麻子はひとり、窓際のパソコンデスクに向かいメールを打っていた。
窓の外には古代遺跡の街ローマが広がっている。遺跡には美しくライトアップが施され、見るものを幻想の世界へといざなっていく。
麻子が夫の海外転勤でこの街に来て、もう2ヶ月が経とうとしていた。
「岩田君、お元気ですか? 結婚式ではいろいろとありがとう。あのあとすぐにローマに来てしまい、ちゃんとお礼を言う時間も取れなくて本当にごめんなさい。私はとても元気です。病院にも通っています。慣れない土地で、最初はどうなることかと思ったけど、イタリアの人はとても親切で、毎日楽しく過ごしています。
岩田君、何もかも、本当にありがとう。あなたがいてくれなかったら今の私はいません。彼と再会し、どんなに惹かれあったとしても、岩田君がいなかったら私は彼を受け入れることができなかった。そして、どんどんと欠けていく自分を見続けていたと思います。今の私が14番目の月になれたのかどうかはわかりません。たぶんまだでしょう。でも、ないものを探すのではなくあるものを見つける。そのことをあなたが教えてくれたから、これから少しずつでもいいから14番目の月になれるように進んで行こうと思ってます。
最後に・・・あなたがくれたとてもたくさんの愛に答えることができなくてごめんなさい。それなのに、あなたは私を救ってくれた。どんなに感謝してもし足りません。心から、本当に心から、あなたの幸せを祈っています。ありがとう。野村改め、武藤麻子」
部屋の明かりは点いているのに、パソコンのスイッチを切ると、急に部屋が真っ暗になったような気がした。温かい庇護者との繋がりを切った・・・そんな感じだ。
時計を見ると夜の8時を回っている。
あの人は今日も遅いんだろうな。仕事なのだから仕方がない。それは充分わかっている。わかっているんだけど・・・麻子はつらつらと、ここに至るまでのことをぼんやりと思い返した。
武藤は総合商社に勤める麻子と陽平の同級生だ。
中学時代、陽平がおとなしく少しイジメられっ子だったのに対し、武藤はクラスのリーダー的存在だった。身体が大きく愛嬌があり、ケンカが強くて運動神経抜群だった。昔は陽平のことをからかったりもしていたが、今は親しく付き合っている。数ヶ月に一回は連絡を取り合い、軽い同窓会のようなものも開いていた。
そのころ麻子は、陽平の勧めでセックス依存症を扱う病院に通院していた。陽平もセックス依存症についてのさまざまな治療方法を学び、できる限り麻子に付き添った。彼女がセックスの衝動を抑えきれなくなると、陽平は共に散歩をしたり、映画を観たりと気分転換を図った。通院し始めて数ヵ月後、麻子はずいぶんと回復の兆しを見せていた。陽平は、麻子には女友達が必要だと考えた。そして今から8ヶ月ほど前、麻子を連れて同窓会に参加したのだ。そこで麻子は、武藤と運命的な再会を果たすこととなった・・・。
再会直後から、武藤は麻子に強引なまでのアプローチをした。しかし麻子はセックス依存症だ。とても武藤の気持ちに答えることなどできるわけがない。次第に麻子は、武藤からの連絡を拒絶するようになっていった。
だが陽平は、武藤に惹かれる麻子の気持ちに気が付いていた。陽平はあの日・・・麻子が心から安心して生きていけるのであれば、隣にいるのが自分でなくてもかまわないと思った。今もその気持ちに嘘はない。嘘はないけれど、思った以上に辛いものなのだなと、陽平は苦笑いを浮かべてそう思った。
でももう、自分は決して麻子を裏切らない。それだけは絶対にしたくない。そう決意していた陽平は、武藤との再会から数ヵ月後、全てを彼に打ち明けるよう麻子にアドバイスした。武藤ならきっと受け止めることができるだろうと思えた。心の病は全て、親しい人たちの理解と協力がなければ、とても治すことなどできはしない。彼なら麻子を、自分の代わりに包み込み、麻子に本当の笑顔をもたらしてくれるだろう。
麻子は悩み、苦しみ、結論を出せないままの日々が流れていった。
自分は武藤とただの友達に戻れるだろうか。こんな苦しみはさっさと終わりにして、仲のいい同級生に戻るのだ・・・。
無理だ。どう考えてもそれは無理だと思った。彼はもう、自分の心の奥底にまで入り込んでいる。今更ただの友達になどなれるはずがない。
だったら自分は、武藤を最初からいなかったものとして、記憶から消すことができるだろうか。全てを忘れてなかったことにする。自分は同窓会にもいってないし、武藤にも会わなかった。武藤と再会してからの、信じられないほど輝いていた毎日をなかったことにする・・・。
それこそ無理だ。そんなことができるくらいならこんなに悩んだりはしない。
ただの友達に戻ることもできず、消すこともできない・・・。だとしたら、できることはたったひとつしかない。でももし、受け止めてくれなかったら? ・・・怖い・・・とてつもなく怖い・・・。でももう後戻りはできない。そして、したくない・・・。
ついに麻子は武藤に全てを打ち明けた。義父のこと、母のこと、妹のこと、そしてセックス依存症であること。
武藤は驚き、相当のショックを受けたが、結局は全てを受け入れ、納得し、自分の気持ちは変わらないと麻子にプロポーズをした。
それからまもなく武藤のイタリア転勤が決まった。それは結婚式を間近に控えた、ただでさえ忙しい時だった。
あまりに突然の転勤騒ぎに落ち着いてものを考える暇もなく、めまぐるしい日々の中で、陽平とゆっくり話をする時間もないままに、気がついたらローマに来ていたというのが麻子の正直な実感だった。
あれから半年。ローマに来てからも2ヶ月という時間が過ぎ、最近やっと、麻子に落ち着いた日々が戻ってきていた。
武藤は毎日仕事で忙しい。朝早く家を出て、帰ってくるのが夜中近くになることもままあった。
麻子は友達ひとりいない見知らぬ土地で、たったひとりで過ごす時間が多くなった。
陽平に送ったメールでは、心配をかけまいと『イタリア人はとても親切で、毎日楽しくすごしています』などと書いた。でもそれは、とても真実とは言えなかったのだ。
ここローマはろくに英語も通じず、石畳の道はゴチャゴチャとして、あちこちにジプシーと呼ばれる物乞いやスリがいる。常時財布をスラレないかとヒヤヒヤし、麻子にとっては楽しむどころではなかった。
思いっきり日本語を話したい。せめて英語でもいい。慣れないイタリア語なんかうんざりだ。そんな愚痴を言おうにも、夫は顔を合わせる時間もないほど忙しい。疲れきって寝ている夫を起こしてまで、こんな愚痴を聞かせることは出来ない。
・・・どうしてだろう。心は幸せで満たされていたはずなのに、なんだかまた、月が欠けてきたみたいだ。
ああ・・・イライラする。外にはたくさんの男・・・。いつもいつも、誘うように私を見る。
・・・最近また、ね・む・れ・な・い・・・。
2009年05月23日
2009年05月05日
最終章
ハーブティーの香りが漂う『新宿メンタルクリニック』の待合室。
由紀がため息を吐きつつ見つめている先には、由紀の淹れたハーブティーを楽しむ、『紫頭巾』のオカマたち4人がいた。
テーブルには数え切れないほどの写真が所狭しと並べられ、写真の中から美しいウェディングドレス姿の麻子が幸せ一杯の微笑みかけている。
「キレイだったわねぇ、麻子さん」
ウットリと夢見るようにマルコが言う。頭の中には自分のドレス姿が浮んでいるようで、架空のドレスのすそを持ち上げ、リリィと一緒にワルツを踊るように待合室を一周している。
ダンボは自分の映りがいい写真を探しながら、「やっぱり結婚式っていいわぁ・・・。心が洗われるってこのことね」と、麻子と並んで映る自分の姿に満足げだ。
サツキはハーブティーを一口飲み、うらやましそうにダンボに言った。
「いろいろあったけど、女の幸せはやっぱり結婚よねぇ」
「同感よ、ママ! 麻子さん本当に幸せそうだったものね」
「きっと先生のあの言葉が、麻子さんの幸せを作ったんだわ」
「14番目の月になろうなんて、本当にいいこと言うわよねぇ先生」
目をハート型にさせ、サツキがウンウンと勢いよくうなずく。
「ちょっと、どうしてそれを知ってるんです?」
なぜこのオカマたちは、そのことを知ってるのだろうかと由紀は疑問に思った。
忘れもしない約1年前のあの日。
麻子の壮絶としか言いようのない過去を、彼女の口から聞いてしまったあの日。
確かにあの場所にはオカマたちはいなかったはずだ。まさか待合室の入り口で立ち聞きでもしていたんじゃないだろうか。確かにこいつらならやっていてもおかしくはない。
「まさかあの時、立ち聞きしてたんじゃないでしょうね」
「いやぁねぇ。そういう発想をすること事態、品性が下劣ってことの証明よね」
ニヤニヤ笑いながらダンボが言った。ムッとしながら由紀が聞く。
「じゃあどうして知ってるんです?」
「あたしたち、理沙さんとすんごく仲良しなの。理沙さんの結婚式にだってお呼ばれしたんだから」
「そうなんですか?!」
由紀は驚き、いつの間にそれほどの仲になったのだろうかと考えた。
「そうよ。理沙さんは、私たちが聞けば何でも教えてくれるのよ。ねぇママ」
「ええ。麻子さんのことでうちにお礼にいらした時、ちょっと飲んでいただいて、意識が朦朧としたそのあとで、根掘り葉掘り聞いたのよ」
「普段あまり飲まないって言ってたから、ちょろいもんだったわね」
「そのあと、リリィちゃんが催眠術もかけてなかった?」
マルコが尊敬の眼差しをリリィに送る。
「そうなの! 最近催眠術もやるようになったから、ちょっと理沙さんで試してみたわ。あんなにすんなりかかるなんて自分でも驚いちゃった。やっぱりあたしって天才かも!」
「それって、すでに犯罪の域に達してると思うんですけどね」
ダンボは麻子の写真をつまみ、ひらひらと由紀の前にチラつかせながら言った。
「やぁねぇそのいい草。あたしたちはワザワザ結婚式の写真を持ってきてあげたんじゃないの。やっぱり独り身の女は刺々しくなるって本当なのねぇ」
「余計なお世話です。あなたたちだって独り身じゃないですか」
「あたしたちはこれからですもの。ねぇ、ママ?」
「その通りよ、ダンボちゃん。失恋に一番効くのは新しい恋愛だって、ことわざにもあるものね」
「いいこと言うわぁママ。本当にその通りよ。だって・・・ねぇ」
ダンボとサツキの視線が診察室へと注がれると、由紀は2人を小馬鹿にしたように笑い、意味ありげに言った。
「いいですか、それ飲んだらさっさと帰ってくださいね。ああそれから、野村さんの後釜を狙ってるんだとしたら、それこそお門違いですから」
その言い方にイヤな予感を感じたマルコは、「何それ。どういうこと?」と由紀に食いついた。
由紀はマルコの反応を見ると満足げな笑みを浮かべ、上機嫌でこう言った。
「あら、先生からお聞きなってません? 先生今度お見合いするんです。失恋に一番効くのは新しい恋愛だって、ことわざにもあるんでしたね」
「ちょっと、何それ! 全然聞いてないわよ!」
「いつよ! いつなの? 言いなさいよ」
「どこの女よ。妨害してやる!」
思ってもみなかった展開に、オカマたちは蜂の巣をつついたような騒ぎを見せ、我先にと話しはじめた。由紀の周りを取り囲み、全てを白状しろとうるさく攻め立てる。しかし由紀は全く動じる気配も見せず、愉快でたまらないといった笑顔を浮かべて黙っていた。
実は『14番目の月』話に感激したのは、なにもオカマたちばかりではなかった。又聞きでさえあれほどオカマたちをウットリさせたのだから、実際に話を聞いていた由紀が何も感じないはずがない。すぐさま付き合っていた彼氏に別れを告げ、今は陽平を一番近い場所から狙っているのだ。当然陽平の見合い話も、オカマたちを煙に巻くためのまるっきりのでまかせだった。
由紀はライバルたちを大恐慌に陥れた自分の言動に満足しきりで、ゆったりとソファに腰をかけ、テーブルの上の写真を一枚つまみあげた。
そこに映っていたのは、幸せ一杯の輝くほどの微笑を浮かべる麻子と、彼女と腕を組み、誇らしげに微笑むタキシード姿の武藤という男性だった。
由紀はニヤッと笑い、心の中でつぶやいた。
「先生のことは私に任せて、野村さんはこの人と、思う存分幸せになってください!」
由紀がため息を吐きつつ見つめている先には、由紀の淹れたハーブティーを楽しむ、『紫頭巾』のオカマたち4人がいた。
テーブルには数え切れないほどの写真が所狭しと並べられ、写真の中から美しいウェディングドレス姿の麻子が幸せ一杯の微笑みかけている。
「キレイだったわねぇ、麻子さん」
ウットリと夢見るようにマルコが言う。頭の中には自分のドレス姿が浮んでいるようで、架空のドレスのすそを持ち上げ、リリィと一緒にワルツを踊るように待合室を一周している。
ダンボは自分の映りがいい写真を探しながら、「やっぱり結婚式っていいわぁ・・・。心が洗われるってこのことね」と、麻子と並んで映る自分の姿に満足げだ。
サツキはハーブティーを一口飲み、うらやましそうにダンボに言った。
「いろいろあったけど、女の幸せはやっぱり結婚よねぇ」
「同感よ、ママ! 麻子さん本当に幸せそうだったものね」
「きっと先生のあの言葉が、麻子さんの幸せを作ったんだわ」
「14番目の月になろうなんて、本当にいいこと言うわよねぇ先生」
目をハート型にさせ、サツキがウンウンと勢いよくうなずく。
「ちょっと、どうしてそれを知ってるんです?」
なぜこのオカマたちは、そのことを知ってるのだろうかと由紀は疑問に思った。
忘れもしない約1年前のあの日。
麻子の壮絶としか言いようのない過去を、彼女の口から聞いてしまったあの日。
確かにあの場所にはオカマたちはいなかったはずだ。まさか待合室の入り口で立ち聞きでもしていたんじゃないだろうか。確かにこいつらならやっていてもおかしくはない。
「まさかあの時、立ち聞きしてたんじゃないでしょうね」
「いやぁねぇ。そういう発想をすること事態、品性が下劣ってことの証明よね」
ニヤニヤ笑いながらダンボが言った。ムッとしながら由紀が聞く。
「じゃあどうして知ってるんです?」
「あたしたち、理沙さんとすんごく仲良しなの。理沙さんの結婚式にだってお呼ばれしたんだから」
「そうなんですか?!」
由紀は驚き、いつの間にそれほどの仲になったのだろうかと考えた。
「そうよ。理沙さんは、私たちが聞けば何でも教えてくれるのよ。ねぇママ」
「ええ。麻子さんのことでうちにお礼にいらした時、ちょっと飲んでいただいて、意識が朦朧としたそのあとで、根掘り葉掘り聞いたのよ」
「普段あまり飲まないって言ってたから、ちょろいもんだったわね」
「そのあと、リリィちゃんが催眠術もかけてなかった?」
マルコが尊敬の眼差しをリリィに送る。
「そうなの! 最近催眠術もやるようになったから、ちょっと理沙さんで試してみたわ。あんなにすんなりかかるなんて自分でも驚いちゃった。やっぱりあたしって天才かも!」
「それって、すでに犯罪の域に達してると思うんですけどね」
ダンボは麻子の写真をつまみ、ひらひらと由紀の前にチラつかせながら言った。
「やぁねぇそのいい草。あたしたちはワザワザ結婚式の写真を持ってきてあげたんじゃないの。やっぱり独り身の女は刺々しくなるって本当なのねぇ」
「余計なお世話です。あなたたちだって独り身じゃないですか」
「あたしたちはこれからですもの。ねぇ、ママ?」
「その通りよ、ダンボちゃん。失恋に一番効くのは新しい恋愛だって、ことわざにもあるものね」
「いいこと言うわぁママ。本当にその通りよ。だって・・・ねぇ」
ダンボとサツキの視線が診察室へと注がれると、由紀は2人を小馬鹿にしたように笑い、意味ありげに言った。
「いいですか、それ飲んだらさっさと帰ってくださいね。ああそれから、野村さんの後釜を狙ってるんだとしたら、それこそお門違いですから」
その言い方にイヤな予感を感じたマルコは、「何それ。どういうこと?」と由紀に食いついた。
由紀はマルコの反応を見ると満足げな笑みを浮かべ、上機嫌でこう言った。
「あら、先生からお聞きなってません? 先生今度お見合いするんです。失恋に一番効くのは新しい恋愛だって、ことわざにもあるんでしたね」
「ちょっと、何それ! 全然聞いてないわよ!」
「いつよ! いつなの? 言いなさいよ」
「どこの女よ。妨害してやる!」
思ってもみなかった展開に、オカマたちは蜂の巣をつついたような騒ぎを見せ、我先にと話しはじめた。由紀の周りを取り囲み、全てを白状しろとうるさく攻め立てる。しかし由紀は全く動じる気配も見せず、愉快でたまらないといった笑顔を浮かべて黙っていた。
実は『14番目の月』話に感激したのは、なにもオカマたちばかりではなかった。又聞きでさえあれほどオカマたちをウットリさせたのだから、実際に話を聞いていた由紀が何も感じないはずがない。すぐさま付き合っていた彼氏に別れを告げ、今は陽平を一番近い場所から狙っているのだ。当然陽平の見合い話も、オカマたちを煙に巻くためのまるっきりのでまかせだった。
由紀はライバルたちを大恐慌に陥れた自分の言動に満足しきりで、ゆったりとソファに腰をかけ、テーブルの上の写真を一枚つまみあげた。
そこに映っていたのは、幸せ一杯の輝くほどの微笑を浮かべる麻子と、彼女と腕を組み、誇らしげに微笑むタキシード姿の武藤という男性だった。
由紀はニヤッと笑い、心の中でつぶやいた。
「先生のことは私に任せて、野村さんはこの人と、思う存分幸せになってください!」