「もう平気。痛みもだいぶ引いたわ」
理沙は座り込んでいたレストランの階段から立ち上がり、確かな足取りで歩き出した。
日曜の午後二時過ぎ。歩行者天国となっている銀座中央通りはとんでもない人の多さだ。
純也は理沙が人にぶつかるのではないかと気が気ではない。理沙をギュッと自分に引き寄せ、落ち着かなげに周囲を見つめていた。そのあまりの真剣さに、理沙は噴き出しそうになった。
「本当にもう大丈夫。純也さんはお姉ちゃんと同じくらい心配性ね。昔ね、お姉ちゃんがね、」
理沙の話にはしょっちゅう麻子が出てくる。
純也が理沙と出会ったのは、大学を卒業し、東京都福祉保健局に勤め出してまもなくのことだった。
知り合ってから8年、付き合い出して5年経った今でも、いつも理沙の話の中心は麻子だった。
この前お姉ちゃんがこう言った。昨日お姉ちゃんがこんなことをしてくれた。お姉ちゃんはすごいのよ。お姉ちゃんはね・・・。
理沙が麻子のことをどんなに心の支えにしているのか。麻子がどれほど理沙を慈しみ、守ろうと努力しているのか。純也には理沙の表情を見ているだけで、わかりすぎるくらいにわかった。
目の見えなかった十数年、理沙にとって麻子はこの世の全てだった。理沙と麻子のこれまでを考えれば、それは当然の結果だと思う。
それは充分わかっていながら、純也は麻子に対し、徐々に嫉妬を覚えるようになっていった。
自分が麻子の代わりになりたい、自分が理沙を支えたい。
・・・そして純也は、理沙に結婚を申し込んだのだった。
「君の目が見えないことは、僕にとって本当に些細なことなんだ。僕は理沙と一緒にいたい。2人で一緒に年を取っていきたい。大丈夫。2人で支えあっていけば、どんなことだって乗り越えられる。そう思わない? ・・・僕と、結婚してください」
「・・・はい。よろしくお願いします」
理沙の見えない目から、涙がポロポロとこぼれ落ちた。
だが、理沙の母は猛反対した。目の見えない理沙との生活がどういうものか、あなたには全然わかってないと言われた。当然麻子も同じ理由で反対した。
それから1年、純也と理沙は、母と麻子への説得を続けた。
徐々に母の心が動きはじめた時、目の手術が可能となった。
簡単な手術ではない。輪部と言われる部分を移植するのだ。確実に視力が戻るという保証があるわけでもない。しかし成功すれば、理沙の目は見えるようになる。このまま手術をしなければ、それこそ何も変わらない。なによりも理沙自身が、手術を心から望んでいた。
理沙の手術は成功した。ついに念願の視力を取り戻したのだ。
初めて純也の顔を見た理沙は、茶目っ気たっぷりにこう言った。
「意外とハンサムだったのね。もっと変な顔かと思った」
幸せに満たされたその笑顔。純也は一生その笑顔を見て暮したいと思った。
もう理沙の母は結婚に反対しなかった。する理由などどこにもない。
手術後の経過も順調に進み、1年が経った頃、純也は正式に理沙と婚約した。
母は理沙の手をギュッと握り、溢れる涙に声を詰まらせながら言った。
「おめでとう、理沙。純也さん、理沙をよろしくお願いします」
麻子は何も言わなかった。理沙の目が治った途端、黙って実家を出て行った。
あれほど理沙を可愛がり慈しんでいたはずの麻子が、なぜか突然理沙との連絡を絶つようになった。
理沙には何が起こったのかわからなかった。自分が何か麻子を怒らせるようなことでもしたのだろうか。
何も思い当たらない。留守番電話に用件を吹きこんでも、携帯やパソコンにメールを入れても、返事が来ることはない。結婚式も多忙を理由に断わられた。いったいどういうことなのだろう。
混雑した銀座中央通りを歩きながら、理沙は急に黙り込んだ。
どうして連絡をくれないのだろう。いくら忙しいといっても、電話ぐらいできるはずだ。
話がしたい。お姉ちゃんがどう思っているのか。なぜ急に私と距離を置くようになったのか。こんな気持ちのままじゃ結婚なんてできない。お姉ちゃんが出席できない結婚式なんて、私にとって何の意味もない。
「お姉ちゃんが出席でき」
理沙はハッとして口をつぐんだ。
・・・お姉ちゃんが出席できないなら、やっぱり結婚式は伸ばしたい・・・。
隣には純也がいた。こんな自分と結婚したいと言ってくれた純也に、そんなことが言えるはずはなかった。
理沙は急に泣きたくなった。目が見えなかった時、手に取るようにわかっていると思っていた麻子の気持ちが、見えるようになった途端何もわからなくなった。
本来なら幸せの絶頂であるはずの理沙の全身が、見る見るうちに途方もない悲しみに包まれる。
それを黙って見つめる純也の目に、ある決意が宿った・・・。
2008年07月26日
2
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| 14番目の月
2008年07月19日
第2章 1
夏の日差しがまだ残る9月中旬の日曜日。銀座4丁目交差点に建つ和光の時計が午後二時を指した。
歩行者天国となっている中央通りには、日曜の銀座を楽しむ人で溢れ返っている。
田島純也も、久しぶりに婚約者の野村理沙を連れ、銀座でランチを取っていた。
食事を済ませ、薄暗い地下の店からさんさんと光る太陽の下へ出る。あまりのまぶしさに、純也は一瞬目を細めた。ハッと後ろを振り返ると、すでに太陽の光は理沙の目を射抜いている。純也にすら強烈と感じる日差しが、目の悪い理沙にとって毒でないはずがない。
痛い! 理沙は思わず階段に座り込み、ギュッと目を閉じた。サングラスをし忘れていたのだ。目を開けられず、手探りでバッグの中を漁る。慌てた純也が、代わりにバッグの中からサングラスを取り出し理沙に渡した。
「ごめん、気が付かなくて。大丈夫? えっとどうしよう。病院行った方がいいかな。あ、でも今日は日曜日だ・・・」
純也は焦った。どうしよう・・・理沙の目に何かあったら・・・。そんな純也の気配を感じ、理沙は目をつぶったまま顔を上げて微笑んだ。
「そんなに心配しないで。私は大丈夫よ。目薬さして、しばらくこうしてれば治るから」
「でも・・・本当にごめん。僕がもっと注意してれば」
「本当に大丈夫。サングラスをし忘れた私がいけないの。もう手術して2年も経つのに、まだ目が見えるってことに慣れてないのね」
そう言うと、理沙はクスッと笑った。
目は痛い。でもこの痛みは目が見えるという証拠なのだ。それを思えば少しぐらいの痛さは我慢できる。目が見えなかった20数年間を思ったら、こんな痛みなどなんでもない。むしろ理沙には、目が見えるという信じられないほどの幸福を、何度何度も実感させてくれる嬉しい痛みなのだ。
理沙が3歳の時、父が亡くなった。母は働きに出なければならず、幼い理沙の面倒は、7歳年上の姉・麻子が見ることとなった。
理沙が4歳になったある日、その事故は起こった。
その日麻子は、母に頼まれていた買い物へと出かけていた。いつもなら必ず理沙を一緒に連れて行くのだが、出かけに理沙が「出かけたくない! 家で遊びたい」と散々駄々をこねた。
頭にきた麻子は、理沙を放ってひとりで家を出ていってしまった。
置いていかれた理沙は無性に悲しくなり、ワーワーと泣き叫んで麻子を呼び、そこら中にあるものを投げ散らかした。
おもちゃ、座布団、麻子のランドセルなど、手当たり次第に放り投げた。投げるものがなくなると、理沙はトコトコと洗面所に向かった。
洗面台の下の戸を開けると、中にはさまざまなものが詰まっていた。シャンプーやリンスの買い置き、トイレットペーパー、洗濯洗剤。その他見たこともない色鮮やかな数々のボトル。
理沙の手がその中の一本に触れた。キャップが緩んでいる液体のカビ取り剤だった。
理沙は容器をギュッとつかむと、それを持ち上げた。途端中身の液体が勢いよく飛び出し、理沙の顔面を直撃した。見開いた目にも大量の液体がかかった。
あっという間の出来事で、理沙には何が起こったのかわからなかった。ただ猛烈に痛いと思い、理沙はゴシゴシと目を擦った。 何万本もの針が目に刺さったような痛みが走り、瞼を開けることができない。まだたった4歳の理沙には、目を洗うという考えは浮ばなかった。麻子が帰ってきて、自分を助けてくれるのを待つしかなかったのだ。
怖かった。理沙は今まで、これほどの恐怖を味わったことがなかった。どうすることもできない時間が、そして理沙の視力を奪うのに充分な時間が過ぎていった。
買い物から戻ってきた麻子が目にしたのは、あまりの痛さと恐怖に気を失い、倒れ込んでいる理沙だった。
夕暮れの日差しが入り込んだアパートに、麻子の理沙を呼ぶ悲鳴が響き渡った。
適切な初期治療ができず、病院に行くのも遅すぎた。
理沙の目の角膜は濁り、視力が極端に低下した。
白目と黒目の境で、輪部と言われる部分にも障害が出ていた。そのため角膜移植すらできないと言われた。
理沙の目は、医療技術の進歩で、輪部移植が可能になるまでの長い間、モノを見る能力をほとんど失っていたのだった。
歩行者天国となっている中央通りには、日曜の銀座を楽しむ人で溢れ返っている。
田島純也も、久しぶりに婚約者の野村理沙を連れ、銀座でランチを取っていた。
食事を済ませ、薄暗い地下の店からさんさんと光る太陽の下へ出る。あまりのまぶしさに、純也は一瞬目を細めた。ハッと後ろを振り返ると、すでに太陽の光は理沙の目を射抜いている。純也にすら強烈と感じる日差しが、目の悪い理沙にとって毒でないはずがない。
痛い! 理沙は思わず階段に座り込み、ギュッと目を閉じた。サングラスをし忘れていたのだ。目を開けられず、手探りでバッグの中を漁る。慌てた純也が、代わりにバッグの中からサングラスを取り出し理沙に渡した。
「ごめん、気が付かなくて。大丈夫? えっとどうしよう。病院行った方がいいかな。あ、でも今日は日曜日だ・・・」
純也は焦った。どうしよう・・・理沙の目に何かあったら・・・。そんな純也の気配を感じ、理沙は目をつぶったまま顔を上げて微笑んだ。
「そんなに心配しないで。私は大丈夫よ。目薬さして、しばらくこうしてれば治るから」
「でも・・・本当にごめん。僕がもっと注意してれば」
「本当に大丈夫。サングラスをし忘れた私がいけないの。もう手術して2年も経つのに、まだ目が見えるってことに慣れてないのね」
そう言うと、理沙はクスッと笑った。
目は痛い。でもこの痛みは目が見えるという証拠なのだ。それを思えば少しぐらいの痛さは我慢できる。目が見えなかった20数年間を思ったら、こんな痛みなどなんでもない。むしろ理沙には、目が見えるという信じられないほどの幸福を、何度何度も実感させてくれる嬉しい痛みなのだ。
理沙が3歳の時、父が亡くなった。母は働きに出なければならず、幼い理沙の面倒は、7歳年上の姉・麻子が見ることとなった。
理沙が4歳になったある日、その事故は起こった。
その日麻子は、母に頼まれていた買い物へと出かけていた。いつもなら必ず理沙を一緒に連れて行くのだが、出かけに理沙が「出かけたくない! 家で遊びたい」と散々駄々をこねた。
頭にきた麻子は、理沙を放ってひとりで家を出ていってしまった。
置いていかれた理沙は無性に悲しくなり、ワーワーと泣き叫んで麻子を呼び、そこら中にあるものを投げ散らかした。
おもちゃ、座布団、麻子のランドセルなど、手当たり次第に放り投げた。投げるものがなくなると、理沙はトコトコと洗面所に向かった。
洗面台の下の戸を開けると、中にはさまざまなものが詰まっていた。シャンプーやリンスの買い置き、トイレットペーパー、洗濯洗剤。その他見たこともない色鮮やかな数々のボトル。
理沙の手がその中の一本に触れた。キャップが緩んでいる液体のカビ取り剤だった。
理沙は容器をギュッとつかむと、それを持ち上げた。途端中身の液体が勢いよく飛び出し、理沙の顔面を直撃した。見開いた目にも大量の液体がかかった。
あっという間の出来事で、理沙には何が起こったのかわからなかった。ただ猛烈に痛いと思い、理沙はゴシゴシと目を擦った。 何万本もの針が目に刺さったような痛みが走り、瞼を開けることができない。まだたった4歳の理沙には、目を洗うという考えは浮ばなかった。麻子が帰ってきて、自分を助けてくれるのを待つしかなかったのだ。
怖かった。理沙は今まで、これほどの恐怖を味わったことがなかった。どうすることもできない時間が、そして理沙の視力を奪うのに充分な時間が過ぎていった。
買い物から戻ってきた麻子が目にしたのは、あまりの痛さと恐怖に気を失い、倒れ込んでいる理沙だった。
夕暮れの日差しが入り込んだアパートに、麻子の理沙を呼ぶ悲鳴が響き渡った。
適切な初期治療ができず、病院に行くのも遅すぎた。
理沙の目の角膜は濁り、視力が極端に低下した。
白目と黒目の境で、輪部と言われる部分にも障害が出ていた。そのため角膜移植すらできないと言われた。
理沙の目は、医療技術の進歩で、輪部移植が可能になるまでの長い間、モノを見る能力をほとんど失っていたのだった。
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| 14番目の月
2008年07月13日
12
『新宿メンタルクリニック』の診察室のソファで、麻子はすっかり眠り込んでいたようだ。
「私、寝てたんだ」
腕時計を見る。夜の8時10分。
診察が始まったのが7時30分からで、最初のうちは、今の状況や症状を陽平に話したはずだ。
眠ってしまったのはそれからなのだから、長くても20分くらいのものだろう。
麻子がふと顔を触ると、頬に涙が伝っていた。慌てて涙を拭い、自分はなぜ泣いているのだろうと考えた。
途端、今しがたまで見ていた夢がまざまざと蘇り、足元から恐怖がせり上がった。全身を戦慄のような震えが走る。
まずい・・・。この感じはまずい。またあの感覚が・・・くる! 怖い。ああどうしよう、誰か助けて!
「どうした? 震えてるじゃないか。また怖い夢でも見た?」
陽平が麻子の変化を感じ取り、慌てて傍らに駆け寄った。
「処方した眠剤は飲んでる? 安定剤は? あれ飲めば、怖い夢もだいぶ治まるはずなんだけど」
「あんまり・・・飲んでないの・・・」
「どうして?」
「寝たら・・・いけないから」
ガタガタと身体を震わせ、まるでうわ言のように麻子は言った。
寝たらいけないとはどういうことなのだろうかと、陽平は麻子の背中を撫でながら思った。
麻子は不眠を改善するためにクリニックへ来ているのではないか。もちろん怖い夢を見るのが嫌だというのはわかる。しかし安定剤を飲んでいれば、それも治まるだろうという説明は充分にしたはずだ。
麻子の息が浅くなり、額から冷や汗のようなものが流れ出ていた。身体の震えは一層強くなった。
陽平は背中を撫でるのを止め、麻子を両手でギュッと抱きしめた。
ガタガタと震えながら、麻子は陽平のシャツにしがみつく。
「・・・助けて・・・」
浅い息の中、か細く漏れる麻子の声。
陽平の胸に、今まで感じたことのない熱く激しい何かが溢れ出した。
ふいに麻子を抱きしめる腕に力がこもる。麻子はそれに無意識に反応し、自分の頬を陽平の胸に押し当てた。
陽平は麻子の背中を一定のリズムでぽんぽんと叩き、優しくささやくように声をかける。
「大丈夫だ。大丈夫だよ。何も心配いらない。ただの夢だよ。怖くない。怖くない。大丈夫。大丈夫」
その声が、麻子の全身を包んでいた恐怖を徐々に溶かしていき、震えも段々収まってきた。
陽平は、麻子の震えが完全に収まるまで、ずっと彼女を抱きしめ、大丈夫だよとささやき続けた。
数十分後、麻子は新しく入れてもらったハーブティーを飲み、少しだけ落ち着きを取り戻した。
「大丈夫?」
麻子はコクンとうなずいた。しかしまだ恐怖の余韻から完全に抜けきれていないのか、うつろな目をしたまま黙りこんでいる。
「野村、ちゃんと安定剤飲んでほしいな。そうすれば、たぶん今みたいなことは起こり難くなるはずだよ」
陽平の言葉に、麻子は全く反応しない。黙ってハーブティーを啜っているだけだ。
不眠症でここへ来たというのに、なぜ麻子は眠ることを拒否しているのだろう。
本人は仕事が原因だと言っているが、それは本当なのだろうか。仕事のストレスが、あれほど麻子を怖がらせる夢を見せているのか。
・・・わからない。その答えはいったいどこにあるのだろう。
「相変わらず仕事忙しいの?」
陽平は意図的に話題を仕事に移した。
麻子はしばらくして「うん」とひと言だけ答えた。
仕事の方が話をしやすいらしいと陽平は感じ、そのまま続けて仕事の話題を振ってみる。
「まだリストラメンバー決められないってこと?」
麻子はどんどん落ち着きを取り戻していくように見える。大きく息を吐き出すと、ポツポツと話しはじめた。
「うん・・・。あとちょっとなんだけど・・・。誰だって、リストラされて嬉しいわけないもの。だからって、相手の立場ばっかり考えてるといつまで経っても終らないし、かといって、こっちの都合だけで選ぶのはね・・・」
相当難航しているのだろうということは充分に見て取れる。ありとあらゆることを考え、行動し、それでも決めかねているのだろう。
このことが、麻子を不眠にするほどのストレスを与えている・・・。
果たして本当にそうだろうか。もちろん要因のひとつである可能性はある。けれど陽平には、それが根本の原因だとはどうしても思えなかった。
麻子はいったい何を隠しているのだろう。それとも隠していることに自分でも気付いていないのだろうか・・・。
麻子が大きなため息を吐いた。美しく、少しやつれたその横顔。ティーカップを包む細い指。肩にかかる栗色の髪・・・。
なんてキレイなんだろう・・・。陽平はぼんやりとそう考え、麻子の横顔に見惚れた。
すると麻子が、ふいに疲れきった笑み漏らした。その微笑を見たとき、陽平の心臓が突如大きな音を立てて鳴り始めた。それは思いもかけないほどの大きさで、陽平は鳴り続けるその音に戸惑った。
中学の時、確かに自分は麻子が好きだった。もちろん憧れの域を出ていなかったけれど、それでも好きという気持ちは本物だった。
あれ以来、そんな想いを感じたことはない気がする。幼くはあったけれど、あれは本物の恋だったのだと、陽平は今強く感じていた。
「私、寝てたんだ」
腕時計を見る。夜の8時10分。
診察が始まったのが7時30分からで、最初のうちは、今の状況や症状を陽平に話したはずだ。
眠ってしまったのはそれからなのだから、長くても20分くらいのものだろう。
麻子がふと顔を触ると、頬に涙が伝っていた。慌てて涙を拭い、自分はなぜ泣いているのだろうと考えた。
途端、今しがたまで見ていた夢がまざまざと蘇り、足元から恐怖がせり上がった。全身を戦慄のような震えが走る。
まずい・・・。この感じはまずい。またあの感覚が・・・くる! 怖い。ああどうしよう、誰か助けて!
「どうした? 震えてるじゃないか。また怖い夢でも見た?」
陽平が麻子の変化を感じ取り、慌てて傍らに駆け寄った。
「処方した眠剤は飲んでる? 安定剤は? あれ飲めば、怖い夢もだいぶ治まるはずなんだけど」
「あんまり・・・飲んでないの・・・」
「どうして?」
「寝たら・・・いけないから」
ガタガタと身体を震わせ、まるでうわ言のように麻子は言った。
寝たらいけないとはどういうことなのだろうかと、陽平は麻子の背中を撫でながら思った。
麻子は不眠を改善するためにクリニックへ来ているのではないか。もちろん怖い夢を見るのが嫌だというのはわかる。しかし安定剤を飲んでいれば、それも治まるだろうという説明は充分にしたはずだ。
麻子の息が浅くなり、額から冷や汗のようなものが流れ出ていた。身体の震えは一層強くなった。
陽平は背中を撫でるのを止め、麻子を両手でギュッと抱きしめた。
ガタガタと震えながら、麻子は陽平のシャツにしがみつく。
「・・・助けて・・・」
浅い息の中、か細く漏れる麻子の声。
陽平の胸に、今まで感じたことのない熱く激しい何かが溢れ出した。
ふいに麻子を抱きしめる腕に力がこもる。麻子はそれに無意識に反応し、自分の頬を陽平の胸に押し当てた。
陽平は麻子の背中を一定のリズムでぽんぽんと叩き、優しくささやくように声をかける。
「大丈夫だ。大丈夫だよ。何も心配いらない。ただの夢だよ。怖くない。怖くない。大丈夫。大丈夫」
その声が、麻子の全身を包んでいた恐怖を徐々に溶かしていき、震えも段々収まってきた。
陽平は、麻子の震えが完全に収まるまで、ずっと彼女を抱きしめ、大丈夫だよとささやき続けた。
数十分後、麻子は新しく入れてもらったハーブティーを飲み、少しだけ落ち着きを取り戻した。
「大丈夫?」
麻子はコクンとうなずいた。しかしまだ恐怖の余韻から完全に抜けきれていないのか、うつろな目をしたまま黙りこんでいる。
「野村、ちゃんと安定剤飲んでほしいな。そうすれば、たぶん今みたいなことは起こり難くなるはずだよ」
陽平の言葉に、麻子は全く反応しない。黙ってハーブティーを啜っているだけだ。
不眠症でここへ来たというのに、なぜ麻子は眠ることを拒否しているのだろう。
本人は仕事が原因だと言っているが、それは本当なのだろうか。仕事のストレスが、あれほど麻子を怖がらせる夢を見せているのか。
・・・わからない。その答えはいったいどこにあるのだろう。
「相変わらず仕事忙しいの?」
陽平は意図的に話題を仕事に移した。
麻子はしばらくして「うん」とひと言だけ答えた。
仕事の方が話をしやすいらしいと陽平は感じ、そのまま続けて仕事の話題を振ってみる。
「まだリストラメンバー決められないってこと?」
麻子はどんどん落ち着きを取り戻していくように見える。大きく息を吐き出すと、ポツポツと話しはじめた。
「うん・・・。あとちょっとなんだけど・・・。誰だって、リストラされて嬉しいわけないもの。だからって、相手の立場ばっかり考えてるといつまで経っても終らないし、かといって、こっちの都合だけで選ぶのはね・・・」
相当難航しているのだろうということは充分に見て取れる。ありとあらゆることを考え、行動し、それでも決めかねているのだろう。
このことが、麻子を不眠にするほどのストレスを与えている・・・。
果たして本当にそうだろうか。もちろん要因のひとつである可能性はある。けれど陽平には、それが根本の原因だとはどうしても思えなかった。
麻子はいったい何を隠しているのだろう。それとも隠していることに自分でも気付いていないのだろうか・・・。
麻子が大きなため息を吐いた。美しく、少しやつれたその横顔。ティーカップを包む細い指。肩にかかる栗色の髪・・・。
なんてキレイなんだろう・・・。陽平はぼんやりとそう考え、麻子の横顔に見惚れた。
すると麻子が、ふいに疲れきった笑み漏らした。その微笑を見たとき、陽平の心臓が突如大きな音を立てて鳴り始めた。それは思いもかけないほどの大きさで、陽平は鳴り続けるその音に戸惑った。
中学の時、確かに自分は麻子が好きだった。もちろん憧れの域を出ていなかったけれど、それでも好きという気持ちは本物だった。
あれ以来、そんな想いを感じたことはない気がする。幼くはあったけれど、あれは本物の恋だったのだと、陽平は今強く感じていた。
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| 14番目の月
2008年07月05日
11
気が付くと、麻子は透明の球体の中でしゃがみ込んでいた。
継ぎ目はどこにもなく完全な球状。かすかな光を受けてツヤツヤと輝いている。
麻子はその優しい光に照らされて、まどろみの中に落ちていった。
トロトロとした眠りはとても心地いい。この球体に守られ、敵はどこからも入ってこられない。
もう何年も、こんな安らいだ気持ちになったことがないと麻子は思った。
ふと外を見ると、真っ白な霧に覆われていた。何も見えない。 ここがどこであるのかもわからない。
あれっ? と思った。何かを忘れているような気がする。
・・・そうだ。私は確か探し物をしていたんだっけ。とても大事な何か。それさえあれば生きていけるというくらい大切なもの。でも思い出せない。何もわからない。
・・・それでもいいやと思えた。こんなに穏やかに安らかになれる場所なのだ。何かを探していたとしても、もういいじゃないか。 思い出せないくらいなんだから、大したことじゃなかったんだ。
そう・・・もうこのまま何も考えることなく過ごしたい。何かを考えるということはとても辛い。自分にとって大切なことであればあるだけ辛くなる。もうそんなことはしなくていい。止めよう。楽なこと、愉快なこと、楽しいことだけを見つめるんだ。
麻子は口元に笑みを浮かべ、再びまどろみの中に落ちていこうとした。
・・・その時、外の霧がスーッと晴れた。麻子の目の前には理沙が立っていた。
「お姉ちゃん」
理沙は幸せにはちきれそうな笑みをたたえて、麻子の前に立っていた。
突然胸が締め付けられた。苦しい。痛い。辛い。
麻子の全身が総毛だった。それに合わせ、なぜか球体が一回り小さくなった。
「どうしたの? お姉ちゃん。そんな怖い顔して」
そうだ! 探していたのはこの子だ。どうしてこんな大切なことを忘れていたんだろう。
「理沙! 勝手にひとりで出かけちゃ危ないじゃないの!」
麻子の声が球体の中で響き渡り、麻子に跳ね返った。
声が大きければ大きいだけ、跳ね返りの衝撃は大きかった。
耳が痛い。でも叫ばずにはいられない。理沙が危ないのだ。あの子は目が不自由だ。たったひとりで歩くなんてできないのだ。
球体をこぶしで叩き、また叫ぶ。
「どうして私にひと言言わないの。どれだけ探したと思ってるの?」
球体の外で、理沙は相変わらずニコニコと笑っている。
・・・私の声が聞こえないのか。
この球体は、敵が入ってこない代わりに中のものは声すら通さないのか。
麻子は急に、すさまじいほどの恐怖を感じた。
怖くなり、何度も何度も球体を叩く。その衝撃は、麻子自身に跳ね返ってきた。
「お姉ちゃん。私はもう大丈夫。ちゃんと見えるのよ。だから心配しないで」
「理沙・・・いつの間に目が・・・?」
突然麻子の全身を、鉛のように重い絶望が覆いかぶさった。
私は理沙の目の代わり。この子が見えるようになったら、私を必要としなくなったら、私の居場所はどこにもない・・・。もう・・・どこにも・・・ない。
球体は、麻子の絶望に敏感に反応したように再び小さくなった。
「私ね、好きな人が出来たの。その人と結婚するわ」
「待って理沙! そんなこと勝手に決めたらダメ。私は許さないわよ」
「本当にステキな人なの。お姉ちゃんもきっと好きになるわ」
「理沙、行っちゃダメ。お願い」
「今まで本当にありがとうお姉ちゃん。私、絶対幸せになるからね」
そう言い残すと、理沙は麻子の目の前であっという間に霧に包まれた。
「待ちなさい理沙! 戻ってきなさい。行っちゃダメ! 理沙!」
麻子は必死に叫んだ。いつの間にか、目から涙がほとばしっていた。
こぶしが悲鳴を上げるほど球体を叩く。
叩いても叩いてもビクともせず、麻子の絶望を喜ぶように、球体はますます小さくなっていった。
いつの間にかそれは、麻子を押し潰すほどの大きさになっていた。
助けて! 誰か私をここから出して。イヤだ! もうイヤだ! た・す・け・・・て。
・・・グチャ!・・・
ついに球体は麻子を押し潰した。
粉々に砕けた球体のカケラと、バラバラに千切れた麻子の手・足・胴・そして頭。
それはゴチャゴチャに混ざり合って血を流し、深い霧の中に無惨に散らばっていた・・・。
「随分ぐっすり眠ってますね」
遥か彼方から、かすかな声が聞こえてきた。
それは霞がかかったように、ぼんやりと麻子の耳に届いた。
「本島さん、ハーブティーに睡眠薬でも入れたんじゃないの?」
「あ、バレました?」
次第にはっきりと聞こえてきた朗らかな笑い声は、確かに陽平と由紀だ。
麻子がハッとしたように目を開けると、由紀が麻子の顔を覗き込んだ。
「あれ、涙・・・。野村さんどうかしました?」
意識はまだぼんやりしている。
麻子は自分がどこにいるのか、何をしていたのか思い出せなかった。
「先生、野村さんが・・・」
麻子の目から溢れる涙。それを見た由紀は、麻子に優しく微笑みかけると、静かにそこから出て行った。
「大丈夫?」
陽平が優しく声をかける。
麻子は何がなんだかわからないまま、ゆっくりと身体を起こした。
そこは、『新宿メンタルクリニック』の診察室であった。
継ぎ目はどこにもなく完全な球状。かすかな光を受けてツヤツヤと輝いている。
麻子はその優しい光に照らされて、まどろみの中に落ちていった。
トロトロとした眠りはとても心地いい。この球体に守られ、敵はどこからも入ってこられない。
もう何年も、こんな安らいだ気持ちになったことがないと麻子は思った。
ふと外を見ると、真っ白な霧に覆われていた。何も見えない。 ここがどこであるのかもわからない。
あれっ? と思った。何かを忘れているような気がする。
・・・そうだ。私は確か探し物をしていたんだっけ。とても大事な何か。それさえあれば生きていけるというくらい大切なもの。でも思い出せない。何もわからない。
・・・それでもいいやと思えた。こんなに穏やかに安らかになれる場所なのだ。何かを探していたとしても、もういいじゃないか。 思い出せないくらいなんだから、大したことじゃなかったんだ。
そう・・・もうこのまま何も考えることなく過ごしたい。何かを考えるということはとても辛い。自分にとって大切なことであればあるだけ辛くなる。もうそんなことはしなくていい。止めよう。楽なこと、愉快なこと、楽しいことだけを見つめるんだ。
麻子は口元に笑みを浮かべ、再びまどろみの中に落ちていこうとした。
・・・その時、外の霧がスーッと晴れた。麻子の目の前には理沙が立っていた。
「お姉ちゃん」
理沙は幸せにはちきれそうな笑みをたたえて、麻子の前に立っていた。
突然胸が締め付けられた。苦しい。痛い。辛い。
麻子の全身が総毛だった。それに合わせ、なぜか球体が一回り小さくなった。
「どうしたの? お姉ちゃん。そんな怖い顔して」
そうだ! 探していたのはこの子だ。どうしてこんな大切なことを忘れていたんだろう。
「理沙! 勝手にひとりで出かけちゃ危ないじゃないの!」
麻子の声が球体の中で響き渡り、麻子に跳ね返った。
声が大きければ大きいだけ、跳ね返りの衝撃は大きかった。
耳が痛い。でも叫ばずにはいられない。理沙が危ないのだ。あの子は目が不自由だ。たったひとりで歩くなんてできないのだ。
球体をこぶしで叩き、また叫ぶ。
「どうして私にひと言言わないの。どれだけ探したと思ってるの?」
球体の外で、理沙は相変わらずニコニコと笑っている。
・・・私の声が聞こえないのか。
この球体は、敵が入ってこない代わりに中のものは声すら通さないのか。
麻子は急に、すさまじいほどの恐怖を感じた。
怖くなり、何度も何度も球体を叩く。その衝撃は、麻子自身に跳ね返ってきた。
「お姉ちゃん。私はもう大丈夫。ちゃんと見えるのよ。だから心配しないで」
「理沙・・・いつの間に目が・・・?」
突然麻子の全身を、鉛のように重い絶望が覆いかぶさった。
私は理沙の目の代わり。この子が見えるようになったら、私を必要としなくなったら、私の居場所はどこにもない・・・。もう・・・どこにも・・・ない。
球体は、麻子の絶望に敏感に反応したように再び小さくなった。
「私ね、好きな人が出来たの。その人と結婚するわ」
「待って理沙! そんなこと勝手に決めたらダメ。私は許さないわよ」
「本当にステキな人なの。お姉ちゃんもきっと好きになるわ」
「理沙、行っちゃダメ。お願い」
「今まで本当にありがとうお姉ちゃん。私、絶対幸せになるからね」
そう言い残すと、理沙は麻子の目の前であっという間に霧に包まれた。
「待ちなさい理沙! 戻ってきなさい。行っちゃダメ! 理沙!」
麻子は必死に叫んだ。いつの間にか、目から涙がほとばしっていた。
こぶしが悲鳴を上げるほど球体を叩く。
叩いても叩いてもビクともせず、麻子の絶望を喜ぶように、球体はますます小さくなっていった。
いつの間にかそれは、麻子を押し潰すほどの大きさになっていた。
助けて! 誰か私をここから出して。イヤだ! もうイヤだ! た・す・け・・・て。
・・・グチャ!・・・
ついに球体は麻子を押し潰した。
粉々に砕けた球体のカケラと、バラバラに千切れた麻子の手・足・胴・そして頭。
それはゴチャゴチャに混ざり合って血を流し、深い霧の中に無惨に散らばっていた・・・。
「随分ぐっすり眠ってますね」
遥か彼方から、かすかな声が聞こえてきた。
それは霞がかかったように、ぼんやりと麻子の耳に届いた。
「本島さん、ハーブティーに睡眠薬でも入れたんじゃないの?」
「あ、バレました?」
次第にはっきりと聞こえてきた朗らかな笑い声は、確かに陽平と由紀だ。
麻子がハッとしたように目を開けると、由紀が麻子の顔を覗き込んだ。
「あれ、涙・・・。野村さんどうかしました?」
意識はまだぼんやりしている。
麻子は自分がどこにいるのか、何をしていたのか思い出せなかった。
「先生、野村さんが・・・」
麻子の目から溢れる涙。それを見た由紀は、麻子に優しく微笑みかけると、静かにそこから出て行った。
「大丈夫?」
陽平が優しく声をかける。
麻子は何がなんだかわからないまま、ゆっくりと身体を起こした。
そこは、『新宿メンタルクリニック』の診察室であった。
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| 14番目の月