電話のベルが3度鳴り、留守番電話に切り替わった。
「はい、野村です。ただいま出かけておりますので、発信音のあとにメッセージをお願いいたします」
ピーという音のあとに、若い女のためらうような声がした。
「・・・理沙です。お姉ちゃん元気ですか? 何度も何度もごめんなさい。でも・・・返事をもらえないのでまたかけてしまいました。田島さんも気にしてるの。・・・もちろん忙しいのは充分わかってます。わがまま言ってるのもわかってます。でも、お姉ちゃんには出てもらいたいの。ほんの一時間、ううん、30分でもいいです。お姉ちゃんがいない結婚式なんて、私には考えられません。どうか返事を下さい。待っています」
・・・疲れた。ここ数日、会社と家の往復だけしかしていない。そして今も、耐えがたい焦燥感と虚無感に押し潰されそうになりながら、震える足で家路を急いでいる。
今日の昼過ぎ、仕事中に電話がかかってきた。母からだ。携帯は電源を切ってあるので、家と会社にかかってくる。
最近その回数が増え、数日おきになった。いつも同じ用件。
何度断わっても何度理由を説明しても、それが母に響くことはない。
私が「うん」と言うまで、何回でもかけてくるのだろう。
私は母のなんなのだろう。いつまでも、「はい、わかりました」と言い続ける人形なのか。
疲れた。無性に悲しくなった。もう何もかもメチャクチャになってしまえばいい。
電話を切ると、身体が震えた。手がブルブルとわななき、パソコンのキーボードが打てない。
身体の奥からねっとりとしたものが流れ出し、あっという間に下着を濡らす。セックスがしたいという突き上げるほどの欲望が全身を駆け巡った。
今すぐしたい。男のモノが欲しい。今ここで突き立てて欲しい。何もかもが忘れられるあの快感。乾いた泉が満たされていくあの感じ。
身体がどんどん敏感になり、感覚が研ぎ澄まされていく・・・。
ああ・・・頭がおかしくなりそうだ。
私のデスクの周りには、こんなにもたくさんの男がいる。なのになぜ誰も私の望みを叶えてはくれないのだろう。
それはやはり、相手が私だからなのか。
・・・たぶん、きっとそうだ。
私は自分がどんな人間なのかよくわかっている。どうしようもなく心がいびつで醜く、この世に存在する価値などまるでない人間だ。私は私が大嫌いだ。そんな私のことを、他人が好きになるはずはない。当たり前のことだ。
でも私にはセックスが必要だ。どうしてもどうしても必要なのだ。
だから・・・。お願いします。私を見て下さい。私のここを見て下さい。私は待っている。私のここは、もうこんなに濡れている。今すぐ欲しいの。今すぐにでも!
そうだ。このまま仕事を放って帰ろうか。帰ってすぐに着替えをし、私のことを誰も知らない新宿に向かう。メトロプラザホテルのバーラウンジは何時からだっけ? ・・・ダメだ。確か6時だ。あそこに行くにはまだ早い。ではどうすればいい。どこに行けばいい。セックスをするためにはどこに行けばいい?!
どうしようもないほど身体の震えが大きくなった時、遠くの方からかすかな声が聞こえた。
まただ。また私を止めようとしている。その衝動通りに行動すれば、すさまじいほどの後悔が襲う。それでもいいのかとその声は言った。
・・・イヤだ。もうあんな思いはしたくない。身体を引き裂きたくなるような激しい絶望と恐怖。そんな思いはもうたくさんだ!
心がそう叫んだ時、少しずつ、本当に少しずつ身体の震えが収まってきた。
息を大きく吐き出し、深呼吸を繰り返す。乗り切れるだろうか。頑張れるだろうか。
・・・わからない。でも何とかしなければ。
私は何度も深呼吸を繰り返し、せり上がってくる欲望と必死に戦い続けた。
着いた。何とか今日も頑張れた。
壮絶な戦いを終えたかのように疲れきった私の身体。それを引きずり玄関のドアを開ける。
ふとリビングの電話を見ると、留守番電話のランプがチカチカ点滅していた。
また母か? そう思っただけで、押さえつけていたイライラがぶり返した。
乱暴に留守番電話の再生ボタンを押す。
「理沙です・・・」
その声が流れ出た途端、私は思わずその場にしゃがみ込んだ。
ガクガクと身体の芯が震える。両手でギュッと身体を抱きしめたのに、震えはいっそう強くなった。
・・・気持ち悪い。今すぐセックスをしなければ気が狂う。私が救われる道はそれしかないと思った。
世界が揺れる。めまいを起こしているのかもしれない。・・・遠くで、私を救おうとするかすかな声が聞こえてきた。でも、その声に従うだけの心の強さが、今の私には残っていなかった。
身体の奥からトロリとした液体が流れ出し、今日2枚目の下着を濡らした。
2008年06月29日
10
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| 14番目の月
2008年06月21日
9
陽平に夢の内容を聞かれ、麻子の呼吸がほんの少し浅くなった。
大人になってから、夢の話をしたのはこれが初めてだ。改めて声にすると、それを見た時の息苦しさがこみ上げてくる。
・・・そういえば、つい最近も似たような夢を見た気がする。あれはいったいいつのことだったのか・・・。
麻子の変化に気付いた陽平が、大丈夫だよとばかりにうなずき、問いかけた。
「最近の眠れない原因はなんだと思う?」
「仕事だと思うわ。・・・うちの銀行リストラしているの。私の今の仕事、リストラメンバーの選出なの」
リストラ・・・。それが原因で心を病み、精神科を訪れる人は大勢いる。
世間ではリストラされた人が鬱病になるという話をよく聞く。しかしリストラは、された側だけではなく、する側の方が心を病むケースも多いのだ。麻子の今の不眠はそれが原因なんだろうか。
ある程度の問診を終えると、次には心理テストが待っている。 ここ『新宿メンタルクリニック』では、心理テスト前に患者にハーブティーを飲んでもらうことにしている。好き嫌いやアレルギーなどを聞いたあと、ひとりひとりにあったものを由紀がブレンドするのだ。これはリラックス効果が高く、なかなか好評だった。
「美味しい」
一口飲んで、麻子はホッとした声を出した。由紀は嬉しそうにニコッと笑い、妹が紅茶とハーブの専門店に勤めていて、いろいろ教えてくれるのだと言った。
由紀が「妹」と言った時、麻子の表情が微妙に変化した。ジッと注意して見ていなければ気付くことはないほどの、ほんの小さな変化。しかし陽平はその一瞬を見逃さなかった。
おどけたような明るい笑いを残して由紀が隣の部屋へ戻っていくと、陽平は問診表を見ながらさり気なく尋ねた。
「妹さん、元気?」
瞬間麻子の顔が強張った。
「・・・元気よ。なぜ?」
「目は大丈夫なの?」
麻子の妹は、幼い時のある事故が原因で目が不自由だった。失明まではしていなかったが、光を辛うじて認識できる程度の視力しかなかった。
「2年前やっと手術ができて、ある程度見えるようになったの。だからっていうわけじゃないんだけど、あの子今度結婚するのよ」
麻子は取り繕ったような笑顔で言った。
・・・結婚するのよ・・・。
言葉の余韻に、不可思議な影が漂う。この影はなんだ。不眠の原因はそこにあるのか・・・?
陽平が知っている麻子は、まるで母親にでもなったかのように、よく妹の面倒を見ていた。
あの頃陽平は、部活帰りの道で、妹の手を引いて歩く麻子を何度も見かけた。
妹が小石につまづいて転ばないように、ガードレールにぶつからないように、それこそ麻子は、妹を抱え込むようにして歩いていた。
たぶんあの頃の妹にとって、麻子の存在はこの世の全てであっただろう。それは麻子にとっても同じだったと陽平は感じていた。
しかし今の彼女の様子はなんなのだろう。2人の間に何かあったのか。それともこれは思い過ごしで、やはり不眠の原因は仕事のストレスなのだろうか?
陽平が麻子を初診してわかったのは、彼女の心は何かに抑圧されているということだけ。その原因を彼女は仕事だと言うし、本当にそう思っているのだろう。けれど陽平には、麻子の自意識にのぼってこない、根深い何かがあるのを感じていた。それが何なのか、今の陽平にはわからなかった。
「野村さんと先生が、中学の同級生?!」
初診後の『紫頭巾』に、オカマたちの嬌声と怒声が響き渡った。つかさたちも、麻子の同級生発言には目を丸くしている。
何と言っても憧れの陽平先生の前に、突然懐かしの同級生が登場したのだ。しかも相手はモデル並みに美しいときている。オカマたちがショックで失神しないだけマシというものだろう。
しかし! 『あたしたちに勝ち目はあるかしら? 6対4くらい? 当然私が6。決まってるわ』
あくまで図々しく自分たちにいいように考えるのがオカマたちの特技だと言っていい。
その時、マルコの脳裏にリリィの占いがよぎった。
「そういえばリリィちゃん! さっき占いで、先生に好きな人が現われるって言ってなかった?それって野村さんのことなの?」
いっせいにリリィと麻子を交互に見つめるオカマたち。麻子には何のことだかさっぱりわからず、戸惑うばかりだ。
リリィは先ほどから、ずっとひとり黙って麻子を見つめている。その視線にマルコは真実を知る思いだった。
「・・・やっぱりそうなのねリリィちゃん・・・。はっきり言ってちょうだい」
「ちょっとマルコ! リリィの占いなんて当たらないって言ってるでしょ」
「ダンボちゃんは黙ってて!」
悲壮感漂う顔で、マルコはリリィの答えを待った。しかしリリィの口から出た言葉は、マルコへの返事ではなかった。
「ねぇ野村さん。あたしとどっかで会ったことない? あたし何度も野村さんを見てる気がするの」
「・・・さぁ。ごめんなさい、思い出せないわ」
「そう・・・あたしの思い過ごしなのかな・・・。でも確かに・・・」
う〜ん・・・と言いながら考え続けるリリィ。マルコの質問に答えてやる思考の余裕が、今のリリィにはまるでなかった。
大人になってから、夢の話をしたのはこれが初めてだ。改めて声にすると、それを見た時の息苦しさがこみ上げてくる。
・・・そういえば、つい最近も似たような夢を見た気がする。あれはいったいいつのことだったのか・・・。
麻子の変化に気付いた陽平が、大丈夫だよとばかりにうなずき、問いかけた。
「最近の眠れない原因はなんだと思う?」
「仕事だと思うわ。・・・うちの銀行リストラしているの。私の今の仕事、リストラメンバーの選出なの」
リストラ・・・。それが原因で心を病み、精神科を訪れる人は大勢いる。
世間ではリストラされた人が鬱病になるという話をよく聞く。しかしリストラは、された側だけではなく、する側の方が心を病むケースも多いのだ。麻子の今の不眠はそれが原因なんだろうか。
ある程度の問診を終えると、次には心理テストが待っている。 ここ『新宿メンタルクリニック』では、心理テスト前に患者にハーブティーを飲んでもらうことにしている。好き嫌いやアレルギーなどを聞いたあと、ひとりひとりにあったものを由紀がブレンドするのだ。これはリラックス効果が高く、なかなか好評だった。
「美味しい」
一口飲んで、麻子はホッとした声を出した。由紀は嬉しそうにニコッと笑い、妹が紅茶とハーブの専門店に勤めていて、いろいろ教えてくれるのだと言った。
由紀が「妹」と言った時、麻子の表情が微妙に変化した。ジッと注意して見ていなければ気付くことはないほどの、ほんの小さな変化。しかし陽平はその一瞬を見逃さなかった。
おどけたような明るい笑いを残して由紀が隣の部屋へ戻っていくと、陽平は問診表を見ながらさり気なく尋ねた。
「妹さん、元気?」
瞬間麻子の顔が強張った。
「・・・元気よ。なぜ?」
「目は大丈夫なの?」
麻子の妹は、幼い時のある事故が原因で目が不自由だった。失明まではしていなかったが、光を辛うじて認識できる程度の視力しかなかった。
「2年前やっと手術ができて、ある程度見えるようになったの。だからっていうわけじゃないんだけど、あの子今度結婚するのよ」
麻子は取り繕ったような笑顔で言った。
・・・結婚するのよ・・・。
言葉の余韻に、不可思議な影が漂う。この影はなんだ。不眠の原因はそこにあるのか・・・?
陽平が知っている麻子は、まるで母親にでもなったかのように、よく妹の面倒を見ていた。
あの頃陽平は、部活帰りの道で、妹の手を引いて歩く麻子を何度も見かけた。
妹が小石につまづいて転ばないように、ガードレールにぶつからないように、それこそ麻子は、妹を抱え込むようにして歩いていた。
たぶんあの頃の妹にとって、麻子の存在はこの世の全てであっただろう。それは麻子にとっても同じだったと陽平は感じていた。
しかし今の彼女の様子はなんなのだろう。2人の間に何かあったのか。それともこれは思い過ごしで、やはり不眠の原因は仕事のストレスなのだろうか?
陽平が麻子を初診してわかったのは、彼女の心は何かに抑圧されているということだけ。その原因を彼女は仕事だと言うし、本当にそう思っているのだろう。けれど陽平には、麻子の自意識にのぼってこない、根深い何かがあるのを感じていた。それが何なのか、今の陽平にはわからなかった。
「野村さんと先生が、中学の同級生?!」
初診後の『紫頭巾』に、オカマたちの嬌声と怒声が響き渡った。つかさたちも、麻子の同級生発言には目を丸くしている。
何と言っても憧れの陽平先生の前に、突然懐かしの同級生が登場したのだ。しかも相手はモデル並みに美しいときている。オカマたちがショックで失神しないだけマシというものだろう。
しかし! 『あたしたちに勝ち目はあるかしら? 6対4くらい? 当然私が6。決まってるわ』
あくまで図々しく自分たちにいいように考えるのがオカマたちの特技だと言っていい。
その時、マルコの脳裏にリリィの占いがよぎった。
「そういえばリリィちゃん! さっき占いで、先生に好きな人が現われるって言ってなかった?それって野村さんのことなの?」
いっせいにリリィと麻子を交互に見つめるオカマたち。麻子には何のことだかさっぱりわからず、戸惑うばかりだ。
リリィは先ほどから、ずっとひとり黙って麻子を見つめている。その視線にマルコは真実を知る思いだった。
「・・・やっぱりそうなのねリリィちゃん・・・。はっきり言ってちょうだい」
「ちょっとマルコ! リリィの占いなんて当たらないって言ってるでしょ」
「ダンボちゃんは黙ってて!」
悲壮感漂う顔で、マルコはリリィの答えを待った。しかしリリィの口から出た言葉は、マルコへの返事ではなかった。
「ねぇ野村さん。あたしとどっかで会ったことない? あたし何度も野村さんを見てる気がするの」
「・・・さぁ。ごめんなさい、思い出せないわ」
「そう・・・あたしの思い過ごしなのかな・・・。でも確かに・・・」
う〜ん・・・と言いながら考え続けるリリィ。マルコの質問に答えてやる思考の余裕が、今のリリィにはまるでなかった。
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| 14番目の月
2008年06月15日
8
「先生、野村さんです」
由紀は診察室のドアを開け、緊張している様子の麻子に入るよう促した。
診察室にはモーツァルトのピアノ協奏曲第17番が小さく流れている。
「こんばんは」
陽平が麻子に笑いかけた。思いもかけないほどの暖かい笑顔。麻子もつられて微笑む。不安が少し薄まるのを感じた。
なるほど、つかさが見たがるのもわかると思えるなかなかの二枚目だ。手には麻子が先ほど書いた問診表を持っている。
問診表とは、クリニックを受診しようと思った動機や、不眠・憂鬱な気分・食欲不振など、実際自分が感じている症状、そして個人歴、家族歴など、診察に必要だと思われることを事前に患者本人に書いてもらうものだ。
「どうぞお掛け下さい」
陽平が指し示すソファに、麻子はゆっくり腰を下ろした。
まだ多少だが緊張感が残っている。何を聞かれるのだろう。そう思って身構えた瞬間、陽平が問診表と麻子の顔を交互に見つめた。しかも数回。
・・・先生は何をしているのだろう。何か変なことでも書いてしまったのだろうか。
「あの・・・何か?」
「野村、麻子さん?」
陽平は、さっきまでの人を安心させるような響きとは裏腹な、妙に上ずったような声で言った。そしてその目は、興奮したように麻子を見つめている。
何? 何なのよ、と麻子は思った。
「覚えてない? 俺のこと」
麻子の顔から血の気が引いた。何? 誰? ・・・まさか!
思わず席を立ち、「すいません、私ちょっと」と言おうとすると、陽平が突然、満面の笑みをたたえて懐かしそうに言った。
「俺だよ、野村。ほら、中学1年の時、同じクラスだった岩田陽平。覚えてない?」
岩田・・・岩田陽平・・・。覚えがない。
「俺、印象薄いのかなぁ。一緒に学級委員したこともあるんだけど」
陽平が苦笑しながら頭を掻く。医者の顔ではなく、陽平の素の顔。そして学級委員。2つのイメージが重なった。少しずつ、麻子の頭の中に陽平の記憶の断片が蘇る。知らず知らずのうちに止めていた息を大きく吐き出し、麻子はホッと胸を撫で下ろした。
「一緒に学級委員やったのは、確か2学期の時だったよね?」
「そう! 思い出した?」
陽平が嬉しそうに微笑んだ。
麻子の脳裏に、徐々にいろいろな思い出が蘇った。陽平がちょっとイジメられっ子だったこと。よくお昼のパンなんかを買いに行かされていたこと。でも勉強はよくできたこと。イジメていたのは・・・そうそう武藤君だ。彼はケンカが強くて身体が大きかった。確か野球部に入っていた気がする。岩田君は天文部・・・。
2人はひとしきり昔話で盛り上がった。
陽平はニコニコと楽しそうに話をしながら、一方で懐かしそうに笑う麻子を冷静な目で見つめいてた。
朗らかで明るい笑顔。あの頃と何も変わらないように見えるまなざし。
しかし問診表を見ると不眠が続いているという。そして陽平が「覚えてない?」と聞いた時に見せた、あの動揺した顔。
ただの仕事上のストレスではないと陽平は感じた。何かがある。彼女の中に何が隠れている。
「・・・そろそろ診察はじめようか」
診察室に入ってから、あっという間に30分という時間が経っていた。待合室にはつかさと美鈴も待っている。これは同窓会ではなく診察なんだということを、麻子はやっと思い出した。
「眠れないの?」
「たいしたことじゃないんだけどね」
麻子は何でもなさそうに答えた。陽平がゆったりとしたリズムでさらに聞く。
「いつから眠れないの?」
・・・いつから? そういえば、昔にもこんなことがあった。そう・・・あれはお父さんが亡くなった時。小学校4年の時だった。
愛にはいろんな形がある。お父さんのそれは、力づくで私を飲み込むようなものだった。唯一愛してくれる人に嫌われたくなかったから、私はお父さんに従った。お父さんは、あの頃の私の全てだった。全ての感情の源がそこにあった。・・・そこにしかなかったと言うべきか・・・。
唐突にその存在が消えたあの日から、眠ることが怖くなった。毎晩布団に入ると、恐ろしい夢を見た。私はこの世の中で、誰からも愛されず、たった一人で生きていくのだと思い知らされるような、そんな夢・・・。
「夢の内容とか覚えてる?」
「・・・なんとなく」
「大体でいいよ」
麻子を安心させるように、穏やかに響く陽平の声。その声に背中を押され、麻子は目をつぶって記憶をたどった。
「・・・うちにいたら、いつの間にか床がアリ地獄になって、地面に吸い込まれるの。・・・それから、細い一本の糸で身体を空に吊るされてる。でもそれが突然切れて、まっさかさまに落ちていく・・・」
陽平はそんな麻子を静かな目で観察していた。
鬱・・・? イヤ・・・診断はこのあとやる心理テストを見てからだ。ただ・・・相当抑圧されている感じを受ける。不眠はかなり長い間続いているようだ。
明るくキレイで男子の憧れの的だった麻子。もちろん陽平も例外ではなかった。だが不眠の根っこは、すでにその頃にはできていたということなのか・・・。
陽平は複雑な思いを抱きつつ、麻子をジッと見つめていた。
由紀は診察室のドアを開け、緊張している様子の麻子に入るよう促した。
診察室にはモーツァルトのピアノ協奏曲第17番が小さく流れている。
「こんばんは」
陽平が麻子に笑いかけた。思いもかけないほどの暖かい笑顔。麻子もつられて微笑む。不安が少し薄まるのを感じた。
なるほど、つかさが見たがるのもわかると思えるなかなかの二枚目だ。手には麻子が先ほど書いた問診表を持っている。
問診表とは、クリニックを受診しようと思った動機や、不眠・憂鬱な気分・食欲不振など、実際自分が感じている症状、そして個人歴、家族歴など、診察に必要だと思われることを事前に患者本人に書いてもらうものだ。
「どうぞお掛け下さい」
陽平が指し示すソファに、麻子はゆっくり腰を下ろした。
まだ多少だが緊張感が残っている。何を聞かれるのだろう。そう思って身構えた瞬間、陽平が問診表と麻子の顔を交互に見つめた。しかも数回。
・・・先生は何をしているのだろう。何か変なことでも書いてしまったのだろうか。
「あの・・・何か?」
「野村、麻子さん?」
陽平は、さっきまでの人を安心させるような響きとは裏腹な、妙に上ずったような声で言った。そしてその目は、興奮したように麻子を見つめている。
何? 何なのよ、と麻子は思った。
「覚えてない? 俺のこと」
麻子の顔から血の気が引いた。何? 誰? ・・・まさか!
思わず席を立ち、「すいません、私ちょっと」と言おうとすると、陽平が突然、満面の笑みをたたえて懐かしそうに言った。
「俺だよ、野村。ほら、中学1年の時、同じクラスだった岩田陽平。覚えてない?」
岩田・・・岩田陽平・・・。覚えがない。
「俺、印象薄いのかなぁ。一緒に学級委員したこともあるんだけど」
陽平が苦笑しながら頭を掻く。医者の顔ではなく、陽平の素の顔。そして学級委員。2つのイメージが重なった。少しずつ、麻子の頭の中に陽平の記憶の断片が蘇る。知らず知らずのうちに止めていた息を大きく吐き出し、麻子はホッと胸を撫で下ろした。
「一緒に学級委員やったのは、確か2学期の時だったよね?」
「そう! 思い出した?」
陽平が嬉しそうに微笑んだ。
麻子の脳裏に、徐々にいろいろな思い出が蘇った。陽平がちょっとイジメられっ子だったこと。よくお昼のパンなんかを買いに行かされていたこと。でも勉強はよくできたこと。イジメていたのは・・・そうそう武藤君だ。彼はケンカが強くて身体が大きかった。確か野球部に入っていた気がする。岩田君は天文部・・・。
2人はひとしきり昔話で盛り上がった。
陽平はニコニコと楽しそうに話をしながら、一方で懐かしそうに笑う麻子を冷静な目で見つめいてた。
朗らかで明るい笑顔。あの頃と何も変わらないように見えるまなざし。
しかし問診表を見ると不眠が続いているという。そして陽平が「覚えてない?」と聞いた時に見せた、あの動揺した顔。
ただの仕事上のストレスではないと陽平は感じた。何かがある。彼女の中に何が隠れている。
「・・・そろそろ診察はじめようか」
診察室に入ってから、あっという間に30分という時間が経っていた。待合室にはつかさと美鈴も待っている。これは同窓会ではなく診察なんだということを、麻子はやっと思い出した。
「眠れないの?」
「たいしたことじゃないんだけどね」
麻子は何でもなさそうに答えた。陽平がゆったりとしたリズムでさらに聞く。
「いつから眠れないの?」
・・・いつから? そういえば、昔にもこんなことがあった。そう・・・あれはお父さんが亡くなった時。小学校4年の時だった。
愛にはいろんな形がある。お父さんのそれは、力づくで私を飲み込むようなものだった。唯一愛してくれる人に嫌われたくなかったから、私はお父さんに従った。お父さんは、あの頃の私の全てだった。全ての感情の源がそこにあった。・・・そこにしかなかったと言うべきか・・・。
唐突にその存在が消えたあの日から、眠ることが怖くなった。毎晩布団に入ると、恐ろしい夢を見た。私はこの世の中で、誰からも愛されず、たった一人で生きていくのだと思い知らされるような、そんな夢・・・。
「夢の内容とか覚えてる?」
「・・・なんとなく」
「大体でいいよ」
麻子を安心させるように、穏やかに響く陽平の声。その声に背中を押され、麻子は目をつぶって記憶をたどった。
「・・・うちにいたら、いつの間にか床がアリ地獄になって、地面に吸い込まれるの。・・・それから、細い一本の糸で身体を空に吊るされてる。でもそれが突然切れて、まっさかさまに落ちていく・・・」
陽平はそんな麻子を静かな目で観察していた。
鬱・・・? イヤ・・・診断はこのあとやる心理テストを見てからだ。ただ・・・相当抑圧されている感じを受ける。不眠はかなり長い間続いているようだ。
明るくキレイで男子の憧れの的だった麻子。もちろん陽平も例外ではなかった。だが不眠の根っこは、すでにその頃にはできていたということなのか・・・。
陽平は複雑な思いを抱きつつ、麻子をジッと見つめていた。
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| 14番目の月
2008年06月08日
7
「ねぇみんな! 野村さんたらこの若さで人事課長さんなんですって! 本当に優秀でいらっしゃるのねぇ。おまけに物凄く美人だし。そう思わない?」
「思いまぁす!」
ダンボたちが声を合わせて賞賛する。
確実に超上客をGETしなければならない! そんなサツキたちの勢いに、麻子はちょっと怯んだ。
ただサツキの人柄なのだろうか、露骨な褒め言葉にも不思議と嫌味な感じはない。むしろ笑ってしまう。
麻子は先ほどまでの緊張が、徐々にほぐれていくのを感じた。
「まだいたんですか」
麻子たちの頭上から、もういい加減にしてくれ! という響きに満ち満ちた声が降ってきた。
声の主は当然の如く看護師の由紀。いつまで経っても帰らないオカマたちを、階段途中から冷ややかな目で見下ろしていた。
「本当に懲りない人たちですね。いつまで待ったって先生は」
そこまで言ったところで、由紀はやっと麻子たちに気付いた。シマッタ! とばかりに顔を真っ赤に染め、慌てて階段をかけ降りてくる。
「すいません・・・。え〜と、7時半にご予約の野村さんですか」
「・・・ええ」
そう応えながら、麻子は再び軽い緊張を感じた。由紀はそれを敏感に感じ取り、安心させるように微笑んだ。
「お待たせして申し訳ありません。どうぞこちらへ」
「はーい!」
突然つかさと美鈴が、片手を上げて元気よく答えた。
いよいよ噂の超二枚目医師に会えるのだという期待感で、2人の身も心もはちきれそうだ。
由紀は突然、2人にオカマたちと同じニオイを感じた。
「付き添いの方はこちらでお待ち下さい」
「一緒に行っちゃいけないんですか?」
「申し訳ありませんが、決まりですので」
由紀は2人に、極上の慇懃無礼(いんぎんぶれい)さで会釈をすると、戸惑う麻子を引き連れ、階段を上がって行った。
診察室の扉が閉まる音が、待合室にむなしく響いた。
由紀に取り付く島なく一刀両断にされたつかさと美鈴は、「何のために私たちはここまで来たのか・・・。それは先生を見るためだったのではないか! 超むかつくぅ!」とばかり、怒りをメラメラと燃え上がらせた。
「何あれ、超感じ悪い!」
つかさは文句タラタラ状態。美鈴も思いっきり憮然としている。
当然オカマたちもその意見に大賛成だ。陽平と自分たちの仲を、由紀がこれ見よがしに妨害しているのだと口々に言い募る。
マルコが悔しそうに2人に訴えた。
「あんなのいつもより全然マシ。あたしなんてこの間、竹ぼうきでお尻叩かれたのよ!」
「え〜! ありえないぃ!」
「ねぇねぇ、あたしたちもうそろそろ店に戻らなくちゃならないから、野村さんの診察終わったら店に来ない? あの女の悪口で盛り上がりましょうよ!」
「行く行く! 絶対行く!」
盛り上がるオカマたちを尻目に、リリィだけはひとり何かを考え込んでいた。
眉間にしわを寄せ、ピクリとも動かずに遠くを見つめている。
「・・・リリィちゃん?」
返事がない。
早くしなさいと言うサツキの声に、ああ・・・といった様子でようやくリリィは我に帰った。
「どうかしたの?」
「ん・・・野村さんなんだけど、あたし、あの人と初めて会った気がしないのよ。たぶん、そんな前じゃない時にどこかで会ってる。しかも1回や2回じゃないと思うの。でも全然思い出せないのよぉ・・・」
喉まで出掛かっていることが出てこない気持ち悪さに、リリィがイライラと自慢のモヒカンをかきむしった。
「ああ! どこだったかしらぁ!」
「もしかして占いのお客とか?」
「・・・ううん。それは違うと思う」
リリィは猛烈に頭を回転させながら答えた。
リリィの中で何かが引っかかっていた。リリィの行動範囲といえば、ほとんどが店近くのマンションと『紫頭巾』と歌舞伎町の占い屋。そのどれもがさっき会った麻子のイメージとは食い違っている。
彼女の理知的だが清楚な雰囲気。身に着けている質の良さそうなシャンパンゴールドのテーラードスーツ。いかにも大会社の総合職エリート然としている。
リリィの行動範囲と彼女のそれは、おそろしくかけ離れているように思う。
でも会っている。確かにどこかで会っているのだ。
もちろんそれを思い出せなかったらどうなんだと言われれば、別にどうということはない。ダンボなどは、だからなんなのよと言わんばかりだ。つかさも美鈴も全く興味を示していない。ただひとりリリィだけは、占い師の勘とでも言うのだろうか。そこにとんでもないものが隠されているような気がして、いつまでもひとり、悶々と悩み続けていた。
「思いまぁす!」
ダンボたちが声を合わせて賞賛する。
確実に超上客をGETしなければならない! そんなサツキたちの勢いに、麻子はちょっと怯んだ。
ただサツキの人柄なのだろうか、露骨な褒め言葉にも不思議と嫌味な感じはない。むしろ笑ってしまう。
麻子は先ほどまでの緊張が、徐々にほぐれていくのを感じた。
「まだいたんですか」
麻子たちの頭上から、もういい加減にしてくれ! という響きに満ち満ちた声が降ってきた。
声の主は当然の如く看護師の由紀。いつまで経っても帰らないオカマたちを、階段途中から冷ややかな目で見下ろしていた。
「本当に懲りない人たちですね。いつまで待ったって先生は」
そこまで言ったところで、由紀はやっと麻子たちに気付いた。シマッタ! とばかりに顔を真っ赤に染め、慌てて階段をかけ降りてくる。
「すいません・・・。え〜と、7時半にご予約の野村さんですか」
「・・・ええ」
そう応えながら、麻子は再び軽い緊張を感じた。由紀はそれを敏感に感じ取り、安心させるように微笑んだ。
「お待たせして申し訳ありません。どうぞこちらへ」
「はーい!」
突然つかさと美鈴が、片手を上げて元気よく答えた。
いよいよ噂の超二枚目医師に会えるのだという期待感で、2人の身も心もはちきれそうだ。
由紀は突然、2人にオカマたちと同じニオイを感じた。
「付き添いの方はこちらでお待ち下さい」
「一緒に行っちゃいけないんですか?」
「申し訳ありませんが、決まりですので」
由紀は2人に、極上の慇懃無礼(いんぎんぶれい)さで会釈をすると、戸惑う麻子を引き連れ、階段を上がって行った。
診察室の扉が閉まる音が、待合室にむなしく響いた。
由紀に取り付く島なく一刀両断にされたつかさと美鈴は、「何のために私たちはここまで来たのか・・・。それは先生を見るためだったのではないか! 超むかつくぅ!」とばかり、怒りをメラメラと燃え上がらせた。
「何あれ、超感じ悪い!」
つかさは文句タラタラ状態。美鈴も思いっきり憮然としている。
当然オカマたちもその意見に大賛成だ。陽平と自分たちの仲を、由紀がこれ見よがしに妨害しているのだと口々に言い募る。
マルコが悔しそうに2人に訴えた。
「あんなのいつもより全然マシ。あたしなんてこの間、竹ぼうきでお尻叩かれたのよ!」
「え〜! ありえないぃ!」
「ねぇねぇ、あたしたちもうそろそろ店に戻らなくちゃならないから、野村さんの診察終わったら店に来ない? あの女の悪口で盛り上がりましょうよ!」
「行く行く! 絶対行く!」
盛り上がるオカマたちを尻目に、リリィだけはひとり何かを考え込んでいた。
眉間にしわを寄せ、ピクリとも動かずに遠くを見つめている。
「・・・リリィちゃん?」
返事がない。
早くしなさいと言うサツキの声に、ああ・・・といった様子でようやくリリィは我に帰った。
「どうかしたの?」
「ん・・・野村さんなんだけど、あたし、あの人と初めて会った気がしないのよ。たぶん、そんな前じゃない時にどこかで会ってる。しかも1回や2回じゃないと思うの。でも全然思い出せないのよぉ・・・」
喉まで出掛かっていることが出てこない気持ち悪さに、リリィがイライラと自慢のモヒカンをかきむしった。
「ああ! どこだったかしらぁ!」
「もしかして占いのお客とか?」
「・・・ううん。それは違うと思う」
リリィは猛烈に頭を回転させながら答えた。
リリィの中で何かが引っかかっていた。リリィの行動範囲といえば、ほとんどが店近くのマンションと『紫頭巾』と歌舞伎町の占い屋。そのどれもがさっき会った麻子のイメージとは食い違っている。
彼女の理知的だが清楚な雰囲気。身に着けている質の良さそうなシャンパンゴールドのテーラードスーツ。いかにも大会社の総合職エリート然としている。
リリィの行動範囲と彼女のそれは、おそろしくかけ離れているように思う。
でも会っている。確かにどこかで会っているのだ。
もちろんそれを思い出せなかったらどうなんだと言われれば、別にどうということはない。ダンボなどは、だからなんなのよと言わんばかりだ。つかさも美鈴も全く興味を示していない。ただひとりリリィだけは、占い師の勘とでも言うのだろうか。そこにとんでもないものが隠されているような気がして、いつまでもひとり、悶々と悩み続けていた。
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| 14番目の月