2009年04月29日

9

 いつも麻子に愛していると言い続けた陽平。それを、自分とのセックスをしたいがための言葉だと、麻子は固く信じていた。
 愛しているという言葉は、セックスの前戯と同じ。それ以外の意味はなにもない。なくていい。あると知ってはいけない。知ってしまったら最後、今まで以上に空っぽな自分を感じてしまう。男女の愛も、親子の愛も、姉妹の愛も、友達同士の愛も、何もかもみんな作り話。そんなもの、現実には存在しない。してはいけないのだと。
 しかし、目の前の男はセックスの時以外も、何度も何度も麻子を愛していると繰り返していた。・・・もしかしてあの言葉は本物だったのか・・・? ・・・私からの愛を、狂おしいほどほしがっていたのか・・・。幼いあの日の私がそうだったように・・・。

 麻子がぼんやりとそう考えた時、彼女を完全に包み込む、継ぎ目ひとつない透明で強固な球体がきしんだ。
 それは麻子を外界から完全に遮断し、空っぽにし、何もない心だけを見つめさせる球体。
 反対に、愛してほしくても愛されない苦しさや辛さ、自分以外のものとの関わりで傷つく心、それらから麻子を完璧に守っているものでもあった。
 その球体がわずかにきしみ、砕け散ろうとしていた。球体が立てるギシギシという恐ろしい音は、麻子の耳にはっきりと届いていた。
 麻子の脳裏に、かつて見た恐ろしい夢・・・麻子を包む球体が粉々に砕け散り、一緒に自分の身体も散り散りバラバラになった、あの光景が蘇った。
 麻子は思わず叫び出しそうになった。陽平に握られたままの手を外し、耳を塞ごうとする。
 恐怖に引きつった麻子の顔。しかし陽平はその手を離そうとはしなかった。反対にギュッと強く握り締め、下を向きイヤイヤと首を振る麻子に力強く言った。
「麻子! 俺を見て。何も怖くないから。大丈夫だから安心して! 麻子!」
 恐る恐る麻子は陽平を見つめた。陽平は麻子を安心させるように大きくうなずくと、そのままギュッと抱きしめた。ほどいた手で、麻子の背中をポンポンと繰り返し叩く。
「ほら大丈夫。怖くない、怖くない。何も怖いものなんかやってこないよ。もしやってきても、俺が守ってやる。だから大丈夫。安心して。ね、安心して・・・」
 ポンポンと叩いていた手は、今度はゆっくり麻子の背中をさする。恐怖で硬くなっていた麻子の身体から徐々に力が抜けていった時、ふいに陽平は、麻子を抱きしめながら優しくささやくように言った。
「麻子、ないものを探すのはもう止めよう。自分から16番目以降の月になるなんて、ずいぶんバカらしいことだと思わない?」
 陽平は麻子から身体を離し、また手を握って上下のリズムを取った。
「だからね麻子、あるものを探してみようよ。例えば麻子には、今はちょっと痩せちゃったけど、元々とってもキレイな顔と、みんなが憧れるような素晴らしいスタイルを持ってる。俺、前にも言ったけど、中学の時からずっと麻子に憧れてたんだよ。周りの男もみんなそうだった。でもそれは、麻子とセックスがしたいからじゃない。ただ単純にステキだな、いいなって思ってたんだ。麻子は人にそう思わせるものをちゃんと持ってる。それから辞めてしまったけれど、麻子には素晴らしい仕事のキャリアがある。これは誰でも持てるものじゃない。麻子だから得られたものだ。そして妹の理沙ちゃん。彼女は麻子を本当に心配しているし、愛している。いつもいつも気にかけてる。麻子がずっと、目の不自由だった理沙ちゃんにそうしてきたように。これは確かだ。そうだね、理沙ちゃん」
 陽平は、階段上に立ち尽くす理沙を見上げた。それにつられ、麻子もゆっくりと理沙を見る。
 麻子の恐れと不安が交じり合ったような瞳。理沙はその瞳をじっと見つめ、コクンと大きくうなずいた。
 陽平の手は、変わらず麻子の手を握り、独特のリズムで上下に動かし続けている。
「麻子は何もない。空っぽだって言ったけど、これでもう3つも素晴らしいものがあるってわかった。麻子、この世の中に、完全に満ち足りてる人なんてひとりもいないよ。みんな何かが足りないって思いながら生きてる。麻子はずっと、閉じきった自分の心の中だけを見て、空っぽだ、何もないって思ってた。でも、ちょっと見方を変えるだけで、今まで見えなかったものが見えてくる。足りないものを探し続けるのもひとつの生き方かもしれないけど、あるものを見つけて、それを育てていくやり方もある」
 陽平は動かし続けた手を止めた。麻子の膝の上に、握ったままの2人の手を置く。陽平は、改めて麻子の手をギュッと握った。その手は大きく、力強く、なによりも暖かかった。
「麻子、14番目の月になろうよ。これから欠けていくより、これからどんどん満ちていく方がずっといいと思わない? 大丈夫。麻子がひとりで歩き出せるまで、もう平気だって言えるようになるまで、俺、ずっとついてるから」

 14番目の月・・・。これから満ちていく14番目の月。なれるんだろうか、私が。そんなふうに生きていけるんだろうか。わからない。今の私には何もわからない。でも、目の前で、こんなふうに笑ってくれる人がいる。こんなにも大きくて、暖かい手を持ってる人がいる。その人が大丈夫だって言ってくれるなら、もしかしたら大丈夫なのかもしれない。空っぽだった心にも、何かが少しずつ満ちてくるのかもしれない。そしていつか、私も満月になれるのかもしれない・・・。

 麻子の耳に、透明の球体が割れる『パン!』という音が、確かに聞こえた。
posted by 夢野さくら at 14:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 14番目の月
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