2009年01月31日

7

「あの・・・理沙さん? 大丈夫?」
 ショックで口を開くこともできない理沙に、リリィが心配そうに声をかけた。
 理沙は身動きひとつせず、人形のように固まっていた。
 勘違いだ。この人たちは何か大きな勘違いをしているんだ。
 理沙は何度も何度も心の中でそうつぶやき続けた。しかしそのたびに繰り返し起こる疑問が理沙を苦しめた。では、純也が見たのはいったい誰なのか。
 純也さんが嘘をついたというの? そんな・・・そんなはずはない。それはわかってる。ああ! でも・・・。
 理沙はとうとう黙っていることに耐え切れなくなった。黙っていると恐ろしい考えが頭を支配しようとする。理沙は突然大きな声を張り上げ、猛然と否定の言葉を口にした。
「嘘です! 何かの勘違いです。純也さんはお姉ちゃんとあまり会ったことがないから、たぶん他の人と見間違えたんです。絶対にそうです。そうに決まってます」
「理沙さん、そう思いたいのはわかるけど」
 ため息交じりのサツキの言葉を、理沙は勢いよくさえぎった。
「思いたいんじゃない! そうなんです! だってお姉ちゃんがそんなことするはずないもの。ありえないもの。お姉ちゃんはそんな人じゃない。あなたたちお姉ちゃんのこと全然知らないでしょ? お姉ちゃんのこと何もわかってないでしょ? 私はよく知ってます。小さいころからずっと一緒にいたんです。誰よりも一番よくわかってるんです。お姉ちゃんのこと、これ以上悪く言わないでください。そんなありもしない噂立てられて、お姉ちゃんがかわいそうです。あんまりです。ひどいです! ・・・私帰ります。こんなの耐えられません。・・・失礼します」
 理沙はまくし立てるようにそういうと勢いよく立ちあがった。
 もう何も聞きたくない。
 今にも泣き出しそうな理沙の瞳は、かたくなにそういっていた。オカマたちもつかさたちも、重苦しい空気の中で理沙の顔を見上げている。
「逃げるの?」
 低く鋭く落ち着いた声が響いた。理沙がその声の主を振り返ると、そこには薄い微笑を浮かべるサツキがいた。
「自分に抱えきれない事実は全て嘘ってことにしてしまえば、これほど簡単で楽なことはないわね。そうやって自分を騙して生きていけば、見たくないものは見ずにすむもの。そういう人とても多いわ。見ようと思えば見えるのに、決して見ようとしない人。あなたと麻子さんはすごく似てるのね、そういうとこ」
 理沙の目に力がこもった。怒りが一気に込み上げてくる。理沙は止めどもない怒りに胸が詰まった。生まれてはじめて感じる激しい怒りの塊。その塊が怒涛のごとく全身を駆け抜ける。
 同時に理沙は、その持て余すほどの激しさに戸惑いを覚えた。怒りの塊をどのように処理していいのかわからない。怒りの捌け口を見つけることができない理沙は、際限なく湧きあがる怒りになすすべもなく、黙ってサツキをにらみ続けるしかなかった。
「知りたかったのよね? あなたは全てを知りたかったんでしょ? あたし何度も聞いたわよね。覚悟がないままに真実を知ったらイヤな目に遭う。それでもいいのかって。あなた自分で言ったのよ。大丈夫だって。覚えてないの?」
 理沙は何も答えない。答えることができない。怒りと混乱で息がつまり、声が出なかったのだ。
 そんな理沙とサツキを、みんなは固唾を呑んで見つめていた。
「理沙さん、あたし言ったわね。人には家族であっても、ううん家族だからこそ知られたくないことがたくさんあるって。・・・例えばこのあたしよ。うちの両親は、あたしがオカマやってるなんて知らないわ。知ってほしくないの。もし知ってしまったら、ひどく傷つくでしょうからね。だから言わない。いくら家族であっても、血はつながってても、ひとりひとりが違う人間なの。性格も考え方も、人との付き合い方もみんな違う。あたしはあたし。あなたはあなただし、麻子さんは麻子さんの考え方や生き方がある。家族なんだから何でも知ってて当たり前だと思うのは傲慢なのよ。知らないでいた方がいいことなんて、それこそごまんとあるわ」
 サツキは一気にそこまで言うと、軽く息を吐き、理沙を正面から見つめなおした。
「それでもあなたは知りたいって言った。どんなことでも大丈夫だって言った。だったらその言葉に最後まで責任を持ちなさい。知ってしまったら最後、知らなかった時には戻れない。知ったあとに知りたくなかったなんて、口が裂けても言っちゃダメ。そんな覚悟のないやつに限って、何を聞いても驚かないから大丈夫なんて言うのよ。知ったら最後、責任を取るの。最後までとことん付き合うの。どんなに自分にとって辛く重い現実であってもね」
 理沙の胸に、サツキの言葉が強く重く突き刺さった。
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2009年01月24日

6

 サツキは理沙の瞳を正面から見つめ、話を続けた。
「理沙さん、あなたがお姉さんを思う気持ちは充分わかったわ。もしかしたらそれが麻子さんを助けることに繋がるかもしれない。でもね、人には家族であっても・・・ううん、家族だからこそ知られたくないことがたくさんあるの。それでも知りたいのなら覚悟がなければいけない。じゃないと、イヤな思いをするだけよ」
 そのちょっと突き放したような言い方に、理沙は一瞬躊躇した。しかしこのまま何も知らないでいることはできない。元の仲のいい姉妹に戻りたいのだ。
 理沙はゴクリを唾を飲み込むと、ためらいを押し隠して強く言った。
「大丈夫です。私は元のお姉ちゃんに戻ってほしいんです。そのためだったら、どんなことでもします」
 サツキは大きくため息を吐いた。
 この子は何も知らないお嬢さんなのだ。もちろん彼女の目のことは田島から聞いた。社会に出たことなど一度もないらしい。キレイな、美しいものしか知らないのだ。もしかしたらそれが、麻子を追い詰めた原因のひとつなのかもしれないとサツキは思った。
「元に戻ることなんてできないわ。できるのは前に進むことだけ。わかる?」
 サツキの言っている意味がわかっているのかいないのか、理沙は軽く眉間にシワを寄せた。
「知ってもあなたとお姉さんの仲が元に戻るわけじゃないの。逆に二度と埋まらない溝ができるかもしれない。その覚悟があるのかって聞いてるのよ」
 理沙は唇をギュッと結び、サツキの言葉を否定するようにジッと見つめた。
 この人は私とお姉ちゃんの関係を何も知らない。お姉ちゃんは私にとって何ものにも代えがたいかけがえのない存在だ。それはお姉ちゃんにとってもそうであったはず。埋まらない溝なんてあるわけがないのだ。
 理沙は少々ムキになって言った。
「大丈夫ですから言ってください。私は全てが知りたいんです」
「・・・わかったわ」
 サツキは覚悟を決めたように大きく息を吸い、それをはき出してから話し始めた。
「あたしが知っているのは、電話の男が言っていた噂の内容だけ。麻子さんがそれが原因で銀行を辞めたっていうのは、さっき始めて聞いたわ。・・・麻子さんは、愛っていう名前で『新宿メトロプラザホテル』のバーラウンジで男を誘っていたの。ありていに言えば、そこでつかまえた男の部屋に行って、セックスしてたってこと。それも毎回違う男と。もう何年も繰り返してたらしいわ。制服のように、いつも派手なピンクのミニドレスを着て、最初に声をかけてきた男について行った。それがどんなデブでも不細工でも、全くえり好みすることなくね。それが歌舞伎町界隈で噂になったの。メトロプラザのバーラウンジに行けば、ピンクのドレスを着たものすごくキレイな女とタダでやれるって。噂が広まって、いろんな男がバーラウンジを訪れるようになった。ホテルからしてみたらいい迷惑よ。そんなとんでもない噂がこれ以上広まったら、ホテルのイメージに計り知れない傷がつくでしょ? あそこはラブホテルじゃないんだから。で、ついに出入り禁止になった。これは歌舞伎町に詳しいある人から聞いたの。確かな情報よ。もしあなたが直接聞きたいと言うなら、いつでも案内するわ」
 全く言葉を挟むことなく、理沙は黙ってサツキの言葉を聞いていた。頭が真っ白になり、口を開くことすらできなかったのだ。
 まさか・・・ありえない・・・お姉ちゃんがそんなことするはずがない。
 理沙は否定の言葉を求めてつかさと美鈴に視線を移した。2人はあまりの居たたまれなさに理沙の視線を外した。
 その途端、理沙の視界が霞んだ。心臓が大きな手に鷲づかみされたかのように痛み、その痛みはどんどんと耐えがたいほどに高まっていった。
 苦しそうに顔を歪ませる理沙に、まるで追い討ちをかけるようにサツキが言った。
「このことは、あなたの婚約者である田島さんも知ってるわ」
 純也さんが・・・? なぜ? どうしてこの人が純也さんのことを知ってるの?
 喉に得体の知れない何かがつっかえ、スムーズに声が出ない。
 理沙はひしゃげたような、しわがれた声でサツキに尋ねた。
「どうして彼が、知ってるんですか?」
「あなたとお姉さんの仲を元に戻したくて、ひとりで麻子さんの家に行ったのよ。その時の成り行きで、彼は麻子さんのあとをつけるはめになった。そして彼女が男を引っ掛けているところを見ちゃったの」
 純也さんが、お姉ちゃんが男を引っ掛けているところを、見た?
理沙はすさまじいショックに顔を歪めた。ありえない。絶対にありえない。私の知っているお姉ちゃんはそんなことをする人じゃない。お姉ちゃんのことは私が一番よく知ってる。きっとなにかの間違いだ。この人たちは勘違いをしているんだ。純也さんだってそうだ。見間違いだ。たぶん・・・そうなのだ。そうに、決まってる・・・。
 理沙は壊れ出そうとする自分の心を保つため、必死で自分にそう言い聞かせた。
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2009年01月20日

5

 その夜、つかさと美鈴は、約束通り理沙を『紫頭巾』に連れてきた。
 問題が大きくなり過ぎ、自分たちだけでは処理しきれないと考えたのだ。事情は自分たちよりオカマたちの方が詳しく知っているかもしれないし、できたら「あとはママたちに任せるからよろしくお願いしますぅ・・・」くらいの心境になっていた。
 理沙は期待に満ちた目でオカマたちを見回し、「ここには姉がしょっちゅう遊びに来てるとお聞きしました。最近ではいつごろ来ましたか?」と尋ねた。その目は「ここに来さえすれば、いろんなことがわかるはず」と言っていた。
 ダンボは理沙の澄んだ視線に耐えきれず、ぎこちない笑顔を彼女に向けると、「ちょっと失礼しまぁす」とつかさを店の入り口に引っ張って行った。
「ちょっと! いったいどういうことよ! 野村さんはここに3回も来たことないのよ! 何でいつの間にしょっちゅう遊びに来てることになってんのよ!」
「だってしょうがないじゃない。野村さんがよく行くところに連れていけって言うんだもん。そんなの私、隣しか知らないの! この状況で精神科のクリニックになんて、妹さん連れてけるわけないじゃない」
「そりゃそうかもしれないけど、何もうちにくることないじゃないの」
「だって噂の内容知りたいって言うんだもん。そんなの困るじゃない、私たち。妹さんに言えるわけないもん」
「あたしたちだって困るわよ! ママにこれ以上あの件には首突っ込むなって言われてるのよ」
「こうなれば一蓮托生じゃない。一緒に困ろうよ。第一私たちがクリニックに行き辛くなったのだって、元はといえばリリィちゃんが理沙さんの婚約者、えっと田島さんだっけ? 彼をここに連れてきたことが原因じゃない。従業員の責任は、店全体で取ってもらわなくちゃ!」
「そうはいうけどねぇ、あれはあたしたちだって被害者なのよ」
 つかさはダンボの抗議を当然の如くスルーし、話を続ける。
「変な電話の男って、たぶん新宿支店の本永俊介だと思うのよね。あの人が噂をばらまいた張本人だってことで、今支店で悪者扱いらしいの。野村さんが銀行辞めたのは本永の嫌がらせのせいだとか、野村さんを相当妬んでたらしいとかね。銀行側が噂の真相確かめる前に野村さんが辞めちゃったから、行内では噂は本永が流したガセってことになってるのよね」
「・・・そう」
「理沙さんにはまだ何も言ってないけど」
「どうして? ガセってことになってるなら、隠すことないじゃないの」
 つかさはペロッと舌を出し、肩をすくめて言った。
「そうは言ってもぉ、万が一泣かれたら困るじゃない私たち」
「あのね、困るのはあたしたちだって一緒なのよ!」
 店の入り口でコソコソと話を続けるダンボとつかさ。いつまでも戻ってこない2人を、理沙はいぶかしげに見つめた。
「ほら理沙さん、ボーッとしないで飲んで飲んで!」
 マルコが明るい声をあげて飲み物を勧める。
「あらヤダ! グラス空っぽじゃないの。やぁねぇ、すぐ新しいの作るわね」
 つい先ほど、麻子が銀行を辞めたという衝撃の事実で、全てのグラスをオカマたちが飲み干していたのだった。
 理沙はマルコにぎこちない笑顔を向けながら、オカマたちの間に流れる微妙な空気を感じて取っていた。
 つかさたちは、ここに来さえすればいろいろなことを教えてくれるはずだと言っていた。しかしそれは間違いだったのか・・・。
 すっかり考え込んでしまった理沙に身体を向け、サツキはゆっくりと口を開いた。
「理沙さん、この隣のビルに『新宿メンタルクリニック』という精神科の病院があるのを知ってるかしら」
 サツキの思わぬ言葉に、『紫頭巾』の空気が一気に張り詰めた。
理沙は戸惑いながら答える。
「・・・いえ、知りません」
「そこのクリニックの先生は、岩田陽平っていう人よ。彼は麻子さんの中学時代の同級生で、今お姉さんとお付き合いをしている人なの」
「ママ・・・そんなこと言っちゃって大丈夫なの?」
 リリィが心配そうに囁く。
 サツキは大きく息を吐き出すと、リリィに疲れたような笑みを向けた。
「仕方がないわ。こうなったら覚悟を決めましょう」
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2009年01月12日

4

 三友銀行本店前で、理沙は麻子の携帯に電話をかけた。案の定コール音のあとに留守番電話サービスセンターに繋がった。
 ため息を吐いて電話を切り、すぐさまもう一度かける。今度は三友銀行本店人事部人事課への直通電話だ。3回ほどコール音が続いたあと、若々しい女性の声が聞こえた。
「お世話になっております。三友銀行本店人事課の川崎でございます」
 三友銀行では、新人の電話研修の時必ず叩き込まれることがある。それはまず、最初に自分の部署と名前を名乗れということだ。
 理沙には川崎という名前に聞き覚えがあった。確か随分前に麻子から聞いたことがある。おっちょこちょいだけど可愛らしい新人が入ってきたというのだ。
 電話研修で名前を名乗れと言われ、「お世話になっております。三友銀行人事課のつかさでございます!」と張り切って答えたらしい。
「川崎さんにとって名前っていうのは下の名前のことで、苗字じゃなかったみたいなの」と、麻子は可笑しそうにクスクスと笑いながら教えてくれた。その後も麻子の話には度々川崎の名前が混じるようになった。もしかして彼女なら何かを知っているかもしれない。
 理沙はゴクリと唾を飲み込みオズオズと尋ねた。
「あの・・・申し訳ありません。川崎つかささんでしょうか?」
 戸惑ったような間のあと、つかさが怪訝そうに言った。
「・・・はい。そうですけどどちら様でしょうか」
「野村です。野村麻子の妹の、野村理沙と申します」
 電話の向こう側で、息を呑むような音が聞こえた。理沙はそれを聞いた途端、麻子が銀行を辞めたという昨日の電話は事実なのだと分かった。
「お願いです川崎さん、電話を切らないで下さい! あの・・・会っていただけませんか? 姉はいつ銀行を辞めたんでしょうか? 部屋にはしばらく帰ってないみたいなんです。姉が辞めた理由をご存知じゃありませんか? お願いです! 会って下さい。昨日家に変な電話がかかってきて私・・・」
 勢い込んで喋りすぎ、理沙は思わず咳き込んだ。咳をしていると涙も一緒に流れてきた。この隙に電話を切られたらいけないと、喉を詰まらせながらも話し続ける。
「お願いです。会っていただけ、ませんか? 今銀行の前、まで来てるんです!」
 しばらくの沈黙のあと、つかさは少しだけ声を落として言った。
「あと40分ほどで昼休みに入ります。このビルの正面を背にして、左に少し行くと『Well Cafe』という喫茶店がありますから、そこで待っててもらえませんか?」
「ありがとうございます! お待ちしてます」

 約50分後、つかさは美鈴を伴って理沙の待つ『Well Cafe』のドアを開けた。
 昼時ということもあって、『Well Cafe』は大層混み合っていた。
 お互いの顔がわからない状況で、おまけに携帯電話の番号も交換し忘れていた。困ったなぁとつかさがキョロキョロと辺りを見回していると、美鈴が奥まった窓際の席を指差した。
「いた。たぶん彼女だと思う」
 とても可愛らしい雰囲気の女性が、窓から外を見つめていた。
 麻子とは人に与える印象がまるで違うけれど、横顔には面影がある。細く小柄な身体を包むバーバリーチェックのワンピースがよく似合う。清楚で可憐なお嬢さんという雰囲気だった。
「お待たせしました。野村さんですよね。川崎です。こちらは先輩の浅倉さんです」
「すいません、一緒に来ちゃって。お姉さんにはとてもお世話になりました。浅倉美鈴です」
「こちらこそ突然尋ねて行って申し訳ありませんでした。野村理沙です、はじめまして」
 つかさと美鈴が一通り注文を済ませると、理沙は改まって2人に尋ねた。
「あの、姉が銀行を辞めたっていうのは本当なんでしょうか」
 つかさは美鈴と気まずそうに視線を合わせたあと、口を開いた。
「・・・2週間くらい前です。全然知らなかったんですか?」
「・・・はい・・・」
「先ほどお電話でおっしゃっていた、変な電話ってなんなんですか?」
 理沙は、つかさと美鈴に昨日の電話の内容を話して聞かせた。
「噂っていったいなんなのかおわかりですか? それが本当に姉が銀行を辞めた理由なんでしょうか? それから、電話の男は誰なんでしょう。電話の内容を考えると、銀行関係者だと思うんです。でも口の利き方に気を付けろとか、男をないがしろにすると痛い目に遭うとか、ただの仕事仲間とは思えません。わかることはなんでもいいですから教えていただけませんか? それと、姉が行きそうな場所ってどこかわかりませんか? ・・・私、どうしても姉に会いたいんです。会わなきゃいけないんです。教えてください! お願いします!」
 理沙はテーブルに額が付きそうなくらいに頭を下げた。
 突然降って湧いた大量の質問に、つかさたちは途方に暮れた。どこまで答えていいのか、それとも何も言わない方がいいのか・・・。
 ほんの少しの間のあと、美鈴がおもむろに口を開いた。
「あの・・・理沙さん。申し訳ないんですけど、ここでは詳しくお話しする時間もないし、銀行の人が来るかもしれません。なのでもしお時間がありましたら、今日の夜もう一度お会いできませんか? 野村さんがよく行ってた場所にお連れします。『紫頭巾』っていうオカマバーなんですけど・・・」
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2009年01月04日

3

 理沙がつかさと美鈴に連れられ『紫頭巾』を訪れた前日・・・。

 トゥルルルル、トゥルルルル、トゥルルルル・・・。
 理沙はリビングに急ぎ、受話器を取り上げた。
「もしもし、野村さんのお宅ですか?」
 低い男の声だった。理沙は目が不自由だったせいもありとても耳がいい。一度聞いたことのある声を忘れることはほとんどなかったが、この声を聞いたのは初めてだと思った。なんとなく陰湿な響きをしている。セールスマンじゃないな・・・。
「そうですが、どちら様でしょうか?」
「・・・野村麻子が新宿でやりまくってるって噂になってるぞ。そのせいで銀行も辞めたよ。状況的には辞めざるを得なかったってことだろうけどな。噂っていうのはあっという間に広がるもんだ。・・・いいか、これからは口の利き方に気を付けろって言っておけ。男をないがしろにすると痛い目に遭うってな」
 男はそれだけ言うと、ブチっと電話を切った。
 理沙は驚きのあまりひと言も口をはさむことができなかった。
 お姉ちゃんが銀行を辞めた? 男をないがしろにする? 意味がわからない。新宿でやりまくってる噂ってなに? やりまくるってなにを? 男が言った「噂」という言葉が気になる。それが原因でお姉ちゃんが銀行を辞めた・・・。いったい何が起こったというのか。
 とにかく一刻も早くお姉ちゃんに会わなければならない。もうすぐ夕方の6時を回る。もし銀行を辞めているのだとしたら家にいるかもしれない。
 理沙は無我夢中で支度をして家を飛び出し、タクシーを止めた。
 理沙の心臓はバクバクと悲鳴を上げ、言い知れぬ不安が胸一杯に広がっていた。
 高田馬場近辺の明治通り沿いでタクシーを降りる。目の前に小奇麗な7階建てのマンションが建っていた。前に純也とドライブをした時、麻子の部屋はこのマンションの5階の左から3番目だと教えられた。見上げると、窓からの明かりはない。理沙はほんの少しだけホッとした。忙しい麻子は、平日の7時前に家にいることなど滅多にない。つまり銀行を辞めたというのはデマだったのだ。
 高鳴る心臓を抑えながら、理沙は必死でそう思い込もうとしていた。しかし陰湿でねっとりと響く電話の声は、理沙に真実の響きをもたらしていた。
 ずっと耳だけを頼りに生きてきた理沙の耳は、人の声の調子やニュアンスなどをとても敏感に感じ取れるようになっている。理沙の瞳からは、いつの間にか大粒の涙がポロポロと流れ出していた。
 理沙は玄関ホールのオートロックに503と打ち込んだ。・・・応答はない。やはりいないのだ。数回押してみたが出る気配はない。
 ふと玄関ホールの端に目を留めると、そこにはマンションのポストボックスがあった。近寄ってみると、503と書かれたポストからは、大量の新聞が入りきらずに飛び出していた。どう見ても1週間以上は家に帰ってないようだ。
 お姉ちゃんはどこへ行ってしまったのだろうか。もしかしたら出張? それとも会社に泊まりこみ? ありえないと思いながらも考えてみる。
 どこへ行けば麻子に会えるのだろう。考えてみればもう2年近く会ってはいない。ここ1年あまり、声さえ聞いていないように思う。唯一麻子の声を聞けるのは、留守番電話の応答メッセージだけ。いつからこんな関係になってしまったのか。自分の何が気に入らないのか。・・・本当に、あの電話の男が言ったことは真実なのか。噂とはいったいなんなのか。わからない。何もかもわからなくなってしまった。
 目が不自由だった時、理沙は自分の耳を信じていた。目が見えるようになった今、その耳から入ってくる音さえも、全てが自分を裏切っていくように感じる。
 理沙の全身は、何もかもを見失ってしまったような不安に震え、ただただその場にしゃがみ込むことしかできなかった。

 翌朝定期検診を受けたその足で、理沙はたったひとり三友銀行本店に向かった。
posted by 夢野さくら at 15:01| Comment(1) | TrackBack(0) | 14番目の月