2009年03月28日

6

 麻子が階段をひとつ降りるたび、スカートの裾がひらりと舞った。
 幽鬼のような顔と痩せ細った身体。ひらひらと美しく舞う真っ白いフレアースカート。2つは反発しあいながらも奇妙に相合わさって、麻子の語る物語によりいっそうの不思議さを与えていた。
「私ね、どうすればお母さんが私を愛してくれるのかを一生懸命考えたの。それで思いついた。そうだ。目が不自由になった理沙の面倒を見ればいいんだって。いつだってあの子の面倒をちゃんと見てれば、お母さんは私に優しかったもの。だから頑張った。お母さんに殴られないように、蹴られないように、いつもいつも必死で理沙の面倒を見てきた。理沙が笑えばお母さんも一緒に笑ったし、理沙が泣けばお母さんは私を叩いた。だからいつも理沙が笑っていられるように、理沙が気持ちよくいられるように、それだけを考えて生きてきたの。おかげで理沙は、明るくてよく笑う子になった。目は見えなくても、何も不自由がないように私がしてきたんだもの。そうね、理沙」
 麻子はそう言って、階段の上に座り込んでいる理沙を見上げた。
 理沙は泣いていた。泣きじゃくっていた。
 サツキママの言うお姉ちゃんの原因とはこれのことなのか・・・。全てはこんな昔から始まっていたのか。それには確実に自分の存在も関わっている。知らなかった。そんなこと全然気付かなかった。ただただお姉ちゃんは、私を好きでいてくれて、愛してくれて、だから私を守ってくれるんだと思っていた。私はなんてバカだったんだろう。なんて無知だったんだろう。私の存在は、お姉ちゃんにどれだけの苦痛を与えていたんだろう。私を取り巻く環境と、お姉ちゃんのそれとはほとんど同じだったはずなのに、どうしてこんなにも違ってしまったんだろう。どうして・・・どうしてなの?

「理沙、何泣いてるの? 泣いちゃダメよ。泣いたら私がお母さんに叩かれる。お母さんが来ないうちに早く泣きやみなさい」
 麻子はまるで、幼子に話しかけるように優しく言った。しかし理沙は泣きやまなかった。やめることができなかった。
 泣きやまない理沙を見つめる麻子は、徐々に苛立っていった。手の甲をポリポリとかきはじめ、低いかすれた声で、とがめるように理沙の名を呼んだ。
「理沙・・・」
 それでも理沙は泣きやまず、嗚咽はよりいっそう大きくなった。
 麻子の苛立ちは次第に大きくなっていき、ただでさえボサボサの髪を両手でグシャグシャとかきむしり怒鳴りはじめた。
「泣きやみなさい理沙! 何をいつまで泣いているの!」
 理沙はビクッと身体を震わせ、思わず顔を上げた。
 麻子の身体は理沙に対する怒りと母に対する怯えでガタガタと震えていた。
「イライラする・・・。ああ、イライラする・・・。セックスしたい。セックスしたい。セックスしたいの! セックスさえできればこんなイライラすぐに収まるのに!」
 麻子は震える全身を両手で抱きしめ、その場にぺたんと座り込んだ。
 震え続けるその身体は、麻薬患者の禁断症状のように見えた。ガチガチと歯を鳴らし、全身を震わせながらも麻子はしゃべり続けるのを止めなかった。
「でもお父さんが、男はみんな麻子の身体だけが目当てで集まってくる悪いやつらだって言ってた。決して近づいたり、身体を許したりしちゃダメだ。お父さんだけが麻子を心から愛してるんだよって。だから・・・どんなにセックスしたくなっても、長い間、ずっとずっと我慢してた。お父さんをがっかりさせたくなかった。・・・でも・・・私にはセックス以外、人に愛してもらえる取り得がない。この世に存在してる価値だってない。お母さんがよく言ってた。あんたは本当にダメな子だって。なんてバカで、役に立たないんだろうって」
 麻子の心は、義父の身体と母の言葉に縛られ、支配されていた。
 義父から愛してもらうためだけに身体を与え続けた少女。本来無償で注がれるべき愛情が、麻子にとっては身体との交換でやっと手に入るものだった。しかもそれは、利己的で不純で独占的で、とても愛情と呼べるものではない。しかし麻子にとっては、それだけが確かなものだった。誰も麻子の行為が間違っているなどと教えるものはいない。

 母は麻子と夫との関係を知っていながら、見て見ない振りをしていたのだろう。麻子さえ与えておけば、生活も自分も安泰だったからに違いない。
 しかしそれ綱渡りのような生活も、夫の死によって全てが崩れ去った。母の鬱積した思いが、幼い麻子に向かっていくのは必然の結果だ。理沙の目の事故も、それに拍車をかけたのだろう。
 ・・・幼い少女の日常は、そうやって過ぎていったのだ・・・。
 麻子は自分の居場所を確保するために、生きていくために、自分の自我を殺すしかなかった・・・。
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2009年03月22日

5

 麻子は陽平をじっと見つめ、ニヤニヤと笑みを浮かべた。
「わかった。そういうことか」
 麻子はまるで、難解なクイズを解いた少女のように、ウキウキと明るい声で陽平に話しかけた。
「岩田君がどうして泣いてるかわかったわ。・・・仮にも自分の彼女って言われてる人が、こんなにも痩せて、こんなにもみすぼらしくなったことが悔しいんでしょう。こんな私、抱いてもつまらないと思ってるのね。でもお生憎様。こんな私でも欲しいって言ってくれる男の人は大勢いるの。・・・知ってるんでしょ? 私が今までしてきたこと。だから急に私を抱くの止めたんでしょ? でもね、どんなに痩せても私の身体は素晴らしいの。私のセックスはすごいの。本当はあなたにだってよくわかってるんじゃないの?」
 陽平はもう、何がなんだかわからなくなっていた。麻子はいったい何を言っているのだろうか。どうしてそんなふうに考えてしまうのか。いくら愛しても、決してこの人に届くことはないのか。無性に悲しかった。大声を上げて泣きたくなった。
「なんで・・・」
 陽平はポツンとつぶやいた。
「なんでそんなふうに考えるんだよ。どうしてわかってくれないんだよ。こんなに・・・こんなに愛してるのに・・・」
 陽平がそう言った途端、麻子はケラケラと大きな声で笑いはじめた。異常さが色濃くにじむその笑い声に、理沙も由紀も目を見開き、息を止めた。
「ああおかしい! あんまり笑わせないでよ。愛してる? バカらしい。あるわけないでしょ?そんなこと。こんな私を、誰が愛するっていうのよ。ありえないこと言ってないで、もっと楽しいことしましょうよ。私の身体が欲しいんでしょ? 私とセックスしたいんでしょ?」
「お姉ちゃん!」
 理沙がうわずった叫び声を上げた。麻子はそれにゆっくりと反応する。
「・・・何?」
 麻子の瞳に射すくめられ、理沙は上手く言葉を発することができない。
「どうしてそんなこと・・・言うの? 岩田さんは、お姉ちゃんのこと思って・・・お姉ちゃんのこと」
 麻子は顔に笑顔を張り付かせ、理沙に視線を注ぎ続けた。その表情はもはや神々しいと言ってさえよく、よりいっそうの恐怖を理沙に与えた。
 麻子は呆れたように言った。
「だから笑わせないでって言ってるじゃないの。私のことを思って? ありえないでしょ? どうして岩田君が私のことを思ったりするのよ。バカバカしいこと言わないで」
 麻子はスーッと息を吸い込むと、教え諭すように、そして誇らしげに語りはじめた。
「いい。この際はっきり言っておくわ。私のことを思って愛してくれる人は、お父さんしかいないの。お父さんだけが、私の心と身体、その全てを愛してくれたの。そりゃ最初は痛かったし、ヤダなって思うこともあった。でもそんなこと言ったら、唯一私を愛してくれるお父さんを傷つけることになる。だから私は、セックスしたくないなんて一度も言わなかった。どんな時でも、お父さんが欲しいって言ってくれたらそれに従った。その分お父さんは、本当に私を可愛がってくれた。そんなお父さんと私のことを、お母さんはいつも変な顔で見てたけど、結局何も言わなかった。お父さんと私は、血こそ繋がってなかったけど、本当の親子よりもずっと親密だったわ。愛し合ってた」
 想像だにしなかった麻子の言葉に、理沙は立っていることができず、階段の手すりにすがり、ずるずるとその場にくず折れた。
 まさかと思った。ありえないと思った。お父さんのことはほどんど記憶にない。理沙がたった3歳の時に死んだからだ。
 お母さんはお姉ちゃんを連れてお父さんと再婚したのだと、遠い昔に聞いたことがあった。確かに血は繋がっていない。でもまさかお父さんと、まだほんの子供だったお姉ちゃんが? それこそありえないじゃないか。
 お母さんは知っていたのか? 知ってて黙っていたのか? どうして・・・いったいどうして・・・!
 誇らしげに語っていたはずの麻子の口調が、急に沈みこんだ。
「でも・・・唯一私を愛してくれたお父さんは、私が10歳の時に死んじゃった。だからもう、私を愛してくれる人はこの世にいないの。いるはずがないの。お父さんは私を愛してくれた。でもその分お母さんは私を嫌ってた。きっとお父さんが、お母さんより私を愛してたことが悔しかったのね。私はお母さんが大好きだったけど、お母さんは私を憎んでた。本当は、お母さんに私の身体をあげることができればよかったのよね。セックスさえできれば、すぐに私のことを愛してくれるでしょ? でもこればっかりは無理だったわ」
 話しながら、麻子はゆっくりと階段を降りていった。歌うように、踊るように、まるで麻子は、童話でも語るように話して聞かせた。
 不思議なリズムを持つその話し方は、なぜか内容の悲惨さや嫌悪感を覆い隠し、聞いているものをどんどんとその世界に引きずり込んでいった。
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2009年03月15日

4

 室内インターフォンのコール音が診察室に響き渡った。
 陽平が疲れきった様子でノロノロと受話器を取り上げると、向こう側から戸惑ったようすの由紀の声が聞こえてきた。
「先生あの、お話中失礼します。今ここに・・・えっ?」
 由紀が待合室で誰かと話をしているようだ。
「本島君? どうしたの?」
 返事がない。どうしたのだろうと思っていると、突然受話器越しに由紀の大声が聞こえた。
「ちょっと待ってください。今は困ります! 先生は今・・・野村さん?!」
 ブツッという音と共に、唐突にインターフォンが切られた。
 野村? まさか麻子が来たのか・・・?
 陽平の目の前には、いぶかしんだ様子の理沙が、膝に置いたバッグをもてあそびながら座っている。診察室の入り口はそのすぐ後ろにあった。陽平は慌てて立ち上がる。
「岩田さん? 何かあったんですか?」
「ごめん理沙ちゃん、ちょっと待っててくれる?」

 今ここで、理沙と麻子を会わせてもいいものだろうか。麻子はパニックを起こすのではないか。それよりなにより、自分はもう麻子の治療をするのことはできない。麻子に対して、常に冷静でいることができないのだ。必ず私情が混じり、激したり大声を上げたりと、ただの恋に狂った愚かしい男になってしまう。今よりももっともっと、麻子の病状を進ませてしまう可能性すらある。どうしよう・・・いったいどうすれば・・・?
 陽平が迷いと戸惑いの中にいるとき、突然コンコンというノックの音がした。
 陽平が恐る恐るドアを開けると、そこには彼が会いたくて会いたくてたまらなかったはずの麻子が立っていた。
「麻子」
 息を呑み、息を吐き、呟きと共に陽平は麻子の名を呼んだ。
麻子の様子は一変していた。頬はやつれ、髪はパサついて乱れ、目の下には濃いクマができている。落ち窪んだ瞳はまるで生気を感じさせず、亡霊か幽鬼のように恐ろしく見えた。
 バサッ。
 ゆっくりと立ち上がった理沙の膝からバッグがこぼれ落ちた。
 麻子のドロドロとした視線が、陽平を通り越し音に向う。そこには両手で口元を覆い、息を呑んだまま立ち尽くす妹が立っていた。
「理沙・・・」
 麻子はひと言そう呟くと、きびすを返して走り出した。
「待てよ、麻子! ・・・麻子!」
 階段の途中で陽平の手が麻子の腕をつかむ。それは驚くほどに細く、弱々しい腕だった。どのくらいの間まともに食事をしていないのだろう。その痩せ方はまさに病的としか言いようがなかった。麻子は陽平につかまれた腕を振りほどこうとしたが、その力は小さい女の子のそれより弱かった。
「お姉・・・」
 麻子が階段の上から自分を見下ろす理沙を見た。驚きと戸惑いと恐怖と嫌悪、その全てをはらんだ理沙の視線は、麻子に自虐的といっていい喜びの快感をもたらした。
「ふふふ・・・」
 麻子は笑っていた。最初はニヤニヤと、そして次第にクスクスと声を出して笑いはじめた。
「なに? その目。言いたいことがあるなら言ったら?」
「お姉・・・ちゃん・・・?」
「そうよ。だから何?」
 理沙の瞳から、次々と大粒の涙が溢れ出した。
 悲しいとか、苦しいとか、辛いとか、そういうありふれた類(たぐ)いの涙ではない。麻子のその姿は、見ているだけで心をどん底にまで突き落とし、揺さぶる力をはらんでいた。
「どうして泣くの? 意味がわからない」
 麻子は面白そうに言った。愉快で愉快でたまらない、そんな笑顔だった。

 自分のせいだ。自分が麻子をここまで追い詰めたのだ。
 陽平の胸はキリキリときしみ、目には激しい後悔の涙が浮んだ。

 麻子の焦点の合わない視線は、次第にギラギラと輝きはじめた。
「岩田君までなに泣いてるのよ。変な人」
 麻子は満ち足りたような笑顔で、心底楽しそうにそう言った。
恐怖と嫌悪に顔を歪めた由紀は、階段下に呆然と佇み、全身をブルッと震わせた。
posted by 夢野さくら at 22:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 14番目の月

2009年03月08日

3

 診察室に入ると、理沙はペコッと陽平に頭を下げた。
 陽平が最後に理沙を見かけたのは、陽平が中学生のころだった。あれからすでに20年以上の時が過ぎていたが、理沙は驚くほど変わっていなかった。まるで彼女の上だけには、時間の流れが止まっていたかのようだ。
 理沙と麻子の持っている雰囲気は、姉妹だというのに驚くほど違っていた。でも、ほんの少し緊張しているように見える理沙の顔は、初めてここを訪れた時の麻子を彷彿(ほうふつ)とさせた。

「今日は突然お時間作っていただいて、本当にありがとうございます」
「そんなのいいから座って。ハーブティー淹れてもらったんだけど飲める?」
 まだ緊張がほぐれない顔で、理沙は小さく「ありがとうございます」といった。
「理沙ちゃん、ちょっと緊張してる? 大丈夫?」
 ソファに座り、理沙は照れたような笑顔を向けて、「病院の診察室には慣れてるはずなんですけど、ちょっと緊張してるかも。すいません」といった。
「精神科って、やっぱり雰囲気違うのかな。僕も白衣とか着てないしね」
「そのせいなのかな?」
 理沙は手持ち無沙汰なのか、一度ソファの上に置いたバッグを取り上げて膝に置き直し、ハーブティーを一口飲んでフゥと息を吐いた。
「どう? 少しは緊張ほぐれた?」
「はい・・・」
 理沙はまだぎこちなさが残る笑顔を陽平に向けた。

 さて、まず何から聞こうか・・・と陽平は考えた。
 どうしてここを知っているのか、それともなぜ自分に会いに来たのかを聞くのが先か・・・。どの順番で聞けば一番効率よく進められるだろうか。
 あれこれ思案しながら陽平がハーブティーのカップをつかむと、理沙が唐突に口を開いた。
「岩田さん。お姉ちゃんはセックス依存症という病気なんですか?」
 陽平は驚きのあまり手に持っていたカップを落としそうになった。

 なぜそれを知っているのだろうか。純也に聞いた? いや、彼は麻子が何かの病気であることには気付いていたけれど、セックス依存症であることは知らないはずだ。では調べたのか? それとも・・・。

 陽平の頭はめまぐるしく回転していたが、答えを導き出すことはできなかった。
「理沙ちゃん・・・どうして?」
「・・・実は1ヶ月ほど前、家に変な男から電話がかかってきたんです。それで・・・」
 理沙はこの1ヶ月の間に起こったことを、できるだけわかりやすく、順番通りに喋ろうと心がけた。
 陰湿な、ねっとりと絡みつくような声の男からの電話。その電話で麻子が銀行を辞めたと知ったこと。ひとりで銀行に行き、つかさと美鈴に話を聞いたこと。その日のうちに『紫頭巾』に行ったこと。噂になってしまった麻子の行動。麻子が陽平と付き合っていると知ったこと。
 そして・・・自分で調べなさい、そうすれば心の目が開くからとサツキに言われたこと・・・。

「帰ってから、純也さんにも話を聞きました。純也さんは始め、私がショックを受けるだろうって思って、自分は何も知らないって言ってました。でも、最後はちゃんと話してくれました。それから私、いろいろと自分なりに調べたんです。サツキさんの言っていた原因ってなんだろうって。私小さいころから、ずっとお姉ちゃんに守られてきました。それこそ何から何まで、全てにおいてです。お姉ちゃんがいなければ、今の私はここにいません。それは確かです。・・・だから、私にできることがあるならそれをやりたいんです。お姉ちゃんの役に立ちたいんです。私に何か、できることはありませんか?」
 理沙の話は、自分でも驚くほどのショックを陽平に与えていた。
 理沙が全てを知っていたことがショックなのではない。麻子の病状が、仕事を辞めざるを得ないほど進んでいたこと。そして何より、自分だけが麻子の退職を知らずにいたことが、陽平を思いもかけないほどに打ちのめしていた。なぜ自分が、こんなにも大事なことを、妹とはいえ人伝えで聞かなければならないのか。
 陽平は、自分がバカげた嫉妬をしているのだとわかっていた。同時に、自分はもう、麻子の主治医でいることはできないのだと思い知った。麻子に関してまるで冷静さを保つことができないのだ。
 会社を辞めたことを自分に言わなかったからといって、それがなんだというのだ。こんな嫉妬はあまりにもバカげている。それを頭では充分理解しているのに、嫉妬心が消えることはない。
 誰かを好きになるということは、人をこんなにも愚かな存在に変えてしまうのか。なんてバカバカしく、なんて醜く、なんて浅ましい・・・そして、なんて切ないんだろう・・・。

 陽平は急に、麻子に会いたいと思った。どうしても今、麻子に会いたいと思った。
posted by 夢野さくら at 23:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 14番目の月

2009年03月01日

2

 『新宿メンタルクリニック』の受付の電話が鳴った時、陽平はちょうど午前の診察を終えてちょっとした休みを取っていた。
 陽平が『紫頭巾』で麻子の話を聞いてから、すでに2ヶ月近くが経つ。最近麻子からの連絡が途絶え、全く会えない日々が続いている。早く麻子の診察をしなくてはと気ばかり焦るが、何もできないまま時間だけが過ぎていった。

「もしもしお待たせいたしました。『新宿メンタルクリニック』です」
 由紀が電話に出ると、聞き覚えのない女性の声が聞こえてきた。
「あの・・・私、野村理沙と申します。・・・岩田先生はいらっしゃいますか?」
「はい。少々お待ち下さい」
 野村・・・そういえば最近野村さん来てないなぁと思いながら、由紀は電話の保留ボタンを押し、診察室に繋がる室内インターフォンの受話器を持ち上げた。
「先生、野村理沙さんという方から、2番にお電話です」
「野村、理沙?」
「そうですけど」
「なんか聞いたことあるなぁ。野村理沙、野村理沙・・・野村・・・理沙?!」
 受話器の向こうから、陽平の焦ったような息づかいが聞こえてきた。
「わっわかった。すぐ出る!」
 ガチャ! っとインターフォンが切られた。そのあまりにも唐突で乱暴な音に、由紀は怪訝そうに受話器を見つめ、首を傾げた。

 野村理沙って、麻子の妹じゃないか!
 診察室で陽平はひとり焦っていた。
 どうしてここがわかったんだろう。麻子が教えたのか? いや・・・麻子がセックス依存症になったことと、妹のことは少なからず関係がある。妹という言葉にすら過剰反応していた麻子が、理沙にここを教えるとは思えない。じゃあどうして???
 何がなんだかわからないままに、陽平は電話の保留ボタンを押した。
「もしもしお電話代わりました。岩田です」
「あの・・・野村理沙と申します。野村麻子の妹です。突然お電話してしまって申し訳ありません。いつも姉がお世話になっています」
「理沙ちゃん、久しぶりだね。元気そうで安心したよ」
 受話器の向こうから、理沙の戸惑ったような声がした。
「えっ・・・?」
「・・・目が見えるようになったんだってね。お姉さんに聞いたよ。それから結婚式、もうすぐなんだって? おめでとう」
「・・・姉はそんなことを岩田さんに?」
「僕とお姉さんは中学時代の同級生なんだ。理沙ちゃんのことも、昔何度も見かけたことあるんだよ」
「そう・・・ですか」
「で、今日はどうしたの?」
「あの・・・岩田さん、私と会っていただけないでしょうか。できたら結婚式より前に会っていただきたいんです。無理でしょうか?」
 切羽詰ったような理沙の声。麻子と理沙がだいぶ長い間会っていないことは、この前純也から聞いていた。純也も理沙も、その原因がわからないと言っていた。しかし理沙から直接話を聞いてみたい。これは逆にいい機会なのかもしれないと陽平は思った。
「大丈夫だよ。理沙ちゃんはいつならいいの?」
 少しの沈黙のあと、理沙の声がした。
「・・・今日は、ダメですか?」
 その声は、ほんの少しだけ震えていた。
posted by 夢野さくら at 13:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 14番目の月