室内インターフォンのコール音が診察室に響き渡った。
陽平が疲れきった様子でノロノロと受話器を取り上げると、向こう側から戸惑ったようすの由紀の声が聞こえてきた。
「先生あの、お話中失礼します。今ここに・・・えっ?」
由紀が待合室で誰かと話をしているようだ。
「本島君? どうしたの?」
返事がない。どうしたのだろうと思っていると、突然受話器越しに由紀の大声が聞こえた。
「ちょっと待ってください。今は困ります! 先生は今・・・野村さん?!」
ブツッという音と共に、唐突にインターフォンが切られた。
野村? まさか麻子が来たのか・・・?
陽平の目の前には、いぶかしんだ様子の理沙が、膝に置いたバッグをもてあそびながら座っている。診察室の入り口はそのすぐ後ろにあった。陽平は慌てて立ち上がる。
「岩田さん? 何かあったんですか?」
「ごめん理沙ちゃん、ちょっと待っててくれる?」
今ここで、理沙と麻子を会わせてもいいものだろうか。麻子はパニックを起こすのではないか。それよりなにより、自分はもう麻子の治療をするのことはできない。麻子に対して、常に冷静でいることができないのだ。必ず私情が混じり、激したり大声を上げたりと、ただの恋に狂った愚かしい男になってしまう。今よりももっともっと、麻子の病状を進ませてしまう可能性すらある。どうしよう・・・いったいどうすれば・・・?
陽平が迷いと戸惑いの中にいるとき、突然コンコンというノックの音がした。
陽平が恐る恐るドアを開けると、そこには彼が会いたくて会いたくてたまらなかったはずの麻子が立っていた。
「麻子」
息を呑み、息を吐き、呟きと共に陽平は麻子の名を呼んだ。
麻子の様子は一変していた。頬はやつれ、髪はパサついて乱れ、目の下には濃いクマができている。落ち窪んだ瞳はまるで生気を感じさせず、亡霊か幽鬼のように恐ろしく見えた。
バサッ。
ゆっくりと立ち上がった理沙の膝からバッグがこぼれ落ちた。
麻子のドロドロとした視線が、陽平を通り越し音に向う。そこには両手で口元を覆い、息を呑んだまま立ち尽くす妹が立っていた。
「理沙・・・」
麻子はひと言そう呟くと、きびすを返して走り出した。
「待てよ、麻子! ・・・麻子!」
階段の途中で陽平の手が麻子の腕をつかむ。それは驚くほどに細く、弱々しい腕だった。どのくらいの間まともに食事をしていないのだろう。その痩せ方はまさに病的としか言いようがなかった。麻子は陽平につかまれた腕を振りほどこうとしたが、その力は小さい女の子のそれより弱かった。
「お姉・・・」
麻子が階段の上から自分を見下ろす理沙を見た。驚きと戸惑いと恐怖と嫌悪、その全てをはらんだ理沙の視線は、麻子に自虐的といっていい喜びの快感をもたらした。
「ふふふ・・・」
麻子は笑っていた。最初はニヤニヤと、そして次第にクスクスと声を出して笑いはじめた。
「なに? その目。言いたいことがあるなら言ったら?」
「お姉・・・ちゃん・・・?」
「そうよ。だから何?」
理沙の瞳から、次々と大粒の涙が溢れ出した。
悲しいとか、苦しいとか、辛いとか、そういうありふれた類(たぐ)いの涙ではない。麻子のその姿は、見ているだけで心をどん底にまで突き落とし、揺さぶる力をはらんでいた。
「どうして泣くの? 意味がわからない」
麻子は面白そうに言った。愉快で愉快でたまらない、そんな笑顔だった。
自分のせいだ。自分が麻子をここまで追い詰めたのだ。
陽平の胸はキリキリときしみ、目には激しい後悔の涙が浮んだ。
麻子の焦点の合わない視線は、次第にギラギラと輝きはじめた。
「岩田君までなに泣いてるのよ。変な人」
麻子は満ち足りたような笑顔で、心底楽しそうにそう言った。
恐怖と嫌悪に顔を歪めた由紀は、階段下に呆然と佇み、全身をブルッと震わせた。
2009年03月15日
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