2009年05月23日

エピローグ

 麻子はひとり、窓際のパソコンデスクに向かいメールを打っていた。
 窓の外には古代遺跡の街ローマが広がっている。遺跡には美しくライトアップが施され、見るものを幻想の世界へといざなっていく。
 麻子が夫の海外転勤でこの街に来て、もう2ヶ月が経とうとしていた。

「岩田君、お元気ですか? 結婚式ではいろいろとありがとう。あのあとすぐにローマに来てしまい、ちゃんとお礼を言う時間も取れなくて本当にごめんなさい。私はとても元気です。病院にも通っています。慣れない土地で、最初はどうなることかと思ったけど、イタリアの人はとても親切で、毎日楽しく過ごしています。

岩田君、何もかも、本当にありがとう。あなたがいてくれなかったら今の私はいません。彼と再会し、どんなに惹かれあったとしても、岩田君がいなかったら私は彼を受け入れることができなかった。そして、どんどんと欠けていく自分を見続けていたと思います。今の私が14番目の月になれたのかどうかはわかりません。たぶんまだでしょう。でも、ないものを探すのではなくあるものを見つける。そのことをあなたが教えてくれたから、これから少しずつでもいいから14番目の月になれるように進んで行こうと思ってます。

最後に・・・あなたがくれたとてもたくさんの愛に答えることができなくてごめんなさい。それなのに、あなたは私を救ってくれた。どんなに感謝してもし足りません。心から、本当に心から、あなたの幸せを祈っています。ありがとう。野村改め、武藤麻子」

 部屋の明かりは点いているのに、パソコンのスイッチを切ると、急に部屋が真っ暗になったような気がした。温かい庇護者との繋がりを切った・・・そんな感じだ。
 時計を見ると夜の8時を回っている。
 あの人は今日も遅いんだろうな。仕事なのだから仕方がない。それは充分わかっている。わかっているんだけど・・・麻子はつらつらと、ここに至るまでのことをぼんやりと思い返した。

 武藤は総合商社に勤める麻子と陽平の同級生だ。
 中学時代、陽平がおとなしく少しイジメられっ子だったのに対し、武藤はクラスのリーダー的存在だった。身体が大きく愛嬌があり、ケンカが強くて運動神経抜群だった。昔は陽平のことをからかったりもしていたが、今は親しく付き合っている。数ヶ月に一回は連絡を取り合い、軽い同窓会のようなものも開いていた。

 そのころ麻子は、陽平の勧めでセックス依存症を扱う病院に通院していた。陽平もセックス依存症についてのさまざまな治療方法を学び、できる限り麻子に付き添った。彼女がセックスの衝動を抑えきれなくなると、陽平は共に散歩をしたり、映画を観たりと気分転換を図った。通院し始めて数ヵ月後、麻子はずいぶんと回復の兆しを見せていた。陽平は、麻子には女友達が必要だと考えた。そして今から8ヶ月ほど前、麻子を連れて同窓会に参加したのだ。そこで麻子は、武藤と運命的な再会を果たすこととなった・・・。
 再会直後から、武藤は麻子に強引なまでのアプローチをした。しかし麻子はセックス依存症だ。とても武藤の気持ちに答えることなどできるわけがない。次第に麻子は、武藤からの連絡を拒絶するようになっていった。
 だが陽平は、武藤に惹かれる麻子の気持ちに気が付いていた。陽平はあの日・・・麻子が心から安心して生きていけるのであれば、隣にいるのが自分でなくてもかまわないと思った。今もその気持ちに嘘はない。嘘はないけれど、思った以上に辛いものなのだなと、陽平は苦笑いを浮かべてそう思った。
 でももう、自分は決して麻子を裏切らない。それだけは絶対にしたくない。そう決意していた陽平は、武藤との再会から数ヵ月後、全てを彼に打ち明けるよう麻子にアドバイスした。武藤ならきっと受け止めることができるだろうと思えた。心の病は全て、親しい人たちの理解と協力がなければ、とても治すことなどできはしない。彼なら麻子を、自分の代わりに包み込み、麻子に本当の笑顔をもたらしてくれるだろう。

 麻子は悩み、苦しみ、結論を出せないままの日々が流れていった。
 自分は武藤とただの友達に戻れるだろうか。こんな苦しみはさっさと終わりにして、仲のいい同級生に戻るのだ・・・。
 無理だ。どう考えてもそれは無理だと思った。彼はもう、自分の心の奥底にまで入り込んでいる。今更ただの友達になどなれるはずがない。
 だったら自分は、武藤を最初からいなかったものとして、記憶から消すことができるだろうか。全てを忘れてなかったことにする。自分は同窓会にもいってないし、武藤にも会わなかった。武藤と再会してからの、信じられないほど輝いていた毎日をなかったことにする・・・。
 それこそ無理だ。そんなことができるくらいならこんなに悩んだりはしない。
 ただの友達に戻ることもできず、消すこともできない・・・。だとしたら、できることはたったひとつしかない。でももし、受け止めてくれなかったら? ・・・怖い・・・とてつもなく怖い・・・。でももう後戻りはできない。そして、したくない・・・。

 ついに麻子は武藤に全てを打ち明けた。義父のこと、母のこと、妹のこと、そしてセックス依存症であること。
 武藤は驚き、相当のショックを受けたが、結局は全てを受け入れ、納得し、自分の気持ちは変わらないと麻子にプロポーズをした。
 それからまもなく武藤のイタリア転勤が決まった。それは結婚式を間近に控えた、ただでさえ忙しい時だった。
 あまりに突然の転勤騒ぎに落ち着いてものを考える暇もなく、めまぐるしい日々の中で、陽平とゆっくり話をする時間もないままに、気がついたらローマに来ていたというのが麻子の正直な実感だった。

 あれから半年。ローマに来てからも2ヶ月という時間が過ぎ、最近やっと、麻子に落ち着いた日々が戻ってきていた。
 武藤は毎日仕事で忙しい。朝早く家を出て、帰ってくるのが夜中近くになることもままあった。
 麻子は友達ひとりいない見知らぬ土地で、たったひとりで過ごす時間が多くなった。
 陽平に送ったメールでは、心配をかけまいと『イタリア人はとても親切で、毎日楽しくすごしています』などと書いた。でもそれは、とても真実とは言えなかったのだ。
 ここローマはろくに英語も通じず、石畳の道はゴチャゴチャとして、あちこちにジプシーと呼ばれる物乞いやスリがいる。常時財布をスラレないかとヒヤヒヤし、麻子にとっては楽しむどころではなかった。
 思いっきり日本語を話したい。せめて英語でもいい。慣れないイタリア語なんかうんざりだ。そんな愚痴を言おうにも、夫は顔を合わせる時間もないほど忙しい。疲れきって寝ている夫を起こしてまで、こんな愚痴を聞かせることは出来ない。

 ・・・どうしてだろう。心は幸せで満たされていたはずなのに、なんだかまた、月が欠けてきたみたいだ。
 ああ・・・イライラする。外にはたくさんの男・・・。いつもいつも、誘うように私を見る。
 ・・・最近また、ね・む・れ・な・い・・・。
posted by 夢野さくら at 14:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 14番目の月
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/29319524

この記事へのトラックバック