2008年10月27日

6

 新宿歌舞伎町の深夜3時過ぎ。
 とぼとぼと当てもなく歩く純也の耳には、真夜中の喧騒も届かない。
 学生と思われる男女6、7人のグループが、コマ劇場前の広場で花火をしていた。キャッキャッという楽しそうな声が小さく聞こえる。
 純也はそちらにぼんやりとした視線を送ったが、再び当てもなくとぼとぼと歩き始めた。
 コマ劇場、東宝会館と通り過ぎ、そのままなんとはなしに右に曲がると、目の前に5人ほどの短い行列ができていた。
 並んでいるのは全て若い女性ばかり。しかも全員、一見して水商売だとわかる、露出の激しい身体のラインを際立たせるきらびやかな服を着ていた。
 なんだろうと純也が近づくと、列の先頭に見事な紫のモヒカン頭が揺れていた。
 小さな簡易テーブルの上には水晶玉があり、占い屋なのだということがわかる。深夜なのにも関わらず、人が並ぶというのがすごい。繁盛しているんだなぁと、純也は単純に感心した。
 占い師はリリィという名前らしい。机の後ろに小さなノボリが立っていて、『歌舞伎町のモヒカンオカマ・リリィの恋愛占い』と書かれていた。
 オカマのリリィは、物凄く威厳がありそうな顔つきで、真剣に占いをしている。もちろん占ってもらっている方も真剣そのものだ。
純也はなんとなく興味を引かれ、道の反対側からその様子を眺めていた。
 1人目が終了し、お客がリリィの手を握り締め、お礼を言って去って行く。長らく待たされた2人目がうれしそうに席に着くと、ふとリリィの視線が客の肩を通り越し、通りの向こう側を見つめた。眉間にしわを寄せ、あれ? といった表情を見せる。
 道の向こうに誰か知り合いでも見つけたのだろうか。客もなんだろうと後ろを振り向くので、純也もそれにつられ、通りの奥を見つめた。
 10メートルほど遠くに、ピンク色の服を着た女が見える。
「野村さん?」
 リリィがハッとしたような声で言った。
 ピンクの女はその声に気付かない。リリィはもう一度大きな声で呼んだ。
「野村さんでしょ?!」
 一瞬立ち止まった女は、チラッとだけこちらを見ると、逃げるように消え去った。
 間違いない、あれは麻子だ。
 このモヒカンオカマの占い師は、なぜ麻子のことを知っているのだろうか。やはりここらで噂になっているというのは本当だったのか。
 純也の心から、さっきまでの投げやりな気持ちは消えていた。しかし反対に、どうしようもないほどの悔しさこみ上げてきた。
あんまりだと思った。これじゃあ理沙があまりにもかわいそうじゃないか。
 彼女はいつも、見えない目をキラキラと輝かせ、麻子のことを語っていた。見えるようになったら、いつかきっとお姉ちゃんのようになりたいと、心の底から願っていた。
 あれが理沙がなりたかった理想なのか? あんな姉を見るために、理沙は危険を犯して大手術を受けたのか?
 違う! 絶対に違う! あんな麻子を見るために、理沙は手術を受けたんじゃない!

「クッソ!」
 いつの間にか純也はそうつぶやいていた。頭を抱え、小石を店のシャッターに向かって蹴り飛ばす。
「クッソ! クソォ!」
 つぶやきは次第に大きくなっていった。占いの列に並ぶ女たちは、危ない人を見る目付きで純也を遠巻きにしている。
「兄ちゃん、どうした?」
 一人の男が、地面にうずくまる純也の肩をトントンと叩いた。
 肩を叩かれ顔を上げると、目の前にThe・クラシカルヤクザといったパンチパーマが立っていた。
 リリィの憧れの男・里山仁平。歌舞伎町の用心棒で山崎会系暴力団仁科組の若頭だ。
 里山は純也の腕をガッチリつかんで立たせると、出身地・秋田の方言がなかなか抜けない独特のイントネーションで言った。
「気持ち悪りぃのか? ここさいると迷惑がかかるから、ちょこっとこっちさ来ねか?」
 純也には自分に降りかかった状況が飲み込めてない。ただただ、リリィに話を聞かなくては! とそれだけを思っていた。
「あの・・・すみません。えっと・・・あの人と話がしたいんです。迷惑はかけません。本当です。あとでも全然構いません。待ちます。お願いです。話をさせてください」
 遠巻きにしていた危なげな男から、突然の指名を受けたリリィ。こちらも純也に負けず劣らず状況が飲み込めない。
 里山に、里ちゃん! あたしどうすれば? と視線を送る。
「お願いです! 本当にご迷惑はおかけしませんから!」
 純也は必死に頼みこむ。
 里山は、純也が酒に酔っているわけではないことを確認し、「じゃリリィ、話っこくれぇ聞いてやれ。俺も一緒にいてやっから」と渋く言った。
 リリィはしぶしぶといった感じでうなずいたが、心の中では、『あたし、里ちゃんと今夜一晩一緒にいられるのねぇ!』との期待感ではちきれんばかりだった。
「いいわ。占いは4時頃終るからそれまで待てる?」
「大丈夫です」
 陽平をGET出来なくなった今、やはりあたしには里ちゃんしかいない!
 リリィは今夜里山を自分のものにする決意を固めた。
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2008年10月19日

5

 薄暗い明かりが煌く『新宿メトロプラザホテル』のバーラウンジ。
 壁一面に作られた窓からは、新宿新都心の夜景が美しい。
 夜の10時半を回ったラウンジは、スローテンポの昔懐かしい音楽が流れ、金曜の夜ということもあって、たくさんの人々が酒と会話を楽しんでいた。
 純也は、お一人様ですか? と聞くボーイに「待ち合わせをしてるんで、一周見て回っていいですか?」と尋ねた。
 ボーイはニコッと微笑んで、どうぞとばかりにラウンジ内に手を向けた。
 ラウンジはワンフロアを使った広々とした空間で、純也は麻子を見落とさないよう、慎重にフロアを回った。
 ほとんどを見て回り、やっぱり気のせいだったのだとホッと胸を撫で下ろした時、太い柱の影から濃いピンク色の肩が見えた。
 やはり麻子だった。あの横顔には確かに見覚えがある。たったひとりでカクテルを飲んでいるように見えるが、誰かと待ち合わせをしているのか。
 フロントの女性たちは、麻子がここらで噂になっていると言っていた。しかし麻子がいくら美人だからといって、誰かと頻繁に待ち合わせたくらいで噂になるはずはない。
 声をかけてみようか、でも・・・。
 純也が戸惑いと躊躇の中にいる時、純也の脇をひとりの男が横切り、麻子に向かって歩いて行った。
 茶系の細身のスーツを着た、30代後半に見える背の高い男だ。
「あの・・・おひとり、ですよね?」
 男の声に麻子は振り向き、妖艶に、そして誘うような微笑みを見せた。
 男は満足げにうなずき、「ご一緒してもよろしいですか?」と、断られるはずがないといった確信のありげな口調で言った。
「ええ、どうぞ」
 麻子が、当然のように隣のスツールを指した。
 初対面の男とグラスを傾けながら、麻子の目は誘うように男を見つめている。
 今ここで行われていることは現実なんだろうか。自分はいったいどうすればいいのだろう。出て行って声をかけるべきか。それとも傍観しているべきなのか。
 純也は混乱した頭で、ただただ呆然と麻子を見つめていた。
 グラスに残る美しいピンク色の液体が、シャンデリアの明かりを受けて煌く。麻子はその美しさなど何も感じていないようにグッと飲み干すと、テーブルの上に置かれた男の手をそっと握った。それが合図であるとばかりに麻子と男はスツールから立ち上がると、出口に向かって歩きはじめた。
 純也は気づかれないような距離感を保ちながら麻子のあとを追った。麻子と男だけを乗せたエレベーターが下へと降りていく。
エレベーターの回数表示が23で止まった。・・・宿泊者専用フロアだ。
 バーラウンジから出てきた男が、呆然と立ちすくむ純也を尻目にエレベーターを呼んだ。すぐに麻子たちを乗せていた箱がスルスルと上がってきて、純也の目の前で大きく口を開けた。
 エレベーターは当然のように空だった。
 間違いない。間違えようがない。
 想像すらしえなかった状況に、純也はただただ呆然とするしかなかった。
「乗らないんですか?」
 バーラウンジから出てきた男がエレベーター内から純也に声をかける。
「えっ? ああ・・・」
 何がなんだか分からないまま、純也はエレベーターに乗り込みフロントへと降りていく。エレベーターホールを見渡せるソファに座り、純也は乗り降りする客たちをぼんやりと見つめていた。

 何時間が過ぎたのだろうか。いつの間にか純也は疲れてうたた寝をしていたらしい。軽く肩を揺すられハッと目を覚ますと、目の前に、いい加減にして下さいとばかりに純也を見下ろすフロントマンが立っていた。
「お客様、このような場所で眠られますと困るのですが。お客様?」
「すいません・・・ウトウトしちゃって。もう帰りますから」
 時計を見ると、午前3時を回っていた。あれから5時間近くが経つ。麻子はまだこのホテルにいるのだろうか。それとも自分がうたた寝をしている間に帰ってしまったか。
 ・・・もういい。もう帰ろう。自分がこのままここにいることには、何の意味もない。
 純也はゆっくりとフロントを通りすぎ、正面玄関から表に出た。
 外はホテルのロビーよりも明るかった。目の前には、歌舞伎町は夜がない街なのだと実感させる光景が広がっている。深夜3時過ぎだというのにまだまだたくさんの人が溢れ、ザワザワとした空気が辺りを染めていた。
 あれっ? と純也は思った。車がないのだ。確かに停めたと記憶している場所には車の陰も形もなく、代わりにチョークで、車のナンバーと『レッカー移動 新宿警察署』とあり、電話番号が書かれていた。
 なんなんだよもう!
 純也は当たる相手のない苛立ちに、転がっていた空き缶を蹴り飛ばした。
 時間は午前3時を過ぎ、車もなく、当然電車は動いていない。
 純也は突然、全てのことがどうでもよくなった。
 麻子がホテルで何をしていようといいじゃないか。自分には関係ないし、例え全ての状況がわかったところで、こんなこと理沙に説明できるわけがない。そうだ、もう止めよう。こんなこと、やるだけ無駄だったのだ・・・。
 純也はがっくりと肩を落とし、当てもなく新宿コマ劇場方面に向かって歩き出した。
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2008年10月10日

4

 金曜の夕方、仕事を終えた田島純也は、三友銀行本店人事部に電話入れた。
 麻子はまだ残業をしているようだ。少々お待ちくださいという女性の声のあと、保留メロディーが流れた。

 純也と野村理沙との結婚式が再来月に迫っている。
 諸々の準備も順調に進み、案内状を出したほとんどの招待客から出席の返事が来た。しかしまだ、麻子からの返事はない。
 返事どころか、メール一通、電話一本来ないと、理沙がため息混じりにつぶやいていた。
 最近理沙はあまり食欲がない。この数ヶ月でかなり痩せてしまったようだ。
 なぜ麻子は、ここまで徹底的に理沙を無視するのだろう。
なぜなんだ。いったい何が気に入らないんだという怒りが、純也の中に湧き出していた。
 直接会って話がしたい。自分のことが気に入らないのならそう言ってほしい。何をしても無視される理沙の辛さをわかってもらいたい。もしそれでもダメなら、その時は仕方がない。理沙にきちんと話をして、もう麻子のことは忘れるように言おう。
 そう決意を固めた純也の耳に、先ほどの女性の声が聞こえた。
「お待たせして申し訳ございません。野村は今、他の電話に出ております。こちらからおかけ直しいたしますので、ご連絡先をお願いいたします」
「えっと・・・じゃあ結構です。またかけます」
 教えたところでかけてくるわけがない。純也は苦々しくそう思い、電話を切った。

 夜9時過ぎ、純也は直接麻子の家へ行こうと車を走らせていた。
まだ帰っていないようなら帰るまで待つつもりだ。
 明治通り沿いの麻子のマンションは、こ洒落たエントランスを構える瀟洒な建物だ。

 理沙の目が見えるようになってから、純也は何度も理沙をドライブに連れ出した。今まで見えなかった分を取り戻してやりたいと思っていた。
 そんなある日、理沙が突然お姉ちゃんのところに行きたいと言った。もちろん純也に、それを拒む理由などどこにもない。楽しそうな様子の理沙を乗せ、混雑した明治通りを走った。
 麻子の家が近づくにつれ、なぜか徐々に理沙の口数が少なくなり、顔から笑みが消えていった。
 純也はそれを不思議に思いながら、明治通り沿いに車を止めた。
「どうかしたの?」
「なんでもない。この名前のマンション、どれだかわかる?」
 理沙から渡された紙には、麻子の住むマンション名と部屋番号、住所が書かれていた。
 純也はその付近にある3軒のマンションを見て回った。
「理沙、あのマンションだよ。たぶん5階の左から3番目だと思う。見える?」
「うん、見える。ありがとう純也さん。どんなところか一度でいいから見てみたかったの」
 すでに麻子と連絡が取れなくなって、3ヶ月以上が経っていた。一応部屋まで行ってみようという純也に、理沙は寂しそうな笑顔を向けた。
「ううん、いいの。もう充分。突然行ったらお姉ちゃんに迷惑だと思うし」
 姉妹なんだからそこまで気を遣う必要はないんじゃないかと純也は思った。しかし目を伏せてため息を吐く理沙に、それを言うことはできなかった。

 9時半を少し回った頃、純也は麻子のマンションに到着した。
建物が見渡せる場所に車を止めると、麻子の部屋に目を向ける。
 窓には明かりが点り、レースのカーテン越しに柔らかな光を放っていた。
 純也は車を降り、急いで麻子の部屋へと向かった。
 マンションまであと数メートルと近づいた時、玄関ホールからひとりの女が出てきた。
 肩にかかる栗色の巻き毛。すらっとしたモデルばりの長身。ゾクッとするほどなまめかしい白い背中は、それを傲然と見せ付けるように深く開き、全体に細いプリーツ加工が施してあるピンクのミニワンピースを身に着けていた。
 お義姉さん? イヤ、まさかそんなはずは・・・。
 純也が声をかけるのをためらっていると、麻子と思われる女は、慣れた手つきでタクシーを止め、純也の前から消えようとしていた。
 一瞬の躊躇のあと、純也は急いで車に戻り、女が乗ったタクシーのあとを追いかけ始めた。

 麻子と思われる女は、新宿歌舞伎町近くにある、『新宿メトロプラザホテル』の正面玄関前でタクシーを降りた。
まっすぐにフロントを抜け、エレベーターホールに向かっていくのが見える。
 純也も路上に車を停め、慌ててあとを追った。
 ホテル・・・。ここに来るということは、誰かと待ち合わせでもしているのだろうか。
 あんな派手な服を着て会う相手とはいったい誰なんだろう・・・。
 誰でもいいか。そんなことは自分には関係ない。もし恋人にでも会うというのなら、今日麻子と話をするのは無理だ。
 肩から一気に力が抜けて、純也はフロントにごく近いソファに腰を下ろした。
 もう帰ろうか。いつまでも路上に車を停めておくわけにもいかない。
 今日一日の苦労が全て徒労に終ったのだ思い、純也が深いため息をついて立ち上がろうとした時、フロントから、軽蔑が色濃く混じる女性2人のささやきが聞こえた。
「また来たのね、あの人。今日も同じピンクのワンピ。まるで制服みたい」
「いつもながらあの背中はすごいわね。まさにパックリって感じ。キレイだからまだ見れるけど、どう考えても私は着られない」
 これはもしかして、麻子のことを言っているのだろうか。
「バーラウンジじゃ困ってるんだって。ここらで噂になってるらしいし」
「本当に? それマズイじゃない。うちはラブホテルじゃないんだから」
 バーラウンジ? ラブホテル? いったいどういうことだろう。噂になってるって?
 イヤな予感が、急速に純也の胸にこみ上げてきた。
 バーラウンジに行ってみようか。麻子がいなければ戻ってくればいい。でもいたら・・・。その時はその時だ。ここまで来たんだ。とにかく行ってみよう。
 純也は重い足を引きずり、エレベーターホールに向かっていった。
posted by 夢野さくら at 16:12| Comment(0) | 14番目の月

2008年10月03日

3

 陽平が診察室へと戻ってから数十分後、なんとかオカマたちは石像から人間へと戻った。
 由紀はソファに座り、淹れ直したハーブティーを美味しそうに飲んでいる。
 思いっきりくつろいだ様子の由紀を、ダンボはギロッと睨み付けた。
「今の何よ!」
「え〜〜〜。何のことですかぁ?」
「何じゃないわよ! 今先生、野村さんのこと麻子って呼び捨てにしたじゃないの」
「あら、気付きました?」
 そうすっとぼける由紀に、ダンボの血管は切れそうだ。
「気付かないわけないじゃないの! いったいどういうことなのか説明しなさいよ!」
「いいんですかぁ? 本当に言っちゃっても。あの2人の雰囲気を見れば、言わなくてもわかるんじゃないですか? うちメンタルクリニックなんで、ショックで息が止まっても治療できませんよ」
 マルコが地を這うような低い声で、恨めしそうに由紀に言った。
「・・・あんたもしかして、あの先生と野村さんを見せつけるために、わざとあたしたちを招き入れたってわけ?」
 由紀はニコッと小首を傾げて微笑むと、茶目っ気たっぷりに答えた。
「あら、それもわかっちゃいました?」
「キーっ! やっぱり罠だったんだわ!」
 マルコが地団太を踏んで悔しがる。
 由紀は満足げにソファから立ち上がると、コホンとひとつ咳払いをして言った。
「え〜みなさんよろしいですか? 先生と野村さんはああいうことになりましたので、これからは玄関の鍵も開けておくことにしました。もし先生をご覧になりたいならいつでもどうぞ。ただし、野村さんがいらっしゃることも多いので、2人のツーショットをご覧になりたくなければ、あまり頻繁にいらっしゃらない方がよろしいかもしれませんね」
 由紀はキーキーとわめきたてるオカマたちを尻目にゆっくりとソファに座り直すと、美味しそうにハーブティーを啜り、満足げなため息を吐いた。

 陽平は、麻子が帰った診察室に、たったひとりで立っていた。
 診察用のソファには、まだ麻子の温もりが残っている。陽平はその暖かさに手をかざし、大きなため息を吐いた。
 麻子と陽平が付き合い出して2ヶ月が経っていた。
 本来なら一番楽しい時期のはずなのに、陽平はとても疲れていた。たった2ヶ月で5歳も年を重ねてしまった気がするほどだ。
 麻子が帰ったあとは、いつでも猛烈な疲労感が押し寄せる。空しく切なく、どうしようもないほど胸が痛い。
 2人は会うと必ず肌を重ねる。麻子が望むからだ。しかしどんなに激しいセックスをしようとも、陽平はいつも麻子とひとつになれないもどかしさを感じていた。
 麻子の身体は開いていても、心は堅く閉じていると思えて仕方がない。
 そう感じてからというもの、陽平のむなしさは、麻子と会えば会うほど、肌を重ねれば重ねるほどより一層強くなっていった。
 麻子を心から愛している。その想いはますます強くなる一方なのに、陽平の「愛している」と言う言葉は、いつもむなしく空回りしていた。
 麻子は一度として、昼間屋外で会うことを承知しない。食事をしようと誘っても、映画を観ないかと言っても、いつも忙しいと断わられる。しかしそんな日にも、夜中に突然訪ねてきてセックスをせがむのだ。麻子から愛しているという言葉が聞けるのはその時だけだ。
 愛してるから私を抱いて。愛しているから早く。岩田君が欲しいの。もっともっと欲しい。
 麻子にそう言われれば、陽平には拒む手立てがない。
 でももう陽平は、麻子を抱きながら独りぼっちになりたくなかった・・・。

 麻子と肌を重ねるようになってから、陽平の頭にはあるひとつの病名が浮んでいた。それは否定しても否定しても湧き出してとめることができない。
 陽平には、まだその病気を患った患者を実際に診察したことがない。そしてそれを、自分への言い訳に使っていることも分かっている。
 もし本当にそうであるなら、麻子は一刻も早く治療を受けなければならない。その病気を多く扱う、専門の医療機関へ連れて行った方がいいかもしれない。しかし・・・。
 陽平は、自分が医者としてしなければならないことを充分に理解していた。理解していながら、男としての自分がその行動を阻止し、考えさせないようにしていた。
 一日一日が空しくあっという間に過ぎていく。毎日毎日麻子からの連絡を待ちながら、陽平は自分自身への嫌悪感に苛(さいな)まれていた。
posted by 夢野さくら at 16:36| Comment(0) | 14番目の月