理沙がつかさと美鈴に連れられ『紫頭巾』を訪れた前日・・・。
トゥルルルル、トゥルルルル、トゥルルルル・・・。
理沙はリビングに急ぎ、受話器を取り上げた。
「もしもし、野村さんのお宅ですか?」
低い男の声だった。理沙は目が不自由だったせいもありとても耳がいい。一度聞いたことのある声を忘れることはほとんどなかったが、この声を聞いたのは初めてだと思った。なんとなく陰湿な響きをしている。セールスマンじゃないな・・・。
「そうですが、どちら様でしょうか?」
「・・・野村麻子が新宿でやりまくってるって噂になってるぞ。そのせいで銀行も辞めたよ。状況的には辞めざるを得なかったってことだろうけどな。噂っていうのはあっという間に広がるもんだ。・・・いいか、これからは口の利き方に気を付けろって言っておけ。男をないがしろにすると痛い目に遭うってな」
男はそれだけ言うと、ブチっと電話を切った。
理沙は驚きのあまりひと言も口をはさむことができなかった。
お姉ちゃんが銀行を辞めた? 男をないがしろにする? 意味がわからない。新宿でやりまくってる噂ってなに? やりまくるってなにを? 男が言った「噂」という言葉が気になる。それが原因でお姉ちゃんが銀行を辞めた・・・。いったい何が起こったというのか。
とにかく一刻も早くお姉ちゃんに会わなければならない。もうすぐ夕方の6時を回る。もし銀行を辞めているのだとしたら家にいるかもしれない。
理沙は無我夢中で支度をして家を飛び出し、タクシーを止めた。
理沙の心臓はバクバクと悲鳴を上げ、言い知れぬ不安が胸一杯に広がっていた。
高田馬場近辺の明治通り沿いでタクシーを降りる。目の前に小奇麗な7階建てのマンションが建っていた。前に純也とドライブをした時、麻子の部屋はこのマンションの5階の左から3番目だと教えられた。見上げると、窓からの明かりはない。理沙はほんの少しだけホッとした。忙しい麻子は、平日の7時前に家にいることなど滅多にない。つまり銀行を辞めたというのはデマだったのだ。
高鳴る心臓を抑えながら、理沙は必死でそう思い込もうとしていた。しかし陰湿でねっとりと響く電話の声は、理沙に真実の響きをもたらしていた。
ずっと耳だけを頼りに生きてきた理沙の耳は、人の声の調子やニュアンスなどをとても敏感に感じ取れるようになっている。理沙の瞳からは、いつの間にか大粒の涙がポロポロと流れ出していた。
理沙は玄関ホールのオートロックに503と打ち込んだ。・・・応答はない。やはりいないのだ。数回押してみたが出る気配はない。
ふと玄関ホールの端に目を留めると、そこにはマンションのポストボックスがあった。近寄ってみると、503と書かれたポストからは、大量の新聞が入りきらずに飛び出していた。どう見ても1週間以上は家に帰ってないようだ。
お姉ちゃんはどこへ行ってしまったのだろうか。もしかしたら出張? それとも会社に泊まりこみ? ありえないと思いながらも考えてみる。
どこへ行けば麻子に会えるのだろう。考えてみればもう2年近く会ってはいない。ここ1年あまり、声さえ聞いていないように思う。唯一麻子の声を聞けるのは、留守番電話の応答メッセージだけ。いつからこんな関係になってしまったのか。自分の何が気に入らないのか。・・・本当に、あの電話の男が言ったことは真実なのか。噂とはいったいなんなのか。わからない。何もかもわからなくなってしまった。
目が不自由だった時、理沙は自分の耳を信じていた。目が見えるようになった今、その耳から入ってくる音さえも、全てが自分を裏切っていくように感じる。
理沙の全身は、何もかもを見失ってしまったような不安に震え、ただただその場にしゃがみ込むことしかできなかった。
翌朝定期検診を受けたその足で、理沙はたったひとり三友銀行本店に向かった。
2009年01月04日
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