陽平は、自分がこの世で一番大切な人を、この世で一番残酷な方法で傷つけたのだと気付いた。
精神科医でありながら、麻子が自分から離れていくという恐怖で、彼女の病状が進むのを見て見ぬ振りし続けたのだ。これじゃあ麻子の母親と何も変わらないではないか・・・。
麻子は義父に身体を強要され、母に恨まれ、理沙に目が治るという形で居場所を奪われ、同僚に裏切られ、愚かしさに狂った陽平に傷つけられた。
麻子は彼女の取り巻く世界全部から傷つけられ続け、裏切られ続けたのだ。
だから・・・だからこそ、今度こそ麻子を裏切りたくないと陽平は強く思った。
麻子が心から笑う顔が見たい。空っぽな心を満たしてやりたい。麻子が心の底から安心して生きていけるのであれば、彼女の隣にいるのが自分じゃなくてもいい。
自分じゃ・・・なくても・・・。
陽平は、ともすると溢れそうになる涙を必死にこらえ、ハァと息を吐き出した。凍りついていた足で、一歩一歩階段を降りていく。
麻子は床に座り込んだまま立とうとしなかった。ゆっくりゆっくり近づいてくる陽平をジッと眺め、にらみつけていた。
陽平は麻子の前に来ると、麻子の瞳を正面から見つめ、ぎこちなさが残る顔に笑顔を浮かべて、彼女の目の前に胡坐をかいた。
陽平が何をしようとしているのかさっぱりわからず、陽平をにらみつけていた麻子の瞳に、徐々に戸惑いの色が混じり始めた。
陽平は、両脇にダランと垂れ下がった麻子の手を、片手ずつそっと握った。麻子が反射的に手を引く。陽平が、握った手に軽く力を込めた。陽平の手は驚くほど暖かく、柔らかく、麻子はその感触に身を委ねるようにおとなしくなった。
痩せたせいで骨が浮き出している真っ白な手。陽平は冷えきったそれを温めるように包み込むと、ゆっくりとリズムをつけて、軽く上下に動かした。それは泣きじゃくる赤ちゃんの背中を、母親が愛しげに叩くあのリズムに似ていた。
「知ってる? 麻子。14番目の月って」
陽平は何を突然言い始めたのかと、麻子の戸惑いは大きくなり、瞳には混乱の色が濃くなっていった。
周りで聞いていた理沙も、由紀も、陽平の言葉の真意が読み取れない。
「ほら、満月って十五夜じゃない? 15番目。つまりは14番目の月っていうのはその一歩前で、月が完全に満ちてないわけ。未完成なんだよね。わかる?」
陽平の顔からは徐々にぎこちなさが消え、口元には柔らかい微笑みが浮かんだ。
麻子が初めてここの診察室に入った時、陽平の暖かい微笑みは、まるでお父さんのようだと思った。でも今、目の前で微笑む陽平の笑顔は、お父さんのそれとはまるで違う。なぜお父さんのようだなんて思ったんだろうと、麻子は不思議な気がした。
今思えば、お父さんの笑顔には、ズシッとした重みとほんの少しの媚があった。麻子がセックスを拒否しないかと、伺うような、脅すような色があった。でも目の前の笑顔にはそれがない。麻子とのセックスを繰り返していた時、陽平の顔には怯えたような微笑みが浮かんでいたと思う。今はそれもない。ただただ暖かく、明るく、柔らかい。
麻子は陽平の笑顔と自分の手が刻むリズムによって、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻した。
「16番目の月は、これから欠ける一方だよね。でも14番目の月は、これから満ちていくんだよ。どんどんどんどん完全になっていくんだ。・・・麻子、人ってさ、どうしても自分にないものを探しちゃうもんだよね。いい仕事がない。お金がない。恋人もいない。自分は何も持っていない。でもそれってさ、満ちようとする月を自分からどんどん欠ける方向に持っていってるんじゃないかな。それこそ自分から、16番目以降の月になってるんだよ」
16番目の月・・・。欠けていく一方の16番目以降の月・・・。
それは私のことを言っているのだろうかと、麻子はぼんやり考えた。
あれもない、これもない、何もない。私は今まで、自分にないものを必死で探し求めてきた。欲しくても欲しくても決して手に入らないものを、躍起(やっき)になって追いかけていた。・・・それはそうだ。当然じゃないか。自分には本当に何もないのだから。
はじめて私には何もないと感じたのは、義父が死んだ時だった。あの時全てを失ったと思った。・・・でも・・・だったら私は、それまで何を持っていたんだろう。あるのはセックスとの交換で与えられる義父からの愛。欲しくて欲しくて身体を差し出し、それと引き換えにもらった愛・・・。
あれはそんなに必死になって欲しがるほどすばらしいものだっただろうか。なんだかわからなくなってきた。セックスと交換する愛は、果たして本物の愛なんだろうか。第一愛とセックスは交換するものなのか。
待って。どんどん混乱してきた。
それじゃあ今の私は、義父と同じことをしているの?
愛してほしいからセックスを与え続けた、幼い少女の私。
セックスをしたいから、愛してない人に愛していると言う今の私。
笑っちゃう。今の私はあの時の義父とそっくり。セックスと偽りの愛を交換している。
つまりは義父の愛も偽りだったということか。
じゃあこの数年間、私の身体を突いたたくさんの男たちはあの時の私というわけ? 幼い少女の私。
目の前にいるこの男も? もしかしてこの男も私なの? 愛してほしくて愛してほしくて、義父に身体を与え続けた私と、この人は同じ?
義父に愛してほしかった。母に愛してほしかった。誰でもいい、私が必要だって、愛してるって言ってほしかった。
あの狂おしいほどに欲し、与えられなかった想いはまぎれもない真実。ゆるぎないほどの真実。
・・・ではこの人は、愛してほしくて愛してほしくて、私に身体を与えていたの? 私に、狂おしいほど愛してほしかったというの? ・・・あの時の私のように、私からの愛がほしかったということ?
麻子の乾ききっていた瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
2009年04月19日
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