陽平に激しく貫かれながら、麻子は初めて一夜限りのセックスをした日を思い出していた。
普段セックスをしはじめると、一切何も考えられなくなる。とにかく身体を突き上げる快感だけに身をゆだね、耳を澄ませる。そうすれば、耐え難い現実も、何の価値をも見出せない自分自身も、全て泡となって消えていくのだ。
しかし、なぜか今日は違っていた。
この数年間繰り返してきたさまざまな男とのセックスが、次から次へとまるで走馬灯のように麻子の脳裏をよぎった。
初めての日・・・。あれは約2年前の初夏だったと思う。
人事課長となって間もない頃。毎日毎日必死に仕事をこなしていた。
その日もいつもと変わらずに仕事をしていたのだが、昼過ぎに突然母から電話がかかってきた。大至急理沙が通院している病院に来いと言うのだ。
一瞬理沙の身にとんでもないことが起こったのではないかと焦った。目に異常が見つかったのか、それとも事故にでも遭ったのか。しかし母の声は思いのほか明るい。とにかく来てくれの一点張りで、理由はあとでと言うのだ。
ダメだと言っても聞く母ではない。
昔から母の言うことには全て従ってきた。そうしなければ母は私を認めてくれないのだから仕方がない。何とか仕事を調整し、急いで病院に向かった。
太陽が夏の色合いを濃くしていた。街路樹がまばゆいほどの日を浴びて、道に濃い影を作る。
理沙は私のせいで、太陽をサンサンと浴びて輝くこの景色を生涯見ることはできない。
私は、なぜあの時理沙を置いて家を出てしまったのだろうという、今まで何千回何万回も考えた繰言をまた考えはじめた。
理沙が愚図ったからといってそれがどうだというのだ。そんなことは問題じゃない。私は母から理沙を任されていた。例えどれほど理沙が愚図ろうと、無理矢理にでも連れて行くべきだった。
今更後悔しても遅い。何度考えても何度悔やんでも、理沙の目が見えることは決してないのだ。
大通りに出てタクシーを拾う。すぐに一台が止まり、病院に向かって走り出した。
病院までの20分間、いったい何が起きたのだろうかと考えた。
母の声の明るさからいえば、悪いことが起こったわけではないらしい。しかし病院へ来いということは、理沙の目に関係のあることだ。
もしかして、理沙の目が治る?
イヤ、そんなことはありえない。私は勢いよくその考えを打ち消した。そんなバカなことが起こるわけがない。理沙の目は手術もできない状態なのだ。治るわけがない。そう、治るわけなどないのだ・・・。
タクシーが病院の正面玄関に着いた。急いで待合室に向かうと、そこには顔を輝かせて私を待つ理沙と母が立っていた。
2人を見た瞬間「あれ?」と思った。どういうわけか、急に足元が揺れはじめた。リノリュームの床がアリ地獄にでもなったかのように、足が全く前に進まない。顔が強張っているのが自分でもわかる。なぜ急にそんな状態になったのだろう。
「お姉ちゃんが着たわよ」
母の声が優しく労わるように響く。理沙の顔が先ほどよりも一層輝きを増したかのように思えた。その輝きを見れば見るほど、どんどん足が床に埋もれていく。
何だろうこの感じは。
身がすくむような感覚が全身を覆いつくし、心がボロ雑巾のように絞られていく。喉に何か異物が挟まっているようで、呼吸が浅くなり、空気が胸まで入っていかない。
母が理沙を庇いながらじれったそうに私に近づいた。
「麻子、そんなところで何突っ立ってるの。さ、先生がお待ちなの。早く来てちょうだい」
母は私の変化など何も感じていないようだ。
母の目にはいつも理沙しか入っていない。理沙が無事であればあとはどうでもいいのだ。
わかっている。今始まったことじゃない。なのにどうしてこんなに胸が苦しいのだろう。
母は担当医が待つ部屋へと急ぎながら、一度だけ私を振り返ってこう言った。
「麻子、急いでちょうだい。先生はお忙しいんだから」
足はまるで錘(おもり)を付けられたかのように重い。スタスタと廊下を歩く母の後ろを、足を引きづり必死について行った。
「妹さんの手術には、羊膜の移植、輪部の移植、そして・・・」
理沙の担当医が手術の説明をしている。
でもその声は遠くかすんで聞こえ、ほとんど私の耳には入ってこない。
何でも理沙の目は治る可能性があるらしい。簡単な手術ではない。しかしやってみるかと聞いているみたいだ。
この医者はいったい何を言っているのだろう。そんなことが現実に起こるわけがない。もしそんなことが起こったら・・・もしそんなことが・・・。
理沙の目が治る? それはすごいことだ。素晴らしいと思う。・・・素晴ら・・・しい・・・。
本当に? 本当にそう?
・・・何だかよく、わからなくなってきた。本当に治るのなら、もちろん喜ばしいに決まっている。それは間違いない。当然のことだ。頭では充分わかっているのに、私はどうしてこんなにイライラしているのだろう。なぜこれほどの焦燥感が、私の心をかき乱すのだろう。私はおかしい。私は変だ。理沙に心からよかったと言ってあげられない。言いたくない。なぜなんだろう。
私は自分がよくわからない。
2008年08月31日
7
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| 14番目の月
2008年08月24日
6
「・・・何? 私の顔に何か付いてる?」
麻子はいぶかしげに陽平に言った。
夜の7時40分。
クリニックの診察室に、2人は向かい合うかたちで座っていた。
間を隔てるものは何もない。陽平は自分でも気付かないうちに、麻子の顔を穴が開くほど見つめていたのだ。
陽平はハッと我に帰り、ここは病院で、麻子は診察に来ているのだと自分に言い聞かせた。
陽平の頭の中には、夕方由紀に言われた「先生は野村さんが好きなんですよね」という言葉が渦を巻いている。「先生が野村さんを好きだってことは、誰が見てもわかります」とも言っていた。つまりは麻子にもわかっているということか?!
慌てた陽平は、一気に顔が赤く染まるのを感じた。
「どうしたの? 岩田君。顔真っ赤だよ」
麻子がクスッと笑ったように見えた。
「いやあの・・・これはその・・・」
「ん?」
俯いてしまった陽平の頭の中から、今が診察中であることも、麻子が患者なのだということも全て消えてなくなった。
麻子への想いが抑えきれないほど膨れあがり、陽平はたどたどしく口を開いた。
「あのさ、野村・・・。えっと、ごめん・・・。こんなこと突然言うのはどうかと思うんだけど、あの・・・俺・・・」
陽平はゆっくりと麻子の顔を見上げた。
麻子は陽平の真っ赤な顔をニコッと微笑みながら見つめ、先を促すようにささやいた。
「何?」
麻子が陽平の気持ちを知っていたことは明白だ。わかっていながら先を言って欲しがっているのだと陽平は思った。
その考えに背中を押され、陽平はひと言ひと言を噛み締めるように言った。
「野村・・・俺・・・。俺、野村のことが好きだ。中学の時からずっとずっと好きだったみたいだ。医者として、患者である野村にこんなこと言うのはどうかと思ってたんだけど、でも・・・」
その先を言わないうちに、陽平の唇は麻子の唇でふさがれた。
軽く触れる程度のキス。陽平の全身は、一気に火がついたように燃え上がった。
唇が離れていく前に麻子の身体を抱き寄せ、もう一度自分から唇を合わせていく。2人のキスは徐々に激しさを増していった。
麻子は陽平の手を取ると、ゆっくり自分の胸へといざなっていく。陽平は服の上からそっと麻子の胸に触れた。次第にその手は激しさを増し、ブラウスの中へと入っていった。
「ずっと、こうして欲しかったの・・・」
麻子は喘ぐようにそう言うと、ホッと小さく息を吐いた。
麻子の下着は濡れていた。トロトロとした液体が流れ、ストッキングを濡らす。
麻子はセックスができるという快感に酔いしれていた。
こうして欲しかった。ずっとこうして欲しかったのだ。
今日の昼、また会社に母から電話がかかってきた。内容はわかっている。理沙の結婚式に出ろと言うのだ。
電話を切ると、またあの感覚が蘇った。
セックスがしたい! どうしようもなくしたい。
今の私の苦しさを癒すことができるのはセックスだけなのだと思った途端、強烈なめまいが襲ってきた。
身体がグラリと揺れ、倒れ込みそうになる。
その時、麻子は今日、クリニックに予約を入れていることを思い出した。
めまいが急激に薄れ、視界がクリアになった。
陽平なら、この苦しさから私を救ってくれる。彼とセックスをすればいいのだ。陽平がずっと私の身体を求めていたことは、ずいぶん前からわかっていた。どうして早く言ってくれないのだろうと思っていた。
よかった。相手がいた。
麻子は心の底からホッとして、夜になるまでの長い時間を、必死な思いで待ち続けた。
ここが診察室であるという認識は、2人の頭から完全に消えていた。
診察用のソファに横たわり、激しく求め合った。麻子のスカートをたくしあげ、陽平の手が下着に伸びる。ストッキングをおろし、彼女の空虚な部分を隠す最後の布に手をかける。
隙間から手を滑らせ、麻子のぐっしょりと濡れたくぼみに指を這わせた。麻子の全身に稲妻のような快感が駆け抜け、昼間のイヤな出来事を全て忘れさせた。
「・・・麻子・・・麻子、愛してるよ」
うめくような陽平のささやき。
「私も・・・」
麻子はそう言いながら、・・・これでいつでもセックスできる。よかった・・・と、小さく安心の吐息を漏らした。
麻子はいぶかしげに陽平に言った。
夜の7時40分。
クリニックの診察室に、2人は向かい合うかたちで座っていた。
間を隔てるものは何もない。陽平は自分でも気付かないうちに、麻子の顔を穴が開くほど見つめていたのだ。
陽平はハッと我に帰り、ここは病院で、麻子は診察に来ているのだと自分に言い聞かせた。
陽平の頭の中には、夕方由紀に言われた「先生は野村さんが好きなんですよね」という言葉が渦を巻いている。「先生が野村さんを好きだってことは、誰が見てもわかります」とも言っていた。つまりは麻子にもわかっているということか?!
慌てた陽平は、一気に顔が赤く染まるのを感じた。
「どうしたの? 岩田君。顔真っ赤だよ」
麻子がクスッと笑ったように見えた。
「いやあの・・・これはその・・・」
「ん?」
俯いてしまった陽平の頭の中から、今が診察中であることも、麻子が患者なのだということも全て消えてなくなった。
麻子への想いが抑えきれないほど膨れあがり、陽平はたどたどしく口を開いた。
「あのさ、野村・・・。えっと、ごめん・・・。こんなこと突然言うのはどうかと思うんだけど、あの・・・俺・・・」
陽平はゆっくりと麻子の顔を見上げた。
麻子は陽平の真っ赤な顔をニコッと微笑みながら見つめ、先を促すようにささやいた。
「何?」
麻子が陽平の気持ちを知っていたことは明白だ。わかっていながら先を言って欲しがっているのだと陽平は思った。
その考えに背中を押され、陽平はひと言ひと言を噛み締めるように言った。
「野村・・・俺・・・。俺、野村のことが好きだ。中学の時からずっとずっと好きだったみたいだ。医者として、患者である野村にこんなこと言うのはどうかと思ってたんだけど、でも・・・」
その先を言わないうちに、陽平の唇は麻子の唇でふさがれた。
軽く触れる程度のキス。陽平の全身は、一気に火がついたように燃え上がった。
唇が離れていく前に麻子の身体を抱き寄せ、もう一度自分から唇を合わせていく。2人のキスは徐々に激しさを増していった。
麻子は陽平の手を取ると、ゆっくり自分の胸へといざなっていく。陽平は服の上からそっと麻子の胸に触れた。次第にその手は激しさを増し、ブラウスの中へと入っていった。
「ずっと、こうして欲しかったの・・・」
麻子は喘ぐようにそう言うと、ホッと小さく息を吐いた。
麻子の下着は濡れていた。トロトロとした液体が流れ、ストッキングを濡らす。
麻子はセックスができるという快感に酔いしれていた。
こうして欲しかった。ずっとこうして欲しかったのだ。
今日の昼、また会社に母から電話がかかってきた。内容はわかっている。理沙の結婚式に出ろと言うのだ。
電話を切ると、またあの感覚が蘇った。
セックスがしたい! どうしようもなくしたい。
今の私の苦しさを癒すことができるのはセックスだけなのだと思った途端、強烈なめまいが襲ってきた。
身体がグラリと揺れ、倒れ込みそうになる。
その時、麻子は今日、クリニックに予約を入れていることを思い出した。
めまいが急激に薄れ、視界がクリアになった。
陽平なら、この苦しさから私を救ってくれる。彼とセックスをすればいいのだ。陽平がずっと私の身体を求めていたことは、ずいぶん前からわかっていた。どうして早く言ってくれないのだろうと思っていた。
よかった。相手がいた。
麻子は心の底からホッとして、夜になるまでの長い時間を、必死な思いで待ち続けた。
ここが診察室であるという認識は、2人の頭から完全に消えていた。
診察用のソファに横たわり、激しく求め合った。麻子のスカートをたくしあげ、陽平の手が下着に伸びる。ストッキングをおろし、彼女の空虚な部分を隠す最後の布に手をかける。
隙間から手を滑らせ、麻子のぐっしょりと濡れたくぼみに指を這わせた。麻子の全身に稲妻のような快感が駆け抜け、昼間のイヤな出来事を全て忘れさせた。
「・・・麻子・・・麻子、愛してるよ」
うめくような陽平のささやき。
「私も・・・」
麻子はそう言いながら、・・・これでいつでもセックスできる。よかった・・・と、小さく安心の吐息を漏らした。
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| 14番目の月
2008年08月17日
5
『新宿メンタルクリニック』の看護師、本島由紀は暇だった。
最近クリニックでは、玄関に鍵をかけ、オカマたちを撃退するというナイスアイディアを実行している。おかげで予約患者しか入れなくなり、大層静かな待合室となった。
BGMのクラシックも軽やかに響き渡りいい感じ。
しかし・・・と由紀は思った。
クリニックに勤め出してから約5年。毎日のようにオカマたちとのバトルを繰り返してきた。そんな由紀には、この静けさが何だか物足りないのだった。
鍵をかけるっていうのはちょっとやりすぎだったかなぁ・・・と、今までの由紀らしくないことまで考えてしまう。
こんなことを思うのも、全て暇がいけないのよと由紀はため息を吐いた。
今日も、さっき帰った患者を除くと、夜に麻子の予約が入っているだけだ。
「暇だなぁ・・・」
そうつぶやくと、由紀は診察室のある2階を見上げた。
近頃陽平の様子がおかしい。そわそわしているというか、落ち着きがないというか、いつもボーっとしていてうわの空なのだ。さっき帰った患者にも、
「近頃先生、ちょっとおかしくないですか?」
と言われたばかりだ。
何でも、患者は陽平に気分転換を兼ねた温泉旅行の話をしたという。
「とてもいい気分転換になりました。先生も温泉がお好きだっておっしゃってましたよね」
「えっ、好き? いや・・・好きっていうか、気になるっていうか・・・。つまり助けたいんです。救ってあげたいって思うんです。本当です! 他意はありません」とキッパリ言い切ったと言うのだ。
原因はわかる過ぎるくらいにわかっている。陽平は麻子が好きなのだ。麻子の予約が入っている日は、うわの空度数が高いという証拠も上がっている。
最近由紀は予約を調整し、麻子の診察のある日は極力他の患者を入れないようにしている。
「全くもう・・・」
玄関に鍵がかかっているのをいいことに、由紀はソファに寝ころびブツブツ文句を言い始めた。
「先生が野村さんを好きなのは確か。それは全然いい! ただ先生もいい大人なんだから、初めて恋をした中学生みたいになるのはやめてほしいのよね。患者さんにだっていい迷惑じゃないの。う〜ん・・・どうしたもんだかねぇ・・・」
暇を持て余している由紀は、そんなことをつぶやきながらウトウトと眠りに落ちていった。
「本島君、本島君って。起きなさいよ」
ハッと気が付くと、由紀の目の前に陽平が呆れ顔で立っていた。時計を見ると夕方の5時半すぎ。なんと1時間以上も寝ていたことになる。
「すいませ〜ん。患者さんが来ないからつい・・・」
「ついって、いつ電話がかかってくるかわからないんだよ。気を付けてよね」
「・・・はい。申し訳ありませんでした」
謝りながらも、由紀はちょっと不満げだ。
麻子の予約日を暇にしなくちゃならないせいで、他の日にシワ寄せが来て大変なのよ。それもこれも、先生が初恋中学生になって何にも手に付かなくなったのが原因じゃない。暇になったら居眠りぐらいするっつうの!
そんな由紀の文句タラタラな視線にさらされた陽平は、ちょっと仏頂面になって由紀を見た。
「・・・何」
いつまでもこんな状態が続くのはまずい。今がいい機会だ。ちゃんと言っておいたほうがいいと由紀は思った。
由紀は自分の座っているソファの向かいを指差した。
「先生、ちょっとそこに座ってください。大事なお話があります」
由紀の改まった声と態度に戸惑いながら、陽平は黙ってソファに座った。
「単刀直入に言っちゃいます。先生はLikeじゃなくloveの意味で、野村麻子さんが好きなんですよね」
あまりの単刀直入さに、陽平はしどろもどろになった。自分でも何を言っているのかわからない。
「なっ! ななななな」
何を突然言い出すの? と言いたかったらしい。しかし陽平の言語感覚は乱れまくってしまった。
「そっ! そそそそそ」
今度は、そんなことないよぉ、と言いたかったようだ。しっちゃかめっちゃかになっている陽平の姿は由紀の哀れを誘った。ため息をひとつ吐き、優しげな口調で話し出す。
「・・・先生。そんなに慌てないでください。先生が野村さんを好きだってことは、誰が見てもわかります。野村さんを好きなのは何の問題もないんです。問題なのは、先生が初めて恋をした中学生みたいになっていることなんです。いいですか」
恥ずかしさに顔を真っ赤に染め、下を向いてしまった陽平に、由紀は得々と説教をはじめた。
最近クリニックでは、玄関に鍵をかけ、オカマたちを撃退するというナイスアイディアを実行している。おかげで予約患者しか入れなくなり、大層静かな待合室となった。
BGMのクラシックも軽やかに響き渡りいい感じ。
しかし・・・と由紀は思った。
クリニックに勤め出してから約5年。毎日のようにオカマたちとのバトルを繰り返してきた。そんな由紀には、この静けさが何だか物足りないのだった。
鍵をかけるっていうのはちょっとやりすぎだったかなぁ・・・と、今までの由紀らしくないことまで考えてしまう。
こんなことを思うのも、全て暇がいけないのよと由紀はため息を吐いた。
今日も、さっき帰った患者を除くと、夜に麻子の予約が入っているだけだ。
「暇だなぁ・・・」
そうつぶやくと、由紀は診察室のある2階を見上げた。
近頃陽平の様子がおかしい。そわそわしているというか、落ち着きがないというか、いつもボーっとしていてうわの空なのだ。さっき帰った患者にも、
「近頃先生、ちょっとおかしくないですか?」
と言われたばかりだ。
何でも、患者は陽平に気分転換を兼ねた温泉旅行の話をしたという。
「とてもいい気分転換になりました。先生も温泉がお好きだっておっしゃってましたよね」
「えっ、好き? いや・・・好きっていうか、気になるっていうか・・・。つまり助けたいんです。救ってあげたいって思うんです。本当です! 他意はありません」とキッパリ言い切ったと言うのだ。
原因はわかる過ぎるくらいにわかっている。陽平は麻子が好きなのだ。麻子の予約が入っている日は、うわの空度数が高いという証拠も上がっている。
最近由紀は予約を調整し、麻子の診察のある日は極力他の患者を入れないようにしている。
「全くもう・・・」
玄関に鍵がかかっているのをいいことに、由紀はソファに寝ころびブツブツ文句を言い始めた。
「先生が野村さんを好きなのは確か。それは全然いい! ただ先生もいい大人なんだから、初めて恋をした中学生みたいになるのはやめてほしいのよね。患者さんにだっていい迷惑じゃないの。う〜ん・・・どうしたもんだかねぇ・・・」
暇を持て余している由紀は、そんなことをつぶやきながらウトウトと眠りに落ちていった。
「本島君、本島君って。起きなさいよ」
ハッと気が付くと、由紀の目の前に陽平が呆れ顔で立っていた。時計を見ると夕方の5時半すぎ。なんと1時間以上も寝ていたことになる。
「すいませ〜ん。患者さんが来ないからつい・・・」
「ついって、いつ電話がかかってくるかわからないんだよ。気を付けてよね」
「・・・はい。申し訳ありませんでした」
謝りながらも、由紀はちょっと不満げだ。
麻子の予約日を暇にしなくちゃならないせいで、他の日にシワ寄せが来て大変なのよ。それもこれも、先生が初恋中学生になって何にも手に付かなくなったのが原因じゃない。暇になったら居眠りぐらいするっつうの!
そんな由紀の文句タラタラな視線にさらされた陽平は、ちょっと仏頂面になって由紀を見た。
「・・・何」
いつまでもこんな状態が続くのはまずい。今がいい機会だ。ちゃんと言っておいたほうがいいと由紀は思った。
由紀は自分の座っているソファの向かいを指差した。
「先生、ちょっとそこに座ってください。大事なお話があります」
由紀の改まった声と態度に戸惑いながら、陽平は黙ってソファに座った。
「単刀直入に言っちゃいます。先生はLikeじゃなくloveの意味で、野村麻子さんが好きなんですよね」
あまりの単刀直入さに、陽平はしどろもどろになった。自分でも何を言っているのかわからない。
「なっ! ななななな」
何を突然言い出すの? と言いたかったらしい。しかし陽平の言語感覚は乱れまくってしまった。
「そっ! そそそそそ」
今度は、そんなことないよぉ、と言いたかったようだ。しっちゃかめっちゃかになっている陽平の姿は由紀の哀れを誘った。ため息をひとつ吐き、優しげな口調で話し出す。
「・・・先生。そんなに慌てないでください。先生が野村さんを好きだってことは、誰が見てもわかります。野村さんを好きなのは何の問題もないんです。問題なのは、先生が初めて恋をした中学生みたいになっていることなんです。いいですか」
恥ずかしさに顔を真っ赤に染め、下を向いてしまった陽平に、由紀は得々と説教をはじめた。
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| 14番目の月
2008年08月09日
4
「最近課長の様子がおかしいんだよね。何か知ってる?」
つい先日、同じ部署にいる彼氏・新田栄司に、つかさは突然そう聞かれた。
最近仕事の最中も恋愛モードのつかさは、自分と彼氏以外の何も見えていない。麻子どころか、周りがどんなに激しい変化をしたところで、見ていないのだから気付くはずもないのだった。
ある日、栄司は急ぎの書類をプリントアウトして、課長である麻子のデスクに向かった。
「課長、これにハンコをお願いします」
麻子はそれに全く反応することなく、黙ってデスクのパソコン画面を見つめていた。
不思議に思った栄司が覗き込むと、土気色の顔をした麻子が身体を小刻みに震わせている。具合でも悪いのだろうかと、栄司は慌てて麻子を呼んだ。
「課長、課長? どうしました?」
何度も呼ばれると、麻子はハッとしたように顔を上げた。
唇は、まるで一晩中水に浸かっていたかのように真っ青で、完全に血の気が引いている。
これは大変だ。風邪だろうか。それにしてもこの顔色は・・・。
「課長、医務室に行きましょう」
栄司は麻子を立たせようと、デスクに手をかけた。
すると麻子が突然、これが最後の命綱だと言わんばかりにその手を握った。
栄司は握られた手の冷たさに驚き、まるで死人のようだと思った。
「大丈夫よ。ちょっとこのままで」
かすれ、震える麻子の声。大きな音など出したら壊れてしまいそうだ。
周りは何も気付いていない。
リストラの情報が行内を席巻している今、みんな自分の評価を上げようと必死だ。他人を気にかける余裕などどこにもないのだ。
いつの間にか麻子の震えが止まっていた。顔にも血の気が戻ってきた。
麻子はホッと息を吐いて、何事もなかったかのように言った。
「ごめんなさい。もう大丈夫よ。えっと、何?」
「お疲れのようですね。ちゃんと寝てます? 顔色悪いみたいだし」
「・・・大丈夫よ。心配しないで」
麻子は曖昧な微笑みを返すだけで、具体的なことは何ひとつ言わなかった。
それからというもの、栄司は麻子の様子を気にかけるようになった。
「何かの病気かな。ここのところ、度々真っ青になる課長を見るんだけど、何か知ってる?」
「う〜ん・・・わかんないなぁ。最近あんまり野村さんと話してないし。でも私が紹介した病院には、ちゃんと通ってるみたいよ」
つかさからだいたいの事情を聞いたリリィが、早速得意の水晶占いを開始した。
「陽平先生のところで治療はじめて、もう2ヶ月くらい経つのに、まだ不眠症治らないのかしら」
水晶玉を見つめつつ、リリィが心配そうにそう言うと、マルコがまるで原因の一端をつかんでいるかのようにキッパリと言った。
「眠れないだけで顔が土気色になると思う? 身体だって震えないと思うわ。これは何か別の原因があると思うの!」
「別の原因って何?」
サツキもダンボもつかさも美鈴も、全員瞳を輝かせてマルコの答えを待った。
マルコは一同をゆっくり見回すと、さらにキッパリと言い切った。
「それはわからない!」
『紫頭巾』中に鳴り響くブーイングの嵐を上手くかわしながら、マルコは美鈴に聞いた。
「美鈴ちゃん何か知ってる?」
「関係あるかどうかわからないけど、最近野村さんのお母さんから、よく銀行に電話かかってくるの。その電話がある度に、野村さん具合悪そうにしてたのよね」
「・・・そう言えばそうですね。この間なんて私、いないって言ってくれって言われました」
「川崎さんも言われたの?! 私も言われた」
「美鈴さんも?」
「ええ・・・。お母さんと何があるのかはわからないけど、でもそれだけで身体が震えるわけないじゃない? だからそれが原因かって言われると、違うような気はするのよねぇ・・・」
つかさと美鈴の話を聞いても、麻子に何があるのかはまるでわからない。でも麻子の体調は、何かの病気ではないかと思わせるほど悪そうだ。
いまだ不眠も改善されていないらしい。
一同の頭の中に『?』マークが10個ほど浮かび、いつの間にか全員が腕組みをして考え込んでいた。
つい先日、同じ部署にいる彼氏・新田栄司に、つかさは突然そう聞かれた。
最近仕事の最中も恋愛モードのつかさは、自分と彼氏以外の何も見えていない。麻子どころか、周りがどんなに激しい変化をしたところで、見ていないのだから気付くはずもないのだった。
ある日、栄司は急ぎの書類をプリントアウトして、課長である麻子のデスクに向かった。
「課長、これにハンコをお願いします」
麻子はそれに全く反応することなく、黙ってデスクのパソコン画面を見つめていた。
不思議に思った栄司が覗き込むと、土気色の顔をした麻子が身体を小刻みに震わせている。具合でも悪いのだろうかと、栄司は慌てて麻子を呼んだ。
「課長、課長? どうしました?」
何度も呼ばれると、麻子はハッとしたように顔を上げた。
唇は、まるで一晩中水に浸かっていたかのように真っ青で、完全に血の気が引いている。
これは大変だ。風邪だろうか。それにしてもこの顔色は・・・。
「課長、医務室に行きましょう」
栄司は麻子を立たせようと、デスクに手をかけた。
すると麻子が突然、これが最後の命綱だと言わんばかりにその手を握った。
栄司は握られた手の冷たさに驚き、まるで死人のようだと思った。
「大丈夫よ。ちょっとこのままで」
かすれ、震える麻子の声。大きな音など出したら壊れてしまいそうだ。
周りは何も気付いていない。
リストラの情報が行内を席巻している今、みんな自分の評価を上げようと必死だ。他人を気にかける余裕などどこにもないのだ。
いつの間にか麻子の震えが止まっていた。顔にも血の気が戻ってきた。
麻子はホッと息を吐いて、何事もなかったかのように言った。
「ごめんなさい。もう大丈夫よ。えっと、何?」
「お疲れのようですね。ちゃんと寝てます? 顔色悪いみたいだし」
「・・・大丈夫よ。心配しないで」
麻子は曖昧な微笑みを返すだけで、具体的なことは何ひとつ言わなかった。
それからというもの、栄司は麻子の様子を気にかけるようになった。
「何かの病気かな。ここのところ、度々真っ青になる課長を見るんだけど、何か知ってる?」
「う〜ん・・・わかんないなぁ。最近あんまり野村さんと話してないし。でも私が紹介した病院には、ちゃんと通ってるみたいよ」
つかさからだいたいの事情を聞いたリリィが、早速得意の水晶占いを開始した。
「陽平先生のところで治療はじめて、もう2ヶ月くらい経つのに、まだ不眠症治らないのかしら」
水晶玉を見つめつつ、リリィが心配そうにそう言うと、マルコがまるで原因の一端をつかんでいるかのようにキッパリと言った。
「眠れないだけで顔が土気色になると思う? 身体だって震えないと思うわ。これは何か別の原因があると思うの!」
「別の原因って何?」
サツキもダンボもつかさも美鈴も、全員瞳を輝かせてマルコの答えを待った。
マルコは一同をゆっくり見回すと、さらにキッパリと言い切った。
「それはわからない!」
『紫頭巾』中に鳴り響くブーイングの嵐を上手くかわしながら、マルコは美鈴に聞いた。
「美鈴ちゃん何か知ってる?」
「関係あるかどうかわからないけど、最近野村さんのお母さんから、よく銀行に電話かかってくるの。その電話がある度に、野村さん具合悪そうにしてたのよね」
「・・・そう言えばそうですね。この間なんて私、いないって言ってくれって言われました」
「川崎さんも言われたの?! 私も言われた」
「美鈴さんも?」
「ええ・・・。お母さんと何があるのかはわからないけど、でもそれだけで身体が震えるわけないじゃない? だからそれが原因かって言われると、違うような気はするのよねぇ・・・」
つかさと美鈴の話を聞いても、麻子に何があるのかはまるでわからない。でも麻子の体調は、何かの病気ではないかと思わせるほど悪そうだ。
いまだ不眠も改善されていないらしい。
一同の頭の中に『?』マークが10個ほど浮かび、いつの間にか全員が腕組みをして考え込んでいた。
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| 14番目の月
2008年08月02日
3
「ありがとうございましたぁ! またいらしてね〜ん」
サツキとマルコが、お客を地上入り口で見送る。
新宿二丁目のあちこちから同じようなダミ声が上がった。
もうすぐ終電が出る時刻。さまざまな店からお客が一斉に溢れ出し、駅への道を急いでいく。
ふとサツキが、『新宿メンタルクリニック』の入っている隣のビルを見上げた。
全ての部屋の電気が消え、真っ暗だ。
「あ〜あ・・・今日はもう、先生お帰りになったのね」
最近クリニックの玄関には鍵がかかるようになった。診察の予約を入れてチャイムを鳴らさないと、待合室に入れない仕組みになったのだ。全て由紀の仕業である。
店への階段を降りながら、マルコはブツブツとサツキに愚痴った。
「ねぇママ、あたしたちもうどのくらい先生と会ってないのかしら」
「そうねぇ・・・かれこれ2週間くらいになるわね」
ため息をつきながら店のドアを開けると、最後に残っていたつかさと美鈴が、まだまだ宵の口だといわんばかりに盛り上がっていた。
美鈴はすっかり『紫頭巾』の常連となり、週に一度は通って来ていた。
麻子が来ることはなかったけれど、『紫頭巾』はまぁまぁの上客をひとりGETしたことになった。
「ここって、なんとなく居心地がいいのよね。なんでなのかな」
美鈴はそう言うと、面白そうに店内を見渡した。
壁は一面キレイなラベンダー色。テーブルや椅子にもどこかに必ず紫色が入っている。
これはもちろん、店名『紫頭巾』にかけているのだけれど、実はそれだけではない。ラベンダー色というのは、精神を癒す効果があると言われているのだ。
『紫頭巾』はそのカラー効果によって、自然にお客がくつろげる空間になっていたのだ。
「そうそうつかさちゃん。また今度野村さん連れてきてよ」
「あ〜ダンボちゃん! 先生と野村さんがどうなってるのか知りたいんでしょ」
「あら、つかさちゃんは気にならないわけ?」
「実はぁ、最近彼氏ができました! なので野村さんと先生がくっついてもいっこうに構いませ〜ん」
つかさの彼氏ゲット宣言に、『紫頭巾』が揺れた。
「何それ〜! 裏切り者〜!」
悲鳴にも似た怒声が響き渡り、阿鼻叫喚の渦を巻き起こす。
一同が冷静さを取り戻すまで、約15分という時間を要した。
興奮しまくりで、ハァハァと肩で息をしながら、新しい彼氏のことを根掘り葉掘り聞き出すオカマたち。
彼氏の新田栄司が同じ部署にいると聞いたダンボは、思いっきりつかさを罵った。
「いやぁねぇ、身近で手を打ったりして! この根性なし。もっと高みを目指しなさいよ。第一同じ職場なんて、周りの皆さんに迷惑じゃないの。ねぇ美鈴ちゃん!」
「そうそう、仕事中に目配せなんかしちゃったりして。気が散って仕方がないわぁ」
美鈴がつかさをからかうが、当の本人はヘッヘッヘッと笑うだけ。いっこうに反省の色を見せる気配すらなかった。
「そういえば美鈴さん」
「何よ」
「この前新田さんが言ってたんですけど、最近の野村さんっておかしいと思いますか?」
「おかしい?」
「そうなんです。実はね・・・」
サツキとマルコが、お客を地上入り口で見送る。
新宿二丁目のあちこちから同じようなダミ声が上がった。
もうすぐ終電が出る時刻。さまざまな店からお客が一斉に溢れ出し、駅への道を急いでいく。
ふとサツキが、『新宿メンタルクリニック』の入っている隣のビルを見上げた。
全ての部屋の電気が消え、真っ暗だ。
「あ〜あ・・・今日はもう、先生お帰りになったのね」
最近クリニックの玄関には鍵がかかるようになった。診察の予約を入れてチャイムを鳴らさないと、待合室に入れない仕組みになったのだ。全て由紀の仕業である。
店への階段を降りながら、マルコはブツブツとサツキに愚痴った。
「ねぇママ、あたしたちもうどのくらい先生と会ってないのかしら」
「そうねぇ・・・かれこれ2週間くらいになるわね」
ため息をつきながら店のドアを開けると、最後に残っていたつかさと美鈴が、まだまだ宵の口だといわんばかりに盛り上がっていた。
美鈴はすっかり『紫頭巾』の常連となり、週に一度は通って来ていた。
麻子が来ることはなかったけれど、『紫頭巾』はまぁまぁの上客をひとりGETしたことになった。
「ここって、なんとなく居心地がいいのよね。なんでなのかな」
美鈴はそう言うと、面白そうに店内を見渡した。
壁は一面キレイなラベンダー色。テーブルや椅子にもどこかに必ず紫色が入っている。
これはもちろん、店名『紫頭巾』にかけているのだけれど、実はそれだけではない。ラベンダー色というのは、精神を癒す効果があると言われているのだ。
『紫頭巾』はそのカラー効果によって、自然にお客がくつろげる空間になっていたのだ。
「そうそうつかさちゃん。また今度野村さん連れてきてよ」
「あ〜ダンボちゃん! 先生と野村さんがどうなってるのか知りたいんでしょ」
「あら、つかさちゃんは気にならないわけ?」
「実はぁ、最近彼氏ができました! なので野村さんと先生がくっついてもいっこうに構いませ〜ん」
つかさの彼氏ゲット宣言に、『紫頭巾』が揺れた。
「何それ〜! 裏切り者〜!」
悲鳴にも似た怒声が響き渡り、阿鼻叫喚の渦を巻き起こす。
一同が冷静さを取り戻すまで、約15分という時間を要した。
興奮しまくりで、ハァハァと肩で息をしながら、新しい彼氏のことを根掘り葉掘り聞き出すオカマたち。
彼氏の新田栄司が同じ部署にいると聞いたダンボは、思いっきりつかさを罵った。
「いやぁねぇ、身近で手を打ったりして! この根性なし。もっと高みを目指しなさいよ。第一同じ職場なんて、周りの皆さんに迷惑じゃないの。ねぇ美鈴ちゃん!」
「そうそう、仕事中に目配せなんかしちゃったりして。気が散って仕方がないわぁ」
美鈴がつかさをからかうが、当の本人はヘッヘッヘッと笑うだけ。いっこうに反省の色を見せる気配すらなかった。
「そういえば美鈴さん」
「何よ」
「この前新田さんが言ってたんですけど、最近の野村さんっておかしいと思いますか?」
「おかしい?」
「そうなんです。実はね・・・」
posted by 夢野さくら at 22:56| Comment(0)
| 14番目の月