麻子はひとり、窓際のパソコンデスクに向かいメールを打っていた。
窓の外には古代遺跡の街ローマが広がっている。遺跡には美しくライトアップが施され、見るものを幻想の世界へといざなっていく。
麻子が夫の海外転勤でこの街に来て、もう2ヶ月が経とうとしていた。
「岩田君、お元気ですか? 結婚式ではいろいろとありがとう。あのあとすぐにローマに来てしまい、ちゃんとお礼を言う時間も取れなくて本当にごめんなさい。私はとても元気です。病院にも通っています。慣れない土地で、最初はどうなることかと思ったけど、イタリアの人はとても親切で、毎日楽しく過ごしています。
岩田君、何もかも、本当にありがとう。あなたがいてくれなかったら今の私はいません。彼と再会し、どんなに惹かれあったとしても、岩田君がいなかったら私は彼を受け入れることができなかった。そして、どんどんと欠けていく自分を見続けていたと思います。今の私が14番目の月になれたのかどうかはわかりません。たぶんまだでしょう。でも、ないものを探すのではなくあるものを見つける。そのことをあなたが教えてくれたから、これから少しずつでもいいから14番目の月になれるように進んで行こうと思ってます。
最後に・・・あなたがくれたとてもたくさんの愛に答えることができなくてごめんなさい。それなのに、あなたは私を救ってくれた。どんなに感謝してもし足りません。心から、本当に心から、あなたの幸せを祈っています。ありがとう。野村改め、武藤麻子」
部屋の明かりは点いているのに、パソコンのスイッチを切ると、急に部屋が真っ暗になったような気がした。温かい庇護者との繋がりを切った・・・そんな感じだ。
時計を見ると夜の8時を回っている。
あの人は今日も遅いんだろうな。仕事なのだから仕方がない。それは充分わかっている。わかっているんだけど・・・麻子はつらつらと、ここに至るまでのことをぼんやりと思い返した。
武藤は総合商社に勤める麻子と陽平の同級生だ。
中学時代、陽平がおとなしく少しイジメられっ子だったのに対し、武藤はクラスのリーダー的存在だった。身体が大きく愛嬌があり、ケンカが強くて運動神経抜群だった。昔は陽平のことをからかったりもしていたが、今は親しく付き合っている。数ヶ月に一回は連絡を取り合い、軽い同窓会のようなものも開いていた。
そのころ麻子は、陽平の勧めでセックス依存症を扱う病院に通院していた。陽平もセックス依存症についてのさまざまな治療方法を学び、できる限り麻子に付き添った。彼女がセックスの衝動を抑えきれなくなると、陽平は共に散歩をしたり、映画を観たりと気分転換を図った。通院し始めて数ヵ月後、麻子はずいぶんと回復の兆しを見せていた。陽平は、麻子には女友達が必要だと考えた。そして今から8ヶ月ほど前、麻子を連れて同窓会に参加したのだ。そこで麻子は、武藤と運命的な再会を果たすこととなった・・・。
再会直後から、武藤は麻子に強引なまでのアプローチをした。しかし麻子はセックス依存症だ。とても武藤の気持ちに答えることなどできるわけがない。次第に麻子は、武藤からの連絡を拒絶するようになっていった。
だが陽平は、武藤に惹かれる麻子の気持ちに気が付いていた。陽平はあの日・・・麻子が心から安心して生きていけるのであれば、隣にいるのが自分でなくてもかまわないと思った。今もその気持ちに嘘はない。嘘はないけれど、思った以上に辛いものなのだなと、陽平は苦笑いを浮かべてそう思った。
でももう、自分は決して麻子を裏切らない。それだけは絶対にしたくない。そう決意していた陽平は、武藤との再会から数ヵ月後、全てを彼に打ち明けるよう麻子にアドバイスした。武藤ならきっと受け止めることができるだろうと思えた。心の病は全て、親しい人たちの理解と協力がなければ、とても治すことなどできはしない。彼なら麻子を、自分の代わりに包み込み、麻子に本当の笑顔をもたらしてくれるだろう。
麻子は悩み、苦しみ、結論を出せないままの日々が流れていった。
自分は武藤とただの友達に戻れるだろうか。こんな苦しみはさっさと終わりにして、仲のいい同級生に戻るのだ・・・。
無理だ。どう考えてもそれは無理だと思った。彼はもう、自分の心の奥底にまで入り込んでいる。今更ただの友達になどなれるはずがない。
だったら自分は、武藤を最初からいなかったものとして、記憶から消すことができるだろうか。全てを忘れてなかったことにする。自分は同窓会にもいってないし、武藤にも会わなかった。武藤と再会してからの、信じられないほど輝いていた毎日をなかったことにする・・・。
それこそ無理だ。そんなことができるくらいならこんなに悩んだりはしない。
ただの友達に戻ることもできず、消すこともできない・・・。だとしたら、できることはたったひとつしかない。でももし、受け止めてくれなかったら? ・・・怖い・・・とてつもなく怖い・・・。でももう後戻りはできない。そして、したくない・・・。
ついに麻子は武藤に全てを打ち明けた。義父のこと、母のこと、妹のこと、そしてセックス依存症であること。
武藤は驚き、相当のショックを受けたが、結局は全てを受け入れ、納得し、自分の気持ちは変わらないと麻子にプロポーズをした。
それからまもなく武藤のイタリア転勤が決まった。それは結婚式を間近に控えた、ただでさえ忙しい時だった。
あまりに突然の転勤騒ぎに落ち着いてものを考える暇もなく、めまぐるしい日々の中で、陽平とゆっくり話をする時間もないままに、気がついたらローマに来ていたというのが麻子の正直な実感だった。
あれから半年。ローマに来てからも2ヶ月という時間が過ぎ、最近やっと、麻子に落ち着いた日々が戻ってきていた。
武藤は毎日仕事で忙しい。朝早く家を出て、帰ってくるのが夜中近くになることもままあった。
麻子は友達ひとりいない見知らぬ土地で、たったひとりで過ごす時間が多くなった。
陽平に送ったメールでは、心配をかけまいと『イタリア人はとても親切で、毎日楽しくすごしています』などと書いた。でもそれは、とても真実とは言えなかったのだ。
ここローマはろくに英語も通じず、石畳の道はゴチャゴチャとして、あちこちにジプシーと呼ばれる物乞いやスリがいる。常時財布をスラレないかとヒヤヒヤし、麻子にとっては楽しむどころではなかった。
思いっきり日本語を話したい。せめて英語でもいい。慣れないイタリア語なんかうんざりだ。そんな愚痴を言おうにも、夫は顔を合わせる時間もないほど忙しい。疲れきって寝ている夫を起こしてまで、こんな愚痴を聞かせることは出来ない。
・・・どうしてだろう。心は幸せで満たされていたはずなのに、なんだかまた、月が欠けてきたみたいだ。
ああ・・・イライラする。外にはたくさんの男・・・。いつもいつも、誘うように私を見る。
・・・最近また、ね・む・れ・な・い・・・。
2009年05月23日
2009年05月05日
最終章
ハーブティーの香りが漂う『新宿メンタルクリニック』の待合室。
由紀がため息を吐きつつ見つめている先には、由紀の淹れたハーブティーを楽しむ、『紫頭巾』のオカマたち4人がいた。
テーブルには数え切れないほどの写真が所狭しと並べられ、写真の中から美しいウェディングドレス姿の麻子が幸せ一杯の微笑みかけている。
「キレイだったわねぇ、麻子さん」
ウットリと夢見るようにマルコが言う。頭の中には自分のドレス姿が浮んでいるようで、架空のドレスのすそを持ち上げ、リリィと一緒にワルツを踊るように待合室を一周している。
ダンボは自分の映りがいい写真を探しながら、「やっぱり結婚式っていいわぁ・・・。心が洗われるってこのことね」と、麻子と並んで映る自分の姿に満足げだ。
サツキはハーブティーを一口飲み、うらやましそうにダンボに言った。
「いろいろあったけど、女の幸せはやっぱり結婚よねぇ」
「同感よ、ママ! 麻子さん本当に幸せそうだったものね」
「きっと先生のあの言葉が、麻子さんの幸せを作ったんだわ」
「14番目の月になろうなんて、本当にいいこと言うわよねぇ先生」
目をハート型にさせ、サツキがウンウンと勢いよくうなずく。
「ちょっと、どうしてそれを知ってるんです?」
なぜこのオカマたちは、そのことを知ってるのだろうかと由紀は疑問に思った。
忘れもしない約1年前のあの日。
麻子の壮絶としか言いようのない過去を、彼女の口から聞いてしまったあの日。
確かにあの場所にはオカマたちはいなかったはずだ。まさか待合室の入り口で立ち聞きでもしていたんじゃないだろうか。確かにこいつらならやっていてもおかしくはない。
「まさかあの時、立ち聞きしてたんじゃないでしょうね」
「いやぁねぇ。そういう発想をすること事態、品性が下劣ってことの証明よね」
ニヤニヤ笑いながらダンボが言った。ムッとしながら由紀が聞く。
「じゃあどうして知ってるんです?」
「あたしたち、理沙さんとすんごく仲良しなの。理沙さんの結婚式にだってお呼ばれしたんだから」
「そうなんですか?!」
由紀は驚き、いつの間にそれほどの仲になったのだろうかと考えた。
「そうよ。理沙さんは、私たちが聞けば何でも教えてくれるのよ。ねぇママ」
「ええ。麻子さんのことでうちにお礼にいらした時、ちょっと飲んでいただいて、意識が朦朧としたそのあとで、根掘り葉掘り聞いたのよ」
「普段あまり飲まないって言ってたから、ちょろいもんだったわね」
「そのあと、リリィちゃんが催眠術もかけてなかった?」
マルコが尊敬の眼差しをリリィに送る。
「そうなの! 最近催眠術もやるようになったから、ちょっと理沙さんで試してみたわ。あんなにすんなりかかるなんて自分でも驚いちゃった。やっぱりあたしって天才かも!」
「それって、すでに犯罪の域に達してると思うんですけどね」
ダンボは麻子の写真をつまみ、ひらひらと由紀の前にチラつかせながら言った。
「やぁねぇそのいい草。あたしたちはワザワザ結婚式の写真を持ってきてあげたんじゃないの。やっぱり独り身の女は刺々しくなるって本当なのねぇ」
「余計なお世話です。あなたたちだって独り身じゃないですか」
「あたしたちはこれからですもの。ねぇ、ママ?」
「その通りよ、ダンボちゃん。失恋に一番効くのは新しい恋愛だって、ことわざにもあるものね」
「いいこと言うわぁママ。本当にその通りよ。だって・・・ねぇ」
ダンボとサツキの視線が診察室へと注がれると、由紀は2人を小馬鹿にしたように笑い、意味ありげに言った。
「いいですか、それ飲んだらさっさと帰ってくださいね。ああそれから、野村さんの後釜を狙ってるんだとしたら、それこそお門違いですから」
その言い方にイヤな予感を感じたマルコは、「何それ。どういうこと?」と由紀に食いついた。
由紀はマルコの反応を見ると満足げな笑みを浮かべ、上機嫌でこう言った。
「あら、先生からお聞きなってません? 先生今度お見合いするんです。失恋に一番効くのは新しい恋愛だって、ことわざにもあるんでしたね」
「ちょっと、何それ! 全然聞いてないわよ!」
「いつよ! いつなの? 言いなさいよ」
「どこの女よ。妨害してやる!」
思ってもみなかった展開に、オカマたちは蜂の巣をつついたような騒ぎを見せ、我先にと話しはじめた。由紀の周りを取り囲み、全てを白状しろとうるさく攻め立てる。しかし由紀は全く動じる気配も見せず、愉快でたまらないといった笑顔を浮かべて黙っていた。
実は『14番目の月』話に感激したのは、なにもオカマたちばかりではなかった。又聞きでさえあれほどオカマたちをウットリさせたのだから、実際に話を聞いていた由紀が何も感じないはずがない。すぐさま付き合っていた彼氏に別れを告げ、今は陽平を一番近い場所から狙っているのだ。当然陽平の見合い話も、オカマたちを煙に巻くためのまるっきりのでまかせだった。
由紀はライバルたちを大恐慌に陥れた自分の言動に満足しきりで、ゆったりとソファに腰をかけ、テーブルの上の写真を一枚つまみあげた。
そこに映っていたのは、幸せ一杯の輝くほどの微笑を浮かべる麻子と、彼女と腕を組み、誇らしげに微笑むタキシード姿の武藤という男性だった。
由紀はニヤッと笑い、心の中でつぶやいた。
「先生のことは私に任せて、野村さんはこの人と、思う存分幸せになってください!」
由紀がため息を吐きつつ見つめている先には、由紀の淹れたハーブティーを楽しむ、『紫頭巾』のオカマたち4人がいた。
テーブルには数え切れないほどの写真が所狭しと並べられ、写真の中から美しいウェディングドレス姿の麻子が幸せ一杯の微笑みかけている。
「キレイだったわねぇ、麻子さん」
ウットリと夢見るようにマルコが言う。頭の中には自分のドレス姿が浮んでいるようで、架空のドレスのすそを持ち上げ、リリィと一緒にワルツを踊るように待合室を一周している。
ダンボは自分の映りがいい写真を探しながら、「やっぱり結婚式っていいわぁ・・・。心が洗われるってこのことね」と、麻子と並んで映る自分の姿に満足げだ。
サツキはハーブティーを一口飲み、うらやましそうにダンボに言った。
「いろいろあったけど、女の幸せはやっぱり結婚よねぇ」
「同感よ、ママ! 麻子さん本当に幸せそうだったものね」
「きっと先生のあの言葉が、麻子さんの幸せを作ったんだわ」
「14番目の月になろうなんて、本当にいいこと言うわよねぇ先生」
目をハート型にさせ、サツキがウンウンと勢いよくうなずく。
「ちょっと、どうしてそれを知ってるんです?」
なぜこのオカマたちは、そのことを知ってるのだろうかと由紀は疑問に思った。
忘れもしない約1年前のあの日。
麻子の壮絶としか言いようのない過去を、彼女の口から聞いてしまったあの日。
確かにあの場所にはオカマたちはいなかったはずだ。まさか待合室の入り口で立ち聞きでもしていたんじゃないだろうか。確かにこいつらならやっていてもおかしくはない。
「まさかあの時、立ち聞きしてたんじゃないでしょうね」
「いやぁねぇ。そういう発想をすること事態、品性が下劣ってことの証明よね」
ニヤニヤ笑いながらダンボが言った。ムッとしながら由紀が聞く。
「じゃあどうして知ってるんです?」
「あたしたち、理沙さんとすんごく仲良しなの。理沙さんの結婚式にだってお呼ばれしたんだから」
「そうなんですか?!」
由紀は驚き、いつの間にそれほどの仲になったのだろうかと考えた。
「そうよ。理沙さんは、私たちが聞けば何でも教えてくれるのよ。ねぇママ」
「ええ。麻子さんのことでうちにお礼にいらした時、ちょっと飲んでいただいて、意識が朦朧としたそのあとで、根掘り葉掘り聞いたのよ」
「普段あまり飲まないって言ってたから、ちょろいもんだったわね」
「そのあと、リリィちゃんが催眠術もかけてなかった?」
マルコが尊敬の眼差しをリリィに送る。
「そうなの! 最近催眠術もやるようになったから、ちょっと理沙さんで試してみたわ。あんなにすんなりかかるなんて自分でも驚いちゃった。やっぱりあたしって天才かも!」
「それって、すでに犯罪の域に達してると思うんですけどね」
ダンボは麻子の写真をつまみ、ひらひらと由紀の前にチラつかせながら言った。
「やぁねぇそのいい草。あたしたちはワザワザ結婚式の写真を持ってきてあげたんじゃないの。やっぱり独り身の女は刺々しくなるって本当なのねぇ」
「余計なお世話です。あなたたちだって独り身じゃないですか」
「あたしたちはこれからですもの。ねぇ、ママ?」
「その通りよ、ダンボちゃん。失恋に一番効くのは新しい恋愛だって、ことわざにもあるものね」
「いいこと言うわぁママ。本当にその通りよ。だって・・・ねぇ」
ダンボとサツキの視線が診察室へと注がれると、由紀は2人を小馬鹿にしたように笑い、意味ありげに言った。
「いいですか、それ飲んだらさっさと帰ってくださいね。ああそれから、野村さんの後釜を狙ってるんだとしたら、それこそお門違いですから」
その言い方にイヤな予感を感じたマルコは、「何それ。どういうこと?」と由紀に食いついた。
由紀はマルコの反応を見ると満足げな笑みを浮かべ、上機嫌でこう言った。
「あら、先生からお聞きなってません? 先生今度お見合いするんです。失恋に一番効くのは新しい恋愛だって、ことわざにもあるんでしたね」
「ちょっと、何それ! 全然聞いてないわよ!」
「いつよ! いつなの? 言いなさいよ」
「どこの女よ。妨害してやる!」
思ってもみなかった展開に、オカマたちは蜂の巣をつついたような騒ぎを見せ、我先にと話しはじめた。由紀の周りを取り囲み、全てを白状しろとうるさく攻め立てる。しかし由紀は全く動じる気配も見せず、愉快でたまらないといった笑顔を浮かべて黙っていた。
実は『14番目の月』話に感激したのは、なにもオカマたちばかりではなかった。又聞きでさえあれほどオカマたちをウットリさせたのだから、実際に話を聞いていた由紀が何も感じないはずがない。すぐさま付き合っていた彼氏に別れを告げ、今は陽平を一番近い場所から狙っているのだ。当然陽平の見合い話も、オカマたちを煙に巻くためのまるっきりのでまかせだった。
由紀はライバルたちを大恐慌に陥れた自分の言動に満足しきりで、ゆったりとソファに腰をかけ、テーブルの上の写真を一枚つまみあげた。
そこに映っていたのは、幸せ一杯の輝くほどの微笑を浮かべる麻子と、彼女と腕を組み、誇らしげに微笑むタキシード姿の武藤という男性だった。
由紀はニヤッと笑い、心の中でつぶやいた。
「先生のことは私に任せて、野村さんはこの人と、思う存分幸せになってください!」
2009年04月29日
9
いつも麻子に愛していると言い続けた陽平。それを、自分とのセックスをしたいがための言葉だと、麻子は固く信じていた。
愛しているという言葉は、セックスの前戯と同じ。それ以外の意味はなにもない。なくていい。あると知ってはいけない。知ってしまったら最後、今まで以上に空っぽな自分を感じてしまう。男女の愛も、親子の愛も、姉妹の愛も、友達同士の愛も、何もかもみんな作り話。そんなもの、現実には存在しない。してはいけないのだと。
しかし、目の前の男はセックスの時以外も、何度も何度も麻子を愛していると繰り返していた。・・・もしかしてあの言葉は本物だったのか・・・? ・・・私からの愛を、狂おしいほどほしがっていたのか・・・。幼いあの日の私がそうだったように・・・。
麻子がぼんやりとそう考えた時、彼女を完全に包み込む、継ぎ目ひとつない透明で強固な球体がきしんだ。
それは麻子を外界から完全に遮断し、空っぽにし、何もない心だけを見つめさせる球体。
反対に、愛してほしくても愛されない苦しさや辛さ、自分以外のものとの関わりで傷つく心、それらから麻子を完璧に守っているものでもあった。
その球体がわずかにきしみ、砕け散ろうとしていた。球体が立てるギシギシという恐ろしい音は、麻子の耳にはっきりと届いていた。
麻子の脳裏に、かつて見た恐ろしい夢・・・麻子を包む球体が粉々に砕け散り、一緒に自分の身体も散り散りバラバラになった、あの光景が蘇った。
麻子は思わず叫び出しそうになった。陽平に握られたままの手を外し、耳を塞ごうとする。
恐怖に引きつった麻子の顔。しかし陽平はその手を離そうとはしなかった。反対にギュッと強く握り締め、下を向きイヤイヤと首を振る麻子に力強く言った。
「麻子! 俺を見て。何も怖くないから。大丈夫だから安心して! 麻子!」
恐る恐る麻子は陽平を見つめた。陽平は麻子を安心させるように大きくうなずくと、そのままギュッと抱きしめた。ほどいた手で、麻子の背中をポンポンと繰り返し叩く。
「ほら大丈夫。怖くない、怖くない。何も怖いものなんかやってこないよ。もしやってきても、俺が守ってやる。だから大丈夫。安心して。ね、安心して・・・」
ポンポンと叩いていた手は、今度はゆっくり麻子の背中をさする。恐怖で硬くなっていた麻子の身体から徐々に力が抜けていった時、ふいに陽平は、麻子を抱きしめながら優しくささやくように言った。
「麻子、ないものを探すのはもう止めよう。自分から16番目以降の月になるなんて、ずいぶんバカらしいことだと思わない?」
陽平は麻子から身体を離し、また手を握って上下のリズムを取った。
「だからね麻子、あるものを探してみようよ。例えば麻子には、今はちょっと痩せちゃったけど、元々とってもキレイな顔と、みんなが憧れるような素晴らしいスタイルを持ってる。俺、前にも言ったけど、中学の時からずっと麻子に憧れてたんだよ。周りの男もみんなそうだった。でもそれは、麻子とセックスがしたいからじゃない。ただ単純にステキだな、いいなって思ってたんだ。麻子は人にそう思わせるものをちゃんと持ってる。それから辞めてしまったけれど、麻子には素晴らしい仕事のキャリアがある。これは誰でも持てるものじゃない。麻子だから得られたものだ。そして妹の理沙ちゃん。彼女は麻子を本当に心配しているし、愛している。いつもいつも気にかけてる。麻子がずっと、目の不自由だった理沙ちゃんにそうしてきたように。これは確かだ。そうだね、理沙ちゃん」
陽平は、階段上に立ち尽くす理沙を見上げた。それにつられ、麻子もゆっくりと理沙を見る。
麻子の恐れと不安が交じり合ったような瞳。理沙はその瞳をじっと見つめ、コクンと大きくうなずいた。
陽平の手は、変わらず麻子の手を握り、独特のリズムで上下に動かし続けている。
「麻子は何もない。空っぽだって言ったけど、これでもう3つも素晴らしいものがあるってわかった。麻子、この世の中に、完全に満ち足りてる人なんてひとりもいないよ。みんな何かが足りないって思いながら生きてる。麻子はずっと、閉じきった自分の心の中だけを見て、空っぽだ、何もないって思ってた。でも、ちょっと見方を変えるだけで、今まで見えなかったものが見えてくる。足りないものを探し続けるのもひとつの生き方かもしれないけど、あるものを見つけて、それを育てていくやり方もある」
陽平は動かし続けた手を止めた。麻子の膝の上に、握ったままの2人の手を置く。陽平は、改めて麻子の手をギュッと握った。その手は大きく、力強く、なによりも暖かかった。
「麻子、14番目の月になろうよ。これから欠けていくより、これからどんどん満ちていく方がずっといいと思わない? 大丈夫。麻子がひとりで歩き出せるまで、もう平気だって言えるようになるまで、俺、ずっとついてるから」
14番目の月・・・。これから満ちていく14番目の月。なれるんだろうか、私が。そんなふうに生きていけるんだろうか。わからない。今の私には何もわからない。でも、目の前で、こんなふうに笑ってくれる人がいる。こんなにも大きくて、暖かい手を持ってる人がいる。その人が大丈夫だって言ってくれるなら、もしかしたら大丈夫なのかもしれない。空っぽだった心にも、何かが少しずつ満ちてくるのかもしれない。そしていつか、私も満月になれるのかもしれない・・・。
麻子の耳に、透明の球体が割れる『パン!』という音が、確かに聞こえた。
愛しているという言葉は、セックスの前戯と同じ。それ以外の意味はなにもない。なくていい。あると知ってはいけない。知ってしまったら最後、今まで以上に空っぽな自分を感じてしまう。男女の愛も、親子の愛も、姉妹の愛も、友達同士の愛も、何もかもみんな作り話。そんなもの、現実には存在しない。してはいけないのだと。
しかし、目の前の男はセックスの時以外も、何度も何度も麻子を愛していると繰り返していた。・・・もしかしてあの言葉は本物だったのか・・・? ・・・私からの愛を、狂おしいほどほしがっていたのか・・・。幼いあの日の私がそうだったように・・・。
麻子がぼんやりとそう考えた時、彼女を完全に包み込む、継ぎ目ひとつない透明で強固な球体がきしんだ。
それは麻子を外界から完全に遮断し、空っぽにし、何もない心だけを見つめさせる球体。
反対に、愛してほしくても愛されない苦しさや辛さ、自分以外のものとの関わりで傷つく心、それらから麻子を完璧に守っているものでもあった。
その球体がわずかにきしみ、砕け散ろうとしていた。球体が立てるギシギシという恐ろしい音は、麻子の耳にはっきりと届いていた。
麻子の脳裏に、かつて見た恐ろしい夢・・・麻子を包む球体が粉々に砕け散り、一緒に自分の身体も散り散りバラバラになった、あの光景が蘇った。
麻子は思わず叫び出しそうになった。陽平に握られたままの手を外し、耳を塞ごうとする。
恐怖に引きつった麻子の顔。しかし陽平はその手を離そうとはしなかった。反対にギュッと強く握り締め、下を向きイヤイヤと首を振る麻子に力強く言った。
「麻子! 俺を見て。何も怖くないから。大丈夫だから安心して! 麻子!」
恐る恐る麻子は陽平を見つめた。陽平は麻子を安心させるように大きくうなずくと、そのままギュッと抱きしめた。ほどいた手で、麻子の背中をポンポンと繰り返し叩く。
「ほら大丈夫。怖くない、怖くない。何も怖いものなんかやってこないよ。もしやってきても、俺が守ってやる。だから大丈夫。安心して。ね、安心して・・・」
ポンポンと叩いていた手は、今度はゆっくり麻子の背中をさする。恐怖で硬くなっていた麻子の身体から徐々に力が抜けていった時、ふいに陽平は、麻子を抱きしめながら優しくささやくように言った。
「麻子、ないものを探すのはもう止めよう。自分から16番目以降の月になるなんて、ずいぶんバカらしいことだと思わない?」
陽平は麻子から身体を離し、また手を握って上下のリズムを取った。
「だからね麻子、あるものを探してみようよ。例えば麻子には、今はちょっと痩せちゃったけど、元々とってもキレイな顔と、みんなが憧れるような素晴らしいスタイルを持ってる。俺、前にも言ったけど、中学の時からずっと麻子に憧れてたんだよ。周りの男もみんなそうだった。でもそれは、麻子とセックスがしたいからじゃない。ただ単純にステキだな、いいなって思ってたんだ。麻子は人にそう思わせるものをちゃんと持ってる。それから辞めてしまったけれど、麻子には素晴らしい仕事のキャリアがある。これは誰でも持てるものじゃない。麻子だから得られたものだ。そして妹の理沙ちゃん。彼女は麻子を本当に心配しているし、愛している。いつもいつも気にかけてる。麻子がずっと、目の不自由だった理沙ちゃんにそうしてきたように。これは確かだ。そうだね、理沙ちゃん」
陽平は、階段上に立ち尽くす理沙を見上げた。それにつられ、麻子もゆっくりと理沙を見る。
麻子の恐れと不安が交じり合ったような瞳。理沙はその瞳をじっと見つめ、コクンと大きくうなずいた。
陽平の手は、変わらず麻子の手を握り、独特のリズムで上下に動かし続けている。
「麻子は何もない。空っぽだって言ったけど、これでもう3つも素晴らしいものがあるってわかった。麻子、この世の中に、完全に満ち足りてる人なんてひとりもいないよ。みんな何かが足りないって思いながら生きてる。麻子はずっと、閉じきった自分の心の中だけを見て、空っぽだ、何もないって思ってた。でも、ちょっと見方を変えるだけで、今まで見えなかったものが見えてくる。足りないものを探し続けるのもひとつの生き方かもしれないけど、あるものを見つけて、それを育てていくやり方もある」
陽平は動かし続けた手を止めた。麻子の膝の上に、握ったままの2人の手を置く。陽平は、改めて麻子の手をギュッと握った。その手は大きく、力強く、なによりも暖かかった。
「麻子、14番目の月になろうよ。これから欠けていくより、これからどんどん満ちていく方がずっといいと思わない? 大丈夫。麻子がひとりで歩き出せるまで、もう平気だって言えるようになるまで、俺、ずっとついてるから」
14番目の月・・・。これから満ちていく14番目の月。なれるんだろうか、私が。そんなふうに生きていけるんだろうか。わからない。今の私には何もわからない。でも、目の前で、こんなふうに笑ってくれる人がいる。こんなにも大きくて、暖かい手を持ってる人がいる。その人が大丈夫だって言ってくれるなら、もしかしたら大丈夫なのかもしれない。空っぽだった心にも、何かが少しずつ満ちてくるのかもしれない。そしていつか、私も満月になれるのかもしれない・・・。
麻子の耳に、透明の球体が割れる『パン!』という音が、確かに聞こえた。
2009年04月19日
8
陽平は、自分がこの世で一番大切な人を、この世で一番残酷な方法で傷つけたのだと気付いた。
精神科医でありながら、麻子が自分から離れていくという恐怖で、彼女の病状が進むのを見て見ぬ振りし続けたのだ。これじゃあ麻子の母親と何も変わらないではないか・・・。
麻子は義父に身体を強要され、母に恨まれ、理沙に目が治るという形で居場所を奪われ、同僚に裏切られ、愚かしさに狂った陽平に傷つけられた。
麻子は彼女の取り巻く世界全部から傷つけられ続け、裏切られ続けたのだ。
だから・・・だからこそ、今度こそ麻子を裏切りたくないと陽平は強く思った。
麻子が心から笑う顔が見たい。空っぽな心を満たしてやりたい。麻子が心の底から安心して生きていけるのであれば、彼女の隣にいるのが自分じゃなくてもいい。
自分じゃ・・・なくても・・・。
陽平は、ともすると溢れそうになる涙を必死にこらえ、ハァと息を吐き出した。凍りついていた足で、一歩一歩階段を降りていく。
麻子は床に座り込んだまま立とうとしなかった。ゆっくりゆっくり近づいてくる陽平をジッと眺め、にらみつけていた。
陽平は麻子の前に来ると、麻子の瞳を正面から見つめ、ぎこちなさが残る顔に笑顔を浮かべて、彼女の目の前に胡坐をかいた。
陽平が何をしようとしているのかさっぱりわからず、陽平をにらみつけていた麻子の瞳に、徐々に戸惑いの色が混じり始めた。
陽平は、両脇にダランと垂れ下がった麻子の手を、片手ずつそっと握った。麻子が反射的に手を引く。陽平が、握った手に軽く力を込めた。陽平の手は驚くほど暖かく、柔らかく、麻子はその感触に身を委ねるようにおとなしくなった。
痩せたせいで骨が浮き出している真っ白な手。陽平は冷えきったそれを温めるように包み込むと、ゆっくりとリズムをつけて、軽く上下に動かした。それは泣きじゃくる赤ちゃんの背中を、母親が愛しげに叩くあのリズムに似ていた。
「知ってる? 麻子。14番目の月って」
陽平は何を突然言い始めたのかと、麻子の戸惑いは大きくなり、瞳には混乱の色が濃くなっていった。
周りで聞いていた理沙も、由紀も、陽平の言葉の真意が読み取れない。
「ほら、満月って十五夜じゃない? 15番目。つまりは14番目の月っていうのはその一歩前で、月が完全に満ちてないわけ。未完成なんだよね。わかる?」
陽平の顔からは徐々にぎこちなさが消え、口元には柔らかい微笑みが浮かんだ。
麻子が初めてここの診察室に入った時、陽平の暖かい微笑みは、まるでお父さんのようだと思った。でも今、目の前で微笑む陽平の笑顔は、お父さんのそれとはまるで違う。なぜお父さんのようだなんて思ったんだろうと、麻子は不思議な気がした。
今思えば、お父さんの笑顔には、ズシッとした重みとほんの少しの媚があった。麻子がセックスを拒否しないかと、伺うような、脅すような色があった。でも目の前の笑顔にはそれがない。麻子とのセックスを繰り返していた時、陽平の顔には怯えたような微笑みが浮かんでいたと思う。今はそれもない。ただただ暖かく、明るく、柔らかい。
麻子は陽平の笑顔と自分の手が刻むリズムによって、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻した。
「16番目の月は、これから欠ける一方だよね。でも14番目の月は、これから満ちていくんだよ。どんどんどんどん完全になっていくんだ。・・・麻子、人ってさ、どうしても自分にないものを探しちゃうもんだよね。いい仕事がない。お金がない。恋人もいない。自分は何も持っていない。でもそれってさ、満ちようとする月を自分からどんどん欠ける方向に持っていってるんじゃないかな。それこそ自分から、16番目以降の月になってるんだよ」
16番目の月・・・。欠けていく一方の16番目以降の月・・・。
それは私のことを言っているのだろうかと、麻子はぼんやり考えた。
あれもない、これもない、何もない。私は今まで、自分にないものを必死で探し求めてきた。欲しくても欲しくても決して手に入らないものを、躍起(やっき)になって追いかけていた。・・・それはそうだ。当然じゃないか。自分には本当に何もないのだから。
はじめて私には何もないと感じたのは、義父が死んだ時だった。あの時全てを失ったと思った。・・・でも・・・だったら私は、それまで何を持っていたんだろう。あるのはセックスとの交換で与えられる義父からの愛。欲しくて欲しくて身体を差し出し、それと引き換えにもらった愛・・・。
あれはそんなに必死になって欲しがるほどすばらしいものだっただろうか。なんだかわからなくなってきた。セックスと交換する愛は、果たして本物の愛なんだろうか。第一愛とセックスは交換するものなのか。
待って。どんどん混乱してきた。
それじゃあ今の私は、義父と同じことをしているの?
愛してほしいからセックスを与え続けた、幼い少女の私。
セックスをしたいから、愛してない人に愛していると言う今の私。
笑っちゃう。今の私はあの時の義父とそっくり。セックスと偽りの愛を交換している。
つまりは義父の愛も偽りだったということか。
じゃあこの数年間、私の身体を突いたたくさんの男たちはあの時の私というわけ? 幼い少女の私。
目の前にいるこの男も? もしかしてこの男も私なの? 愛してほしくて愛してほしくて、義父に身体を与え続けた私と、この人は同じ?
義父に愛してほしかった。母に愛してほしかった。誰でもいい、私が必要だって、愛してるって言ってほしかった。
あの狂おしいほどに欲し、与えられなかった想いはまぎれもない真実。ゆるぎないほどの真実。
・・・ではこの人は、愛してほしくて愛してほしくて、私に身体を与えていたの? 私に、狂おしいほど愛してほしかったというの? ・・・あの時の私のように、私からの愛がほしかったということ?
麻子の乾ききっていた瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
精神科医でありながら、麻子が自分から離れていくという恐怖で、彼女の病状が進むのを見て見ぬ振りし続けたのだ。これじゃあ麻子の母親と何も変わらないではないか・・・。
麻子は義父に身体を強要され、母に恨まれ、理沙に目が治るという形で居場所を奪われ、同僚に裏切られ、愚かしさに狂った陽平に傷つけられた。
麻子は彼女の取り巻く世界全部から傷つけられ続け、裏切られ続けたのだ。
だから・・・だからこそ、今度こそ麻子を裏切りたくないと陽平は強く思った。
麻子が心から笑う顔が見たい。空っぽな心を満たしてやりたい。麻子が心の底から安心して生きていけるのであれば、彼女の隣にいるのが自分じゃなくてもいい。
自分じゃ・・・なくても・・・。
陽平は、ともすると溢れそうになる涙を必死にこらえ、ハァと息を吐き出した。凍りついていた足で、一歩一歩階段を降りていく。
麻子は床に座り込んだまま立とうとしなかった。ゆっくりゆっくり近づいてくる陽平をジッと眺め、にらみつけていた。
陽平は麻子の前に来ると、麻子の瞳を正面から見つめ、ぎこちなさが残る顔に笑顔を浮かべて、彼女の目の前に胡坐をかいた。
陽平が何をしようとしているのかさっぱりわからず、陽平をにらみつけていた麻子の瞳に、徐々に戸惑いの色が混じり始めた。
陽平は、両脇にダランと垂れ下がった麻子の手を、片手ずつそっと握った。麻子が反射的に手を引く。陽平が、握った手に軽く力を込めた。陽平の手は驚くほど暖かく、柔らかく、麻子はその感触に身を委ねるようにおとなしくなった。
痩せたせいで骨が浮き出している真っ白な手。陽平は冷えきったそれを温めるように包み込むと、ゆっくりとリズムをつけて、軽く上下に動かした。それは泣きじゃくる赤ちゃんの背中を、母親が愛しげに叩くあのリズムに似ていた。
「知ってる? 麻子。14番目の月って」
陽平は何を突然言い始めたのかと、麻子の戸惑いは大きくなり、瞳には混乱の色が濃くなっていった。
周りで聞いていた理沙も、由紀も、陽平の言葉の真意が読み取れない。
「ほら、満月って十五夜じゃない? 15番目。つまりは14番目の月っていうのはその一歩前で、月が完全に満ちてないわけ。未完成なんだよね。わかる?」
陽平の顔からは徐々にぎこちなさが消え、口元には柔らかい微笑みが浮かんだ。
麻子が初めてここの診察室に入った時、陽平の暖かい微笑みは、まるでお父さんのようだと思った。でも今、目の前で微笑む陽平の笑顔は、お父さんのそれとはまるで違う。なぜお父さんのようだなんて思ったんだろうと、麻子は不思議な気がした。
今思えば、お父さんの笑顔には、ズシッとした重みとほんの少しの媚があった。麻子がセックスを拒否しないかと、伺うような、脅すような色があった。でも目の前の笑顔にはそれがない。麻子とのセックスを繰り返していた時、陽平の顔には怯えたような微笑みが浮かんでいたと思う。今はそれもない。ただただ暖かく、明るく、柔らかい。
麻子は陽平の笑顔と自分の手が刻むリズムによって、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻した。
「16番目の月は、これから欠ける一方だよね。でも14番目の月は、これから満ちていくんだよ。どんどんどんどん完全になっていくんだ。・・・麻子、人ってさ、どうしても自分にないものを探しちゃうもんだよね。いい仕事がない。お金がない。恋人もいない。自分は何も持っていない。でもそれってさ、満ちようとする月を自分からどんどん欠ける方向に持っていってるんじゃないかな。それこそ自分から、16番目以降の月になってるんだよ」
16番目の月・・・。欠けていく一方の16番目以降の月・・・。
それは私のことを言っているのだろうかと、麻子はぼんやり考えた。
あれもない、これもない、何もない。私は今まで、自分にないものを必死で探し求めてきた。欲しくても欲しくても決して手に入らないものを、躍起(やっき)になって追いかけていた。・・・それはそうだ。当然じゃないか。自分には本当に何もないのだから。
はじめて私には何もないと感じたのは、義父が死んだ時だった。あの時全てを失ったと思った。・・・でも・・・だったら私は、それまで何を持っていたんだろう。あるのはセックスとの交換で与えられる義父からの愛。欲しくて欲しくて身体を差し出し、それと引き換えにもらった愛・・・。
あれはそんなに必死になって欲しがるほどすばらしいものだっただろうか。なんだかわからなくなってきた。セックスと交換する愛は、果たして本物の愛なんだろうか。第一愛とセックスは交換するものなのか。
待って。どんどん混乱してきた。
それじゃあ今の私は、義父と同じことをしているの?
愛してほしいからセックスを与え続けた、幼い少女の私。
セックスをしたいから、愛してない人に愛していると言う今の私。
笑っちゃう。今の私はあの時の義父とそっくり。セックスと偽りの愛を交換している。
つまりは義父の愛も偽りだったということか。
じゃあこの数年間、私の身体を突いたたくさんの男たちはあの時の私というわけ? 幼い少女の私。
目の前にいるこの男も? もしかしてこの男も私なの? 愛してほしくて愛してほしくて、義父に身体を与え続けた私と、この人は同じ?
義父に愛してほしかった。母に愛してほしかった。誰でもいい、私が必要だって、愛してるって言ってほしかった。
あの狂おしいほどに欲し、与えられなかった想いはまぎれもない真実。ゆるぎないほどの真実。
・・・ではこの人は、愛してほしくて愛してほしくて、私に身体を与えていたの? 私に、狂おしいほど愛してほしかったというの? ・・・あの時の私のように、私からの愛がほしかったということ?
麻子の乾ききっていた瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
2009年04月04日
7
麻子は待合室の床に座りこみ、ガタガタと震えながら話し続けていた。母に叱られた少女のままに怯え、目はキョロキョロと挙動不審に動き、この状況から自分を助け出してくれるものを必死に求めていた。
ふいに麻子の口元に笑みが浮かんだ。身体の震えは止まらなかったが、血走った目には喜びの色が加わり、全身から怯えた影が消えた。
「でもね・・・でも、お父さんはいけないって言ったけど、セックスをしている時は本当に幸せなの。その時だけは生きてるって感じる。私には本当は価値があるんじゃないかって思う。イヤなことが全部消えていって、頭が真っ白になるの。身体が軽くなってすごく気持ちがいい。お父さんとしてた時には一度も感じなかったのに、今は違う。空っぽだった心が、幸せとか喜びとかで満ち足りていくのがわかる。男のモノで、力強く突いてもらえればもらえるだけ、どんどんどんどん満ちていくの。だからもっとしなくちゃいけない。しないとすぐ空っぽに戻っちゃう。セックスする前よりももっともっと空っぽになっちゃう。だからすぐまたしなくちゃいけないの」
「違うよ麻子。それは違う。・・・それは麻子がセックス」
陽平は思わずそう口走り、自分の口から出た言葉に気づいて口籠った。
彼は今まで患者からありとあらゆる種類の話を聞いてきた。その陽平ですら、麻子の語る自らの過去には、身が凍るほどのショックを受けていた。
自分がはじめて麻子に会った中学の時、すでに麻子の心は蝕(むしば)まれていたのだ。
麻子をオモチャのように扱い、言葉と身体で縛りつけたまま義父は死んだ。残された母の心はねじまがり、その全てを麻子に向けた。
彼女はそうやって、あの時あの場所に存在していたのか・・・。
「麻子・・・」
あまりの痛ましさに、陽平の声はため息となった。
麻子はゆっくりと声の主を振り返ったが、その顔は楽しく幸せだった夢から無理矢理起こされ、イヤな現実に引き戻されたかのように不機嫌だった。
「セックス依存症でしょ? 知ってるわよ。・・・だからなに?」
「どうして・・・」
「調べたからに決まってるじゃない。岩田君、私が何も知らないとでも思ってたの? 私のこと、何も知らないバカだとでも思ってるの? 今は知りたきゃなんだって調べられるわ。・・・あのね、私だって自分がおかしいことくらいわかってるの。ちゃんと知ってるのよ」
「だったら・・・だったらどうして止めないんだ! 危険だってこともわかってるのか? 身体だってボロボロになる。取り返しのつかないことになるかもしれないんだぞ!」
陽平は何もしてやれなかった虚しさと、自分への腹立たしさに叫んでいた。
もっと早く気付いていれば、もっと早く適切な行動を取っていれば・・・。
この数ヶ月、頭と心から離れることがなかった激しい後悔が次から次へと陽平を襲う。いくら悔いてももう遅い。それは充分わかっていた。
「麻子、もう止めよう。病院に行こう。そんなバカげたことをいくら続けも、もっともっと、どんどん空っぽになっていくだけだ。それもわかってるのか?」
「じゃあ・・・今の私からセックスを取ったら、いったい何が残るっていうの?」
麻子はかすれた声でつぶやいた。
もう何もない。仕事も、理沙も、お父さんも、お母さんからの愛も、何もかも私にはない。生きてる価値も、生まれてきた意味も、なんにも、何ひとつない。
「なんにもない。本当に、何ひとつない。私は空っぽなの! そんな状況で、岩田君だったら生きていける?」
かすれた声は徐々に音になり、大きくなって陽平に降りそそいだ。
「精神科医? 笑わせないで。私のこと放っておいたじゃない。わかってて、私の身体が欲しいがためにそのまま放っておいたんでしょ? ほら、私の身体に、私とのセックスに価値があるって、あなたが身を持って私に証明したんじゃないの! 私はね、セックスがあるから生きていけるの。生きてていいって言ってもらえるの。セックスがあるから私に価値が生まれる。セックスで男を満足させる身体を持っているから愛してもらえる。それが私なの。私の持ってる全てなの! セックスをすればするほど心が満たされる。それが仮に一時(いっとき)のことだとしても、それすらなくなったら私はどうやって生きていけばいいの? 私の心と身体は、誰がどうやって満たしてくれるのよ! もう止めろ? 病院に行こう? 冗談じゃない。空っぽのままなんかじゃ生きていけない。なんにもない。真っ白。そんなの絶対にイヤ! 私にはセックスがないとダメなの。生きてなんていけないのよ!」
麻子は肩で息をしながら一気に言い募った。自分の空っぽの心を見つめ、探し、決して見つかることのない何かを、死に物狂いで求め続けていた。
ふいに麻子の口元に笑みが浮かんだ。身体の震えは止まらなかったが、血走った目には喜びの色が加わり、全身から怯えた影が消えた。
「でもね・・・でも、お父さんはいけないって言ったけど、セックスをしている時は本当に幸せなの。その時だけは生きてるって感じる。私には本当は価値があるんじゃないかって思う。イヤなことが全部消えていって、頭が真っ白になるの。身体が軽くなってすごく気持ちがいい。お父さんとしてた時には一度も感じなかったのに、今は違う。空っぽだった心が、幸せとか喜びとかで満ち足りていくのがわかる。男のモノで、力強く突いてもらえればもらえるだけ、どんどんどんどん満ちていくの。だからもっとしなくちゃいけない。しないとすぐ空っぽに戻っちゃう。セックスする前よりももっともっと空っぽになっちゃう。だからすぐまたしなくちゃいけないの」
「違うよ麻子。それは違う。・・・それは麻子がセックス」
陽平は思わずそう口走り、自分の口から出た言葉に気づいて口籠った。
彼は今まで患者からありとあらゆる種類の話を聞いてきた。その陽平ですら、麻子の語る自らの過去には、身が凍るほどのショックを受けていた。
自分がはじめて麻子に会った中学の時、すでに麻子の心は蝕(むしば)まれていたのだ。
麻子をオモチャのように扱い、言葉と身体で縛りつけたまま義父は死んだ。残された母の心はねじまがり、その全てを麻子に向けた。
彼女はそうやって、あの時あの場所に存在していたのか・・・。
「麻子・・・」
あまりの痛ましさに、陽平の声はため息となった。
麻子はゆっくりと声の主を振り返ったが、その顔は楽しく幸せだった夢から無理矢理起こされ、イヤな現実に引き戻されたかのように不機嫌だった。
「セックス依存症でしょ? 知ってるわよ。・・・だからなに?」
「どうして・・・」
「調べたからに決まってるじゃない。岩田君、私が何も知らないとでも思ってたの? 私のこと、何も知らないバカだとでも思ってるの? 今は知りたきゃなんだって調べられるわ。・・・あのね、私だって自分がおかしいことくらいわかってるの。ちゃんと知ってるのよ」
「だったら・・・だったらどうして止めないんだ! 危険だってこともわかってるのか? 身体だってボロボロになる。取り返しのつかないことになるかもしれないんだぞ!」
陽平は何もしてやれなかった虚しさと、自分への腹立たしさに叫んでいた。
もっと早く気付いていれば、もっと早く適切な行動を取っていれば・・・。
この数ヶ月、頭と心から離れることがなかった激しい後悔が次から次へと陽平を襲う。いくら悔いてももう遅い。それは充分わかっていた。
「麻子、もう止めよう。病院に行こう。そんなバカげたことをいくら続けも、もっともっと、どんどん空っぽになっていくだけだ。それもわかってるのか?」
「じゃあ・・・今の私からセックスを取ったら、いったい何が残るっていうの?」
麻子はかすれた声でつぶやいた。
もう何もない。仕事も、理沙も、お父さんも、お母さんからの愛も、何もかも私にはない。生きてる価値も、生まれてきた意味も、なんにも、何ひとつない。
「なんにもない。本当に、何ひとつない。私は空っぽなの! そんな状況で、岩田君だったら生きていける?」
かすれた声は徐々に音になり、大きくなって陽平に降りそそいだ。
「精神科医? 笑わせないで。私のこと放っておいたじゃない。わかってて、私の身体が欲しいがためにそのまま放っておいたんでしょ? ほら、私の身体に、私とのセックスに価値があるって、あなたが身を持って私に証明したんじゃないの! 私はね、セックスがあるから生きていけるの。生きてていいって言ってもらえるの。セックスがあるから私に価値が生まれる。セックスで男を満足させる身体を持っているから愛してもらえる。それが私なの。私の持ってる全てなの! セックスをすればするほど心が満たされる。それが仮に一時(いっとき)のことだとしても、それすらなくなったら私はどうやって生きていけばいいの? 私の心と身体は、誰がどうやって満たしてくれるのよ! もう止めろ? 病院に行こう? 冗談じゃない。空っぽのままなんかじゃ生きていけない。なんにもない。真っ白。そんなの絶対にイヤ! 私にはセックスがないとダメなの。生きてなんていけないのよ!」
麻子は肩で息をしながら一気に言い募った。自分の空っぽの心を見つめ、探し、決して見つかることのない何かを、死に物狂いで求め続けていた。
2009年03月28日
6
麻子が階段をひとつ降りるたび、スカートの裾がひらりと舞った。
幽鬼のような顔と痩せ細った身体。ひらひらと美しく舞う真っ白いフレアースカート。2つは反発しあいながらも奇妙に相合わさって、麻子の語る物語によりいっそうの不思議さを与えていた。
「私ね、どうすればお母さんが私を愛してくれるのかを一生懸命考えたの。それで思いついた。そうだ。目が不自由になった理沙の面倒を見ればいいんだって。いつだってあの子の面倒をちゃんと見てれば、お母さんは私に優しかったもの。だから頑張った。お母さんに殴られないように、蹴られないように、いつもいつも必死で理沙の面倒を見てきた。理沙が笑えばお母さんも一緒に笑ったし、理沙が泣けばお母さんは私を叩いた。だからいつも理沙が笑っていられるように、理沙が気持ちよくいられるように、それだけを考えて生きてきたの。おかげで理沙は、明るくてよく笑う子になった。目は見えなくても、何も不自由がないように私がしてきたんだもの。そうね、理沙」
麻子はそう言って、階段の上に座り込んでいる理沙を見上げた。
理沙は泣いていた。泣きじゃくっていた。
サツキママの言うお姉ちゃんの原因とはこれのことなのか・・・。全てはこんな昔から始まっていたのか。それには確実に自分の存在も関わっている。知らなかった。そんなこと全然気付かなかった。ただただお姉ちゃんは、私を好きでいてくれて、愛してくれて、だから私を守ってくれるんだと思っていた。私はなんてバカだったんだろう。なんて無知だったんだろう。私の存在は、お姉ちゃんにどれだけの苦痛を与えていたんだろう。私を取り巻く環境と、お姉ちゃんのそれとはほとんど同じだったはずなのに、どうしてこんなにも違ってしまったんだろう。どうして・・・どうしてなの?
「理沙、何泣いてるの? 泣いちゃダメよ。泣いたら私がお母さんに叩かれる。お母さんが来ないうちに早く泣きやみなさい」
麻子はまるで、幼子に話しかけるように優しく言った。しかし理沙は泣きやまなかった。やめることができなかった。
泣きやまない理沙を見つめる麻子は、徐々に苛立っていった。手の甲をポリポリとかきはじめ、低いかすれた声で、とがめるように理沙の名を呼んだ。
「理沙・・・」
それでも理沙は泣きやまず、嗚咽はよりいっそう大きくなった。
麻子の苛立ちは次第に大きくなっていき、ただでさえボサボサの髪を両手でグシャグシャとかきむしり怒鳴りはじめた。
「泣きやみなさい理沙! 何をいつまで泣いているの!」
理沙はビクッと身体を震わせ、思わず顔を上げた。
麻子の身体は理沙に対する怒りと母に対する怯えでガタガタと震えていた。
「イライラする・・・。ああ、イライラする・・・。セックスしたい。セックスしたい。セックスしたいの! セックスさえできればこんなイライラすぐに収まるのに!」
麻子は震える全身を両手で抱きしめ、その場にぺたんと座り込んだ。
震え続けるその身体は、麻薬患者の禁断症状のように見えた。ガチガチと歯を鳴らし、全身を震わせながらも麻子はしゃべり続けるのを止めなかった。
「でもお父さんが、男はみんな麻子の身体だけが目当てで集まってくる悪いやつらだって言ってた。決して近づいたり、身体を許したりしちゃダメだ。お父さんだけが麻子を心から愛してるんだよって。だから・・・どんなにセックスしたくなっても、長い間、ずっとずっと我慢してた。お父さんをがっかりさせたくなかった。・・・でも・・・私にはセックス以外、人に愛してもらえる取り得がない。この世に存在してる価値だってない。お母さんがよく言ってた。あんたは本当にダメな子だって。なんてバカで、役に立たないんだろうって」
麻子の心は、義父の身体と母の言葉に縛られ、支配されていた。
義父から愛してもらうためだけに身体を与え続けた少女。本来無償で注がれるべき愛情が、麻子にとっては身体との交換でやっと手に入るものだった。しかもそれは、利己的で不純で独占的で、とても愛情と呼べるものではない。しかし麻子にとっては、それだけが確かなものだった。誰も麻子の行為が間違っているなどと教えるものはいない。
母は麻子と夫との関係を知っていながら、見て見ない振りをしていたのだろう。麻子さえ与えておけば、生活も自分も安泰だったからに違いない。
しかしそれ綱渡りのような生活も、夫の死によって全てが崩れ去った。母の鬱積した思いが、幼い麻子に向かっていくのは必然の結果だ。理沙の目の事故も、それに拍車をかけたのだろう。
・・・幼い少女の日常は、そうやって過ぎていったのだ・・・。
麻子は自分の居場所を確保するために、生きていくために、自分の自我を殺すしかなかった・・・。
幽鬼のような顔と痩せ細った身体。ひらひらと美しく舞う真っ白いフレアースカート。2つは反発しあいながらも奇妙に相合わさって、麻子の語る物語によりいっそうの不思議さを与えていた。
「私ね、どうすればお母さんが私を愛してくれるのかを一生懸命考えたの。それで思いついた。そうだ。目が不自由になった理沙の面倒を見ればいいんだって。いつだってあの子の面倒をちゃんと見てれば、お母さんは私に優しかったもの。だから頑張った。お母さんに殴られないように、蹴られないように、いつもいつも必死で理沙の面倒を見てきた。理沙が笑えばお母さんも一緒に笑ったし、理沙が泣けばお母さんは私を叩いた。だからいつも理沙が笑っていられるように、理沙が気持ちよくいられるように、それだけを考えて生きてきたの。おかげで理沙は、明るくてよく笑う子になった。目は見えなくても、何も不自由がないように私がしてきたんだもの。そうね、理沙」
麻子はそう言って、階段の上に座り込んでいる理沙を見上げた。
理沙は泣いていた。泣きじゃくっていた。
サツキママの言うお姉ちゃんの原因とはこれのことなのか・・・。全てはこんな昔から始まっていたのか。それには確実に自分の存在も関わっている。知らなかった。そんなこと全然気付かなかった。ただただお姉ちゃんは、私を好きでいてくれて、愛してくれて、だから私を守ってくれるんだと思っていた。私はなんてバカだったんだろう。なんて無知だったんだろう。私の存在は、お姉ちゃんにどれだけの苦痛を与えていたんだろう。私を取り巻く環境と、お姉ちゃんのそれとはほとんど同じだったはずなのに、どうしてこんなにも違ってしまったんだろう。どうして・・・どうしてなの?
「理沙、何泣いてるの? 泣いちゃダメよ。泣いたら私がお母さんに叩かれる。お母さんが来ないうちに早く泣きやみなさい」
麻子はまるで、幼子に話しかけるように優しく言った。しかし理沙は泣きやまなかった。やめることができなかった。
泣きやまない理沙を見つめる麻子は、徐々に苛立っていった。手の甲をポリポリとかきはじめ、低いかすれた声で、とがめるように理沙の名を呼んだ。
「理沙・・・」
それでも理沙は泣きやまず、嗚咽はよりいっそう大きくなった。
麻子の苛立ちは次第に大きくなっていき、ただでさえボサボサの髪を両手でグシャグシャとかきむしり怒鳴りはじめた。
「泣きやみなさい理沙! 何をいつまで泣いているの!」
理沙はビクッと身体を震わせ、思わず顔を上げた。
麻子の身体は理沙に対する怒りと母に対する怯えでガタガタと震えていた。
「イライラする・・・。ああ、イライラする・・・。セックスしたい。セックスしたい。セックスしたいの! セックスさえできればこんなイライラすぐに収まるのに!」
麻子は震える全身を両手で抱きしめ、その場にぺたんと座り込んだ。
震え続けるその身体は、麻薬患者の禁断症状のように見えた。ガチガチと歯を鳴らし、全身を震わせながらも麻子はしゃべり続けるのを止めなかった。
「でもお父さんが、男はみんな麻子の身体だけが目当てで集まってくる悪いやつらだって言ってた。決して近づいたり、身体を許したりしちゃダメだ。お父さんだけが麻子を心から愛してるんだよって。だから・・・どんなにセックスしたくなっても、長い間、ずっとずっと我慢してた。お父さんをがっかりさせたくなかった。・・・でも・・・私にはセックス以外、人に愛してもらえる取り得がない。この世に存在してる価値だってない。お母さんがよく言ってた。あんたは本当にダメな子だって。なんてバカで、役に立たないんだろうって」
麻子の心は、義父の身体と母の言葉に縛られ、支配されていた。
義父から愛してもらうためだけに身体を与え続けた少女。本来無償で注がれるべき愛情が、麻子にとっては身体との交換でやっと手に入るものだった。しかもそれは、利己的で不純で独占的で、とても愛情と呼べるものではない。しかし麻子にとっては、それだけが確かなものだった。誰も麻子の行為が間違っているなどと教えるものはいない。
母は麻子と夫との関係を知っていながら、見て見ない振りをしていたのだろう。麻子さえ与えておけば、生活も自分も安泰だったからに違いない。
しかしそれ綱渡りのような生活も、夫の死によって全てが崩れ去った。母の鬱積した思いが、幼い麻子に向かっていくのは必然の結果だ。理沙の目の事故も、それに拍車をかけたのだろう。
・・・幼い少女の日常は、そうやって過ぎていったのだ・・・。
麻子は自分の居場所を確保するために、生きていくために、自分の自我を殺すしかなかった・・・。
2009年03月22日
5
麻子は陽平をじっと見つめ、ニヤニヤと笑みを浮かべた。
「わかった。そういうことか」
麻子はまるで、難解なクイズを解いた少女のように、ウキウキと明るい声で陽平に話しかけた。
「岩田君がどうして泣いてるかわかったわ。・・・仮にも自分の彼女って言われてる人が、こんなにも痩せて、こんなにもみすぼらしくなったことが悔しいんでしょう。こんな私、抱いてもつまらないと思ってるのね。でもお生憎様。こんな私でも欲しいって言ってくれる男の人は大勢いるの。・・・知ってるんでしょ? 私が今までしてきたこと。だから急に私を抱くの止めたんでしょ? でもね、どんなに痩せても私の身体は素晴らしいの。私のセックスはすごいの。本当はあなたにだってよくわかってるんじゃないの?」
陽平はもう、何がなんだかわからなくなっていた。麻子はいったい何を言っているのだろうか。どうしてそんなふうに考えてしまうのか。いくら愛しても、決してこの人に届くことはないのか。無性に悲しかった。大声を上げて泣きたくなった。
「なんで・・・」
陽平はポツンとつぶやいた。
「なんでそんなふうに考えるんだよ。どうしてわかってくれないんだよ。こんなに・・・こんなに愛してるのに・・・」
陽平がそう言った途端、麻子はケラケラと大きな声で笑いはじめた。異常さが色濃くにじむその笑い声に、理沙も由紀も目を見開き、息を止めた。
「ああおかしい! あんまり笑わせないでよ。愛してる? バカらしい。あるわけないでしょ?そんなこと。こんな私を、誰が愛するっていうのよ。ありえないこと言ってないで、もっと楽しいことしましょうよ。私の身体が欲しいんでしょ? 私とセックスしたいんでしょ?」
「お姉ちゃん!」
理沙がうわずった叫び声を上げた。麻子はそれにゆっくりと反応する。
「・・・何?」
麻子の瞳に射すくめられ、理沙は上手く言葉を発することができない。
「どうしてそんなこと・・・言うの? 岩田さんは、お姉ちゃんのこと思って・・・お姉ちゃんのこと」
麻子は顔に笑顔を張り付かせ、理沙に視線を注ぎ続けた。その表情はもはや神々しいと言ってさえよく、よりいっそうの恐怖を理沙に与えた。
麻子は呆れたように言った。
「だから笑わせないでって言ってるじゃないの。私のことを思って? ありえないでしょ? どうして岩田君が私のことを思ったりするのよ。バカバカしいこと言わないで」
麻子はスーッと息を吸い込むと、教え諭すように、そして誇らしげに語りはじめた。
「いい。この際はっきり言っておくわ。私のことを思って愛してくれる人は、お父さんしかいないの。お父さんだけが、私の心と身体、その全てを愛してくれたの。そりゃ最初は痛かったし、ヤダなって思うこともあった。でもそんなこと言ったら、唯一私を愛してくれるお父さんを傷つけることになる。だから私は、セックスしたくないなんて一度も言わなかった。どんな時でも、お父さんが欲しいって言ってくれたらそれに従った。その分お父さんは、本当に私を可愛がってくれた。そんなお父さんと私のことを、お母さんはいつも変な顔で見てたけど、結局何も言わなかった。お父さんと私は、血こそ繋がってなかったけど、本当の親子よりもずっと親密だったわ。愛し合ってた」
想像だにしなかった麻子の言葉に、理沙は立っていることができず、階段の手すりにすがり、ずるずるとその場にくず折れた。
まさかと思った。ありえないと思った。お父さんのことはほどんど記憶にない。理沙がたった3歳の時に死んだからだ。
お母さんはお姉ちゃんを連れてお父さんと再婚したのだと、遠い昔に聞いたことがあった。確かに血は繋がっていない。でもまさかお父さんと、まだほんの子供だったお姉ちゃんが? それこそありえないじゃないか。
お母さんは知っていたのか? 知ってて黙っていたのか? どうして・・・いったいどうして・・・!
誇らしげに語っていたはずの麻子の口調が、急に沈みこんだ。
「でも・・・唯一私を愛してくれたお父さんは、私が10歳の時に死んじゃった。だからもう、私を愛してくれる人はこの世にいないの。いるはずがないの。お父さんは私を愛してくれた。でもその分お母さんは私を嫌ってた。きっとお父さんが、お母さんより私を愛してたことが悔しかったのね。私はお母さんが大好きだったけど、お母さんは私を憎んでた。本当は、お母さんに私の身体をあげることができればよかったのよね。セックスさえできれば、すぐに私のことを愛してくれるでしょ? でもこればっかりは無理だったわ」
話しながら、麻子はゆっくりと階段を降りていった。歌うように、踊るように、まるで麻子は、童話でも語るように話して聞かせた。
不思議なリズムを持つその話し方は、なぜか内容の悲惨さや嫌悪感を覆い隠し、聞いているものをどんどんとその世界に引きずり込んでいった。
「わかった。そういうことか」
麻子はまるで、難解なクイズを解いた少女のように、ウキウキと明るい声で陽平に話しかけた。
「岩田君がどうして泣いてるかわかったわ。・・・仮にも自分の彼女って言われてる人が、こんなにも痩せて、こんなにもみすぼらしくなったことが悔しいんでしょう。こんな私、抱いてもつまらないと思ってるのね。でもお生憎様。こんな私でも欲しいって言ってくれる男の人は大勢いるの。・・・知ってるんでしょ? 私が今までしてきたこと。だから急に私を抱くの止めたんでしょ? でもね、どんなに痩せても私の身体は素晴らしいの。私のセックスはすごいの。本当はあなたにだってよくわかってるんじゃないの?」
陽平はもう、何がなんだかわからなくなっていた。麻子はいったい何を言っているのだろうか。どうしてそんなふうに考えてしまうのか。いくら愛しても、決してこの人に届くことはないのか。無性に悲しかった。大声を上げて泣きたくなった。
「なんで・・・」
陽平はポツンとつぶやいた。
「なんでそんなふうに考えるんだよ。どうしてわかってくれないんだよ。こんなに・・・こんなに愛してるのに・・・」
陽平がそう言った途端、麻子はケラケラと大きな声で笑いはじめた。異常さが色濃くにじむその笑い声に、理沙も由紀も目を見開き、息を止めた。
「ああおかしい! あんまり笑わせないでよ。愛してる? バカらしい。あるわけないでしょ?そんなこと。こんな私を、誰が愛するっていうのよ。ありえないこと言ってないで、もっと楽しいことしましょうよ。私の身体が欲しいんでしょ? 私とセックスしたいんでしょ?」
「お姉ちゃん!」
理沙がうわずった叫び声を上げた。麻子はそれにゆっくりと反応する。
「・・・何?」
麻子の瞳に射すくめられ、理沙は上手く言葉を発することができない。
「どうしてそんなこと・・・言うの? 岩田さんは、お姉ちゃんのこと思って・・・お姉ちゃんのこと」
麻子は顔に笑顔を張り付かせ、理沙に視線を注ぎ続けた。その表情はもはや神々しいと言ってさえよく、よりいっそうの恐怖を理沙に与えた。
麻子は呆れたように言った。
「だから笑わせないでって言ってるじゃないの。私のことを思って? ありえないでしょ? どうして岩田君が私のことを思ったりするのよ。バカバカしいこと言わないで」
麻子はスーッと息を吸い込むと、教え諭すように、そして誇らしげに語りはじめた。
「いい。この際はっきり言っておくわ。私のことを思って愛してくれる人は、お父さんしかいないの。お父さんだけが、私の心と身体、その全てを愛してくれたの。そりゃ最初は痛かったし、ヤダなって思うこともあった。でもそんなこと言ったら、唯一私を愛してくれるお父さんを傷つけることになる。だから私は、セックスしたくないなんて一度も言わなかった。どんな時でも、お父さんが欲しいって言ってくれたらそれに従った。その分お父さんは、本当に私を可愛がってくれた。そんなお父さんと私のことを、お母さんはいつも変な顔で見てたけど、結局何も言わなかった。お父さんと私は、血こそ繋がってなかったけど、本当の親子よりもずっと親密だったわ。愛し合ってた」
想像だにしなかった麻子の言葉に、理沙は立っていることができず、階段の手すりにすがり、ずるずるとその場にくず折れた。
まさかと思った。ありえないと思った。お父さんのことはほどんど記憶にない。理沙がたった3歳の時に死んだからだ。
お母さんはお姉ちゃんを連れてお父さんと再婚したのだと、遠い昔に聞いたことがあった。確かに血は繋がっていない。でもまさかお父さんと、まだほんの子供だったお姉ちゃんが? それこそありえないじゃないか。
お母さんは知っていたのか? 知ってて黙っていたのか? どうして・・・いったいどうして・・・!
誇らしげに語っていたはずの麻子の口調が、急に沈みこんだ。
「でも・・・唯一私を愛してくれたお父さんは、私が10歳の時に死んじゃった。だからもう、私を愛してくれる人はこの世にいないの。いるはずがないの。お父さんは私を愛してくれた。でもその分お母さんは私を嫌ってた。きっとお父さんが、お母さんより私を愛してたことが悔しかったのね。私はお母さんが大好きだったけど、お母さんは私を憎んでた。本当は、お母さんに私の身体をあげることができればよかったのよね。セックスさえできれば、すぐに私のことを愛してくれるでしょ? でもこればっかりは無理だったわ」
話しながら、麻子はゆっくりと階段を降りていった。歌うように、踊るように、まるで麻子は、童話でも語るように話して聞かせた。
不思議なリズムを持つその話し方は、なぜか内容の悲惨さや嫌悪感を覆い隠し、聞いているものをどんどんとその世界に引きずり込んでいった。
2009年03月15日
4
室内インターフォンのコール音が診察室に響き渡った。
陽平が疲れきった様子でノロノロと受話器を取り上げると、向こう側から戸惑ったようすの由紀の声が聞こえてきた。
「先生あの、お話中失礼します。今ここに・・・えっ?」
由紀が待合室で誰かと話をしているようだ。
「本島君? どうしたの?」
返事がない。どうしたのだろうと思っていると、突然受話器越しに由紀の大声が聞こえた。
「ちょっと待ってください。今は困ります! 先生は今・・・野村さん?!」
ブツッという音と共に、唐突にインターフォンが切られた。
野村? まさか麻子が来たのか・・・?
陽平の目の前には、いぶかしんだ様子の理沙が、膝に置いたバッグをもてあそびながら座っている。診察室の入り口はそのすぐ後ろにあった。陽平は慌てて立ち上がる。
「岩田さん? 何かあったんですか?」
「ごめん理沙ちゃん、ちょっと待っててくれる?」
今ここで、理沙と麻子を会わせてもいいものだろうか。麻子はパニックを起こすのではないか。それよりなにより、自分はもう麻子の治療をするのことはできない。麻子に対して、常に冷静でいることができないのだ。必ず私情が混じり、激したり大声を上げたりと、ただの恋に狂った愚かしい男になってしまう。今よりももっともっと、麻子の病状を進ませてしまう可能性すらある。どうしよう・・・いったいどうすれば・・・?
陽平が迷いと戸惑いの中にいるとき、突然コンコンというノックの音がした。
陽平が恐る恐るドアを開けると、そこには彼が会いたくて会いたくてたまらなかったはずの麻子が立っていた。
「麻子」
息を呑み、息を吐き、呟きと共に陽平は麻子の名を呼んだ。
麻子の様子は一変していた。頬はやつれ、髪はパサついて乱れ、目の下には濃いクマができている。落ち窪んだ瞳はまるで生気を感じさせず、亡霊か幽鬼のように恐ろしく見えた。
バサッ。
ゆっくりと立ち上がった理沙の膝からバッグがこぼれ落ちた。
麻子のドロドロとした視線が、陽平を通り越し音に向う。そこには両手で口元を覆い、息を呑んだまま立ち尽くす妹が立っていた。
「理沙・・・」
麻子はひと言そう呟くと、きびすを返して走り出した。
「待てよ、麻子! ・・・麻子!」
階段の途中で陽平の手が麻子の腕をつかむ。それは驚くほどに細く、弱々しい腕だった。どのくらいの間まともに食事をしていないのだろう。その痩せ方はまさに病的としか言いようがなかった。麻子は陽平につかまれた腕を振りほどこうとしたが、その力は小さい女の子のそれより弱かった。
「お姉・・・」
麻子が階段の上から自分を見下ろす理沙を見た。驚きと戸惑いと恐怖と嫌悪、その全てをはらんだ理沙の視線は、麻子に自虐的といっていい喜びの快感をもたらした。
「ふふふ・・・」
麻子は笑っていた。最初はニヤニヤと、そして次第にクスクスと声を出して笑いはじめた。
「なに? その目。言いたいことがあるなら言ったら?」
「お姉・・・ちゃん・・・?」
「そうよ。だから何?」
理沙の瞳から、次々と大粒の涙が溢れ出した。
悲しいとか、苦しいとか、辛いとか、そういうありふれた類(たぐ)いの涙ではない。麻子のその姿は、見ているだけで心をどん底にまで突き落とし、揺さぶる力をはらんでいた。
「どうして泣くの? 意味がわからない」
麻子は面白そうに言った。愉快で愉快でたまらない、そんな笑顔だった。
自分のせいだ。自分が麻子をここまで追い詰めたのだ。
陽平の胸はキリキリときしみ、目には激しい後悔の涙が浮んだ。
麻子の焦点の合わない視線は、次第にギラギラと輝きはじめた。
「岩田君までなに泣いてるのよ。変な人」
麻子は満ち足りたような笑顔で、心底楽しそうにそう言った。
恐怖と嫌悪に顔を歪めた由紀は、階段下に呆然と佇み、全身をブルッと震わせた。
陽平が疲れきった様子でノロノロと受話器を取り上げると、向こう側から戸惑ったようすの由紀の声が聞こえてきた。
「先生あの、お話中失礼します。今ここに・・・えっ?」
由紀が待合室で誰かと話をしているようだ。
「本島君? どうしたの?」
返事がない。どうしたのだろうと思っていると、突然受話器越しに由紀の大声が聞こえた。
「ちょっと待ってください。今は困ります! 先生は今・・・野村さん?!」
ブツッという音と共に、唐突にインターフォンが切られた。
野村? まさか麻子が来たのか・・・?
陽平の目の前には、いぶかしんだ様子の理沙が、膝に置いたバッグをもてあそびながら座っている。診察室の入り口はそのすぐ後ろにあった。陽平は慌てて立ち上がる。
「岩田さん? 何かあったんですか?」
「ごめん理沙ちゃん、ちょっと待っててくれる?」
今ここで、理沙と麻子を会わせてもいいものだろうか。麻子はパニックを起こすのではないか。それよりなにより、自分はもう麻子の治療をするのことはできない。麻子に対して、常に冷静でいることができないのだ。必ず私情が混じり、激したり大声を上げたりと、ただの恋に狂った愚かしい男になってしまう。今よりももっともっと、麻子の病状を進ませてしまう可能性すらある。どうしよう・・・いったいどうすれば・・・?
陽平が迷いと戸惑いの中にいるとき、突然コンコンというノックの音がした。
陽平が恐る恐るドアを開けると、そこには彼が会いたくて会いたくてたまらなかったはずの麻子が立っていた。
「麻子」
息を呑み、息を吐き、呟きと共に陽平は麻子の名を呼んだ。
麻子の様子は一変していた。頬はやつれ、髪はパサついて乱れ、目の下には濃いクマができている。落ち窪んだ瞳はまるで生気を感じさせず、亡霊か幽鬼のように恐ろしく見えた。
バサッ。
ゆっくりと立ち上がった理沙の膝からバッグがこぼれ落ちた。
麻子のドロドロとした視線が、陽平を通り越し音に向う。そこには両手で口元を覆い、息を呑んだまま立ち尽くす妹が立っていた。
「理沙・・・」
麻子はひと言そう呟くと、きびすを返して走り出した。
「待てよ、麻子! ・・・麻子!」
階段の途中で陽平の手が麻子の腕をつかむ。それは驚くほどに細く、弱々しい腕だった。どのくらいの間まともに食事をしていないのだろう。その痩せ方はまさに病的としか言いようがなかった。麻子は陽平につかまれた腕を振りほどこうとしたが、その力は小さい女の子のそれより弱かった。
「お姉・・・」
麻子が階段の上から自分を見下ろす理沙を見た。驚きと戸惑いと恐怖と嫌悪、その全てをはらんだ理沙の視線は、麻子に自虐的といっていい喜びの快感をもたらした。
「ふふふ・・・」
麻子は笑っていた。最初はニヤニヤと、そして次第にクスクスと声を出して笑いはじめた。
「なに? その目。言いたいことがあるなら言ったら?」
「お姉・・・ちゃん・・・?」
「そうよ。だから何?」
理沙の瞳から、次々と大粒の涙が溢れ出した。
悲しいとか、苦しいとか、辛いとか、そういうありふれた類(たぐ)いの涙ではない。麻子のその姿は、見ているだけで心をどん底にまで突き落とし、揺さぶる力をはらんでいた。
「どうして泣くの? 意味がわからない」
麻子は面白そうに言った。愉快で愉快でたまらない、そんな笑顔だった。
自分のせいだ。自分が麻子をここまで追い詰めたのだ。
陽平の胸はキリキリときしみ、目には激しい後悔の涙が浮んだ。
麻子の焦点の合わない視線は、次第にギラギラと輝きはじめた。
「岩田君までなに泣いてるのよ。変な人」
麻子は満ち足りたような笑顔で、心底楽しそうにそう言った。
恐怖と嫌悪に顔を歪めた由紀は、階段下に呆然と佇み、全身をブルッと震わせた。
2009年03月08日
3
診察室に入ると、理沙はペコッと陽平に頭を下げた。
陽平が最後に理沙を見かけたのは、陽平が中学生のころだった。あれからすでに20年以上の時が過ぎていたが、理沙は驚くほど変わっていなかった。まるで彼女の上だけには、時間の流れが止まっていたかのようだ。
理沙と麻子の持っている雰囲気は、姉妹だというのに驚くほど違っていた。でも、ほんの少し緊張しているように見える理沙の顔は、初めてここを訪れた時の麻子を彷彿(ほうふつ)とさせた。
「今日は突然お時間作っていただいて、本当にありがとうございます」
「そんなのいいから座って。ハーブティー淹れてもらったんだけど飲める?」
まだ緊張がほぐれない顔で、理沙は小さく「ありがとうございます」といった。
「理沙ちゃん、ちょっと緊張してる? 大丈夫?」
ソファに座り、理沙は照れたような笑顔を向けて、「病院の診察室には慣れてるはずなんですけど、ちょっと緊張してるかも。すいません」といった。
「精神科って、やっぱり雰囲気違うのかな。僕も白衣とか着てないしね」
「そのせいなのかな?」
理沙は手持ち無沙汰なのか、一度ソファの上に置いたバッグを取り上げて膝に置き直し、ハーブティーを一口飲んでフゥと息を吐いた。
「どう? 少しは緊張ほぐれた?」
「はい・・・」
理沙はまだぎこちなさが残る笑顔を陽平に向けた。
さて、まず何から聞こうか・・・と陽平は考えた。
どうしてここを知っているのか、それともなぜ自分に会いに来たのかを聞くのが先か・・・。どの順番で聞けば一番効率よく進められるだろうか。
あれこれ思案しながら陽平がハーブティーのカップをつかむと、理沙が唐突に口を開いた。
「岩田さん。お姉ちゃんはセックス依存症という病気なんですか?」
陽平は驚きのあまり手に持っていたカップを落としそうになった。
なぜそれを知っているのだろうか。純也に聞いた? いや、彼は麻子が何かの病気であることには気付いていたけれど、セックス依存症であることは知らないはずだ。では調べたのか? それとも・・・。
陽平の頭はめまぐるしく回転していたが、答えを導き出すことはできなかった。
「理沙ちゃん・・・どうして?」
「・・・実は1ヶ月ほど前、家に変な男から電話がかかってきたんです。それで・・・」
理沙はこの1ヶ月の間に起こったことを、できるだけわかりやすく、順番通りに喋ろうと心がけた。
陰湿な、ねっとりと絡みつくような声の男からの電話。その電話で麻子が銀行を辞めたと知ったこと。ひとりで銀行に行き、つかさと美鈴に話を聞いたこと。その日のうちに『紫頭巾』に行ったこと。噂になってしまった麻子の行動。麻子が陽平と付き合っていると知ったこと。
そして・・・自分で調べなさい、そうすれば心の目が開くからとサツキに言われたこと・・・。
「帰ってから、純也さんにも話を聞きました。純也さんは始め、私がショックを受けるだろうって思って、自分は何も知らないって言ってました。でも、最後はちゃんと話してくれました。それから私、いろいろと自分なりに調べたんです。サツキさんの言っていた原因ってなんだろうって。私小さいころから、ずっとお姉ちゃんに守られてきました。それこそ何から何まで、全てにおいてです。お姉ちゃんがいなければ、今の私はここにいません。それは確かです。・・・だから、私にできることがあるならそれをやりたいんです。お姉ちゃんの役に立ちたいんです。私に何か、できることはありませんか?」
理沙の話は、自分でも驚くほどのショックを陽平に与えていた。
理沙が全てを知っていたことがショックなのではない。麻子の病状が、仕事を辞めざるを得ないほど進んでいたこと。そして何より、自分だけが麻子の退職を知らずにいたことが、陽平を思いもかけないほどに打ちのめしていた。なぜ自分が、こんなにも大事なことを、妹とはいえ人伝えで聞かなければならないのか。
陽平は、自分がバカげた嫉妬をしているのだとわかっていた。同時に、自分はもう、麻子の主治医でいることはできないのだと思い知った。麻子に関してまるで冷静さを保つことができないのだ。
会社を辞めたことを自分に言わなかったからといって、それがなんだというのだ。こんな嫉妬はあまりにもバカげている。それを頭では充分理解しているのに、嫉妬心が消えることはない。
誰かを好きになるということは、人をこんなにも愚かな存在に変えてしまうのか。なんてバカバカしく、なんて醜く、なんて浅ましい・・・そして、なんて切ないんだろう・・・。
陽平は急に、麻子に会いたいと思った。どうしても今、麻子に会いたいと思った。
陽平が最後に理沙を見かけたのは、陽平が中学生のころだった。あれからすでに20年以上の時が過ぎていたが、理沙は驚くほど変わっていなかった。まるで彼女の上だけには、時間の流れが止まっていたかのようだ。
理沙と麻子の持っている雰囲気は、姉妹だというのに驚くほど違っていた。でも、ほんの少し緊張しているように見える理沙の顔は、初めてここを訪れた時の麻子を彷彿(ほうふつ)とさせた。
「今日は突然お時間作っていただいて、本当にありがとうございます」
「そんなのいいから座って。ハーブティー淹れてもらったんだけど飲める?」
まだ緊張がほぐれない顔で、理沙は小さく「ありがとうございます」といった。
「理沙ちゃん、ちょっと緊張してる? 大丈夫?」
ソファに座り、理沙は照れたような笑顔を向けて、「病院の診察室には慣れてるはずなんですけど、ちょっと緊張してるかも。すいません」といった。
「精神科って、やっぱり雰囲気違うのかな。僕も白衣とか着てないしね」
「そのせいなのかな?」
理沙は手持ち無沙汰なのか、一度ソファの上に置いたバッグを取り上げて膝に置き直し、ハーブティーを一口飲んでフゥと息を吐いた。
「どう? 少しは緊張ほぐれた?」
「はい・・・」
理沙はまだぎこちなさが残る笑顔を陽平に向けた。
さて、まず何から聞こうか・・・と陽平は考えた。
どうしてここを知っているのか、それともなぜ自分に会いに来たのかを聞くのが先か・・・。どの順番で聞けば一番効率よく進められるだろうか。
あれこれ思案しながら陽平がハーブティーのカップをつかむと、理沙が唐突に口を開いた。
「岩田さん。お姉ちゃんはセックス依存症という病気なんですか?」
陽平は驚きのあまり手に持っていたカップを落としそうになった。
なぜそれを知っているのだろうか。純也に聞いた? いや、彼は麻子が何かの病気であることには気付いていたけれど、セックス依存症であることは知らないはずだ。では調べたのか? それとも・・・。
陽平の頭はめまぐるしく回転していたが、答えを導き出すことはできなかった。
「理沙ちゃん・・・どうして?」
「・・・実は1ヶ月ほど前、家に変な男から電話がかかってきたんです。それで・・・」
理沙はこの1ヶ月の間に起こったことを、できるだけわかりやすく、順番通りに喋ろうと心がけた。
陰湿な、ねっとりと絡みつくような声の男からの電話。その電話で麻子が銀行を辞めたと知ったこと。ひとりで銀行に行き、つかさと美鈴に話を聞いたこと。その日のうちに『紫頭巾』に行ったこと。噂になってしまった麻子の行動。麻子が陽平と付き合っていると知ったこと。
そして・・・自分で調べなさい、そうすれば心の目が開くからとサツキに言われたこと・・・。
「帰ってから、純也さんにも話を聞きました。純也さんは始め、私がショックを受けるだろうって思って、自分は何も知らないって言ってました。でも、最後はちゃんと話してくれました。それから私、いろいろと自分なりに調べたんです。サツキさんの言っていた原因ってなんだろうって。私小さいころから、ずっとお姉ちゃんに守られてきました。それこそ何から何まで、全てにおいてです。お姉ちゃんがいなければ、今の私はここにいません。それは確かです。・・・だから、私にできることがあるならそれをやりたいんです。お姉ちゃんの役に立ちたいんです。私に何か、できることはありませんか?」
理沙の話は、自分でも驚くほどのショックを陽平に与えていた。
理沙が全てを知っていたことがショックなのではない。麻子の病状が、仕事を辞めざるを得ないほど進んでいたこと。そして何より、自分だけが麻子の退職を知らずにいたことが、陽平を思いもかけないほどに打ちのめしていた。なぜ自分が、こんなにも大事なことを、妹とはいえ人伝えで聞かなければならないのか。
陽平は、自分がバカげた嫉妬をしているのだとわかっていた。同時に、自分はもう、麻子の主治医でいることはできないのだと思い知った。麻子に関してまるで冷静さを保つことができないのだ。
会社を辞めたことを自分に言わなかったからといって、それがなんだというのだ。こんな嫉妬はあまりにもバカげている。それを頭では充分理解しているのに、嫉妬心が消えることはない。
誰かを好きになるということは、人をこんなにも愚かな存在に変えてしまうのか。なんてバカバカしく、なんて醜く、なんて浅ましい・・・そして、なんて切ないんだろう・・・。
陽平は急に、麻子に会いたいと思った。どうしても今、麻子に会いたいと思った。
2009年03月01日
2
『新宿メンタルクリニック』の受付の電話が鳴った時、陽平はちょうど午前の診察を終えてちょっとした休みを取っていた。
陽平が『紫頭巾』で麻子の話を聞いてから、すでに2ヶ月近くが経つ。最近麻子からの連絡が途絶え、全く会えない日々が続いている。早く麻子の診察をしなくてはと気ばかり焦るが、何もできないまま時間だけが過ぎていった。
「もしもしお待たせいたしました。『新宿メンタルクリニック』です」
由紀が電話に出ると、聞き覚えのない女性の声が聞こえてきた。
「あの・・・私、野村理沙と申します。・・・岩田先生はいらっしゃいますか?」
「はい。少々お待ち下さい」
野村・・・そういえば最近野村さん来てないなぁと思いながら、由紀は電話の保留ボタンを押し、診察室に繋がる室内インターフォンの受話器を持ち上げた。
「先生、野村理沙さんという方から、2番にお電話です」
「野村、理沙?」
「そうですけど」
「なんか聞いたことあるなぁ。野村理沙、野村理沙・・・野村・・・理沙?!」
受話器の向こうから、陽平の焦ったような息づかいが聞こえてきた。
「わっわかった。すぐ出る!」
ガチャ! っとインターフォンが切られた。そのあまりにも唐突で乱暴な音に、由紀は怪訝そうに受話器を見つめ、首を傾げた。
野村理沙って、麻子の妹じゃないか!
診察室で陽平はひとり焦っていた。
どうしてここがわかったんだろう。麻子が教えたのか? いや・・・麻子がセックス依存症になったことと、妹のことは少なからず関係がある。妹という言葉にすら過剰反応していた麻子が、理沙にここを教えるとは思えない。じゃあどうして???
何がなんだかわからないままに、陽平は電話の保留ボタンを押した。
「もしもしお電話代わりました。岩田です」
「あの・・・野村理沙と申します。野村麻子の妹です。突然お電話してしまって申し訳ありません。いつも姉がお世話になっています」
「理沙ちゃん、久しぶりだね。元気そうで安心したよ」
受話器の向こうから、理沙の戸惑ったような声がした。
「えっ・・・?」
「・・・目が見えるようになったんだってね。お姉さんに聞いたよ。それから結婚式、もうすぐなんだって? おめでとう」
「・・・姉はそんなことを岩田さんに?」
「僕とお姉さんは中学時代の同級生なんだ。理沙ちゃんのことも、昔何度も見かけたことあるんだよ」
「そう・・・ですか」
「で、今日はどうしたの?」
「あの・・・岩田さん、私と会っていただけないでしょうか。できたら結婚式より前に会っていただきたいんです。無理でしょうか?」
切羽詰ったような理沙の声。麻子と理沙がだいぶ長い間会っていないことは、この前純也から聞いていた。純也も理沙も、その原因がわからないと言っていた。しかし理沙から直接話を聞いてみたい。これは逆にいい機会なのかもしれないと陽平は思った。
「大丈夫だよ。理沙ちゃんはいつならいいの?」
少しの沈黙のあと、理沙の声がした。
「・・・今日は、ダメですか?」
その声は、ほんの少しだけ震えていた。
陽平が『紫頭巾』で麻子の話を聞いてから、すでに2ヶ月近くが経つ。最近麻子からの連絡が途絶え、全く会えない日々が続いている。早く麻子の診察をしなくてはと気ばかり焦るが、何もできないまま時間だけが過ぎていった。
「もしもしお待たせいたしました。『新宿メンタルクリニック』です」
由紀が電話に出ると、聞き覚えのない女性の声が聞こえてきた。
「あの・・・私、野村理沙と申します。・・・岩田先生はいらっしゃいますか?」
「はい。少々お待ち下さい」
野村・・・そういえば最近野村さん来てないなぁと思いながら、由紀は電話の保留ボタンを押し、診察室に繋がる室内インターフォンの受話器を持ち上げた。
「先生、野村理沙さんという方から、2番にお電話です」
「野村、理沙?」
「そうですけど」
「なんか聞いたことあるなぁ。野村理沙、野村理沙・・・野村・・・理沙?!」
受話器の向こうから、陽平の焦ったような息づかいが聞こえてきた。
「わっわかった。すぐ出る!」
ガチャ! っとインターフォンが切られた。そのあまりにも唐突で乱暴な音に、由紀は怪訝そうに受話器を見つめ、首を傾げた。
野村理沙って、麻子の妹じゃないか!
診察室で陽平はひとり焦っていた。
どうしてここがわかったんだろう。麻子が教えたのか? いや・・・麻子がセックス依存症になったことと、妹のことは少なからず関係がある。妹という言葉にすら過剰反応していた麻子が、理沙にここを教えるとは思えない。じゃあどうして???
何がなんだかわからないままに、陽平は電話の保留ボタンを押した。
「もしもしお電話代わりました。岩田です」
「あの・・・野村理沙と申します。野村麻子の妹です。突然お電話してしまって申し訳ありません。いつも姉がお世話になっています」
「理沙ちゃん、久しぶりだね。元気そうで安心したよ」
受話器の向こうから、理沙の戸惑ったような声がした。
「えっ・・・?」
「・・・目が見えるようになったんだってね。お姉さんに聞いたよ。それから結婚式、もうすぐなんだって? おめでとう」
「・・・姉はそんなことを岩田さんに?」
「僕とお姉さんは中学時代の同級生なんだ。理沙ちゃんのことも、昔何度も見かけたことあるんだよ」
「そう・・・ですか」
「で、今日はどうしたの?」
「あの・・・岩田さん、私と会っていただけないでしょうか。できたら結婚式より前に会っていただきたいんです。無理でしょうか?」
切羽詰ったような理沙の声。麻子と理沙がだいぶ長い間会っていないことは、この前純也から聞いていた。純也も理沙も、その原因がわからないと言っていた。しかし理沙から直接話を聞いてみたい。これは逆にいい機会なのかもしれないと陽平は思った。
「大丈夫だよ。理沙ちゃんはいつならいいの?」
少しの沈黙のあと、理沙の声がした。
「・・・今日は、ダメですか?」
その声は、ほんの少しだけ震えていた。
2009年02月22日
第5章 1
私は何か計算違いをしていたんだろうか・・・麻子は震える身体を抱きしめながらそう考えた。
陽平と付き合えば、もう男を探して新宿の街をさまようこともなくなると思っていた。でも、会うたびに陽平とのセックスを繰り返しても終った途端にまた欲しくなる。まるで麻薬患者が麻薬を打てば打つほどそこから逃れられなくなるように、セックスをすればするほどもっともっとと心が叫ぶ。その心の声を無視できなくて、以前よりも頻繁に夜の街にさまよい出るようになった。
もしかして陽平は、そのことに気付いてしまったんだろうか。このところ陽平は、いくらせがんでもセックスをしてくれなくなった。それどころかとにかくクリニックへ行こう、2人で家にいちゃダメだと繰り返す。なぜ突然そんなことを言い出したのかと危ぶんでいたけれど、やはり知ってしまったということなのだろうか。しかしどうやって?
そういえば、銀行を辞める時部長が噂がどうのこうのと言っていたような気がする。噂ってなんなんだろう。噂ってもしかして・・・。ああ、最近はなかなか考えがまとまらない。セックスをしている時以外、人の話もまともに耳に届かない。セックスがしたくてしたくて我慢ができず、黙って座っていることさえできなくなった。
前はこれほどではなかったように思う。そう・・・初めて一晩だけのセックスをした時、その思い出だけで数ヶ月は持った。それが徐々に1ヶ月、数週間、そして数日と短くなっていった。近頃は数時間と持たないように思う。いつからこんなセックス中心の生活になってしまったんだろう。セックスのことを考えただけで身体の芯が熱くなり、いてもたってもいられなくなる。セックスができないなら生きてはいけない。死んだ方がましだと思う。もう前のように衝動を我慢することはできなくなった。自分はいつからこれほどセックスが好きになったんだろう。
セックスが好き。私はセックスが好き? ・・・本当にそうなんだろうか。
セックスの快楽はいつも、終わったあとの絶望感とセットだ。虚無感や焦燥感が大波のように押し寄せて私を溺れさせる。それが怖くて怖くて、何もかも忘れさせてくれる次のセックスに走ってしまう。まるでメビュースの輪のように、裏も表もなく、何が正しくて何が間違っているのかもわからない。
私は病気なんだろうか。セックスという病に冒されているんだろうか。
そうかもしれない。だから陽平に愛していると言われるたびに、胸が苦しくなってイライラが募るのだ。
愛してるなんて余計な言葉を発している暇があったら、私の身体から服をむしり取り、おもむろに抱いてくれればいい。愛してるなんて、そんないい加減なありえない言葉を聞いてる余裕など私にはない。一刻でも早く、一回でも多くセックスをしなければならないのだし、私を愛する人間などこの世にいるはずがないのだから・・・。
こんなことを考える私はやっぱりおかしいのだろうか。こんな私だから、誰も愛してはくれないのだろうか。
・・・わからない。誰か教えてほしい。誰か私を・・・救ってほしい・・・。
麻子は震える身体を引きずりながら、ベッドルームを出てリビングの明かりをつけた。
雑然と散らかった空間が、薄明かりの中にぼんやりと浮びあがる。
ここの明かりをつけるのは2週間ぶりだ。ここ数ヶ月は掃除もしていない。する気力などどこにも残ってないのだ。
ダイニングテーブルの上には、いつ食べたのかもわからないコンビニ弁当の残りや、ペットボトルのまま放置されたウーロン茶が置かれている。しかしそれらが麻子の目に映ることはない。真っ直ぐリビングを通り過ぎ、仕事部屋のパソコンデスクに向かい電源を入れた。インターネットに繋ぎ、セックス、病気、震えと検索をかけてみた。羅列された文章の中に、『セックス依存症』という言葉を見つけた。
セックス、依存症? 何それ? それは病名なの?
恐る恐るクリックしてみると、そこはセックス依存症患者が自分で開いているサイトだった。震える手で症状というところをクリックする。
『セックス依存症とは、アルコール依存や買い物依存、薬物依存などと同じ、精神的病理現象をいう。セックスに異常なまでに執着し、それをしなければ恐怖や不安、焦燥感にさいなまれ、いてもたってもいられなくなる。セックスができなくなると、吐き気や嘔吐、貧血やめまい、身体の震えや思考能力の停止などの病的な症状に見舞われる。・・・適切な医療行為を受ける必要がある』
まるで自分のことを言っているのではないかと麻子は思った。信じられない思いでサイトの隅から隅までをむさぼり読む。あっという間に数時間の時が流れた。
麻子はふと、パソコンの隣に置いてあった鏡に目をやった。そこには、みすぼらしいほどに痩せ細ったひとりの女が映っていた。
陽平は何もかも知っていたに違いない。・・・彼に会わなければ・・・。
いつの間にか麻子は、ポロポロと涙を流し、肩を震わせて泣いていた。
陽平と付き合えば、もう男を探して新宿の街をさまようこともなくなると思っていた。でも、会うたびに陽平とのセックスを繰り返しても終った途端にまた欲しくなる。まるで麻薬患者が麻薬を打てば打つほどそこから逃れられなくなるように、セックスをすればするほどもっともっとと心が叫ぶ。その心の声を無視できなくて、以前よりも頻繁に夜の街にさまよい出るようになった。
もしかして陽平は、そのことに気付いてしまったんだろうか。このところ陽平は、いくらせがんでもセックスをしてくれなくなった。それどころかとにかくクリニックへ行こう、2人で家にいちゃダメだと繰り返す。なぜ突然そんなことを言い出したのかと危ぶんでいたけれど、やはり知ってしまったということなのだろうか。しかしどうやって?
そういえば、銀行を辞める時部長が噂がどうのこうのと言っていたような気がする。噂ってなんなんだろう。噂ってもしかして・・・。ああ、最近はなかなか考えがまとまらない。セックスをしている時以外、人の話もまともに耳に届かない。セックスがしたくてしたくて我慢ができず、黙って座っていることさえできなくなった。
前はこれほどではなかったように思う。そう・・・初めて一晩だけのセックスをした時、その思い出だけで数ヶ月は持った。それが徐々に1ヶ月、数週間、そして数日と短くなっていった。近頃は数時間と持たないように思う。いつからこんなセックス中心の生活になってしまったんだろう。セックスのことを考えただけで身体の芯が熱くなり、いてもたってもいられなくなる。セックスができないなら生きてはいけない。死んだ方がましだと思う。もう前のように衝動を我慢することはできなくなった。自分はいつからこれほどセックスが好きになったんだろう。
セックスが好き。私はセックスが好き? ・・・本当にそうなんだろうか。
セックスの快楽はいつも、終わったあとの絶望感とセットだ。虚無感や焦燥感が大波のように押し寄せて私を溺れさせる。それが怖くて怖くて、何もかも忘れさせてくれる次のセックスに走ってしまう。まるでメビュースの輪のように、裏も表もなく、何が正しくて何が間違っているのかもわからない。
私は病気なんだろうか。セックスという病に冒されているんだろうか。
そうかもしれない。だから陽平に愛していると言われるたびに、胸が苦しくなってイライラが募るのだ。
愛してるなんて余計な言葉を発している暇があったら、私の身体から服をむしり取り、おもむろに抱いてくれればいい。愛してるなんて、そんないい加減なありえない言葉を聞いてる余裕など私にはない。一刻でも早く、一回でも多くセックスをしなければならないのだし、私を愛する人間などこの世にいるはずがないのだから・・・。
こんなことを考える私はやっぱりおかしいのだろうか。こんな私だから、誰も愛してはくれないのだろうか。
・・・わからない。誰か教えてほしい。誰か私を・・・救ってほしい・・・。
麻子は震える身体を引きずりながら、ベッドルームを出てリビングの明かりをつけた。
雑然と散らかった空間が、薄明かりの中にぼんやりと浮びあがる。
ここの明かりをつけるのは2週間ぶりだ。ここ数ヶ月は掃除もしていない。する気力などどこにも残ってないのだ。
ダイニングテーブルの上には、いつ食べたのかもわからないコンビニ弁当の残りや、ペットボトルのまま放置されたウーロン茶が置かれている。しかしそれらが麻子の目に映ることはない。真っ直ぐリビングを通り過ぎ、仕事部屋のパソコンデスクに向かい電源を入れた。インターネットに繋ぎ、セックス、病気、震えと検索をかけてみた。羅列された文章の中に、『セックス依存症』という言葉を見つけた。
セックス、依存症? 何それ? それは病名なの?
恐る恐るクリックしてみると、そこはセックス依存症患者が自分で開いているサイトだった。震える手で症状というところをクリックする。
『セックス依存症とは、アルコール依存や買い物依存、薬物依存などと同じ、精神的病理現象をいう。セックスに異常なまでに執着し、それをしなければ恐怖や不安、焦燥感にさいなまれ、いてもたってもいられなくなる。セックスができなくなると、吐き気や嘔吐、貧血やめまい、身体の震えや思考能力の停止などの病的な症状に見舞われる。・・・適切な医療行為を受ける必要がある』
まるで自分のことを言っているのではないかと麻子は思った。信じられない思いでサイトの隅から隅までをむさぼり読む。あっという間に数時間の時が流れた。
麻子はふと、パソコンの隣に置いてあった鏡に目をやった。そこには、みすぼらしいほどに痩せ細ったひとりの女が映っていた。
陽平は何もかも知っていたに違いない。・・・彼に会わなければ・・・。
いつの間にか麻子は、ポロポロと涙を流し、肩を震わせて泣いていた。
2009年02月14日
9
サツキが言った言葉の意味を、すぐに理沙が理解できたわけではなかった。しかし理沙の耳は、サツキがとても大切な何かを伝えようとしているのだと感じていた。
「心の・・・目?」
「ええ。新宿二丁目でオカマなんかやってると、それこそいろんなことがあるわ。男同士の痴話喧嘩や自殺さわぎ。女とオカマが、ひとりの男を取り合って大喧嘩なんてこともある。テレビをつけりゃ、あたしたちの表面上だけを取り上げて面白おかしく騒いだり。まぁ、オカマであることをネタにしてタレント活動してる子もいるから、しかたないんだけどね」
サツキはあっけらかんと苦笑まじりでそう言った。オカマたちもみんな顔を見合わせ、肩をすくめて笑っている。
「そんなこと、ここらじゃ日常茶飯事なの。それを見たまま受け止めてたらとてもじゃないけどやってられないわ。それこそストレスで病気になっちゃう」
「そうそう。第一あたしたちは、生きたいように生きてくだけでいろんなこと言われるのよ。変態だとか、気持ち悪いとか、頭おかしいなんて言われたことも、一度や二度じゃないもんね」
リリィはそう言うと、プーっと頬を膨らませた。
「つまりこういうことよ。何でも重く受け止めないこと。それから物事を見たまま捉えないこと。物事にはいつでも原因があって結果がある。見たことをそのまま受け止めると、原因まで考えることをしなくなるの。原因をしっかり見極めようとすることが、心の目を開けること。わかった?」
理沙はサツキを見つめ、小さくつぶやいた。
「原因と、結果・・・」
「・・・理沙さん、・・・麻子さんがとっかえひっかえ男を誘っていることにも、必ず原因があるの。原因のない結果なんてないのよ。たぶん彼女もあなたと同じ。見たくないものから目をそむけたのね。麻子さんが見たくなかったものが何かなんてあたしにはわからない。でもそのツケはいつか必ずその人に回ってくる。彼女のツケは、ああいう形で回ってきたんだと思うの」
「・・・お姉ちゃんの見たくないものって、いったい何なんでしょうか?」
「あたしにはわからないって言ったでしょ? それにね、何でもかんでも人に教えてもらおうとしちゃダメ。あなたの目は、もうちゃんと見えてるんでしょ? だったら自分ひとりで行動しなさい。今何をすればいいのか。ちゃんとひとりで考えるの。そうしたらおのずと心の目が開いて、あなたのやるべき事が見えてくるはずよ」
サツキはそう言うと、深く考え込んでしまった理沙に、新しいウーロン茶割りを作ってやった。
「心の・・・目?」
「ええ。新宿二丁目でオカマなんかやってると、それこそいろんなことがあるわ。男同士の痴話喧嘩や自殺さわぎ。女とオカマが、ひとりの男を取り合って大喧嘩なんてこともある。テレビをつけりゃ、あたしたちの表面上だけを取り上げて面白おかしく騒いだり。まぁ、オカマであることをネタにしてタレント活動してる子もいるから、しかたないんだけどね」
サツキはあっけらかんと苦笑まじりでそう言った。オカマたちもみんな顔を見合わせ、肩をすくめて笑っている。
「そんなこと、ここらじゃ日常茶飯事なの。それを見たまま受け止めてたらとてもじゃないけどやってられないわ。それこそストレスで病気になっちゃう」
「そうそう。第一あたしたちは、生きたいように生きてくだけでいろんなこと言われるのよ。変態だとか、気持ち悪いとか、頭おかしいなんて言われたことも、一度や二度じゃないもんね」
リリィはそう言うと、プーっと頬を膨らませた。
「つまりこういうことよ。何でも重く受け止めないこと。それから物事を見たまま捉えないこと。物事にはいつでも原因があって結果がある。見たことをそのまま受け止めると、原因まで考えることをしなくなるの。原因をしっかり見極めようとすることが、心の目を開けること。わかった?」
理沙はサツキを見つめ、小さくつぶやいた。
「原因と、結果・・・」
「・・・理沙さん、・・・麻子さんがとっかえひっかえ男を誘っていることにも、必ず原因があるの。原因のない結果なんてないのよ。たぶん彼女もあなたと同じ。見たくないものから目をそむけたのね。麻子さんが見たくなかったものが何かなんてあたしにはわからない。でもそのツケはいつか必ずその人に回ってくる。彼女のツケは、ああいう形で回ってきたんだと思うの」
「・・・お姉ちゃんの見たくないものって、いったい何なんでしょうか?」
「あたしにはわからないって言ったでしょ? それにね、何でもかんでも人に教えてもらおうとしちゃダメ。あなたの目は、もうちゃんと見えてるんでしょ? だったら自分ひとりで行動しなさい。今何をすればいいのか。ちゃんとひとりで考えるの。そうしたらおのずと心の目が開いて、あなたのやるべき事が見えてくるはずよ」
サツキはそう言うと、深く考え込んでしまった理沙に、新しいウーロン茶割りを作ってやった。
2009年02月07日
8
「あなたは知りたいって言った。だったらどんな辛く重い現実であっても、とことん付き合うの」
サツキの言葉は、真っ直ぐ理沙の心に突き刺さった。その言葉ひとつひとつが理沙の全身に覆われた怒りの衣をはがし、今度は悲しみで覆い尽くした。
理沙はやっと、自分が何に対して怒っていたのかを理解した。怒りの根本は、サツキでもなければ純也でもなく、ましてや麻子にではなかった。理沙の怒りは自分に向いていたのだ。
何も知らない自分。それがイヤだと思った自分。知ったうえでの覚悟など何もなかった。それでも闇雲に知りたいと思った。家族なんだから私には知る権利があると思っていた。
この人たちは、全てを知っていながらあえて言おうとしなかった。それを無理矢理聞きだし、勝手に傷ついたのは私だ。私の・・・方だ・・・。
見えるということは、こんなにも辛いことだったのかと、理沙は今更ながら思っていた。
小さいころから、再び目が見えるようになりたいと、ただそれだけを願い続けていた。
見たかった。この世の全てが見たかった。
美しくきらめくような海や空。木々の葉が涼しげな風に揺れる心地いい景色。人々が注ぎあう優しい微笑み。
目の見える人の世界には、キレイなものが溢れていると思っていた。そう思わせてくれたのは、他でもない麻子だったのだ。しかし見えるようになった途端、麻子は自分の前から姿を消した。
なんて皮肉なんだろう。きっと麻子の目に映る世界には、美しいものなどどこにもなかったのだ。
世界は美しいと教えてくれた麻子の本当の心・・・。それはいったいどこにあるのだろうか。
理沙は、聞き耳を立てなければならないほどかすかな声で、ポツリポツリとつぶやきはじめた。
「小さいころ、目が見えたらどんなに素晴らしいだろうって、ずっと想像してました。飼っていた犬の顔や、お姉ちゃんが私のために作ってくれる美味しいご飯。楽しそうなテレビや、公園に咲いているいい香りの花。それが見えたらどんなに素敵だろうって。でも、目が見えるって、こんなにも苦しくてイヤらしくて、重い現実を見ることなんですか? 何も知らない無知でバカな自分を知るためなんですか?」
理沙の声は、かすれながらも徐々に大きくなっていった。その声は絶望に色濃く染まり、理沙を見えなかった時よりももっともっと暗い、闇に包まれた世界へと運んでいった。
「見えないままなら知らずにすんだんですか? だからお姉ちゃんは私から離れていったんでしょうか。・・・そんなこと、誰も教えてくれなかった。お母さんも純也さんも・・・私の目が治ることをあんなに喜んでた。それは、これを見せるためだったんですか? ・・・私・・・見えることがこんなに辛いなんて思わなかった。全然・・・知りませんでした」
理沙は力なくソファに座り、ポロポロと泣きはじめた。
サツキは半分呆れ、しかし半分で、無性に愛しいものを見るように微笑んだ。
「あなたは本当に、何も知らないまま育ってしまったお嬢さんなのね。きっと麻子さんが、あなたを大事に大事に守ってきたのね・・・」
理沙は涙で潤んだ瞳をゆっくりとサツキに向けた。
何も知らないお嬢さん・・・それはそうかとサツキは思った。この子はまだ、目が見えるようになってたった2年しか経っていないのだ。つまりは2歳の赤ちゃんと同じということだ。何も知らなくて当たり前。見えなくて当然なのかもしれない。
「あのね、理沙さん。目が見えるって、っていうかこの世界って、キレイなものや正しいものばかりじゃないわ。もっと言えば、汚いものとか醜いものばかりで溢れてるの。でもね、私思うのよ。本当にキレイなものや正しいものって、汚いものや醜いものの奥にあるんじゃないかって」
「・・・奥?」
「そう。汚いものや醜いものの奥にある真実。それを見極める目を持っていれば、いつだって本当にキレイなものや正しいものを見られるわ。表面上どんなに薄汚れて見えても、その奥にあるものが同じように薄汚れているかなんて誰にもわからない。世の中には、理沙さんみたいに実際にものが見えなかった人、今も見えない人っては少ないわ。でも、物事の真実が見える人は、もっともっと少ないの。それは、実際に目が見える見えないには関係ない。誰でも持っている心の目が開いているかどうかの問題なのよ」
サツキはそう言うと、まるで母親が、生まれたての赤ん坊に見せるような笑顔を理沙に向けた。
サツキの言葉は、真っ直ぐ理沙の心に突き刺さった。その言葉ひとつひとつが理沙の全身に覆われた怒りの衣をはがし、今度は悲しみで覆い尽くした。
理沙はやっと、自分が何に対して怒っていたのかを理解した。怒りの根本は、サツキでもなければ純也でもなく、ましてや麻子にではなかった。理沙の怒りは自分に向いていたのだ。
何も知らない自分。それがイヤだと思った自分。知ったうえでの覚悟など何もなかった。それでも闇雲に知りたいと思った。家族なんだから私には知る権利があると思っていた。
この人たちは、全てを知っていながらあえて言おうとしなかった。それを無理矢理聞きだし、勝手に傷ついたのは私だ。私の・・・方だ・・・。
見えるということは、こんなにも辛いことだったのかと、理沙は今更ながら思っていた。
小さいころから、再び目が見えるようになりたいと、ただそれだけを願い続けていた。
見たかった。この世の全てが見たかった。
美しくきらめくような海や空。木々の葉が涼しげな風に揺れる心地いい景色。人々が注ぎあう優しい微笑み。
目の見える人の世界には、キレイなものが溢れていると思っていた。そう思わせてくれたのは、他でもない麻子だったのだ。しかし見えるようになった途端、麻子は自分の前から姿を消した。
なんて皮肉なんだろう。きっと麻子の目に映る世界には、美しいものなどどこにもなかったのだ。
世界は美しいと教えてくれた麻子の本当の心・・・。それはいったいどこにあるのだろうか。
理沙は、聞き耳を立てなければならないほどかすかな声で、ポツリポツリとつぶやきはじめた。
「小さいころ、目が見えたらどんなに素晴らしいだろうって、ずっと想像してました。飼っていた犬の顔や、お姉ちゃんが私のために作ってくれる美味しいご飯。楽しそうなテレビや、公園に咲いているいい香りの花。それが見えたらどんなに素敵だろうって。でも、目が見えるって、こんなにも苦しくてイヤらしくて、重い現実を見ることなんですか? 何も知らない無知でバカな自分を知るためなんですか?」
理沙の声は、かすれながらも徐々に大きくなっていった。その声は絶望に色濃く染まり、理沙を見えなかった時よりももっともっと暗い、闇に包まれた世界へと運んでいった。
「見えないままなら知らずにすんだんですか? だからお姉ちゃんは私から離れていったんでしょうか。・・・そんなこと、誰も教えてくれなかった。お母さんも純也さんも・・・私の目が治ることをあんなに喜んでた。それは、これを見せるためだったんですか? ・・・私・・・見えることがこんなに辛いなんて思わなかった。全然・・・知りませんでした」
理沙は力なくソファに座り、ポロポロと泣きはじめた。
サツキは半分呆れ、しかし半分で、無性に愛しいものを見るように微笑んだ。
「あなたは本当に、何も知らないまま育ってしまったお嬢さんなのね。きっと麻子さんが、あなたを大事に大事に守ってきたのね・・・」
理沙は涙で潤んだ瞳をゆっくりとサツキに向けた。
何も知らないお嬢さん・・・それはそうかとサツキは思った。この子はまだ、目が見えるようになってたった2年しか経っていないのだ。つまりは2歳の赤ちゃんと同じということだ。何も知らなくて当たり前。見えなくて当然なのかもしれない。
「あのね、理沙さん。目が見えるって、っていうかこの世界って、キレイなものや正しいものばかりじゃないわ。もっと言えば、汚いものとか醜いものばかりで溢れてるの。でもね、私思うのよ。本当にキレイなものや正しいものって、汚いものや醜いものの奥にあるんじゃないかって」
「・・・奥?」
「そう。汚いものや醜いものの奥にある真実。それを見極める目を持っていれば、いつだって本当にキレイなものや正しいものを見られるわ。表面上どんなに薄汚れて見えても、その奥にあるものが同じように薄汚れているかなんて誰にもわからない。世の中には、理沙さんみたいに実際にものが見えなかった人、今も見えない人っては少ないわ。でも、物事の真実が見える人は、もっともっと少ないの。それは、実際に目が見える見えないには関係ない。誰でも持っている心の目が開いているかどうかの問題なのよ」
サツキはそう言うと、まるで母親が、生まれたての赤ん坊に見せるような笑顔を理沙に向けた。
2009年01月31日
7
「あの・・・理沙さん? 大丈夫?」
ショックで口を開くこともできない理沙に、リリィが心配そうに声をかけた。
理沙は身動きひとつせず、人形のように固まっていた。
勘違いだ。この人たちは何か大きな勘違いをしているんだ。
理沙は何度も何度も心の中でそうつぶやき続けた。しかしそのたびに繰り返し起こる疑問が理沙を苦しめた。では、純也が見たのはいったい誰なのか。
純也さんが嘘をついたというの? そんな・・・そんなはずはない。それはわかってる。ああ! でも・・・。
理沙はとうとう黙っていることに耐え切れなくなった。黙っていると恐ろしい考えが頭を支配しようとする。理沙は突然大きな声を張り上げ、猛然と否定の言葉を口にした。
「嘘です! 何かの勘違いです。純也さんはお姉ちゃんとあまり会ったことがないから、たぶん他の人と見間違えたんです。絶対にそうです。そうに決まってます」
「理沙さん、そう思いたいのはわかるけど」
ため息交じりのサツキの言葉を、理沙は勢いよくさえぎった。
「思いたいんじゃない! そうなんです! だってお姉ちゃんがそんなことするはずないもの。ありえないもの。お姉ちゃんはそんな人じゃない。あなたたちお姉ちゃんのこと全然知らないでしょ? お姉ちゃんのこと何もわかってないでしょ? 私はよく知ってます。小さいころからずっと一緒にいたんです。誰よりも一番よくわかってるんです。お姉ちゃんのこと、これ以上悪く言わないでください。そんなありもしない噂立てられて、お姉ちゃんがかわいそうです。あんまりです。ひどいです! ・・・私帰ります。こんなの耐えられません。・・・失礼します」
理沙はまくし立てるようにそういうと勢いよく立ちあがった。
もう何も聞きたくない。
今にも泣き出しそうな理沙の瞳は、かたくなにそういっていた。オカマたちもつかさたちも、重苦しい空気の中で理沙の顔を見上げている。
「逃げるの?」
低く鋭く落ち着いた声が響いた。理沙がその声の主を振り返ると、そこには薄い微笑を浮かべるサツキがいた。
「自分に抱えきれない事実は全て嘘ってことにしてしまえば、これほど簡単で楽なことはないわね。そうやって自分を騙して生きていけば、見たくないものは見ずにすむもの。そういう人とても多いわ。見ようと思えば見えるのに、決して見ようとしない人。あなたと麻子さんはすごく似てるのね、そういうとこ」
理沙の目に力がこもった。怒りが一気に込み上げてくる。理沙は止めどもない怒りに胸が詰まった。生まれてはじめて感じる激しい怒りの塊。その塊が怒涛のごとく全身を駆け抜ける。
同時に理沙は、その持て余すほどの激しさに戸惑いを覚えた。怒りの塊をどのように処理していいのかわからない。怒りの捌け口を見つけることができない理沙は、際限なく湧きあがる怒りになすすべもなく、黙ってサツキをにらみ続けるしかなかった。
「知りたかったのよね? あなたは全てを知りたかったんでしょ? あたし何度も聞いたわよね。覚悟がないままに真実を知ったらイヤな目に遭う。それでもいいのかって。あなた自分で言ったのよ。大丈夫だって。覚えてないの?」
理沙は何も答えない。答えることができない。怒りと混乱で息がつまり、声が出なかったのだ。
そんな理沙とサツキを、みんなは固唾を呑んで見つめていた。
「理沙さん、あたし言ったわね。人には家族であっても、ううん家族だからこそ知られたくないことがたくさんあるって。・・・例えばこのあたしよ。うちの両親は、あたしがオカマやってるなんて知らないわ。知ってほしくないの。もし知ってしまったら、ひどく傷つくでしょうからね。だから言わない。いくら家族であっても、血はつながってても、ひとりひとりが違う人間なの。性格も考え方も、人との付き合い方もみんな違う。あたしはあたし。あなたはあなただし、麻子さんは麻子さんの考え方や生き方がある。家族なんだから何でも知ってて当たり前だと思うのは傲慢なのよ。知らないでいた方がいいことなんて、それこそごまんとあるわ」
サツキは一気にそこまで言うと、軽く息を吐き、理沙を正面から見つめなおした。
「それでもあなたは知りたいって言った。どんなことでも大丈夫だって言った。だったらその言葉に最後まで責任を持ちなさい。知ってしまったら最後、知らなかった時には戻れない。知ったあとに知りたくなかったなんて、口が裂けても言っちゃダメ。そんな覚悟のないやつに限って、何を聞いても驚かないから大丈夫なんて言うのよ。知ったら最後、責任を取るの。最後までとことん付き合うの。どんなに自分にとって辛く重い現実であってもね」
理沙の胸に、サツキの言葉が強く重く突き刺さった。
ショックで口を開くこともできない理沙に、リリィが心配そうに声をかけた。
理沙は身動きひとつせず、人形のように固まっていた。
勘違いだ。この人たちは何か大きな勘違いをしているんだ。
理沙は何度も何度も心の中でそうつぶやき続けた。しかしそのたびに繰り返し起こる疑問が理沙を苦しめた。では、純也が見たのはいったい誰なのか。
純也さんが嘘をついたというの? そんな・・・そんなはずはない。それはわかってる。ああ! でも・・・。
理沙はとうとう黙っていることに耐え切れなくなった。黙っていると恐ろしい考えが頭を支配しようとする。理沙は突然大きな声を張り上げ、猛然と否定の言葉を口にした。
「嘘です! 何かの勘違いです。純也さんはお姉ちゃんとあまり会ったことがないから、たぶん他の人と見間違えたんです。絶対にそうです。そうに決まってます」
「理沙さん、そう思いたいのはわかるけど」
ため息交じりのサツキの言葉を、理沙は勢いよくさえぎった。
「思いたいんじゃない! そうなんです! だってお姉ちゃんがそんなことするはずないもの。ありえないもの。お姉ちゃんはそんな人じゃない。あなたたちお姉ちゃんのこと全然知らないでしょ? お姉ちゃんのこと何もわかってないでしょ? 私はよく知ってます。小さいころからずっと一緒にいたんです。誰よりも一番よくわかってるんです。お姉ちゃんのこと、これ以上悪く言わないでください。そんなありもしない噂立てられて、お姉ちゃんがかわいそうです。あんまりです。ひどいです! ・・・私帰ります。こんなの耐えられません。・・・失礼します」
理沙はまくし立てるようにそういうと勢いよく立ちあがった。
もう何も聞きたくない。
今にも泣き出しそうな理沙の瞳は、かたくなにそういっていた。オカマたちもつかさたちも、重苦しい空気の中で理沙の顔を見上げている。
「逃げるの?」
低く鋭く落ち着いた声が響いた。理沙がその声の主を振り返ると、そこには薄い微笑を浮かべるサツキがいた。
「自分に抱えきれない事実は全て嘘ってことにしてしまえば、これほど簡単で楽なことはないわね。そうやって自分を騙して生きていけば、見たくないものは見ずにすむもの。そういう人とても多いわ。見ようと思えば見えるのに、決して見ようとしない人。あなたと麻子さんはすごく似てるのね、そういうとこ」
理沙の目に力がこもった。怒りが一気に込み上げてくる。理沙は止めどもない怒りに胸が詰まった。生まれてはじめて感じる激しい怒りの塊。その塊が怒涛のごとく全身を駆け抜ける。
同時に理沙は、その持て余すほどの激しさに戸惑いを覚えた。怒りの塊をどのように処理していいのかわからない。怒りの捌け口を見つけることができない理沙は、際限なく湧きあがる怒りになすすべもなく、黙ってサツキをにらみ続けるしかなかった。
「知りたかったのよね? あなたは全てを知りたかったんでしょ? あたし何度も聞いたわよね。覚悟がないままに真実を知ったらイヤな目に遭う。それでもいいのかって。あなた自分で言ったのよ。大丈夫だって。覚えてないの?」
理沙は何も答えない。答えることができない。怒りと混乱で息がつまり、声が出なかったのだ。
そんな理沙とサツキを、みんなは固唾を呑んで見つめていた。
「理沙さん、あたし言ったわね。人には家族であっても、ううん家族だからこそ知られたくないことがたくさんあるって。・・・例えばこのあたしよ。うちの両親は、あたしがオカマやってるなんて知らないわ。知ってほしくないの。もし知ってしまったら、ひどく傷つくでしょうからね。だから言わない。いくら家族であっても、血はつながってても、ひとりひとりが違う人間なの。性格も考え方も、人との付き合い方もみんな違う。あたしはあたし。あなたはあなただし、麻子さんは麻子さんの考え方や生き方がある。家族なんだから何でも知ってて当たり前だと思うのは傲慢なのよ。知らないでいた方がいいことなんて、それこそごまんとあるわ」
サツキは一気にそこまで言うと、軽く息を吐き、理沙を正面から見つめなおした。
「それでもあなたは知りたいって言った。どんなことでも大丈夫だって言った。だったらその言葉に最後まで責任を持ちなさい。知ってしまったら最後、知らなかった時には戻れない。知ったあとに知りたくなかったなんて、口が裂けても言っちゃダメ。そんな覚悟のないやつに限って、何を聞いても驚かないから大丈夫なんて言うのよ。知ったら最後、責任を取るの。最後までとことん付き合うの。どんなに自分にとって辛く重い現実であってもね」
理沙の胸に、サツキの言葉が強く重く突き刺さった。
2009年01月24日
6
サツキは理沙の瞳を正面から見つめ、話を続けた。
「理沙さん、あなたがお姉さんを思う気持ちは充分わかったわ。もしかしたらそれが麻子さんを助けることに繋がるかもしれない。でもね、人には家族であっても・・・ううん、家族だからこそ知られたくないことがたくさんあるの。それでも知りたいのなら覚悟がなければいけない。じゃないと、イヤな思いをするだけよ」
そのちょっと突き放したような言い方に、理沙は一瞬躊躇した。しかしこのまま何も知らないでいることはできない。元の仲のいい姉妹に戻りたいのだ。
理沙はゴクリを唾を飲み込むと、ためらいを押し隠して強く言った。
「大丈夫です。私は元のお姉ちゃんに戻ってほしいんです。そのためだったら、どんなことでもします」
サツキは大きくため息を吐いた。
この子は何も知らないお嬢さんなのだ。もちろん彼女の目のことは田島から聞いた。社会に出たことなど一度もないらしい。キレイな、美しいものしか知らないのだ。もしかしたらそれが、麻子を追い詰めた原因のひとつなのかもしれないとサツキは思った。
「元に戻ることなんてできないわ。できるのは前に進むことだけ。わかる?」
サツキの言っている意味がわかっているのかいないのか、理沙は軽く眉間にシワを寄せた。
「知ってもあなたとお姉さんの仲が元に戻るわけじゃないの。逆に二度と埋まらない溝ができるかもしれない。その覚悟があるのかって聞いてるのよ」
理沙は唇をギュッと結び、サツキの言葉を否定するようにジッと見つめた。
この人は私とお姉ちゃんの関係を何も知らない。お姉ちゃんは私にとって何ものにも代えがたいかけがえのない存在だ。それはお姉ちゃんにとってもそうであったはず。埋まらない溝なんてあるわけがないのだ。
理沙は少々ムキになって言った。
「大丈夫ですから言ってください。私は全てが知りたいんです」
「・・・わかったわ」
サツキは覚悟を決めたように大きく息を吸い、それをはき出してから話し始めた。
「あたしが知っているのは、電話の男が言っていた噂の内容だけ。麻子さんがそれが原因で銀行を辞めたっていうのは、さっき始めて聞いたわ。・・・麻子さんは、愛っていう名前で『新宿メトロプラザホテル』のバーラウンジで男を誘っていたの。ありていに言えば、そこでつかまえた男の部屋に行って、セックスしてたってこと。それも毎回違う男と。もう何年も繰り返してたらしいわ。制服のように、いつも派手なピンクのミニドレスを着て、最初に声をかけてきた男について行った。それがどんなデブでも不細工でも、全くえり好みすることなくね。それが歌舞伎町界隈で噂になったの。メトロプラザのバーラウンジに行けば、ピンクのドレスを着たものすごくキレイな女とタダでやれるって。噂が広まって、いろんな男がバーラウンジを訪れるようになった。ホテルからしてみたらいい迷惑よ。そんなとんでもない噂がこれ以上広まったら、ホテルのイメージに計り知れない傷がつくでしょ? あそこはラブホテルじゃないんだから。で、ついに出入り禁止になった。これは歌舞伎町に詳しいある人から聞いたの。確かな情報よ。もしあなたが直接聞きたいと言うなら、いつでも案内するわ」
全く言葉を挟むことなく、理沙は黙ってサツキの言葉を聞いていた。頭が真っ白になり、口を開くことすらできなかったのだ。
まさか・・・ありえない・・・お姉ちゃんがそんなことするはずがない。
理沙は否定の言葉を求めてつかさと美鈴に視線を移した。2人はあまりの居たたまれなさに理沙の視線を外した。
その途端、理沙の視界が霞んだ。心臓が大きな手に鷲づかみされたかのように痛み、その痛みはどんどんと耐えがたいほどに高まっていった。
苦しそうに顔を歪ませる理沙に、まるで追い討ちをかけるようにサツキが言った。
「このことは、あなたの婚約者である田島さんも知ってるわ」
純也さんが・・・? なぜ? どうしてこの人が純也さんのことを知ってるの?
喉に得体の知れない何かがつっかえ、スムーズに声が出ない。
理沙はひしゃげたような、しわがれた声でサツキに尋ねた。
「どうして彼が、知ってるんですか?」
「あなたとお姉さんの仲を元に戻したくて、ひとりで麻子さんの家に行ったのよ。その時の成り行きで、彼は麻子さんのあとをつけるはめになった。そして彼女が男を引っ掛けているところを見ちゃったの」
純也さんが、お姉ちゃんが男を引っ掛けているところを、見た?
理沙はすさまじいショックに顔を歪めた。ありえない。絶対にありえない。私の知っているお姉ちゃんはそんなことをする人じゃない。お姉ちゃんのことは私が一番よく知ってる。きっとなにかの間違いだ。この人たちは勘違いをしているんだ。純也さんだってそうだ。見間違いだ。たぶん・・・そうなのだ。そうに、決まってる・・・。
理沙は壊れ出そうとする自分の心を保つため、必死で自分にそう言い聞かせた。
「理沙さん、あなたがお姉さんを思う気持ちは充分わかったわ。もしかしたらそれが麻子さんを助けることに繋がるかもしれない。でもね、人には家族であっても・・・ううん、家族だからこそ知られたくないことがたくさんあるの。それでも知りたいのなら覚悟がなければいけない。じゃないと、イヤな思いをするだけよ」
そのちょっと突き放したような言い方に、理沙は一瞬躊躇した。しかしこのまま何も知らないでいることはできない。元の仲のいい姉妹に戻りたいのだ。
理沙はゴクリを唾を飲み込むと、ためらいを押し隠して強く言った。
「大丈夫です。私は元のお姉ちゃんに戻ってほしいんです。そのためだったら、どんなことでもします」
サツキは大きくため息を吐いた。
この子は何も知らないお嬢さんなのだ。もちろん彼女の目のことは田島から聞いた。社会に出たことなど一度もないらしい。キレイな、美しいものしか知らないのだ。もしかしたらそれが、麻子を追い詰めた原因のひとつなのかもしれないとサツキは思った。
「元に戻ることなんてできないわ。できるのは前に進むことだけ。わかる?」
サツキの言っている意味がわかっているのかいないのか、理沙は軽く眉間にシワを寄せた。
「知ってもあなたとお姉さんの仲が元に戻るわけじゃないの。逆に二度と埋まらない溝ができるかもしれない。その覚悟があるのかって聞いてるのよ」
理沙は唇をギュッと結び、サツキの言葉を否定するようにジッと見つめた。
この人は私とお姉ちゃんの関係を何も知らない。お姉ちゃんは私にとって何ものにも代えがたいかけがえのない存在だ。それはお姉ちゃんにとってもそうであったはず。埋まらない溝なんてあるわけがないのだ。
理沙は少々ムキになって言った。
「大丈夫ですから言ってください。私は全てが知りたいんです」
「・・・わかったわ」
サツキは覚悟を決めたように大きく息を吸い、それをはき出してから話し始めた。
「あたしが知っているのは、電話の男が言っていた噂の内容だけ。麻子さんがそれが原因で銀行を辞めたっていうのは、さっき始めて聞いたわ。・・・麻子さんは、愛っていう名前で『新宿メトロプラザホテル』のバーラウンジで男を誘っていたの。ありていに言えば、そこでつかまえた男の部屋に行って、セックスしてたってこと。それも毎回違う男と。もう何年も繰り返してたらしいわ。制服のように、いつも派手なピンクのミニドレスを着て、最初に声をかけてきた男について行った。それがどんなデブでも不細工でも、全くえり好みすることなくね。それが歌舞伎町界隈で噂になったの。メトロプラザのバーラウンジに行けば、ピンクのドレスを着たものすごくキレイな女とタダでやれるって。噂が広まって、いろんな男がバーラウンジを訪れるようになった。ホテルからしてみたらいい迷惑よ。そんなとんでもない噂がこれ以上広まったら、ホテルのイメージに計り知れない傷がつくでしょ? あそこはラブホテルじゃないんだから。で、ついに出入り禁止になった。これは歌舞伎町に詳しいある人から聞いたの。確かな情報よ。もしあなたが直接聞きたいと言うなら、いつでも案内するわ」
全く言葉を挟むことなく、理沙は黙ってサツキの言葉を聞いていた。頭が真っ白になり、口を開くことすらできなかったのだ。
まさか・・・ありえない・・・お姉ちゃんがそんなことするはずがない。
理沙は否定の言葉を求めてつかさと美鈴に視線を移した。2人はあまりの居たたまれなさに理沙の視線を外した。
その途端、理沙の視界が霞んだ。心臓が大きな手に鷲づかみされたかのように痛み、その痛みはどんどんと耐えがたいほどに高まっていった。
苦しそうに顔を歪ませる理沙に、まるで追い討ちをかけるようにサツキが言った。
「このことは、あなたの婚約者である田島さんも知ってるわ」
純也さんが・・・? なぜ? どうしてこの人が純也さんのことを知ってるの?
喉に得体の知れない何かがつっかえ、スムーズに声が出ない。
理沙はひしゃげたような、しわがれた声でサツキに尋ねた。
「どうして彼が、知ってるんですか?」
「あなたとお姉さんの仲を元に戻したくて、ひとりで麻子さんの家に行ったのよ。その時の成り行きで、彼は麻子さんのあとをつけるはめになった。そして彼女が男を引っ掛けているところを見ちゃったの」
純也さんが、お姉ちゃんが男を引っ掛けているところを、見た?
理沙はすさまじいショックに顔を歪めた。ありえない。絶対にありえない。私の知っているお姉ちゃんはそんなことをする人じゃない。お姉ちゃんのことは私が一番よく知ってる。きっとなにかの間違いだ。この人たちは勘違いをしているんだ。純也さんだってそうだ。見間違いだ。たぶん・・・そうなのだ。そうに、決まってる・・・。
理沙は壊れ出そうとする自分の心を保つため、必死で自分にそう言い聞かせた。
2009年01月20日
5
その夜、つかさと美鈴は、約束通り理沙を『紫頭巾』に連れてきた。
問題が大きくなり過ぎ、自分たちだけでは処理しきれないと考えたのだ。事情は自分たちよりオカマたちの方が詳しく知っているかもしれないし、できたら「あとはママたちに任せるからよろしくお願いしますぅ・・・」くらいの心境になっていた。
理沙は期待に満ちた目でオカマたちを見回し、「ここには姉がしょっちゅう遊びに来てるとお聞きしました。最近ではいつごろ来ましたか?」と尋ねた。その目は「ここに来さえすれば、いろんなことがわかるはず」と言っていた。
ダンボは理沙の澄んだ視線に耐えきれず、ぎこちない笑顔を彼女に向けると、「ちょっと失礼しまぁす」とつかさを店の入り口に引っ張って行った。
「ちょっと! いったいどういうことよ! 野村さんはここに3回も来たことないのよ! 何でいつの間にしょっちゅう遊びに来てることになってんのよ!」
「だってしょうがないじゃない。野村さんがよく行くところに連れていけって言うんだもん。そんなの私、隣しか知らないの! この状況で精神科のクリニックになんて、妹さん連れてけるわけないじゃない」
「そりゃそうかもしれないけど、何もうちにくることないじゃないの」
「だって噂の内容知りたいって言うんだもん。そんなの困るじゃない、私たち。妹さんに言えるわけないもん」
「あたしたちだって困るわよ! ママにこれ以上あの件には首突っ込むなって言われてるのよ」
「こうなれば一蓮托生じゃない。一緒に困ろうよ。第一私たちがクリニックに行き辛くなったのだって、元はといえばリリィちゃんが理沙さんの婚約者、えっと田島さんだっけ? 彼をここに連れてきたことが原因じゃない。従業員の責任は、店全体で取ってもらわなくちゃ!」
「そうはいうけどねぇ、あれはあたしたちだって被害者なのよ」
つかさはダンボの抗議を当然の如くスルーし、話を続ける。
「変な電話の男って、たぶん新宿支店の本永俊介だと思うのよね。あの人が噂をばらまいた張本人だってことで、今支店で悪者扱いらしいの。野村さんが銀行辞めたのは本永の嫌がらせのせいだとか、野村さんを相当妬んでたらしいとかね。銀行側が噂の真相確かめる前に野村さんが辞めちゃったから、行内では噂は本永が流したガセってことになってるのよね」
「・・・そう」
「理沙さんにはまだ何も言ってないけど」
「どうして? ガセってことになってるなら、隠すことないじゃないの」
つかさはペロッと舌を出し、肩をすくめて言った。
「そうは言ってもぉ、万が一泣かれたら困るじゃない私たち」
「あのね、困るのはあたしたちだって一緒なのよ!」
店の入り口でコソコソと話を続けるダンボとつかさ。いつまでも戻ってこない2人を、理沙はいぶかしげに見つめた。
「ほら理沙さん、ボーッとしないで飲んで飲んで!」
マルコが明るい声をあげて飲み物を勧める。
「あらヤダ! グラス空っぽじゃないの。やぁねぇ、すぐ新しいの作るわね」
つい先ほど、麻子が銀行を辞めたという衝撃の事実で、全てのグラスをオカマたちが飲み干していたのだった。
理沙はマルコにぎこちない笑顔を向けながら、オカマたちの間に流れる微妙な空気を感じて取っていた。
つかさたちは、ここに来さえすればいろいろなことを教えてくれるはずだと言っていた。しかしそれは間違いだったのか・・・。
すっかり考え込んでしまった理沙に身体を向け、サツキはゆっくりと口を開いた。
「理沙さん、この隣のビルに『新宿メンタルクリニック』という精神科の病院があるのを知ってるかしら」
サツキの思わぬ言葉に、『紫頭巾』の空気が一気に張り詰めた。
理沙は戸惑いながら答える。
「・・・いえ、知りません」
「そこのクリニックの先生は、岩田陽平っていう人よ。彼は麻子さんの中学時代の同級生で、今お姉さんとお付き合いをしている人なの」
「ママ・・・そんなこと言っちゃって大丈夫なの?」
リリィが心配そうに囁く。
サツキは大きく息を吐き出すと、リリィに疲れたような笑みを向けた。
「仕方がないわ。こうなったら覚悟を決めましょう」
問題が大きくなり過ぎ、自分たちだけでは処理しきれないと考えたのだ。事情は自分たちよりオカマたちの方が詳しく知っているかもしれないし、できたら「あとはママたちに任せるからよろしくお願いしますぅ・・・」くらいの心境になっていた。
理沙は期待に満ちた目でオカマたちを見回し、「ここには姉がしょっちゅう遊びに来てるとお聞きしました。最近ではいつごろ来ましたか?」と尋ねた。その目は「ここに来さえすれば、いろんなことがわかるはず」と言っていた。
ダンボは理沙の澄んだ視線に耐えきれず、ぎこちない笑顔を彼女に向けると、「ちょっと失礼しまぁす」とつかさを店の入り口に引っ張って行った。
「ちょっと! いったいどういうことよ! 野村さんはここに3回も来たことないのよ! 何でいつの間にしょっちゅう遊びに来てることになってんのよ!」
「だってしょうがないじゃない。野村さんがよく行くところに連れていけって言うんだもん。そんなの私、隣しか知らないの! この状況で精神科のクリニックになんて、妹さん連れてけるわけないじゃない」
「そりゃそうかもしれないけど、何もうちにくることないじゃないの」
「だって噂の内容知りたいって言うんだもん。そんなの困るじゃない、私たち。妹さんに言えるわけないもん」
「あたしたちだって困るわよ! ママにこれ以上あの件には首突っ込むなって言われてるのよ」
「こうなれば一蓮托生じゃない。一緒に困ろうよ。第一私たちがクリニックに行き辛くなったのだって、元はといえばリリィちゃんが理沙さんの婚約者、えっと田島さんだっけ? 彼をここに連れてきたことが原因じゃない。従業員の責任は、店全体で取ってもらわなくちゃ!」
「そうはいうけどねぇ、あれはあたしたちだって被害者なのよ」
つかさはダンボの抗議を当然の如くスルーし、話を続ける。
「変な電話の男って、たぶん新宿支店の本永俊介だと思うのよね。あの人が噂をばらまいた張本人だってことで、今支店で悪者扱いらしいの。野村さんが銀行辞めたのは本永の嫌がらせのせいだとか、野村さんを相当妬んでたらしいとかね。銀行側が噂の真相確かめる前に野村さんが辞めちゃったから、行内では噂は本永が流したガセってことになってるのよね」
「・・・そう」
「理沙さんにはまだ何も言ってないけど」
「どうして? ガセってことになってるなら、隠すことないじゃないの」
つかさはペロッと舌を出し、肩をすくめて言った。
「そうは言ってもぉ、万が一泣かれたら困るじゃない私たち」
「あのね、困るのはあたしたちだって一緒なのよ!」
店の入り口でコソコソと話を続けるダンボとつかさ。いつまでも戻ってこない2人を、理沙はいぶかしげに見つめた。
「ほら理沙さん、ボーッとしないで飲んで飲んで!」
マルコが明るい声をあげて飲み物を勧める。
「あらヤダ! グラス空っぽじゃないの。やぁねぇ、すぐ新しいの作るわね」
つい先ほど、麻子が銀行を辞めたという衝撃の事実で、全てのグラスをオカマたちが飲み干していたのだった。
理沙はマルコにぎこちない笑顔を向けながら、オカマたちの間に流れる微妙な空気を感じて取っていた。
つかさたちは、ここに来さえすればいろいろなことを教えてくれるはずだと言っていた。しかしそれは間違いだったのか・・・。
すっかり考え込んでしまった理沙に身体を向け、サツキはゆっくりと口を開いた。
「理沙さん、この隣のビルに『新宿メンタルクリニック』という精神科の病院があるのを知ってるかしら」
サツキの思わぬ言葉に、『紫頭巾』の空気が一気に張り詰めた。
理沙は戸惑いながら答える。
「・・・いえ、知りません」
「そこのクリニックの先生は、岩田陽平っていう人よ。彼は麻子さんの中学時代の同級生で、今お姉さんとお付き合いをしている人なの」
「ママ・・・そんなこと言っちゃって大丈夫なの?」
リリィが心配そうに囁く。
サツキは大きく息を吐き出すと、リリィに疲れたような笑みを向けた。
「仕方がないわ。こうなったら覚悟を決めましょう」
2009年01月12日
4
三友銀行本店前で、理沙は麻子の携帯に電話をかけた。案の定コール音のあとに留守番電話サービスセンターに繋がった。
ため息を吐いて電話を切り、すぐさまもう一度かける。今度は三友銀行本店人事部人事課への直通電話だ。3回ほどコール音が続いたあと、若々しい女性の声が聞こえた。
「お世話になっております。三友銀行本店人事課の川崎でございます」
三友銀行では、新人の電話研修の時必ず叩き込まれることがある。それはまず、最初に自分の部署と名前を名乗れということだ。
理沙には川崎という名前に聞き覚えがあった。確か随分前に麻子から聞いたことがある。おっちょこちょいだけど可愛らしい新人が入ってきたというのだ。
電話研修で名前を名乗れと言われ、「お世話になっております。三友銀行人事課のつかさでございます!」と張り切って答えたらしい。
「川崎さんにとって名前っていうのは下の名前のことで、苗字じゃなかったみたいなの」と、麻子は可笑しそうにクスクスと笑いながら教えてくれた。その後も麻子の話には度々川崎の名前が混じるようになった。もしかして彼女なら何かを知っているかもしれない。
理沙はゴクリと唾を飲み込みオズオズと尋ねた。
「あの・・・申し訳ありません。川崎つかささんでしょうか?」
戸惑ったような間のあと、つかさが怪訝そうに言った。
「・・・はい。そうですけどどちら様でしょうか」
「野村です。野村麻子の妹の、野村理沙と申します」
電話の向こう側で、息を呑むような音が聞こえた。理沙はそれを聞いた途端、麻子が銀行を辞めたという昨日の電話は事実なのだと分かった。
「お願いです川崎さん、電話を切らないで下さい! あの・・・会っていただけませんか? 姉はいつ銀行を辞めたんでしょうか? 部屋にはしばらく帰ってないみたいなんです。姉が辞めた理由をご存知じゃありませんか? お願いです! 会って下さい。昨日家に変な電話がかかってきて私・・・」
勢い込んで喋りすぎ、理沙は思わず咳き込んだ。咳をしていると涙も一緒に流れてきた。この隙に電話を切られたらいけないと、喉を詰まらせながらも話し続ける。
「お願いです。会っていただけ、ませんか? 今銀行の前、まで来てるんです!」
しばらくの沈黙のあと、つかさは少しだけ声を落として言った。
「あと40分ほどで昼休みに入ります。このビルの正面を背にして、左に少し行くと『Well Cafe』という喫茶店がありますから、そこで待っててもらえませんか?」
「ありがとうございます! お待ちしてます」
約50分後、つかさは美鈴を伴って理沙の待つ『Well Cafe』のドアを開けた。
昼時ということもあって、『Well Cafe』は大層混み合っていた。
お互いの顔がわからない状況で、おまけに携帯電話の番号も交換し忘れていた。困ったなぁとつかさがキョロキョロと辺りを見回していると、美鈴が奥まった窓際の席を指差した。
「いた。たぶん彼女だと思う」
とても可愛らしい雰囲気の女性が、窓から外を見つめていた。
麻子とは人に与える印象がまるで違うけれど、横顔には面影がある。細く小柄な身体を包むバーバリーチェックのワンピースがよく似合う。清楚で可憐なお嬢さんという雰囲気だった。
「お待たせしました。野村さんですよね。川崎です。こちらは先輩の浅倉さんです」
「すいません、一緒に来ちゃって。お姉さんにはとてもお世話になりました。浅倉美鈴です」
「こちらこそ突然尋ねて行って申し訳ありませんでした。野村理沙です、はじめまして」
つかさと美鈴が一通り注文を済ませると、理沙は改まって2人に尋ねた。
「あの、姉が銀行を辞めたっていうのは本当なんでしょうか」
つかさは美鈴と気まずそうに視線を合わせたあと、口を開いた。
「・・・2週間くらい前です。全然知らなかったんですか?」
「・・・はい・・・」
「先ほどお電話でおっしゃっていた、変な電話ってなんなんですか?」
理沙は、つかさと美鈴に昨日の電話の内容を話して聞かせた。
「噂っていったいなんなのかおわかりですか? それが本当に姉が銀行を辞めた理由なんでしょうか? それから、電話の男は誰なんでしょう。電話の内容を考えると、銀行関係者だと思うんです。でも口の利き方に気を付けろとか、男をないがしろにすると痛い目に遭うとか、ただの仕事仲間とは思えません。わかることはなんでもいいですから教えていただけませんか? それと、姉が行きそうな場所ってどこかわかりませんか? ・・・私、どうしても姉に会いたいんです。会わなきゃいけないんです。教えてください! お願いします!」
理沙はテーブルに額が付きそうなくらいに頭を下げた。
突然降って湧いた大量の質問に、つかさたちは途方に暮れた。どこまで答えていいのか、それとも何も言わない方がいいのか・・・。
ほんの少しの間のあと、美鈴がおもむろに口を開いた。
「あの・・・理沙さん。申し訳ないんですけど、ここでは詳しくお話しする時間もないし、銀行の人が来るかもしれません。なのでもしお時間がありましたら、今日の夜もう一度お会いできませんか? 野村さんがよく行ってた場所にお連れします。『紫頭巾』っていうオカマバーなんですけど・・・」
ため息を吐いて電話を切り、すぐさまもう一度かける。今度は三友銀行本店人事部人事課への直通電話だ。3回ほどコール音が続いたあと、若々しい女性の声が聞こえた。
「お世話になっております。三友銀行本店人事課の川崎でございます」
三友銀行では、新人の電話研修の時必ず叩き込まれることがある。それはまず、最初に自分の部署と名前を名乗れということだ。
理沙には川崎という名前に聞き覚えがあった。確か随分前に麻子から聞いたことがある。おっちょこちょいだけど可愛らしい新人が入ってきたというのだ。
電話研修で名前を名乗れと言われ、「お世話になっております。三友銀行人事課のつかさでございます!」と張り切って答えたらしい。
「川崎さんにとって名前っていうのは下の名前のことで、苗字じゃなかったみたいなの」と、麻子は可笑しそうにクスクスと笑いながら教えてくれた。その後も麻子の話には度々川崎の名前が混じるようになった。もしかして彼女なら何かを知っているかもしれない。
理沙はゴクリと唾を飲み込みオズオズと尋ねた。
「あの・・・申し訳ありません。川崎つかささんでしょうか?」
戸惑ったような間のあと、つかさが怪訝そうに言った。
「・・・はい。そうですけどどちら様でしょうか」
「野村です。野村麻子の妹の、野村理沙と申します」
電話の向こう側で、息を呑むような音が聞こえた。理沙はそれを聞いた途端、麻子が銀行を辞めたという昨日の電話は事実なのだと分かった。
「お願いです川崎さん、電話を切らないで下さい! あの・・・会っていただけませんか? 姉はいつ銀行を辞めたんでしょうか? 部屋にはしばらく帰ってないみたいなんです。姉が辞めた理由をご存知じゃありませんか? お願いです! 会って下さい。昨日家に変な電話がかかってきて私・・・」
勢い込んで喋りすぎ、理沙は思わず咳き込んだ。咳をしていると涙も一緒に流れてきた。この隙に電話を切られたらいけないと、喉を詰まらせながらも話し続ける。
「お願いです。会っていただけ、ませんか? 今銀行の前、まで来てるんです!」
しばらくの沈黙のあと、つかさは少しだけ声を落として言った。
「あと40分ほどで昼休みに入ります。このビルの正面を背にして、左に少し行くと『Well Cafe』という喫茶店がありますから、そこで待っててもらえませんか?」
「ありがとうございます! お待ちしてます」
約50分後、つかさは美鈴を伴って理沙の待つ『Well Cafe』のドアを開けた。
昼時ということもあって、『Well Cafe』は大層混み合っていた。
お互いの顔がわからない状況で、おまけに携帯電話の番号も交換し忘れていた。困ったなぁとつかさがキョロキョロと辺りを見回していると、美鈴が奥まった窓際の席を指差した。
「いた。たぶん彼女だと思う」
とても可愛らしい雰囲気の女性が、窓から外を見つめていた。
麻子とは人に与える印象がまるで違うけれど、横顔には面影がある。細く小柄な身体を包むバーバリーチェックのワンピースがよく似合う。清楚で可憐なお嬢さんという雰囲気だった。
「お待たせしました。野村さんですよね。川崎です。こちらは先輩の浅倉さんです」
「すいません、一緒に来ちゃって。お姉さんにはとてもお世話になりました。浅倉美鈴です」
「こちらこそ突然尋ねて行って申し訳ありませんでした。野村理沙です、はじめまして」
つかさと美鈴が一通り注文を済ませると、理沙は改まって2人に尋ねた。
「あの、姉が銀行を辞めたっていうのは本当なんでしょうか」
つかさは美鈴と気まずそうに視線を合わせたあと、口を開いた。
「・・・2週間くらい前です。全然知らなかったんですか?」
「・・・はい・・・」
「先ほどお電話でおっしゃっていた、変な電話ってなんなんですか?」
理沙は、つかさと美鈴に昨日の電話の内容を話して聞かせた。
「噂っていったいなんなのかおわかりですか? それが本当に姉が銀行を辞めた理由なんでしょうか? それから、電話の男は誰なんでしょう。電話の内容を考えると、銀行関係者だと思うんです。でも口の利き方に気を付けろとか、男をないがしろにすると痛い目に遭うとか、ただの仕事仲間とは思えません。わかることはなんでもいいですから教えていただけませんか? それと、姉が行きそうな場所ってどこかわかりませんか? ・・・私、どうしても姉に会いたいんです。会わなきゃいけないんです。教えてください! お願いします!」
理沙はテーブルに額が付きそうなくらいに頭を下げた。
突然降って湧いた大量の質問に、つかさたちは途方に暮れた。どこまで答えていいのか、それとも何も言わない方がいいのか・・・。
ほんの少しの間のあと、美鈴がおもむろに口を開いた。
「あの・・・理沙さん。申し訳ないんですけど、ここでは詳しくお話しする時間もないし、銀行の人が来るかもしれません。なのでもしお時間がありましたら、今日の夜もう一度お会いできませんか? 野村さんがよく行ってた場所にお連れします。『紫頭巾』っていうオカマバーなんですけど・・・」
2009年01月04日
3
理沙がつかさと美鈴に連れられ『紫頭巾』を訪れた前日・・・。
トゥルルルル、トゥルルルル、トゥルルルル・・・。
理沙はリビングに急ぎ、受話器を取り上げた。
「もしもし、野村さんのお宅ですか?」
低い男の声だった。理沙は目が不自由だったせいもありとても耳がいい。一度聞いたことのある声を忘れることはほとんどなかったが、この声を聞いたのは初めてだと思った。なんとなく陰湿な響きをしている。セールスマンじゃないな・・・。
「そうですが、どちら様でしょうか?」
「・・・野村麻子が新宿でやりまくってるって噂になってるぞ。そのせいで銀行も辞めたよ。状況的には辞めざるを得なかったってことだろうけどな。噂っていうのはあっという間に広がるもんだ。・・・いいか、これからは口の利き方に気を付けろって言っておけ。男をないがしろにすると痛い目に遭うってな」
男はそれだけ言うと、ブチっと電話を切った。
理沙は驚きのあまりひと言も口をはさむことができなかった。
お姉ちゃんが銀行を辞めた? 男をないがしろにする? 意味がわからない。新宿でやりまくってる噂ってなに? やりまくるってなにを? 男が言った「噂」という言葉が気になる。それが原因でお姉ちゃんが銀行を辞めた・・・。いったい何が起こったというのか。
とにかく一刻も早くお姉ちゃんに会わなければならない。もうすぐ夕方の6時を回る。もし銀行を辞めているのだとしたら家にいるかもしれない。
理沙は無我夢中で支度をして家を飛び出し、タクシーを止めた。
理沙の心臓はバクバクと悲鳴を上げ、言い知れぬ不安が胸一杯に広がっていた。
高田馬場近辺の明治通り沿いでタクシーを降りる。目の前に小奇麗な7階建てのマンションが建っていた。前に純也とドライブをした時、麻子の部屋はこのマンションの5階の左から3番目だと教えられた。見上げると、窓からの明かりはない。理沙はほんの少しだけホッとした。忙しい麻子は、平日の7時前に家にいることなど滅多にない。つまり銀行を辞めたというのはデマだったのだ。
高鳴る心臓を抑えながら、理沙は必死でそう思い込もうとしていた。しかし陰湿でねっとりと響く電話の声は、理沙に真実の響きをもたらしていた。
ずっと耳だけを頼りに生きてきた理沙の耳は、人の声の調子やニュアンスなどをとても敏感に感じ取れるようになっている。理沙の瞳からは、いつの間にか大粒の涙がポロポロと流れ出していた。
理沙は玄関ホールのオートロックに503と打ち込んだ。・・・応答はない。やはりいないのだ。数回押してみたが出る気配はない。
ふと玄関ホールの端に目を留めると、そこにはマンションのポストボックスがあった。近寄ってみると、503と書かれたポストからは、大量の新聞が入りきらずに飛び出していた。どう見ても1週間以上は家に帰ってないようだ。
お姉ちゃんはどこへ行ってしまったのだろうか。もしかしたら出張? それとも会社に泊まりこみ? ありえないと思いながらも考えてみる。
どこへ行けば麻子に会えるのだろう。考えてみればもう2年近く会ってはいない。ここ1年あまり、声さえ聞いていないように思う。唯一麻子の声を聞けるのは、留守番電話の応答メッセージだけ。いつからこんな関係になってしまったのか。自分の何が気に入らないのか。・・・本当に、あの電話の男が言ったことは真実なのか。噂とはいったいなんなのか。わからない。何もかもわからなくなってしまった。
目が不自由だった時、理沙は自分の耳を信じていた。目が見えるようになった今、その耳から入ってくる音さえも、全てが自分を裏切っていくように感じる。
理沙の全身は、何もかもを見失ってしまったような不安に震え、ただただその場にしゃがみ込むことしかできなかった。
翌朝定期検診を受けたその足で、理沙はたったひとり三友銀行本店に向かった。
トゥルルルル、トゥルルルル、トゥルルルル・・・。
理沙はリビングに急ぎ、受話器を取り上げた。
「もしもし、野村さんのお宅ですか?」
低い男の声だった。理沙は目が不自由だったせいもありとても耳がいい。一度聞いたことのある声を忘れることはほとんどなかったが、この声を聞いたのは初めてだと思った。なんとなく陰湿な響きをしている。セールスマンじゃないな・・・。
「そうですが、どちら様でしょうか?」
「・・・野村麻子が新宿でやりまくってるって噂になってるぞ。そのせいで銀行も辞めたよ。状況的には辞めざるを得なかったってことだろうけどな。噂っていうのはあっという間に広がるもんだ。・・・いいか、これからは口の利き方に気を付けろって言っておけ。男をないがしろにすると痛い目に遭うってな」
男はそれだけ言うと、ブチっと電話を切った。
理沙は驚きのあまりひと言も口をはさむことができなかった。
お姉ちゃんが銀行を辞めた? 男をないがしろにする? 意味がわからない。新宿でやりまくってる噂ってなに? やりまくるってなにを? 男が言った「噂」という言葉が気になる。それが原因でお姉ちゃんが銀行を辞めた・・・。いったい何が起こったというのか。
とにかく一刻も早くお姉ちゃんに会わなければならない。もうすぐ夕方の6時を回る。もし銀行を辞めているのだとしたら家にいるかもしれない。
理沙は無我夢中で支度をして家を飛び出し、タクシーを止めた。
理沙の心臓はバクバクと悲鳴を上げ、言い知れぬ不安が胸一杯に広がっていた。
高田馬場近辺の明治通り沿いでタクシーを降りる。目の前に小奇麗な7階建てのマンションが建っていた。前に純也とドライブをした時、麻子の部屋はこのマンションの5階の左から3番目だと教えられた。見上げると、窓からの明かりはない。理沙はほんの少しだけホッとした。忙しい麻子は、平日の7時前に家にいることなど滅多にない。つまり銀行を辞めたというのはデマだったのだ。
高鳴る心臓を抑えながら、理沙は必死でそう思い込もうとしていた。しかし陰湿でねっとりと響く電話の声は、理沙に真実の響きをもたらしていた。
ずっと耳だけを頼りに生きてきた理沙の耳は、人の声の調子やニュアンスなどをとても敏感に感じ取れるようになっている。理沙の瞳からは、いつの間にか大粒の涙がポロポロと流れ出していた。
理沙は玄関ホールのオートロックに503と打ち込んだ。・・・応答はない。やはりいないのだ。数回押してみたが出る気配はない。
ふと玄関ホールの端に目を留めると、そこにはマンションのポストボックスがあった。近寄ってみると、503と書かれたポストからは、大量の新聞が入りきらずに飛び出していた。どう見ても1週間以上は家に帰ってないようだ。
お姉ちゃんはどこへ行ってしまったのだろうか。もしかしたら出張? それとも会社に泊まりこみ? ありえないと思いながらも考えてみる。
どこへ行けば麻子に会えるのだろう。考えてみればもう2年近く会ってはいない。ここ1年あまり、声さえ聞いていないように思う。唯一麻子の声を聞けるのは、留守番電話の応答メッセージだけ。いつからこんな関係になってしまったのか。自分の何が気に入らないのか。・・・本当に、あの電話の男が言ったことは真実なのか。噂とはいったいなんなのか。わからない。何もかもわからなくなってしまった。
目が不自由だった時、理沙は自分の耳を信じていた。目が見えるようになった今、その耳から入ってくる音さえも、全てが自分を裏切っていくように感じる。
理沙の全身は、何もかもを見失ってしまったような不安に震え、ただただその場にしゃがみ込むことしかできなかった。
翌朝定期検診を受けたその足で、理沙はたったひとり三友銀行本店に向かった。
2008年12月28日
2
「こんばんはぁ・・・」
「つかさちゃんじゃないの! ご無沙汰ねぇ。元気だった?」
ダンボが嬉しそうに声をかけた。
つかさと美鈴は、純也を最悪のタイミングで陽平に出会わせてしまってからというもの、なんとなく責任を感じて店から足が遠のいていた。
「うん・・・私は元気。えっと、まだお客さん誰も来てないよね」
つかさは店の入口に立ったまま、客の入りを確かめるように店内を見回した。
まだ開店間もない午後8時ちょっとすぎ。『紫頭巾』が賑わいをみせるのはいつももう少しあとになってからだ。
「そんなところで突っ立ってないで入ったら?」
ダンボがそう言うと、つかさはヘヘッと笑いながら入ってきた。
つかさのあとから、美鈴が見慣れない女の子をひとり連れて入ってくる。それを見たサツキは、満面の笑みで3人を迎えた。
「あらぁ、美鈴ちゃん! 新しいお客さんを連れてきてくれたの? 会社の後輩かしら? さぁさぁここに座って。とりあえずビールでいい? それとも焼酎?」
美鈴が連れてきた女の子は、このような店に入るのは初めてのようで、サツキたちのいつもの濃〜いメイクや紫に統一された服装と店内を、落ち着かなげに見回している。23、4歳と思われる女の子は、可憐で初々しい空気を醸し出し、『紫頭巾』には思いっきり場違いだった。
サツキは女の子と目が合った瞬間、誰かに似ていると思った。他のオカマたちも同様の印象を持ったらしい。つかさたちが席に着いた途端、オカマ全員で3人を取り囲み、ジロジロと遠慮などどこにも存在しないといった視線で彼女を眺めまくった。
マルコは以前美鈴がキープした焼酎のボトルから、3人にウーロン茶割りを作りながら言った。
「ねぇねぇ、彼女芸能人の誰かに似てるって言われない? なんか見たことある気がするのよねぇ」
「あたしもそう思ったの! やっぱりマルコちゃんも思ってたのね」
「リリィちゃんも?!」
「誰かしら? ねぇダンボちゃん、誰だと思う?」
「う〜ん・・・」
その会話を聞きながら、つかさと美鈴はこそこそと『あんた言いなさいよ、え〜言ってくださいよぉ』とのジェスチャーを繰り広げていた。
それに気づいたダンボが「何? なんかあったの?」と尋ねると、美鈴は仕方なく口を開いた。
「えっと、彼女は会社の後輩とかじゃないの。あの・・・物凄く言い難いんだけど・・・野村さんの妹さん・・・なの」
「野村理沙です。はじめまして」
驚いたのはオカマたちだ。
なんで野村さんの妹がここに来るの? 自分たちはもうあの件には首を突っ込まないようにしようと決めたのよ。困るわ! 困るわよぉ! と蜂の巣を突いたような大騒ぎを見せ、動揺しまくった挙句に3人のために作ったウーロン茶割りをつかみ上げ、おもむろにゴクゴクと呑み干した。
ウーロン茶割りのおかげで少しだけ冷静さを取り戻したサツキは、理沙の様子を伺いながらオズオズと尋ねた。
「あの・・・美鈴ちゃん? いったいどういうことなのかしら?」
「それは・・・」
理沙が美鈴を庇うように言った。
「私が突然銀行に押しかけたのがいけないんです。姉が銀行を辞めたって聞いて私・・・」
「え〜!!! 銀行を辞めたぁ〜!!!」
驚きの末に出たオカマたちのびっくり声は、表を歩いていた通行人7人の耳を難聴にさせた。
「つかさちゃんじゃないの! ご無沙汰ねぇ。元気だった?」
ダンボが嬉しそうに声をかけた。
つかさと美鈴は、純也を最悪のタイミングで陽平に出会わせてしまってからというもの、なんとなく責任を感じて店から足が遠のいていた。
「うん・・・私は元気。えっと、まだお客さん誰も来てないよね」
つかさは店の入口に立ったまま、客の入りを確かめるように店内を見回した。
まだ開店間もない午後8時ちょっとすぎ。『紫頭巾』が賑わいをみせるのはいつももう少しあとになってからだ。
「そんなところで突っ立ってないで入ったら?」
ダンボがそう言うと、つかさはヘヘッと笑いながら入ってきた。
つかさのあとから、美鈴が見慣れない女の子をひとり連れて入ってくる。それを見たサツキは、満面の笑みで3人を迎えた。
「あらぁ、美鈴ちゃん! 新しいお客さんを連れてきてくれたの? 会社の後輩かしら? さぁさぁここに座って。とりあえずビールでいい? それとも焼酎?」
美鈴が連れてきた女の子は、このような店に入るのは初めてのようで、サツキたちのいつもの濃〜いメイクや紫に統一された服装と店内を、落ち着かなげに見回している。23、4歳と思われる女の子は、可憐で初々しい空気を醸し出し、『紫頭巾』には思いっきり場違いだった。
サツキは女の子と目が合った瞬間、誰かに似ていると思った。他のオカマたちも同様の印象を持ったらしい。つかさたちが席に着いた途端、オカマ全員で3人を取り囲み、ジロジロと遠慮などどこにも存在しないといった視線で彼女を眺めまくった。
マルコは以前美鈴がキープした焼酎のボトルから、3人にウーロン茶割りを作りながら言った。
「ねぇねぇ、彼女芸能人の誰かに似てるって言われない? なんか見たことある気がするのよねぇ」
「あたしもそう思ったの! やっぱりマルコちゃんも思ってたのね」
「リリィちゃんも?!」
「誰かしら? ねぇダンボちゃん、誰だと思う?」
「う〜ん・・・」
その会話を聞きながら、つかさと美鈴はこそこそと『あんた言いなさいよ、え〜言ってくださいよぉ』とのジェスチャーを繰り広げていた。
それに気づいたダンボが「何? なんかあったの?」と尋ねると、美鈴は仕方なく口を開いた。
「えっと、彼女は会社の後輩とかじゃないの。あの・・・物凄く言い難いんだけど・・・野村さんの妹さん・・・なの」
「野村理沙です。はじめまして」
驚いたのはオカマたちだ。
なんで野村さんの妹がここに来るの? 自分たちはもうあの件には首を突っ込まないようにしようと決めたのよ。困るわ! 困るわよぉ! と蜂の巣を突いたような大騒ぎを見せ、動揺しまくった挙句に3人のために作ったウーロン茶割りをつかみ上げ、おもむろにゴクゴクと呑み干した。
ウーロン茶割りのおかげで少しだけ冷静さを取り戻したサツキは、理沙の様子を伺いながらオズオズと尋ねた。
「あの・・・美鈴ちゃん? いったいどういうことなのかしら?」
「それは・・・」
理沙が美鈴を庇うように言った。
「私が突然銀行に押しかけたのがいけないんです。姉が銀行を辞めたって聞いて私・・・」
「え〜!!! 銀行を辞めたぁ〜!!!」
驚きの末に出たオカマたちのびっくり声は、表を歩いていた通行人7人の耳を難聴にさせた。
2008年12月21日
第4章 1
新宿歌舞伎町の月曜深夜3時過ぎ。
いかにも夜の職業についてます的な女の子数人が、今夜もリリィの占い屋に列を作っている。
「先生! ちゃんと聞いてます?」
占い中だというのに、リリィはボーッと考えごとをしていた。
目の下には濃いクマがあり、長期間の寝不足を物語っている。
純也と会い、信じられないような話を聞いてからもう1ヶ月近くが経っていた。陽平はこちらで対処すると言ったきり何も言ってはこない。いったい今はどうなっているのかとリリィは気になって仕方がなかった。つかさと美鈴もあれから一度も店に顔を見せない。そのうえママから、当分『新宿メンタルクリニック』へ行ってはいけないし、この問題に首を突っ込むことも禁止と言われてしまった。もうクリニックの玄関に鍵はかかってないし、行けばなにかしらの情報が得られるはずなのにそれもできない。リリィの目の下のクマは、我慢がついに限界に達した証拠で、ここ一週間ばかり、寝る時間を削っていろいろ調べていたのだ。
純也の話を聞き終わった時、陽平は確かにこう言った。
「こちらで対処の方法を考えます」
あの様子を見た限りでは、麻子がなんらかの病気にかかっていることは間違いないと思う。そしてそれは、当初麻子が言っていたただの不眠症ではないはずだ。ではいったい何の病気なのだろう。パソコンでの検索や書籍等を駆使し、リリィはできうる限りの方法で調べまくった。
リリィはあの日の自分の行動を後悔していた。後先考えず純也をみんなに紹介し、話を聞かせた。もちろんあの時はそうすべきだと思ったからだ。
あのままでは先生がかわいそうだ。麻子さんは先生と付き合っていながら、繰り返し他の男と寝ている。いくらなんでもあんまりではないか。
もちろんその行動に辻褄の合わなさを感じてはいても、麻子の行為はひどすぎると思った。先生を裏切るものだと怒りが込み上げていた。だからこそみんなに話を聞かせ、先生に真実を見てもらい、目を覚ましてほしかったのだ。先生の選んだ人はこんなひどいことをしてますよ。淫乱で最低の尻軽女ですよ。
でもあの時ママはこう言った。
「行動には全て原因があって、それがわからないうちは何も言えないわ。もしかして本当にかわいそうなのは、先生ではなく野村さんかもしれないのよ」
そんなママの言葉の意味を理解する前に先生が店にやってきてしまった。自分が純也を連れて行ったことで、最悪の形で全てを知らせる結果となった。
自分はなんてバカだったんだろう。なんて考え足らずだったんだろうかとリリィは思っていた。
だからこそ知りたいと思った。知らなかったんだから仕方がない。そう言ってしまうのは簡単だ。だが無知というのは、悪気がないだけに一番罪深いのではないか。わかったからといって何もできないかもしれない。けれどももしかしたら、自分にも何か力になれることがあるかもしれない。
そして昨日の明け方、ついにリリィは、麻子の病気は『セックス依存症』なのではないかとの結論に達した。
リリィはそんな病気があることなどこれっぽっちも知らなかったが、純也の話や美鈴の話、そして自分が寝食を忘れて調べつくした結果、全てはそれを示していたのだ。
里山の話では、つい最近麻子は『新宿メトロプラザホテル』から出入り禁止となったらしい。
いったい麻子はなぜそんな病気になってしまったのだろう。その原因はどこにあるのか?
わからない。自分にはまるでわからない。
でも、自分は何もわかっていないのだと知ることは、決して悪いことじゃないのだとリリィは思っていた。
「先生ったら! 早く占ってください」
「えっ? ああ・・・」
リリィはボーッと水晶玉を見つめていたが、全く占いに集中できない自分を感じた。集中できないのだから、いくら水晶玉を凝視しても何も見えてはこない。
ふと顔を上げると、諦めたような顔で帰っていく数人の女の子が見えた。
「リリィ先生最近おかしいよ。どうかしちゃったみたい」
「失恋かなぁ?」
「恋愛専門の占い師が?」
「ほら、占い師って自分のことは占えないって言うじゃん」
「並んでても無駄だよぉ」
列の前の方にいた女の子が、後ろの子たちに声をかけた。
自分のことは占えないか・・・。自分を知るって一番難しかったんだわ。『自分のことは自分が一番よくわかってる』と言う人は結構いるけど、それは違うわね。だって本当にそうならこんなに占いが流行るわけないもん。あ〜あ・・・誰か私がこれからどうすればいいのか占ってくれないかしら。
リリィは本日108回目の大きなため息を漏らすと、肩をがっくりと落として落ち込んだ。
いかにも夜の職業についてます的な女の子数人が、今夜もリリィの占い屋に列を作っている。
「先生! ちゃんと聞いてます?」
占い中だというのに、リリィはボーッと考えごとをしていた。
目の下には濃いクマがあり、長期間の寝不足を物語っている。
純也と会い、信じられないような話を聞いてからもう1ヶ月近くが経っていた。陽平はこちらで対処すると言ったきり何も言ってはこない。いったい今はどうなっているのかとリリィは気になって仕方がなかった。つかさと美鈴もあれから一度も店に顔を見せない。そのうえママから、当分『新宿メンタルクリニック』へ行ってはいけないし、この問題に首を突っ込むことも禁止と言われてしまった。もうクリニックの玄関に鍵はかかってないし、行けばなにかしらの情報が得られるはずなのにそれもできない。リリィの目の下のクマは、我慢がついに限界に達した証拠で、ここ一週間ばかり、寝る時間を削っていろいろ調べていたのだ。
純也の話を聞き終わった時、陽平は確かにこう言った。
「こちらで対処の方法を考えます」
あの様子を見た限りでは、麻子がなんらかの病気にかかっていることは間違いないと思う。そしてそれは、当初麻子が言っていたただの不眠症ではないはずだ。ではいったい何の病気なのだろう。パソコンでの検索や書籍等を駆使し、リリィはできうる限りの方法で調べまくった。
リリィはあの日の自分の行動を後悔していた。後先考えず純也をみんなに紹介し、話を聞かせた。もちろんあの時はそうすべきだと思ったからだ。
あのままでは先生がかわいそうだ。麻子さんは先生と付き合っていながら、繰り返し他の男と寝ている。いくらなんでもあんまりではないか。
もちろんその行動に辻褄の合わなさを感じてはいても、麻子の行為はひどすぎると思った。先生を裏切るものだと怒りが込み上げていた。だからこそみんなに話を聞かせ、先生に真実を見てもらい、目を覚ましてほしかったのだ。先生の選んだ人はこんなひどいことをしてますよ。淫乱で最低の尻軽女ですよ。
でもあの時ママはこう言った。
「行動には全て原因があって、それがわからないうちは何も言えないわ。もしかして本当にかわいそうなのは、先生ではなく野村さんかもしれないのよ」
そんなママの言葉の意味を理解する前に先生が店にやってきてしまった。自分が純也を連れて行ったことで、最悪の形で全てを知らせる結果となった。
自分はなんてバカだったんだろう。なんて考え足らずだったんだろうかとリリィは思っていた。
だからこそ知りたいと思った。知らなかったんだから仕方がない。そう言ってしまうのは簡単だ。だが無知というのは、悪気がないだけに一番罪深いのではないか。わかったからといって何もできないかもしれない。けれどももしかしたら、自分にも何か力になれることがあるかもしれない。
そして昨日の明け方、ついにリリィは、麻子の病気は『セックス依存症』なのではないかとの結論に達した。
リリィはそんな病気があることなどこれっぽっちも知らなかったが、純也の話や美鈴の話、そして自分が寝食を忘れて調べつくした結果、全てはそれを示していたのだ。
里山の話では、つい最近麻子は『新宿メトロプラザホテル』から出入り禁止となったらしい。
いったい麻子はなぜそんな病気になってしまったのだろう。その原因はどこにあるのか?
わからない。自分にはまるでわからない。
でも、自分は何もわかっていないのだと知ることは、決して悪いことじゃないのだとリリィは思っていた。
「先生ったら! 早く占ってください」
「えっ? ああ・・・」
リリィはボーッと水晶玉を見つめていたが、全く占いに集中できない自分を感じた。集中できないのだから、いくら水晶玉を凝視しても何も見えてはこない。
ふと顔を上げると、諦めたような顔で帰っていく数人の女の子が見えた。
「リリィ先生最近おかしいよ。どうかしちゃったみたい」
「失恋かなぁ?」
「恋愛専門の占い師が?」
「ほら、占い師って自分のことは占えないって言うじゃん」
「並んでても無駄だよぉ」
列の前の方にいた女の子が、後ろの子たちに声をかけた。
自分のことは占えないか・・・。自分を知るって一番難しかったんだわ。『自分のことは自分が一番よくわかってる』と言う人は結構いるけど、それは違うわね。だって本当にそうならこんなに占いが流行るわけないもん。あ〜あ・・・誰か私がこれからどうすればいいのか占ってくれないかしら。
リリィは本日108回目の大きなため息を漏らすと、肩をがっくりと落として落ち込んだ。