診察室に入ると、理沙はペコッと陽平に頭を下げた。
陽平が最後に理沙を見かけたのは、陽平が中学生のころだった。あれからすでに20年以上の時が過ぎていたが、理沙は驚くほど変わっていなかった。まるで彼女の上だけには、時間の流れが止まっていたかのようだ。
理沙と麻子の持っている雰囲気は、姉妹だというのに驚くほど違っていた。でも、ほんの少し緊張しているように見える理沙の顔は、初めてここを訪れた時の麻子を彷彿(ほうふつ)とさせた。
「今日は突然お時間作っていただいて、本当にありがとうございます」
「そんなのいいから座って。ハーブティー淹れてもらったんだけど飲める?」
まだ緊張がほぐれない顔で、理沙は小さく「ありがとうございます」といった。
「理沙ちゃん、ちょっと緊張してる? 大丈夫?」
ソファに座り、理沙は照れたような笑顔を向けて、「病院の診察室には慣れてるはずなんですけど、ちょっと緊張してるかも。すいません」といった。
「精神科って、やっぱり雰囲気違うのかな。僕も白衣とか着てないしね」
「そのせいなのかな?」
理沙は手持ち無沙汰なのか、一度ソファの上に置いたバッグを取り上げて膝に置き直し、ハーブティーを一口飲んでフゥと息を吐いた。
「どう? 少しは緊張ほぐれた?」
「はい・・・」
理沙はまだぎこちなさが残る笑顔を陽平に向けた。
さて、まず何から聞こうか・・・と陽平は考えた。
どうしてここを知っているのか、それともなぜ自分に会いに来たのかを聞くのが先か・・・。どの順番で聞けば一番効率よく進められるだろうか。
あれこれ思案しながら陽平がハーブティーのカップをつかむと、理沙が唐突に口を開いた。
「岩田さん。お姉ちゃんはセックス依存症という病気なんですか?」
陽平は驚きのあまり手に持っていたカップを落としそうになった。
なぜそれを知っているのだろうか。純也に聞いた? いや、彼は麻子が何かの病気であることには気付いていたけれど、セックス依存症であることは知らないはずだ。では調べたのか? それとも・・・。
陽平の頭はめまぐるしく回転していたが、答えを導き出すことはできなかった。
「理沙ちゃん・・・どうして?」
「・・・実は1ヶ月ほど前、家に変な男から電話がかかってきたんです。それで・・・」
理沙はこの1ヶ月の間に起こったことを、できるだけわかりやすく、順番通りに喋ろうと心がけた。
陰湿な、ねっとりと絡みつくような声の男からの電話。その電話で麻子が銀行を辞めたと知ったこと。ひとりで銀行に行き、つかさと美鈴に話を聞いたこと。その日のうちに『紫頭巾』に行ったこと。噂になってしまった麻子の行動。麻子が陽平と付き合っていると知ったこと。
そして・・・自分で調べなさい、そうすれば心の目が開くからとサツキに言われたこと・・・。
「帰ってから、純也さんにも話を聞きました。純也さんは始め、私がショックを受けるだろうって思って、自分は何も知らないって言ってました。でも、最後はちゃんと話してくれました。それから私、いろいろと自分なりに調べたんです。サツキさんの言っていた原因ってなんだろうって。私小さいころから、ずっとお姉ちゃんに守られてきました。それこそ何から何まで、全てにおいてです。お姉ちゃんがいなければ、今の私はここにいません。それは確かです。・・・だから、私にできることがあるならそれをやりたいんです。お姉ちゃんの役に立ちたいんです。私に何か、できることはありませんか?」
理沙の話は、自分でも驚くほどのショックを陽平に与えていた。
理沙が全てを知っていたことがショックなのではない。麻子の病状が、仕事を辞めざるを得ないほど進んでいたこと。そして何より、自分だけが麻子の退職を知らずにいたことが、陽平を思いもかけないほどに打ちのめしていた。なぜ自分が、こんなにも大事なことを、妹とはいえ人伝えで聞かなければならないのか。
陽平は、自分がバカげた嫉妬をしているのだとわかっていた。同時に、自分はもう、麻子の主治医でいることはできないのだと思い知った。麻子に関してまるで冷静さを保つことができないのだ。
会社を辞めたことを自分に言わなかったからといって、それがなんだというのだ。こんな嫉妬はあまりにもバカげている。それを頭では充分理解しているのに、嫉妬心が消えることはない。
誰かを好きになるということは、人をこんなにも愚かな存在に変えてしまうのか。なんてバカバカしく、なんて醜く、なんて浅ましい・・・そして、なんて切ないんだろう・・・。
陽平は急に、麻子に会いたいと思った。どうしても今、麻子に会いたいと思った。
2009年03月08日
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