、『紫頭巾』が揺れた。
「何それ〜! 裏切り者〜!」
 悲鳴にも似た怒声が響き渡り、阿鼻叫喚の渦を巻き起こす。
 一同が冷静さを取り戻すまで、約15分という時間を要した。
 興奮しまくりで、ハァハァと肩で息をしながら、新しい彼氏のことを根掘り葉掘り聞き出すオカマたち。
 彼氏の新田栄司が同じ部署にいると聞いたダンボは、思いっきりつかさを罵った。
「いやぁねぇ、身近で手を打ったりして! この根性なし。もっと高みを目指しなさいよ。第一同じ職場なんて、周りの皆さんに迷惑じゃないの。ねぇ美鈴ちゃん!」
「そうそう、仕事中に目配せなんかしちゃったりして。気が散って仕方がないわぁ」
 美鈴がつかさをからかうが、当の本人はヘッヘッヘッと笑うだけ。いっこうに反省の色を見せる気配すらなかった。
「そういえば美鈴さん」
「何よ」
「この前新田さんが言ってたんですけど、最近の野村さんっておかしいと思いますか?」
「おかしい?」
「そうなんです。実はね・・・」
posted by 夢野さくら at 22:56| Comment(0) | 14番目の月

2008年07月26日

2

「もう平気。痛みもだいぶ引いたわ」
 理沙は座り込んでいたレストランの階段から立ち上がり、確かな足取りで歩き出した。

 日曜の午後二時過ぎ。歩行者天国となっている銀座中央通りはとんでもない人の多さだ。
 純也は理沙が人にぶつかるのではないかと気が気ではない。理沙をギュッと自分に引き寄せ、落ち着かなげに周囲を見つめていた。そのあまりの真剣さに、理沙は噴き出しそうになった。
「本当にもう大丈夫。純也さんはお姉ちゃんと同じくらい心配性ね。昔ね、お姉ちゃんがね、」
 理沙の話にはしょっちゅう麻子が出てくる。
 純也が理沙と出会ったのは、大学を卒業し、東京都福祉保健局に勤め出してまもなくのことだった。
 知り合ってから8年、付き合い出して5年経った今でも、いつも理沙の話の中心は麻子だった。
 この前お姉ちゃんがこう言った。昨日お姉ちゃんがこんなことをしてくれた。お姉ちゃんはすごいのよ。お姉ちゃんはね・・・。
 理沙が麻子のことをどんなに心の支えにしているのか。麻子がどれほど理沙を慈しみ、守ろうと努力しているのか。純也には理沙の表情を見ているだけで、わかりすぎるくらいにわかった。
 目の見えなかった十数年、理沙にとって麻子はこの世の全てだった。理沙と麻子のこれまでを考えれば、それは当然の結果だと思う。
 それは充分わかっていながら、純也は麻子に対し、徐々に嫉妬を覚えるようになっていった。
 自分が麻子の代わりになりたい、自分が理沙を支えたい。
 ・・・そして純也は、理沙に結婚を申し込んだのだった。
「君の目が見えないことは、僕にとって本当に些細なことなんだ。僕は理沙と一緒にいたい。2人で一緒に年を取っていきたい。大丈夫。2人で支えあっていけば、どんなことだって乗り越えられる。そう思わない? ・・・僕と、結婚してください」
「・・・はい。よろしくお願いします」
 理沙の見えない目から、涙がポロポロとこぼれ落ちた。

 だが、理沙の母は猛反対した。目の見えない理沙との生活がどういうものか、あなたには全然わかってないと言われた。当然麻子も同じ理由で反対した。
 それから1年、純也と理沙は、母と麻子への説得を続けた。
 徐々に母の心が動きはじめた時、目の手術が可能となった。
 簡単な手術ではない。輪部と言われる部分を移植するのだ。確実に視力が戻るという保証があるわけでもない。しかし成功すれば、理沙の目は見えるようになる。このまま手術をしなければ、それこそ何も変わらない。なによりも理沙自身が、手術を心から望んでいた。

 理沙の手術は成功した。ついに念願の視力を取り戻したのだ。
初めて純也の顔を見た理沙は、茶目っ気たっぷりにこう言った。
「意外とハンサムだったのね。もっと変な顔かと思った」
 幸せに満たされたその笑顔。純也は一生その笑顔を見て暮したいと思った。
 もう理沙の母は結婚に反対しなかった。する理由などどこにもない。
 手術後の経過も順調に進み、1年が経った頃、純也は正式に理沙と婚約した。
 母は理沙の手をギュッと握り、溢れる涙に声を詰まらせながら言った。
「おめでとう、理沙。純也さん、理沙をよろしくお願いします」

 麻子は何も言わなかった。理沙の目が治った途端、黙って実家を出て行った。
 あれほど理沙を可愛がり慈しんでいたはずの麻子が、なぜか突然理沙との連絡を絶つようになった。
 理沙には何が起こったのかわからなかった。自分が何か麻子を怒らせるようなことでもしたのだろうか。
 何も思い当たらない。留守番電話に用件を吹きこんでも、携帯やパソコンにメールを入れても、返事が来ることはない。結婚式も多忙を理由に断わられた。いったいどういうことなのだろう。

 混雑した銀座中央通りを歩きながら、理沙は急に黙り込んだ。
どうして連絡をくれないのだろう。いくら忙しいといっても、電話ぐらいできるはずだ。
 話がしたい。お姉ちゃんがどう思っているのか。なぜ急に私と距離を置くようになったのか。こんな気持ちのままじゃ結婚なんてできない。お姉ちゃんが出席できない結婚式なんて、私にとって何の意味もない。

「お姉ちゃんが出席でき」
 理沙はハッとして口をつぐんだ。
 ・・・お姉ちゃんが出席できないなら、やっぱり結婚式は伸ばしたい・・・。
 隣には純也がいた。こんな自分と結婚したいと言ってくれた純也に、そんなことが言えるはずはなかった。
 理沙は急に泣きたくなった。目が見えなかった時、手に取るようにわかっていると思っていた麻子の気持ちが、見えるようになった途端何もわからなくなった。
 本来なら幸せの絶頂であるはずの理沙の全身が、見る見るうちに途方もない悲しみに包まれる。
 それを黙って見つめる純也の目に、ある決意が宿った・・・。
posted by 夢野さくら at 01:37| Comment(0) | 14番目の月

2008年07月19日

第2章 1

 夏の日差しがまだ残る9月中旬の日曜日。銀座4丁目交差点に建つ和光の時計が午後二時を指した。
 歩行者天国となっている中央通りには、日曜の銀座を楽しむ人で溢れ返っている。
 田島純也も、久しぶりに婚約者の野村理沙を連れ、銀座でランチを取っていた。
 食事を済ませ、薄暗い地下の店からさんさんと光る太陽の下へ出る。あまりのまぶしさに、純也は一瞬目を細めた。ハッと後ろを振り返ると、すでに太陽の光は理沙の目を射抜いている。純也にすら強烈と感じる日差しが、目の悪い理沙にとって毒でないはずがない。
 痛い! 理沙は思わず階段に座り込み、ギュッと目を閉じた。サングラスをし忘れていたのだ。目を開けられず、手探りでバッグの中を漁る。慌てた純也が、代わりにバッグの中からサングラスを取り出し理沙に渡した。
「ごめん、気が付かなくて。大丈夫? えっとどうしよう。病院行った方がいいかな。あ、でも今日は日曜日だ・・・」
 純也は焦った。どうしよう・・・理沙の目に何かあったら・・・。そんな純也の気配を感じ、理沙は目をつぶったまま顔を上げて微笑んだ。
「そんなに心配しないで。私は大丈夫よ。目薬さして、しばらくこうしてれば治るから」
「でも・・・本当にごめん。僕がもっと注意してれば」
「本当に大丈夫。サングラスをし忘れた私がいけないの。もう手術して2年も経つのに、まだ目が見えるってことに慣れてないのね」
 そう言うと、理沙はクスッと笑った。
目は痛い。でもこの痛みは目が見えるという証拠なのだ。それを思えば少しぐらいの痛さは我慢できる。目が見えなかった20数年間を思ったら、こんな痛みなどなんでもない。むしろ理沙には、目が見えるという信じられないほどの幸福を、何度何度も実感させてくれる嬉しい痛みなのだ。

 理沙が3歳の時、父が亡くなった。母は働きに出なければならず、幼い理沙の面倒は、7歳年上の姉・麻子が見ることとなった。
 理沙が4歳になったある日、その事故は起こった。
 その日麻子は、母に頼まれていた買い物へと出かけていた。いつもなら必ず理沙を一緒に連れて行くのだが、出かけに理沙が「出かけたくない! 家で遊びたい」と散々駄々をこねた。
 頭にきた麻子は、理沙を放ってひとりで家を出ていってしまった。
 置いていかれた理沙は無性に悲しくなり、ワーワーと泣き叫んで麻子を呼び、そこら中にあるものを投げ散らかした。
 おもちゃ、座布団、麻子のランドセルなど、手当たり次第に放り投げた。投げるものがなくなると、理沙はトコトコと洗面所に向かった。
 洗面台の下の戸を開けると、中にはさまざまなものが詰まっていた。シャンプーやリンスの買い置き、トイレットペーパー、洗濯洗剤。その他見たこともない色鮮やかな数々のボトル。
 理沙の手がその中の一本に触れた。キャップが緩んでいる液体のカビ取り剤だった。
 理沙は容器をギュッとつかむと、それを持ち上げた。途端中身の液体が勢いよく飛び出し、理沙の顔面を直撃した。見開いた目にも大量の液体がかかった。
 あっという間の出来事で、理沙には何が起こったのかわからなかった。ただ猛烈に痛いと思い、理沙はゴシゴシと目を擦った。 何万本もの針が目に刺さったような痛みが走り、瞼を開けることができない。まだたった4歳の理沙には、目を洗うという考えは浮ばなかった。麻子が帰ってきて、自分を助けてくれるのを待つしかなかったのだ。
 怖かった。理沙は今まで、これほどの恐怖を味わったことがなかった。どうすることもできない時間が、そして理沙の視力を奪うのに充分な時間が過ぎていった。

 買い物から戻ってきた麻子が目にしたのは、あまりの痛さと恐怖に気を失い、倒れ込んでいる理沙だった。
 夕暮れの日差しが入り込んだアパートに、麻子の理沙を呼ぶ悲鳴が響き渡った。

 適切な初期治療ができず、病院に行くのも遅すぎた。
 理沙の目の角膜は濁り、視力が極端に低下した。
 白目と黒目の境で、輪部と言われる部分にも障害が出ていた。そのため角膜移植すらできないと言われた。
 理沙の目は、医療技術の進歩で、輪部移植が可能になるまでの長い間、モノを見る能力をほとんど失っていたのだった。
posted by 夢野さくら at 14:34| Comment(0) | 14番目の月