いつも麻子に愛していると言い続けた陽平。それを、自分とのセックスをしたいがための言葉だと、麻子は固く信じていた。
愛しているという言葉は、セックスの前戯と同じ。それ以外の意味はなにもない。なくていい。あると知ってはいけない。知ってしまったら最後、今まで以上に空っぽな自分を感じてしまう。男女の愛も、親子の愛も、姉妹の愛も、友達同士の愛も、何もかもみんな作り話。そんなもの、現実には存在しない。してはいけないのだと。
しかし、目の前の男はセックスの時以外も、何度も何度も麻子を愛していると繰り返していた。・・・もしかしてあの言葉は本物だったのか・・・? ・・・私からの愛を、狂おしいほどほしがっていたのか・・・。幼いあの日の私がそうだったように・・・。
麻子がぼんやりとそう考えた時、彼女を完全に包み込む、継ぎ目ひとつない透明で強固な球体がきしんだ。
それは麻子を外界から完全に遮断し、空っぽにし、何もない心だけを見つめさせる球体。
反対に、愛してほしくても愛されない苦しさや辛さ、自分以外のものとの関わりで傷つく心、それらから麻子を完璧に守っているものでもあった。
その球体がわずかにきしみ、砕け散ろうとしていた。球体が立てるギシギシという恐ろしい音は、麻子の耳にはっきりと届いていた。
麻子の脳裏に、かつて見た恐ろしい夢・・・麻子を包む球体が粉々に砕け散り、一緒に自分の身体も散り散りバラバラになった、あの光景が蘇った。
麻子は思わず叫び出しそうになった。陽平に握られたままの手を外し、耳を塞ごうとする。
恐怖に引きつった麻子の顔。しかし陽平はその手を離そうとはしなかった。反対にギュッと強く握り締め、下を向きイヤイヤと首を振る麻子に力強く言った。
「麻子! 俺を見て。何も怖くないから。大丈夫だから安心して! 麻子!」
恐る恐る麻子は陽平を見つめた。陽平は麻子を安心させるように大きくうなずくと、そのままギュッと抱きしめた。ほどいた手で、麻子の背中をポンポンと繰り返し叩く。
「ほら大丈夫。怖くない、怖くない。何も怖いものなんかやってこないよ。もしやってきても、俺が守ってやる。だから大丈夫。安心して。ね、安心して・・・」
ポンポンと叩いていた手は、今度はゆっくり麻子の背中をさする。恐怖で硬くなっていた麻子の身体から徐々に力が抜けていった時、ふいに陽平は、麻子を抱きしめながら優しくささやくように言った。
「麻子、ないものを探すのはもう止めよう。自分から16番目以降の月になるなんて、ずいぶんバカらしいことだと思わない?」
陽平は麻子から身体を離し、また手を握って上下のリズムを取った。
「だからね麻子、あるものを探してみようよ。例えば麻子には、今はちょっと痩せちゃったけど、元々とってもキレイな顔と、みんなが憧れるような素晴らしいスタイルを持ってる。俺、前にも言ったけど、中学の時からずっと麻子に憧れてたんだよ。周りの男もみんなそうだった。でもそれは、麻子とセックスがしたいからじゃない。ただ単純にステキだな、いいなって思ってたんだ。麻子は人にそう思わせるものをちゃんと持ってる。それから辞めてしまったけれど、麻子には素晴らしい仕事のキャリアがある。これは誰でも持てるものじゃない。麻子だから得られたものだ。そして妹の理沙ちゃん。彼女は麻子を本当に心配しているし、愛している。いつもいつも気にかけてる。麻子がずっと、目の不自由だった理沙ちゃんにそうしてきたように。これは確かだ。そうだね、理沙ちゃん」
陽平は、階段上に立ち尽くす理沙を見上げた。それにつられ、麻子もゆっくりと理沙を見る。
麻子の恐れと不安が交じり合ったような瞳。理沙はその瞳をじっと見つめ、コクンと大きくうなずいた。
陽平の手は、変わらず麻子の手を握り、独特のリズムで上下に動かし続けている。
「麻子は何もない。空っぽだって言ったけど、これでもう3つも素晴らしいものがあるってわかった。麻子、この世の中に、完全に満ち足りてる人なんてひとりもいないよ。みんな何かが足りないって思いながら生きてる。麻子はずっと、閉じきった自分の心の中だけを見て、空っぽだ、何もないって思ってた。でも、ちょっと見方を変えるだけで、今まで見えなかったものが見えてくる。足りないものを探し続けるのもひとつの生き方かもしれないけど、あるものを見つけて、それを育てていくやり方もある」
陽平は動かし続けた手を止めた。麻子の膝の上に、握ったままの2人の手を置く。陽平は、改めて麻子の手をギュッと握った。その手は大きく、力強く、なによりも暖かかった。
「麻子、14番目の月になろうよ。これから欠けていくより、これからどんどん満ちていく方がずっといいと思わない? 大丈夫。麻子がひとりで歩き出せるまで、もう平気だって言えるようになるまで、俺、ずっとついてるから」
14番目の月・・・。これから満ちていく14番目の月。なれるんだろうか、私が。そんなふうに生きていけるんだろうか。わからない。今の私には何もわからない。でも、目の前で、こんなふうに笑ってくれる人がいる。こんなにも大きくて、暖かい手を持ってる人がいる。その人が大丈夫だって言ってくれるなら、もしかしたら大丈夫なのかもしれない。空っぽだった心にも、何かが少しずつ満ちてくるのかもしれない。そしていつか、私も満月になれるのかもしれない・・・。
麻子の耳に、透明の球体が割れる『パン!』という音が、確かに聞こえた。
2009年04月29日
2009年04月19日
8
陽平は、自分がこの世で一番大切な人を、この世で一番残酷な方法で傷つけたのだと気付いた。
精神科医でありながら、麻子が自分から離れていくという恐怖で、彼女の病状が進むのを見て見ぬ振りし続けたのだ。これじゃあ麻子の母親と何も変わらないではないか・・・。
麻子は義父に身体を強要され、母に恨まれ、理沙に目が治るという形で居場所を奪われ、同僚に裏切られ、愚かしさに狂った陽平に傷つけられた。
麻子は彼女の取り巻く世界全部から傷つけられ続け、裏切られ続けたのだ。
だから・・・だからこそ、今度こそ麻子を裏切りたくないと陽平は強く思った。
麻子が心から笑う顔が見たい。空っぽな心を満たしてやりたい。麻子が心の底から安心して生きていけるのであれば、彼女の隣にいるのが自分じゃなくてもいい。
自分じゃ・・・なくても・・・。
陽平は、ともすると溢れそうになる涙を必死にこらえ、ハァと息を吐き出した。凍りついていた足で、一歩一歩階段を降りていく。
麻子は床に座り込んだまま立とうとしなかった。ゆっくりゆっくり近づいてくる陽平をジッと眺め、にらみつけていた。
陽平は麻子の前に来ると、麻子の瞳を正面から見つめ、ぎこちなさが残る顔に笑顔を浮かべて、彼女の目の前に胡坐をかいた。
陽平が何をしようとしているのかさっぱりわからず、陽平をにらみつけていた麻子の瞳に、徐々に戸惑いの色が混じり始めた。
陽平は、両脇にダランと垂れ下がった麻子の手を、片手ずつそっと握った。麻子が反射的に手を引く。陽平が、握った手に軽く力を込めた。陽平の手は驚くほど暖かく、柔らかく、麻子はその感触に身を委ねるようにおとなしくなった。
痩せたせいで骨が浮き出している真っ白な手。陽平は冷えきったそれを温めるように包み込むと、ゆっくりとリズムをつけて、軽く上下に動かした。それは泣きじゃくる赤ちゃんの背中を、母親が愛しげに叩くあのリズムに似ていた。
「知ってる? 麻子。14番目の月って」
陽平は何を突然言い始めたのかと、麻子の戸惑いは大きくなり、瞳には混乱の色が濃くなっていった。
周りで聞いていた理沙も、由紀も、陽平の言葉の真意が読み取れない。
「ほら、満月って十五夜じゃない? 15番目。つまりは14番目の月っていうのはその一歩前で、月が完全に満ちてないわけ。未完成なんだよね。わかる?」
陽平の顔からは徐々にぎこちなさが消え、口元には柔らかい微笑みが浮かんだ。
麻子が初めてここの診察室に入った時、陽平の暖かい微笑みは、まるでお父さんのようだと思った。でも今、目の前で微笑む陽平の笑顔は、お父さんのそれとはまるで違う。なぜお父さんのようだなんて思ったんだろうと、麻子は不思議な気がした。
今思えば、お父さんの笑顔には、ズシッとした重みとほんの少しの媚があった。麻子がセックスを拒否しないかと、伺うような、脅すような色があった。でも目の前の笑顔にはそれがない。麻子とのセックスを繰り返していた時、陽平の顔には怯えたような微笑みが浮かんでいたと思う。今はそれもない。ただただ暖かく、明るく、柔らかい。
麻子は陽平の笑顔と自分の手が刻むリズムによって、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻した。
「16番目の月は、これから欠ける一方だよね。でも14番目の月は、これから満ちていくんだよ。どんどんどんどん完全になっていくんだ。・・・麻子、人ってさ、どうしても自分にないものを探しちゃうもんだよね。いい仕事がない。お金がない。恋人もいない。自分は何も持っていない。でもそれってさ、満ちようとする月を自分からどんどん欠ける方向に持っていってるんじゃないかな。それこそ自分から、16番目以降の月になってるんだよ」
16番目の月・・・。欠けていく一方の16番目以降の月・・・。
それは私のことを言っているのだろうかと、麻子はぼんやり考えた。
あれもない、これもない、何もない。私は今まで、自分にないものを必死で探し求めてきた。欲しくても欲しくても決して手に入らないものを、躍起(やっき)になって追いかけていた。・・・それはそうだ。当然じゃないか。自分には本当に何もないのだから。
はじめて私には何もないと感じたのは、義父が死んだ時だった。あの時全てを失ったと思った。・・・でも・・・だったら私は、それまで何を持っていたんだろう。あるのはセックスとの交換で与えられる義父からの愛。欲しくて欲しくて身体を差し出し、それと引き換えにもらった愛・・・。
あれはそんなに必死になって欲しがるほどすばらしいものだっただろうか。なんだかわからなくなってきた。セックスと交換する愛は、果たして本物の愛なんだろうか。第一愛とセックスは交換するものなのか。
待って。どんどん混乱してきた。
それじゃあ今の私は、義父と同じことをしているの?
愛してほしいからセックスを与え続けた、幼い少女の私。
セックスをしたいから、愛してない人に愛していると言う今の私。
笑っちゃう。今の私はあの時の義父とそっくり。セックスと偽りの愛を交換している。
つまりは義父の愛も偽りだったということか。
じゃあこの数年間、私の身体を突いたたくさんの男たちはあの時の私というわけ? 幼い少女の私。
目の前にいるこの男も? もしかしてこの男も私なの? 愛してほしくて愛してほしくて、義父に身体を与え続けた私と、この人は同じ?
義父に愛してほしかった。母に愛してほしかった。誰でもいい、私が必要だって、愛してるって言ってほしかった。
あの狂おしいほどに欲し、与えられなかった想いはまぎれもない真実。ゆるぎないほどの真実。
・・・ではこの人は、愛してほしくて愛してほしくて、私に身体を与えていたの? 私に、狂おしいほど愛してほしかったというの? ・・・あの時の私のように、私からの愛がほしかったということ?
麻子の乾ききっていた瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
精神科医でありながら、麻子が自分から離れていくという恐怖で、彼女の病状が進むのを見て見ぬ振りし続けたのだ。これじゃあ麻子の母親と何も変わらないではないか・・・。
麻子は義父に身体を強要され、母に恨まれ、理沙に目が治るという形で居場所を奪われ、同僚に裏切られ、愚かしさに狂った陽平に傷つけられた。
麻子は彼女の取り巻く世界全部から傷つけられ続け、裏切られ続けたのだ。
だから・・・だからこそ、今度こそ麻子を裏切りたくないと陽平は強く思った。
麻子が心から笑う顔が見たい。空っぽな心を満たしてやりたい。麻子が心の底から安心して生きていけるのであれば、彼女の隣にいるのが自分じゃなくてもいい。
自分じゃ・・・なくても・・・。
陽平は、ともすると溢れそうになる涙を必死にこらえ、ハァと息を吐き出した。凍りついていた足で、一歩一歩階段を降りていく。
麻子は床に座り込んだまま立とうとしなかった。ゆっくりゆっくり近づいてくる陽平をジッと眺め、にらみつけていた。
陽平は麻子の前に来ると、麻子の瞳を正面から見つめ、ぎこちなさが残る顔に笑顔を浮かべて、彼女の目の前に胡坐をかいた。
陽平が何をしようとしているのかさっぱりわからず、陽平をにらみつけていた麻子の瞳に、徐々に戸惑いの色が混じり始めた。
陽平は、両脇にダランと垂れ下がった麻子の手を、片手ずつそっと握った。麻子が反射的に手を引く。陽平が、握った手に軽く力を込めた。陽平の手は驚くほど暖かく、柔らかく、麻子はその感触に身を委ねるようにおとなしくなった。
痩せたせいで骨が浮き出している真っ白な手。陽平は冷えきったそれを温めるように包み込むと、ゆっくりとリズムをつけて、軽く上下に動かした。それは泣きじゃくる赤ちゃんの背中を、母親が愛しげに叩くあのリズムに似ていた。
「知ってる? 麻子。14番目の月って」
陽平は何を突然言い始めたのかと、麻子の戸惑いは大きくなり、瞳には混乱の色が濃くなっていった。
周りで聞いていた理沙も、由紀も、陽平の言葉の真意が読み取れない。
「ほら、満月って十五夜じゃない? 15番目。つまりは14番目の月っていうのはその一歩前で、月が完全に満ちてないわけ。未完成なんだよね。わかる?」
陽平の顔からは徐々にぎこちなさが消え、口元には柔らかい微笑みが浮かんだ。
麻子が初めてここの診察室に入った時、陽平の暖かい微笑みは、まるでお父さんのようだと思った。でも今、目の前で微笑む陽平の笑顔は、お父さんのそれとはまるで違う。なぜお父さんのようだなんて思ったんだろうと、麻子は不思議な気がした。
今思えば、お父さんの笑顔には、ズシッとした重みとほんの少しの媚があった。麻子がセックスを拒否しないかと、伺うような、脅すような色があった。でも目の前の笑顔にはそれがない。麻子とのセックスを繰り返していた時、陽平の顔には怯えたような微笑みが浮かんでいたと思う。今はそれもない。ただただ暖かく、明るく、柔らかい。
麻子は陽平の笑顔と自分の手が刻むリズムによって、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻した。
「16番目の月は、これから欠ける一方だよね。でも14番目の月は、これから満ちていくんだよ。どんどんどんどん完全になっていくんだ。・・・麻子、人ってさ、どうしても自分にないものを探しちゃうもんだよね。いい仕事がない。お金がない。恋人もいない。自分は何も持っていない。でもそれってさ、満ちようとする月を自分からどんどん欠ける方向に持っていってるんじゃないかな。それこそ自分から、16番目以降の月になってるんだよ」
16番目の月・・・。欠けていく一方の16番目以降の月・・・。
それは私のことを言っているのだろうかと、麻子はぼんやり考えた。
あれもない、これもない、何もない。私は今まで、自分にないものを必死で探し求めてきた。欲しくても欲しくても決して手に入らないものを、躍起(やっき)になって追いかけていた。・・・それはそうだ。当然じゃないか。自分には本当に何もないのだから。
はじめて私には何もないと感じたのは、義父が死んだ時だった。あの時全てを失ったと思った。・・・でも・・・だったら私は、それまで何を持っていたんだろう。あるのはセックスとの交換で与えられる義父からの愛。欲しくて欲しくて身体を差し出し、それと引き換えにもらった愛・・・。
あれはそんなに必死になって欲しがるほどすばらしいものだっただろうか。なんだかわからなくなってきた。セックスと交換する愛は、果たして本物の愛なんだろうか。第一愛とセックスは交換するものなのか。
待って。どんどん混乱してきた。
それじゃあ今の私は、義父と同じことをしているの?
愛してほしいからセックスを与え続けた、幼い少女の私。
セックスをしたいから、愛してない人に愛していると言う今の私。
笑っちゃう。今の私はあの時の義父とそっくり。セックスと偽りの愛を交換している。
つまりは義父の愛も偽りだったということか。
じゃあこの数年間、私の身体を突いたたくさんの男たちはあの時の私というわけ? 幼い少女の私。
目の前にいるこの男も? もしかしてこの男も私なの? 愛してほしくて愛してほしくて、義父に身体を与え続けた私と、この人は同じ?
義父に愛してほしかった。母に愛してほしかった。誰でもいい、私が必要だって、愛してるって言ってほしかった。
あの狂おしいほどに欲し、与えられなかった想いはまぎれもない真実。ゆるぎないほどの真実。
・・・ではこの人は、愛してほしくて愛してほしくて、私に身体を与えていたの? 私に、狂おしいほど愛してほしかったというの? ・・・あの時の私のように、私からの愛がほしかったということ?
麻子の乾ききっていた瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
2009年04月04日
7
麻子は待合室の床に座りこみ、ガタガタと震えながら話し続けていた。母に叱られた少女のままに怯え、目はキョロキョロと挙動不審に動き、この状況から自分を助け出してくれるものを必死に求めていた。
ふいに麻子の口元に笑みが浮かんだ。身体の震えは止まらなかったが、血走った目には喜びの色が加わり、全身から怯えた影が消えた。
「でもね・・・でも、お父さんはいけないって言ったけど、セックスをしている時は本当に幸せなの。その時だけは生きてるって感じる。私には本当は価値があるんじゃないかって思う。イヤなことが全部消えていって、頭が真っ白になるの。身体が軽くなってすごく気持ちがいい。お父さんとしてた時には一度も感じなかったのに、今は違う。空っぽだった心が、幸せとか喜びとかで満ち足りていくのがわかる。男のモノで、力強く突いてもらえればもらえるだけ、どんどんどんどん満ちていくの。だからもっとしなくちゃいけない。しないとすぐ空っぽに戻っちゃう。セックスする前よりももっともっと空っぽになっちゃう。だからすぐまたしなくちゃいけないの」
「違うよ麻子。それは違う。・・・それは麻子がセックス」
陽平は思わずそう口走り、自分の口から出た言葉に気づいて口籠った。
彼は今まで患者からありとあらゆる種類の話を聞いてきた。その陽平ですら、麻子の語る自らの過去には、身が凍るほどのショックを受けていた。
自分がはじめて麻子に会った中学の時、すでに麻子の心は蝕(むしば)まれていたのだ。
麻子をオモチャのように扱い、言葉と身体で縛りつけたまま義父は死んだ。残された母の心はねじまがり、その全てを麻子に向けた。
彼女はそうやって、あの時あの場所に存在していたのか・・・。
「麻子・・・」
あまりの痛ましさに、陽平の声はため息となった。
麻子はゆっくりと声の主を振り返ったが、その顔は楽しく幸せだった夢から無理矢理起こされ、イヤな現実に引き戻されたかのように不機嫌だった。
「セックス依存症でしょ? 知ってるわよ。・・・だからなに?」
「どうして・・・」
「調べたからに決まってるじゃない。岩田君、私が何も知らないとでも思ってたの? 私のこと、何も知らないバカだとでも思ってるの? 今は知りたきゃなんだって調べられるわ。・・・あのね、私だって自分がおかしいことくらいわかってるの。ちゃんと知ってるのよ」
「だったら・・・だったらどうして止めないんだ! 危険だってこともわかってるのか? 身体だってボロボロになる。取り返しのつかないことになるかもしれないんだぞ!」
陽平は何もしてやれなかった虚しさと、自分への腹立たしさに叫んでいた。
もっと早く気付いていれば、もっと早く適切な行動を取っていれば・・・。
この数ヶ月、頭と心から離れることがなかった激しい後悔が次から次へと陽平を襲う。いくら悔いてももう遅い。それは充分わかっていた。
「麻子、もう止めよう。病院に行こう。そんなバカげたことをいくら続けも、もっともっと、どんどん空っぽになっていくだけだ。それもわかってるのか?」
「じゃあ・・・今の私からセックスを取ったら、いったい何が残るっていうの?」
麻子はかすれた声でつぶやいた。
もう何もない。仕事も、理沙も、お父さんも、お母さんからの愛も、何もかも私にはない。生きてる価値も、生まれてきた意味も、なんにも、何ひとつない。
「なんにもない。本当に、何ひとつない。私は空っぽなの! そんな状況で、岩田君だったら生きていける?」
かすれた声は徐々に音になり、大きくなって陽平に降りそそいだ。
「精神科医? 笑わせないで。私のこと放っておいたじゃない。わかってて、私の身体が欲しいがためにそのまま放っておいたんでしょ? ほら、私の身体に、私とのセックスに価値があるって、あなたが身を持って私に証明したんじゃないの! 私はね、セックスがあるから生きていけるの。生きてていいって言ってもらえるの。セックスがあるから私に価値が生まれる。セックスで男を満足させる身体を持っているから愛してもらえる。それが私なの。私の持ってる全てなの! セックスをすればするほど心が満たされる。それが仮に一時(いっとき)のことだとしても、それすらなくなったら私はどうやって生きていけばいいの? 私の心と身体は、誰がどうやって満たしてくれるのよ! もう止めろ? 病院に行こう? 冗談じゃない。空っぽのままなんかじゃ生きていけない。なんにもない。真っ白。そんなの絶対にイヤ! 私にはセックスがないとダメなの。生きてなんていけないのよ!」
麻子は肩で息をしながら一気に言い募った。自分の空っぽの心を見つめ、探し、決して見つかることのない何かを、死に物狂いで求め続けていた。
ふいに麻子の口元に笑みが浮かんだ。身体の震えは止まらなかったが、血走った目には喜びの色が加わり、全身から怯えた影が消えた。
「でもね・・・でも、お父さんはいけないって言ったけど、セックスをしている時は本当に幸せなの。その時だけは生きてるって感じる。私には本当は価値があるんじゃないかって思う。イヤなことが全部消えていって、頭が真っ白になるの。身体が軽くなってすごく気持ちがいい。お父さんとしてた時には一度も感じなかったのに、今は違う。空っぽだった心が、幸せとか喜びとかで満ち足りていくのがわかる。男のモノで、力強く突いてもらえればもらえるだけ、どんどんどんどん満ちていくの。だからもっとしなくちゃいけない。しないとすぐ空っぽに戻っちゃう。セックスする前よりももっともっと空っぽになっちゃう。だからすぐまたしなくちゃいけないの」
「違うよ麻子。それは違う。・・・それは麻子がセックス」
陽平は思わずそう口走り、自分の口から出た言葉に気づいて口籠った。
彼は今まで患者からありとあらゆる種類の話を聞いてきた。その陽平ですら、麻子の語る自らの過去には、身が凍るほどのショックを受けていた。
自分がはじめて麻子に会った中学の時、すでに麻子の心は蝕(むしば)まれていたのだ。
麻子をオモチャのように扱い、言葉と身体で縛りつけたまま義父は死んだ。残された母の心はねじまがり、その全てを麻子に向けた。
彼女はそうやって、あの時あの場所に存在していたのか・・・。
「麻子・・・」
あまりの痛ましさに、陽平の声はため息となった。
麻子はゆっくりと声の主を振り返ったが、その顔は楽しく幸せだった夢から無理矢理起こされ、イヤな現実に引き戻されたかのように不機嫌だった。
「セックス依存症でしょ? 知ってるわよ。・・・だからなに?」
「どうして・・・」
「調べたからに決まってるじゃない。岩田君、私が何も知らないとでも思ってたの? 私のこと、何も知らないバカだとでも思ってるの? 今は知りたきゃなんだって調べられるわ。・・・あのね、私だって自分がおかしいことくらいわかってるの。ちゃんと知ってるのよ」
「だったら・・・だったらどうして止めないんだ! 危険だってこともわかってるのか? 身体だってボロボロになる。取り返しのつかないことになるかもしれないんだぞ!」
陽平は何もしてやれなかった虚しさと、自分への腹立たしさに叫んでいた。
もっと早く気付いていれば、もっと早く適切な行動を取っていれば・・・。
この数ヶ月、頭と心から離れることがなかった激しい後悔が次から次へと陽平を襲う。いくら悔いてももう遅い。それは充分わかっていた。
「麻子、もう止めよう。病院に行こう。そんなバカげたことをいくら続けも、もっともっと、どんどん空っぽになっていくだけだ。それもわかってるのか?」
「じゃあ・・・今の私からセックスを取ったら、いったい何が残るっていうの?」
麻子はかすれた声でつぶやいた。
もう何もない。仕事も、理沙も、お父さんも、お母さんからの愛も、何もかも私にはない。生きてる価値も、生まれてきた意味も、なんにも、何ひとつない。
「なんにもない。本当に、何ひとつない。私は空っぽなの! そんな状況で、岩田君だったら生きていける?」
かすれた声は徐々に音になり、大きくなって陽平に降りそそいだ。
「精神科医? 笑わせないで。私のこと放っておいたじゃない。わかってて、私の身体が欲しいがためにそのまま放っておいたんでしょ? ほら、私の身体に、私とのセックスに価値があるって、あなたが身を持って私に証明したんじゃないの! 私はね、セックスがあるから生きていけるの。生きてていいって言ってもらえるの。セックスがあるから私に価値が生まれる。セックスで男を満足させる身体を持っているから愛してもらえる。それが私なの。私の持ってる全てなの! セックスをすればするほど心が満たされる。それが仮に一時(いっとき)のことだとしても、それすらなくなったら私はどうやって生きていけばいいの? 私の心と身体は、誰がどうやって満たしてくれるのよ! もう止めろ? 病院に行こう? 冗談じゃない。空っぽのままなんかじゃ生きていけない。なんにもない。真っ白。そんなの絶対にイヤ! 私にはセックスがないとダメなの。生きてなんていけないのよ!」
麻子は肩で息をしながら一気に言い募った。自分の空っぽの心を見つめ、探し、決して見つかることのない何かを、死に物狂いで求め続けていた。