麻子はひとり、窓際のパソコンデスクに向かいメールを打っていた。
窓の外には古代遺跡の街ローマが広がっている。遺跡には美しくライトアップが施され、見るものを幻想の世界へといざなっていく。
麻子が夫の海外転勤でこの街に来て、もう2ヶ月が経とうとしていた。
「岩田君、お元気ですか? 結婚式ではいろいろとありがとう。あのあとすぐにローマに来てしまい、ちゃんとお礼を言う時間も取れなくて本当にごめんなさい。私はとても元気です。病院にも通っています。慣れない土地で、最初はどうなることかと思ったけど、イタリアの人はとても親切で、毎日楽しく過ごしています。
岩田君、何もかも、本当にありがとう。あなたがいてくれなかったら今の私はいません。彼と再会し、どんなに惹かれあったとしても、岩田君がいなかったら私は彼を受け入れることができなかった。そして、どんどんと欠けていく自分を見続けていたと思います。今の私が14番目の月になれたのかどうかはわかりません。たぶんまだでしょう。でも、ないものを探すのではなくあるものを見つける。そのことをあなたが教えてくれたから、これから少しずつでもいいから14番目の月になれるように進んで行こうと思ってます。
最後に・・・あなたがくれたとてもたくさんの愛に答えることができなくてごめんなさい。それなのに、あなたは私を救ってくれた。どんなに感謝してもし足りません。心から、本当に心から、あなたの幸せを祈っています。ありがとう。野村改め、武藤麻子」
部屋の明かりは点いているのに、パソコンのスイッチを切ると、急に部屋が真っ暗になったような気がした。温かい庇護者との繋がりを切った・・・そんな感じだ。
時計を見ると夜の8時を回っている。
あの人は今日も遅いんだろうな。仕事なのだから仕方がない。それは充分わかっている。わかっているんだけど・・・麻子はつらつらと、ここに至るまでのことをぼんやりと思い返した。
武藤は総合商社に勤める麻子と陽平の同級生だ。
中学時代、陽平がおとなしく少しイジメられっ子だったのに対し、武藤はクラスのリーダー的存在だった。身体が大きく愛嬌があり、ケンカが強くて運動神経抜群だった。昔は陽平のことをからかったりもしていたが、今は親しく付き合っている。数ヶ月に一回は連絡を取り合い、軽い同窓会のようなものも開いていた。
そのころ麻子は、陽平の勧めでセックス依存症を扱う病院に通院していた。陽平もセックス依存症についてのさまざまな治療方法を学び、できる限り麻子に付き添った。彼女がセックスの衝動を抑えきれなくなると、陽平は共に散歩をしたり、映画を観たりと気分転換を図った。通院し始めて数ヵ月後、麻子はずいぶんと回復の兆しを見せていた。陽平は、麻子には女友達が必要だと考えた。そして今から8ヶ月ほど前、麻子を連れて同窓会に参加したのだ。そこで麻子は、武藤と運命的な再会を果たすこととなった・・・。
再会直後から、武藤は麻子に強引なまでのアプローチをした。しかし麻子はセックス依存症だ。とても武藤の気持ちに答えることなどできるわけがない。次第に麻子は、武藤からの連絡を拒絶するようになっていった。
だが陽平は、武藤に惹かれる麻子の気持ちに気が付いていた。陽平はあの日・・・麻子が心から安心して生きていけるのであれば、隣にいるのが自分でなくてもかまわないと思った。今もその気持ちに嘘はない。嘘はないけれど、思った以上に辛いものなのだなと、陽平は苦笑いを浮かべてそう思った。
でももう、自分は決して麻子を裏切らない。それだけは絶対にしたくない。そう決意していた陽平は、武藤との再会から数ヵ月後、全てを彼に打ち明けるよう麻子にアドバイスした。武藤ならきっと受け止めることができるだろうと思えた。心の病は全て、親しい人たちの理解と協力がなければ、とても治すことなどできはしない。彼なら麻子を、自分の代わりに包み込み、麻子に本当の笑顔をもたらしてくれるだろう。
麻子は悩み、苦しみ、結論を出せないままの日々が流れていった。
自分は武藤とただの友達に戻れるだろうか。こんな苦しみはさっさと終わりにして、仲のいい同級生に戻るのだ・・・。
無理だ。どう考えてもそれは無理だと思った。彼はもう、自分の心の奥底にまで入り込んでいる。今更ただの友達になどなれるはずがない。
だったら自分は、武藤を最初からいなかったものとして、記憶から消すことができるだろうか。全てを忘れてなかったことにする。自分は同窓会にもいってないし、武藤にも会わなかった。武藤と再会してからの、信じられないほど輝いていた毎日をなかったことにする・・・。
それこそ無理だ。そんなことができるくらいならこんなに悩んだりはしない。
ただの友達に戻ることもできず、消すこともできない・・・。だとしたら、できることはたったひとつしかない。でももし、受け止めてくれなかったら? ・・・怖い・・・とてつもなく怖い・・・。でももう後戻りはできない。そして、したくない・・・。
ついに麻子は武藤に全てを打ち明けた。義父のこと、母のこと、妹のこと、そしてセックス依存症であること。
武藤は驚き、相当のショックを受けたが、結局は全てを受け入れ、納得し、自分の気持ちは変わらないと麻子にプロポーズをした。
それからまもなく武藤のイタリア転勤が決まった。それは結婚式を間近に控えた、ただでさえ忙しい時だった。
あまりに突然の転勤騒ぎに落ち着いてものを考える暇もなく、めまぐるしい日々の中で、陽平とゆっくり話をする時間もないままに、気がついたらローマに来ていたというのが麻子の正直な実感だった。
あれから半年。ローマに来てからも2ヶ月という時間が過ぎ、最近やっと、麻子に落ち着いた日々が戻ってきていた。
武藤は毎日仕事で忙しい。朝早く家を出て、帰ってくるのが夜中近くになることもままあった。
麻子は友達ひとりいない見知らぬ土地で、たったひとりで過ごす時間が多くなった。
陽平に送ったメールでは、心配をかけまいと『イタリア人はとても親切で、毎日楽しくすごしています』などと書いた。でもそれは、とても真実とは言えなかったのだ。
ここローマはろくに英語も通じず、石畳の道はゴチャゴチャとして、あちこちにジプシーと呼ばれる物乞いやスリがいる。常時財布をスラレないかとヒヤヒヤし、麻子にとっては楽しむどころではなかった。
思いっきり日本語を話したい。せめて英語でもいい。慣れないイタリア語なんかうんざりだ。そんな愚痴を言おうにも、夫は顔を合わせる時間もないほど忙しい。疲れきって寝ている夫を起こしてまで、こんな愚痴を聞かせることは出来ない。
・・・どうしてだろう。心は幸せで満たされていたはずなのに、なんだかまた、月が欠けてきたみたいだ。
ああ・・・イライラする。外にはたくさんの男・・・。いつもいつも、誘うように私を見る。
・・・最近また、ね・む・れ・な・い・・・。
2009年05月23日
2009年05月05日
最終章
ハーブティーの香りが漂う『新宿メンタルクリニック』の待合室。
由紀がため息を吐きつつ見つめている先には、由紀の淹れたハーブティーを楽しむ、『紫頭巾』のオカマたち4人がいた。
テーブルには数え切れないほどの写真が所狭しと並べられ、写真の中から美しいウェディングドレス姿の麻子が幸せ一杯の微笑みかけている。
「キレイだったわねぇ、麻子さん」
ウットリと夢見るようにマルコが言う。頭の中には自分のドレス姿が浮んでいるようで、架空のドレスのすそを持ち上げ、リリィと一緒にワルツを踊るように待合室を一周している。
ダンボは自分の映りがいい写真を探しながら、「やっぱり結婚式っていいわぁ・・・。心が洗われるってこのことね」と、麻子と並んで映る自分の姿に満足げだ。
サツキはハーブティーを一口飲み、うらやましそうにダンボに言った。
「いろいろあったけど、女の幸せはやっぱり結婚よねぇ」
「同感よ、ママ! 麻子さん本当に幸せそうだったものね」
「きっと先生のあの言葉が、麻子さんの幸せを作ったんだわ」
「14番目の月になろうなんて、本当にいいこと言うわよねぇ先生」
目をハート型にさせ、サツキがウンウンと勢いよくうなずく。
「ちょっと、どうしてそれを知ってるんです?」
なぜこのオカマたちは、そのことを知ってるのだろうかと由紀は疑問に思った。
忘れもしない約1年前のあの日。
麻子の壮絶としか言いようのない過去を、彼女の口から聞いてしまったあの日。
確かにあの場所にはオカマたちはいなかったはずだ。まさか待合室の入り口で立ち聞きでもしていたんじゃないだろうか。確かにこいつらならやっていてもおかしくはない。
「まさかあの時、立ち聞きしてたんじゃないでしょうね」
「いやぁねぇ。そういう発想をすること事態、品性が下劣ってことの証明よね」
ニヤニヤ笑いながらダンボが言った。ムッとしながら由紀が聞く。
「じゃあどうして知ってるんです?」
「あたしたち、理沙さんとすんごく仲良しなの。理沙さんの結婚式にだってお呼ばれしたんだから」
「そうなんですか?!」
由紀は驚き、いつの間にそれほどの仲になったのだろうかと考えた。
「そうよ。理沙さんは、私たちが聞けば何でも教えてくれるのよ。ねぇママ」
「ええ。麻子さんのことでうちにお礼にいらした時、ちょっと飲んでいただいて、意識が朦朧としたそのあとで、根掘り葉掘り聞いたのよ」
「普段あまり飲まないって言ってたから、ちょろいもんだったわね」
「そのあと、リリィちゃんが催眠術もかけてなかった?」
マルコが尊敬の眼差しをリリィに送る。
「そうなの! 最近催眠術もやるようになったから、ちょっと理沙さんで試してみたわ。あんなにすんなりかかるなんて自分でも驚いちゃった。やっぱりあたしって天才かも!」
「それって、すでに犯罪の域に達してると思うんですけどね」
ダンボは麻子の写真をつまみ、ひらひらと由紀の前にチラつかせながら言った。
「やぁねぇそのいい草。あたしたちはワザワザ結婚式の写真を持ってきてあげたんじゃないの。やっぱり独り身の女は刺々しくなるって本当なのねぇ」
「余計なお世話です。あなたたちだって独り身じゃないですか」
「あたしたちはこれからですもの。ねぇ、ママ?」
「その通りよ、ダンボちゃん。失恋に一番効くのは新しい恋愛だって、ことわざにもあるものね」
「いいこと言うわぁママ。本当にその通りよ。だって・・・ねぇ」
ダンボとサツキの視線が診察室へと注がれると、由紀は2人を小馬鹿にしたように笑い、意味ありげに言った。
「いいですか、それ飲んだらさっさと帰ってくださいね。ああそれから、野村さんの後釜を狙ってるんだとしたら、それこそお門違いですから」
その言い方にイヤな予感を感じたマルコは、「何それ。どういうこと?」と由紀に食いついた。
由紀はマルコの反応を見ると満足げな笑みを浮かべ、上機嫌でこう言った。
「あら、先生からお聞きなってません? 先生今度お見合いするんです。失恋に一番効くのは新しい恋愛だって、ことわざにもあるんでしたね」
「ちょっと、何それ! 全然聞いてないわよ!」
「いつよ! いつなの? 言いなさいよ」
「どこの女よ。妨害してやる!」
思ってもみなかった展開に、オカマたちは蜂の巣をつついたような騒ぎを見せ、我先にと話しはじめた。由紀の周りを取り囲み、全てを白状しろとうるさく攻め立てる。しかし由紀は全く動じる気配も見せず、愉快でたまらないといった笑顔を浮かべて黙っていた。
実は『14番目の月』話に感激したのは、なにもオカマたちばかりではなかった。又聞きでさえあれほどオカマたちをウットリさせたのだから、実際に話を聞いていた由紀が何も感じないはずがない。すぐさま付き合っていた彼氏に別れを告げ、今は陽平を一番近い場所から狙っているのだ。当然陽平の見合い話も、オカマたちを煙に巻くためのまるっきりのでまかせだった。
由紀はライバルたちを大恐慌に陥れた自分の言動に満足しきりで、ゆったりとソファに腰をかけ、テーブルの上の写真を一枚つまみあげた。
そこに映っていたのは、幸せ一杯の輝くほどの微笑を浮かべる麻子と、彼女と腕を組み、誇らしげに微笑むタキシード姿の武藤という男性だった。
由紀はニヤッと笑い、心の中でつぶやいた。
「先生のことは私に任せて、野村さんはこの人と、思う存分幸せになってください!」
由紀がため息を吐きつつ見つめている先には、由紀の淹れたハーブティーを楽しむ、『紫頭巾』のオカマたち4人がいた。
テーブルには数え切れないほどの写真が所狭しと並べられ、写真の中から美しいウェディングドレス姿の麻子が幸せ一杯の微笑みかけている。
「キレイだったわねぇ、麻子さん」
ウットリと夢見るようにマルコが言う。頭の中には自分のドレス姿が浮んでいるようで、架空のドレスのすそを持ち上げ、リリィと一緒にワルツを踊るように待合室を一周している。
ダンボは自分の映りがいい写真を探しながら、「やっぱり結婚式っていいわぁ・・・。心が洗われるってこのことね」と、麻子と並んで映る自分の姿に満足げだ。
サツキはハーブティーを一口飲み、うらやましそうにダンボに言った。
「いろいろあったけど、女の幸せはやっぱり結婚よねぇ」
「同感よ、ママ! 麻子さん本当に幸せそうだったものね」
「きっと先生のあの言葉が、麻子さんの幸せを作ったんだわ」
「14番目の月になろうなんて、本当にいいこと言うわよねぇ先生」
目をハート型にさせ、サツキがウンウンと勢いよくうなずく。
「ちょっと、どうしてそれを知ってるんです?」
なぜこのオカマたちは、そのことを知ってるのだろうかと由紀は疑問に思った。
忘れもしない約1年前のあの日。
麻子の壮絶としか言いようのない過去を、彼女の口から聞いてしまったあの日。
確かにあの場所にはオカマたちはいなかったはずだ。まさか待合室の入り口で立ち聞きでもしていたんじゃないだろうか。確かにこいつらならやっていてもおかしくはない。
「まさかあの時、立ち聞きしてたんじゃないでしょうね」
「いやぁねぇ。そういう発想をすること事態、品性が下劣ってことの証明よね」
ニヤニヤ笑いながらダンボが言った。ムッとしながら由紀が聞く。
「じゃあどうして知ってるんです?」
「あたしたち、理沙さんとすんごく仲良しなの。理沙さんの結婚式にだってお呼ばれしたんだから」
「そうなんですか?!」
由紀は驚き、いつの間にそれほどの仲になったのだろうかと考えた。
「そうよ。理沙さんは、私たちが聞けば何でも教えてくれるのよ。ねぇママ」
「ええ。麻子さんのことでうちにお礼にいらした時、ちょっと飲んでいただいて、意識が朦朧としたそのあとで、根掘り葉掘り聞いたのよ」
「普段あまり飲まないって言ってたから、ちょろいもんだったわね」
「そのあと、リリィちゃんが催眠術もかけてなかった?」
マルコが尊敬の眼差しをリリィに送る。
「そうなの! 最近催眠術もやるようになったから、ちょっと理沙さんで試してみたわ。あんなにすんなりかかるなんて自分でも驚いちゃった。やっぱりあたしって天才かも!」
「それって、すでに犯罪の域に達してると思うんですけどね」
ダンボは麻子の写真をつまみ、ひらひらと由紀の前にチラつかせながら言った。
「やぁねぇそのいい草。あたしたちはワザワザ結婚式の写真を持ってきてあげたんじゃないの。やっぱり独り身の女は刺々しくなるって本当なのねぇ」
「余計なお世話です。あなたたちだって独り身じゃないですか」
「あたしたちはこれからですもの。ねぇ、ママ?」
「その通りよ、ダンボちゃん。失恋に一番効くのは新しい恋愛だって、ことわざにもあるものね」
「いいこと言うわぁママ。本当にその通りよ。だって・・・ねぇ」
ダンボとサツキの視線が診察室へと注がれると、由紀は2人を小馬鹿にしたように笑い、意味ありげに言った。
「いいですか、それ飲んだらさっさと帰ってくださいね。ああそれから、野村さんの後釜を狙ってるんだとしたら、それこそお門違いですから」
その言い方にイヤな予感を感じたマルコは、「何それ。どういうこと?」と由紀に食いついた。
由紀はマルコの反応を見ると満足げな笑みを浮かべ、上機嫌でこう言った。
「あら、先生からお聞きなってません? 先生今度お見合いするんです。失恋に一番効くのは新しい恋愛だって、ことわざにもあるんでしたね」
「ちょっと、何それ! 全然聞いてないわよ!」
「いつよ! いつなの? 言いなさいよ」
「どこの女よ。妨害してやる!」
思ってもみなかった展開に、オカマたちは蜂の巣をつついたような騒ぎを見せ、我先にと話しはじめた。由紀の周りを取り囲み、全てを白状しろとうるさく攻め立てる。しかし由紀は全く動じる気配も見せず、愉快でたまらないといった笑顔を浮かべて黙っていた。
実は『14番目の月』話に感激したのは、なにもオカマたちばかりではなかった。又聞きでさえあれほどオカマたちをウットリさせたのだから、実際に話を聞いていた由紀が何も感じないはずがない。すぐさま付き合っていた彼氏に別れを告げ、今は陽平を一番近い場所から狙っているのだ。当然陽平の見合い話も、オカマたちを煙に巻くためのまるっきりのでまかせだった。
由紀はライバルたちを大恐慌に陥れた自分の言動に満足しきりで、ゆったりとソファに腰をかけ、テーブルの上の写真を一枚つまみあげた。
そこに映っていたのは、幸せ一杯の輝くほどの微笑を浮かべる麻子と、彼女と腕を組み、誇らしげに微笑むタキシード姿の武藤という男性だった。
由紀はニヤッと笑い、心の中でつぶやいた。
「先生のことは私に任せて、野村さんはこの人と、思う存分幸せになってください!」
2009年04月29日
9
いつも麻子に愛していると言い続けた陽平。それを、自分とのセックスをしたいがための言葉だと、麻子は固く信じていた。
愛しているという言葉は、セックスの前戯と同じ。それ以外の意味はなにもない。なくていい。あると知ってはいけない。知ってしまったら最後、今まで以上に空っぽな自分を感じてしまう。男女の愛も、親子の愛も、姉妹の愛も、友達同士の愛も、何もかもみんな作り話。そんなもの、現実には存在しない。してはいけないのだと。
しかし、目の前の男はセックスの時以外も、何度も何度も麻子を愛していると繰り返していた。・・・もしかしてあの言葉は本物だったのか・・・? ・・・私からの愛を、狂おしいほどほしがっていたのか・・・。幼いあの日の私がそうだったように・・・。
麻子がぼんやりとそう考えた時、彼女を完全に包み込む、継ぎ目ひとつない透明で強固な球体がきしんだ。
それは麻子を外界から完全に遮断し、空っぽにし、何もない心だけを見つめさせる球体。
反対に、愛してほしくても愛されない苦しさや辛さ、自分以外のものとの関わりで傷つく心、それらから麻子を完璧に守っているものでもあった。
その球体がわずかにきしみ、砕け散ろうとしていた。球体が立てるギシギシという恐ろしい音は、麻子の耳にはっきりと届いていた。
麻子の脳裏に、かつて見た恐ろしい夢・・・麻子を包む球体が粉々に砕け散り、一緒に自分の身体も散り散りバラバラになった、あの光景が蘇った。
麻子は思わず叫び出しそうになった。陽平に握られたままの手を外し、耳を塞ごうとする。
恐怖に引きつった麻子の顔。しかし陽平はその手を離そうとはしなかった。反対にギュッと強く握り締め、下を向きイヤイヤと首を振る麻子に力強く言った。
「麻子! 俺を見て。何も怖くないから。大丈夫だから安心して! 麻子!」
恐る恐る麻子は陽平を見つめた。陽平は麻子を安心させるように大きくうなずくと、そのままギュッと抱きしめた。ほどいた手で、麻子の背中をポンポンと繰り返し叩く。
「ほら大丈夫。怖くない、怖くない。何も怖いものなんかやってこないよ。もしやってきても、俺が守ってやる。だから大丈夫。安心して。ね、安心して・・・」
ポンポンと叩いていた手は、今度はゆっくり麻子の背中をさする。恐怖で硬くなっていた麻子の身体から徐々に力が抜けていった時、ふいに陽平は、麻子を抱きしめながら優しくささやくように言った。
「麻子、ないものを探すのはもう止めよう。自分から16番目以降の月になるなんて、ずいぶんバカらしいことだと思わない?」
陽平は麻子から身体を離し、また手を握って上下のリズムを取った。
「だからね麻子、あるものを探してみようよ。例えば麻子には、今はちょっと痩せちゃったけど、元々とってもキレイな顔と、みんなが憧れるような素晴らしいスタイルを持ってる。俺、前にも言ったけど、中学の時からずっと麻子に憧れてたんだよ。周りの男もみんなそうだった。でもそれは、麻子とセックスがしたいからじゃない。ただ単純にステキだな、いいなって思ってたんだ。麻子は人にそう思わせるものをちゃんと持ってる。それから辞めてしまったけれど、麻子には素晴らしい仕事のキャリアがある。これは誰でも持てるものじゃない。麻子だから得られたものだ。そして妹の理沙ちゃん。彼女は麻子を本当に心配しているし、愛している。いつもいつも気にかけてる。麻子がずっと、目の不自由だった理沙ちゃんにそうしてきたように。これは確かだ。そうだね、理沙ちゃん」
陽平は、階段上に立ち尽くす理沙を見上げた。それにつられ、麻子もゆっくりと理沙を見る。
麻子の恐れと不安が交じり合ったような瞳。理沙はその瞳をじっと見つめ、コクンと大きくうなずいた。
陽平の手は、変わらず麻子の手を握り、独特のリズムで上下に動かし続けている。
「麻子は何もない。空っぽだって言ったけど、これでもう3つも素晴らしいものがあるってわかった。麻子、この世の中に、完全に満ち足りてる人なんてひとりもいないよ。みんな何かが足りないって思いながら生きてる。麻子はずっと、閉じきった自分の心の中だけを見て、空っぽだ、何もないって思ってた。でも、ちょっと見方を変えるだけで、今まで見えなかったものが見えてくる。足りないものを探し続けるのもひとつの生き方かもしれないけど、あるものを見つけて、それを育てていくやり方もある」
陽平は動かし続けた手を止めた。麻子の膝の上に、握ったままの2人の手を置く。陽平は、改めて麻子の手をギュッと握った。その手は大きく、力強く、なによりも暖かかった。
「麻子、14番目の月になろうよ。これから欠けていくより、これからどんどん満ちていく方がずっといいと思わない? 大丈夫。麻子がひとりで歩き出せるまで、もう平気だって言えるようになるまで、俺、ずっとついてるから」
14番目の月・・・。これから満ちていく14番目の月。なれるんだろうか、私が。そんなふうに生きていけるんだろうか。わからない。今の私には何もわからない。でも、目の前で、こんなふうに笑ってくれる人がいる。こんなにも大きくて、暖かい手を持ってる人がいる。その人が大丈夫だって言ってくれるなら、もしかしたら大丈夫なのかもしれない。空っぽだった心にも、何かが少しずつ満ちてくるのかもしれない。そしていつか、私も満月になれるのかもしれない・・・。
麻子の耳に、透明の球体が割れる『パン!』という音が、確かに聞こえた。
愛しているという言葉は、セックスの前戯と同じ。それ以外の意味はなにもない。なくていい。あると知ってはいけない。知ってしまったら最後、今まで以上に空っぽな自分を感じてしまう。男女の愛も、親子の愛も、姉妹の愛も、友達同士の愛も、何もかもみんな作り話。そんなもの、現実には存在しない。してはいけないのだと。
しかし、目の前の男はセックスの時以外も、何度も何度も麻子を愛していると繰り返していた。・・・もしかしてあの言葉は本物だったのか・・・? ・・・私からの愛を、狂おしいほどほしがっていたのか・・・。幼いあの日の私がそうだったように・・・。
麻子がぼんやりとそう考えた時、彼女を完全に包み込む、継ぎ目ひとつない透明で強固な球体がきしんだ。
それは麻子を外界から完全に遮断し、空っぽにし、何もない心だけを見つめさせる球体。
反対に、愛してほしくても愛されない苦しさや辛さ、自分以外のものとの関わりで傷つく心、それらから麻子を完璧に守っているものでもあった。
その球体がわずかにきしみ、砕け散ろうとしていた。球体が立てるギシギシという恐ろしい音は、麻子の耳にはっきりと届いていた。
麻子の脳裏に、かつて見た恐ろしい夢・・・麻子を包む球体が粉々に砕け散り、一緒に自分の身体も散り散りバラバラになった、あの光景が蘇った。
麻子は思わず叫び出しそうになった。陽平に握られたままの手を外し、耳を塞ごうとする。
恐怖に引きつった麻子の顔。しかし陽平はその手を離そうとはしなかった。反対にギュッと強く握り締め、下を向きイヤイヤと首を振る麻子に力強く言った。
「麻子! 俺を見て。何も怖くないから。大丈夫だから安心して! 麻子!」
恐る恐る麻子は陽平を見つめた。陽平は麻子を安心させるように大きくうなずくと、そのままギュッと抱きしめた。ほどいた手で、麻子の背中をポンポンと繰り返し叩く。
「ほら大丈夫。怖くない、怖くない。何も怖いものなんかやってこないよ。もしやってきても、俺が守ってやる。だから大丈夫。安心して。ね、安心して・・・」
ポンポンと叩いていた手は、今度はゆっくり麻子の背中をさする。恐怖で硬くなっていた麻子の身体から徐々に力が抜けていった時、ふいに陽平は、麻子を抱きしめながら優しくささやくように言った。
「麻子、ないものを探すのはもう止めよう。自分から16番目以降の月になるなんて、ずいぶんバカらしいことだと思わない?」
陽平は麻子から身体を離し、また手を握って上下のリズムを取った。
「だからね麻子、あるものを探してみようよ。例えば麻子には、今はちょっと痩せちゃったけど、元々とってもキレイな顔と、みんなが憧れるような素晴らしいスタイルを持ってる。俺、前にも言ったけど、中学の時からずっと麻子に憧れてたんだよ。周りの男もみんなそうだった。でもそれは、麻子とセックスがしたいからじゃない。ただ単純にステキだな、いいなって思ってたんだ。麻子は人にそう思わせるものをちゃんと持ってる。それから辞めてしまったけれど、麻子には素晴らしい仕事のキャリアがある。これは誰でも持てるものじゃない。麻子だから得られたものだ。そして妹の理沙ちゃん。彼女は麻子を本当に心配しているし、愛している。いつもいつも気にかけてる。麻子がずっと、目の不自由だった理沙ちゃんにそうしてきたように。これは確かだ。そうだね、理沙ちゃん」
陽平は、階段上に立ち尽くす理沙を見上げた。それにつられ、麻子もゆっくりと理沙を見る。
麻子の恐れと不安が交じり合ったような瞳。理沙はその瞳をじっと見つめ、コクンと大きくうなずいた。
陽平の手は、変わらず麻子の手を握り、独特のリズムで上下に動かし続けている。
「麻子は何もない。空っぽだって言ったけど、これでもう3つも素晴らしいものがあるってわかった。麻子、この世の中に、完全に満ち足りてる人なんてひとりもいないよ。みんな何かが足りないって思いながら生きてる。麻子はずっと、閉じきった自分の心の中だけを見て、空っぽだ、何もないって思ってた。でも、ちょっと見方を変えるだけで、今まで見えなかったものが見えてくる。足りないものを探し続けるのもひとつの生き方かもしれないけど、あるものを見つけて、それを育てていくやり方もある」
陽平は動かし続けた手を止めた。麻子の膝の上に、握ったままの2人の手を置く。陽平は、改めて麻子の手をギュッと握った。その手は大きく、力強く、なによりも暖かかった。
「麻子、14番目の月になろうよ。これから欠けていくより、これからどんどん満ちていく方がずっといいと思わない? 大丈夫。麻子がひとりで歩き出せるまで、もう平気だって言えるようになるまで、俺、ずっとついてるから」
14番目の月・・・。これから満ちていく14番目の月。なれるんだろうか、私が。そんなふうに生きていけるんだろうか。わからない。今の私には何もわからない。でも、目の前で、こんなふうに笑ってくれる人がいる。こんなにも大きくて、暖かい手を持ってる人がいる。その人が大丈夫だって言ってくれるなら、もしかしたら大丈夫なのかもしれない。空っぽだった心にも、何かが少しずつ満ちてくるのかもしれない。そしていつか、私も満月になれるのかもしれない・・・。
麻子の耳に、透明の球体が割れる『パン!』という音が、確かに聞こえた。
2009年04月19日
8
陽平は、自分がこの世で一番大切な人を、この世で一番残酷な方法で傷つけたのだと気付いた。
精神科医でありながら、麻子が自分から離れていくという恐怖で、彼女の病状が進むのを見て見ぬ振りし続けたのだ。これじゃあ麻子の母親と何も変わらないではないか・・・。
麻子は義父に身体を強要され、母に恨まれ、理沙に目が治るという形で居場所を奪われ、同僚に裏切られ、愚かしさに狂った陽平に傷つけられた。
麻子は彼女の取り巻く世界全部から傷つけられ続け、裏切られ続けたのだ。
だから・・・だからこそ、今度こそ麻子を裏切りたくないと陽平は強く思った。
麻子が心から笑う顔が見たい。空っぽな心を満たしてやりたい。麻子が心の底から安心して生きていけるのであれば、彼女の隣にいるのが自分じゃなくてもいい。
自分じゃ・・・なくても・・・。
陽平は、ともすると溢れそうになる涙を必死にこらえ、ハァと息を吐き出した。凍りついていた足で、一歩一歩階段を降りていく。
麻子は床に座り込んだまま立とうとしなかった。ゆっくりゆっくり近づいてくる陽平をジッと眺め、にらみつけていた。
陽平は麻子の前に来ると、麻子の瞳を正面から見つめ、ぎこちなさが残る顔に笑顔を浮かべて、彼女の目の前に胡坐をかいた。
陽平が何をしようとしているのかさっぱりわからず、陽平をにらみつけていた麻子の瞳に、徐々に戸惑いの色が混じり始めた。
陽平は、両脇にダランと垂れ下がった麻子の手を、片手ずつそっと握った。麻子が反射的に手を引く。陽平が、握った手に軽く力を込めた。陽平の手は驚くほど暖かく、柔らかく、麻子はその感触に身を委ねるようにおとなしくなった。
痩せたせいで骨が浮き出している真っ白な手。陽平は冷えきったそれを温めるように包み込むと、ゆっくりとリズムをつけて、軽く上下に動かした。それは泣きじゃくる赤ちゃんの背中を、母親が愛しげに叩くあのリズムに似ていた。
「知ってる? 麻子。14番目の月って」
陽平は何を突然言い始めたのかと、麻子の戸惑いは大きくなり、瞳には混乱の色が濃くなっていった。
周りで聞いていた理沙も、由紀も、陽平の言葉の真意が読み取れない。
「ほら、満月って十五夜じゃない? 15番目。つまりは14番目の月っていうのはその一歩前で、月が完全に満ちてないわけ。未完成なんだよね。わかる?」
陽平の顔からは徐々にぎこちなさが消え、口元には柔らかい微笑みが浮かんだ。
麻子が初めてここの診察室に入った時、陽平の暖かい微笑みは、まるでお父さんのようだと思った。でも今、目の前で微笑む陽平の笑顔は、お父さんのそれとはまるで違う。なぜお父さんのようだなんて思ったんだろうと、麻子は不思議な気がした。
今思えば、お父さんの笑顔には、ズシッとした重みとほんの少しの媚があった。麻子がセックスを拒否しないかと、伺うような、脅すような色があった。でも目の前の笑顔にはそれがない。麻子とのセックスを繰り返していた時、陽平の顔には怯えたような微笑みが浮かんでいたと思う。今はそれもない。ただただ暖かく、明るく、柔らかい。
麻子は陽平の笑顔と自分の手が刻むリズムによって、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻した。
「16番目の月は、これから欠ける一方だよね。でも14番目の月は、これから満ちていくんだよ。どんどんどんどん完全になっていくんだ。・・・麻子、人ってさ、どうしても自分にないものを探しちゃうもんだよね。いい仕事がない。お金がない。恋人もいない。自分は何も持っていない。でもそれってさ、満ちようとする月を自分からどんどん欠ける方向に持っていってるんじゃないかな。それこそ自分から、16番目以降の月になってるんだよ」
16番目の月・・・。欠けていく一方の16番目以降の月・・・。
それは私のことを言っているのだろうかと、麻子はぼんやり考えた。
あれもない、これもない、何もない。私は今まで、自分にないものを必死で探し求めてきた。欲しくても欲しくても決して手に入らないものを、躍起(やっき)になって追いかけていた。・・・それはそうだ。当然じゃないか。自分には本当に何もないのだから。
はじめて私には何もないと感じたのは、義父が死んだ時だった。あの時全てを失ったと思った。・・・でも・・・だったら私は、それまで何を持っていたんだろう。あるのはセックスとの交換で与えられる義父からの愛。欲しくて欲しくて身体を差し出し、それと引き換えにもらった愛・・・。
あれはそんなに必死になって欲しがるほどすばらしいものだっただろうか。なんだかわからなくなってきた。セックスと交換する愛は、果たして本物の愛なんだろうか。第一愛とセックスは交換するものなのか。
待って。どんどん混乱してきた。
それじゃあ今の私は、義父と同じことをしているの?
愛してほしいからセックスを与え続けた、幼い少女の私。
セックスをしたいから、愛してない人に愛していると言う今の私。
笑っちゃう。今の私はあの時の義父とそっくり。セックスと偽りの愛を交換している。
つまりは義父の愛も偽りだったということか。
じゃあこの数年間、私の身体を突いたたくさんの男たちはあの時の私というわけ? 幼い少女の私。
目の前にいるこの男も? もしかしてこの男も私なの? 愛してほしくて愛してほしくて、義父に身体を与え続けた私と、この人は同じ?
義父に愛してほしかった。母に愛してほしかった。誰でもいい、私が必要だって、愛してるって言ってほしかった。
あの狂おしいほどに欲し、与えられなかった想いはまぎれもない真実。ゆるぎないほどの真実。
・・・ではこの人は、愛してほしくて愛してほしくて、私に身体を与えていたの? 私に、狂おしいほど愛してほしかったというの? ・・・あの時の私のように、私からの愛がほしかったということ?
麻子の乾ききっていた瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
精神科医でありながら、麻子が自分から離れていくという恐怖で、彼女の病状が進むのを見て見ぬ振りし続けたのだ。これじゃあ麻子の母親と何も変わらないではないか・・・。
麻子は義父に身体を強要され、母に恨まれ、理沙に目が治るという形で居場所を奪われ、同僚に裏切られ、愚かしさに狂った陽平に傷つけられた。
麻子は彼女の取り巻く世界全部から傷つけられ続け、裏切られ続けたのだ。
だから・・・だからこそ、今度こそ麻子を裏切りたくないと陽平は強く思った。
麻子が心から笑う顔が見たい。空っぽな心を満たしてやりたい。麻子が心の底から安心して生きていけるのであれば、彼女の隣にいるのが自分じゃなくてもいい。
自分じゃ・・・なくても・・・。
陽平は、ともすると溢れそうになる涙を必死にこらえ、ハァと息を吐き出した。凍りついていた足で、一歩一歩階段を降りていく。
麻子は床に座り込んだまま立とうとしなかった。ゆっくりゆっくり近づいてくる陽平をジッと眺め、にらみつけていた。
陽平は麻子の前に来ると、麻子の瞳を正面から見つめ、ぎこちなさが残る顔に笑顔を浮かべて、彼女の目の前に胡坐をかいた。
陽平が何をしようとしているのかさっぱりわからず、陽平をにらみつけていた麻子の瞳に、徐々に戸惑いの色が混じり始めた。
陽平は、両脇にダランと垂れ下がった麻子の手を、片手ずつそっと握った。麻子が反射的に手を引く。陽平が、握った手に軽く力を込めた。陽平の手は驚くほど暖かく、柔らかく、麻子はその感触に身を委ねるようにおとなしくなった。
痩せたせいで骨が浮き出している真っ白な手。陽平は冷えきったそれを温めるように包み込むと、ゆっくりとリズムをつけて、軽く上下に動かした。それは泣きじゃくる赤ちゃんの背中を、母親が愛しげに叩くあのリズムに似ていた。
「知ってる? 麻子。14番目の月って」
陽平は何を突然言い始めたのかと、麻子の戸惑いは大きくなり、瞳には混乱の色が濃くなっていった。
周りで聞いていた理沙も、由紀も、陽平の言葉の真意が読み取れない。
「ほら、満月って十五夜じゃない? 15番目。つまりは14番目の月っていうのはその一歩前で、月が完全に満ちてないわけ。未完成なんだよね。わかる?」
陽平の顔からは徐々にぎこちなさが消え、口元には柔らかい微笑みが浮かんだ。
麻子が初めてここの診察室に入った時、陽平の暖かい微笑みは、まるでお父さんのようだと思った。でも今、目の前で微笑む陽平の笑顔は、お父さんのそれとはまるで違う。なぜお父さんのようだなんて思ったんだろうと、麻子は不思議な気がした。
今思えば、お父さんの笑顔には、ズシッとした重みとほんの少しの媚があった。麻子がセックスを拒否しないかと、伺うような、脅すような色があった。でも目の前の笑顔にはそれがない。麻子とのセックスを繰り返していた時、陽平の顔には怯えたような微笑みが浮かんでいたと思う。今はそれもない。ただただ暖かく、明るく、柔らかい。
麻子は陽平の笑顔と自分の手が刻むリズムによって、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻した。
「16番目の月は、これから欠ける一方だよね。でも14番目の月は、これから満ちていくんだよ。どんどんどんどん完全になっていくんだ。・・・麻子、人ってさ、どうしても自分にないものを探しちゃうもんだよね。いい仕事がない。お金がない。恋人もいない。自分は何も持っていない。でもそれってさ、満ちようとする月を自分からどんどん欠ける方向に持っていってるんじゃないかな。それこそ自分から、16番目以降の月になってるんだよ」
16番目の月・・・。欠けていく一方の16番目以降の月・・・。
それは私のことを言っているのだろうかと、麻子はぼんやり考えた。
あれもない、これもない、何もない。私は今まで、自分にないものを必死で探し求めてきた。欲しくても欲しくても決して手に入らないものを、躍起(やっき)になって追いかけていた。・・・それはそうだ。当然じゃないか。自分には本当に何もないのだから。
はじめて私には何もないと感じたのは、義父が死んだ時だった。あの時全てを失ったと思った。・・・でも・・・だったら私は、それまで何を持っていたんだろう。あるのはセックスとの交換で与えられる義父からの愛。欲しくて欲しくて身体を差し出し、それと引き換えにもらった愛・・・。
あれはそんなに必死になって欲しがるほどすばらしいものだっただろうか。なんだかわからなくなってきた。セックスと交換する愛は、果たして本物の愛なんだろうか。第一愛とセックスは交換するものなのか。
待って。どんどん混乱してきた。
それじゃあ今の私は、義父と同じことをしているの?
愛してほしいからセックスを与え続けた、幼い少女の私。
セックスをしたいから、愛してない人に愛していると言う今の私。
笑っちゃう。今の私はあの時の義父とそっくり。セックスと偽りの愛を交換している。
つまりは義父の愛も偽りだったということか。
じゃあこの数年間、私の身体を突いたたくさんの男たちはあの時の私というわけ? 幼い少女の私。
目の前にいるこの男も? もしかしてこの男も私なの? 愛してほしくて愛してほしくて、義父に身体を与え続けた私と、この人は同じ?
義父に愛してほしかった。母に愛してほしかった。誰でもいい、私が必要だって、愛してるって言ってほしかった。
あの狂おしいほどに欲し、与えられなかった想いはまぎれもない真実。ゆるぎないほどの真実。
・・・ではこの人は、愛してほしくて愛してほしくて、私に身体を与えていたの? 私に、狂おしいほど愛してほしかったというの? ・・・あの時の私のように、私からの愛がほしかったということ?
麻子の乾ききっていた瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
2009年04月04日
7
麻子は待合室の床に座りこみ、ガタガタと震えながら話し続けていた。母に叱られた少女のままに怯え、目はキョロキョロと挙動不審に動き、この状況から自分を助け出してくれるものを必死に求めていた。
ふいに麻子の口元に笑みが浮かんだ。身体の震えは止まらなかったが、血走った目には喜びの色が加わり、全身から怯えた影が消えた。
「でもね・・・でも、お父さんはいけないって言ったけど、セックスをしている時は本当に幸せなの。その時だけは生きてるって感じる。私には本当は価値があるんじゃないかって思う。イヤなことが全部消えていって、頭が真っ白になるの。身体が軽くなってすごく気持ちがいい。お父さんとしてた時には一度も感じなかったのに、今は違う。空っぽだった心が、幸せとか喜びとかで満ち足りていくのがわかる。男のモノで、力強く突いてもらえればもらえるだけ、どんどんどんどん満ちていくの。だからもっとしなくちゃいけない。しないとすぐ空っぽに戻っちゃう。セックスする前よりももっともっと空っぽになっちゃう。だからすぐまたしなくちゃいけないの」
「違うよ麻子。それは違う。・・・それは麻子がセックス」
陽平は思わずそう口走り、自分の口から出た言葉に気づいて口籠った。
彼は今まで患者からありとあらゆる種類の話を聞いてきた。その陽平ですら、麻子の語る自らの過去には、身が凍るほどのショックを受けていた。
自分がはじめて麻子に会った中学の時、すでに麻子の心は蝕(むしば)まれていたのだ。
麻子をオモチャのように扱い、言葉と身体で縛りつけたまま義父は死んだ。残された母の心はねじまがり、その全てを麻子に向けた。
彼女はそうやって、あの時あの場所に存在していたのか・・・。
「麻子・・・」
あまりの痛ましさに、陽平の声はため息となった。
麻子はゆっくりと声の主を振り返ったが、その顔は楽しく幸せだった夢から無理矢理起こされ、イヤな現実に引き戻されたかのように不機嫌だった。
「セックス依存症でしょ? 知ってるわよ。・・・だからなに?」
「どうして・・・」
「調べたからに決まってるじゃない。岩田君、私が何も知らないとでも思ってたの? 私のこと、何も知らないバカだとでも思ってるの? 今は知りたきゃなんだって調べられるわ。・・・あのね、私だって自分がおかしいことくらいわかってるの。ちゃんと知ってるのよ」
「だったら・・・だったらどうして止めないんだ! 危険だってこともわかってるのか? 身体だってボロボロになる。取り返しのつかないことになるかもしれないんだぞ!」
陽平は何もしてやれなかった虚しさと、自分への腹立たしさに叫んでいた。
もっと早く気付いていれば、もっと早く適切な行動を取っていれば・・・。
この数ヶ月、頭と心から離れることがなかった激しい後悔が次から次へと陽平を襲う。いくら悔いてももう遅い。それは充分わかっていた。
「麻子、もう止めよう。病院に行こう。そんなバカげたことをいくら続けも、もっともっと、どんどん空っぽになっていくだけだ。それもわかってるのか?」
「じゃあ・・・今の私からセックスを取ったら、いったい何が残るっていうの?」
麻子はかすれた声でつぶやいた。
もう何もない。仕事も、理沙も、お父さんも、お母さんからの愛も、何もかも私にはない。生きてる価値も、生まれてきた意味も、なんにも、何ひとつない。
「なんにもない。本当に、何ひとつない。私は空っぽなの! そんな状況で、岩田君だったら生きていける?」
かすれた声は徐々に音になり、大きくなって陽平に降りそそいだ。
「精神科医? 笑わせないで。私のこと放っておいたじゃない。わかってて、私の身体が欲しいがためにそのまま放っておいたんでしょ? ほら、私の身体に、私とのセックスに価値があるって、あなたが身を持って私に証明したんじゃないの! 私はね、セックスがあるから生きていけるの。生きてていいって言ってもらえるの。セックスがあるから私に価値が生まれる。セックスで男を満足させる身体を持っているから愛してもらえる。それが私なの。私の持ってる全てなの! セックスをすればするほど心が満たされる。それが仮に一時(いっとき)のことだとしても、それすらなくなったら私はどうやって生きていけばいいの? 私の心と身体は、誰がどうやって満たしてくれるのよ! もう止めろ? 病院に行こう? 冗談じゃない。空っぽのままなんかじゃ生きていけない。なんにもない。真っ白。そんなの絶対にイヤ! 私にはセックスがないとダメなの。生きてなんていけないのよ!」
麻子は肩で息をしながら一気に言い募った。自分の空っぽの心を見つめ、探し、決して見つかることのない何かを、死に物狂いで求め続けていた。
ふいに麻子の口元に笑みが浮かんだ。身体の震えは止まらなかったが、血走った目には喜びの色が加わり、全身から怯えた影が消えた。
「でもね・・・でも、お父さんはいけないって言ったけど、セックスをしている時は本当に幸せなの。その時だけは生きてるって感じる。私には本当は価値があるんじゃないかって思う。イヤなことが全部消えていって、頭が真っ白になるの。身体が軽くなってすごく気持ちがいい。お父さんとしてた時には一度も感じなかったのに、今は違う。空っぽだった心が、幸せとか喜びとかで満ち足りていくのがわかる。男のモノで、力強く突いてもらえればもらえるだけ、どんどんどんどん満ちていくの。だからもっとしなくちゃいけない。しないとすぐ空っぽに戻っちゃう。セックスする前よりももっともっと空っぽになっちゃう。だからすぐまたしなくちゃいけないの」
「違うよ麻子。それは違う。・・・それは麻子がセックス」
陽平は思わずそう口走り、自分の口から出た言葉に気づいて口籠った。
彼は今まで患者からありとあらゆる種類の話を聞いてきた。その陽平ですら、麻子の語る自らの過去には、身が凍るほどのショックを受けていた。
自分がはじめて麻子に会った中学の時、すでに麻子の心は蝕(むしば)まれていたのだ。
麻子をオモチャのように扱い、言葉と身体で縛りつけたまま義父は死んだ。残された母の心はねじまがり、その全てを麻子に向けた。
彼女はそうやって、あの時あの場所に存在していたのか・・・。
「麻子・・・」
あまりの痛ましさに、陽平の声はため息となった。
麻子はゆっくりと声の主を振り返ったが、その顔は楽しく幸せだった夢から無理矢理起こされ、イヤな現実に引き戻されたかのように不機嫌だった。
「セックス依存症でしょ? 知ってるわよ。・・・だからなに?」
「どうして・・・」
「調べたからに決まってるじゃない。岩田君、私が何も知らないとでも思ってたの? 私のこと、何も知らないバカだとでも思ってるの? 今は知りたきゃなんだって調べられるわ。・・・あのね、私だって自分がおかしいことくらいわかってるの。ちゃんと知ってるのよ」
「だったら・・・だったらどうして止めないんだ! 危険だってこともわかってるのか? 身体だってボロボロになる。取り返しのつかないことになるかもしれないんだぞ!」
陽平は何もしてやれなかった虚しさと、自分への腹立たしさに叫んでいた。
もっと早く気付いていれば、もっと早く適切な行動を取っていれば・・・。
この数ヶ月、頭と心から離れることがなかった激しい後悔が次から次へと陽平を襲う。いくら悔いてももう遅い。それは充分わかっていた。
「麻子、もう止めよう。病院に行こう。そんなバカげたことをいくら続けも、もっともっと、どんどん空っぽになっていくだけだ。それもわかってるのか?」
「じゃあ・・・今の私からセックスを取ったら、いったい何が残るっていうの?」
麻子はかすれた声でつぶやいた。
もう何もない。仕事も、理沙も、お父さんも、お母さんからの愛も、何もかも私にはない。生きてる価値も、生まれてきた意味も、なんにも、何ひとつない。
「なんにもない。本当に、何ひとつない。私は空っぽなの! そんな状況で、岩田君だったら生きていける?」
かすれた声は徐々に音になり、大きくなって陽平に降りそそいだ。
「精神科医? 笑わせないで。私のこと放っておいたじゃない。わかってて、私の身体が欲しいがためにそのまま放っておいたんでしょ? ほら、私の身体に、私とのセックスに価値があるって、あなたが身を持って私に証明したんじゃないの! 私はね、セックスがあるから生きていけるの。生きてていいって言ってもらえるの。セックスがあるから私に価値が生まれる。セックスで男を満足させる身体を持っているから愛してもらえる。それが私なの。私の持ってる全てなの! セックスをすればするほど心が満たされる。それが仮に一時(いっとき)のことだとしても、それすらなくなったら私はどうやって生きていけばいいの? 私の心と身体は、誰がどうやって満たしてくれるのよ! もう止めろ? 病院に行こう? 冗談じゃない。空っぽのままなんかじゃ生きていけない。なんにもない。真っ白。そんなの絶対にイヤ! 私にはセックスがないとダメなの。生きてなんていけないのよ!」
麻子は肩で息をしながら一気に言い募った。自分の空っぽの心を見つめ、探し、決して見つかることのない何かを、死に物狂いで求め続けていた。
2009年03月28日
6
麻子が階段をひとつ降りるたび、スカートの裾がひらりと舞った。
幽鬼のような顔と痩せ細った身体。ひらひらと美しく舞う真っ白いフレアースカート。2つは反発しあいながらも奇妙に相合わさって、麻子の語る物語によりいっそうの不思議さを与えていた。
「私ね、どうすればお母さんが私を愛してくれるのかを一生懸命考えたの。それで思いついた。そうだ。目が不自由になった理沙の面倒を見ればいいんだって。いつだってあの子の面倒をちゃんと見てれば、お母さんは私に優しかったもの。だから頑張った。お母さんに殴られないように、蹴られないように、いつもいつも必死で理沙の面倒を見てきた。理沙が笑えばお母さんも一緒に笑ったし、理沙が泣けばお母さんは私を叩いた。だからいつも理沙が笑っていられるように、理沙が気持ちよくいられるように、それだけを考えて生きてきたの。おかげで理沙は、明るくてよく笑う子になった。目は見えなくても、何も不自由がないように私がしてきたんだもの。そうね、理沙」
麻子はそう言って、階段の上に座り込んでいる理沙を見上げた。
理沙は泣いていた。泣きじゃくっていた。
サツキママの言うお姉ちゃんの原因とはこれのことなのか・・・。全てはこんな昔から始まっていたのか。それには確実に自分の存在も関わっている。知らなかった。そんなこと全然気付かなかった。ただただお姉ちゃんは、私を好きでいてくれて、愛してくれて、だから私を守ってくれるんだと思っていた。私はなんてバカだったんだろう。なんて無知だったんだろう。私の存在は、お姉ちゃんにどれだけの苦痛を与えていたんだろう。私を取り巻く環境と、お姉ちゃんのそれとはほとんど同じだったはずなのに、どうしてこんなにも違ってしまったんだろう。どうして・・・どうしてなの?
「理沙、何泣いてるの? 泣いちゃダメよ。泣いたら私がお母さんに叩かれる。お母さんが来ないうちに早く泣きやみなさい」
麻子はまるで、幼子に話しかけるように優しく言った。しかし理沙は泣きやまなかった。やめることができなかった。
泣きやまない理沙を見つめる麻子は、徐々に苛立っていった。手の甲をポリポリとかきはじめ、低いかすれた声で、とがめるように理沙の名を呼んだ。
「理沙・・・」
それでも理沙は泣きやまず、嗚咽はよりいっそう大きくなった。
麻子の苛立ちは次第に大きくなっていき、ただでさえボサボサの髪を両手でグシャグシャとかきむしり怒鳴りはじめた。
「泣きやみなさい理沙! 何をいつまで泣いているの!」
理沙はビクッと身体を震わせ、思わず顔を上げた。
麻子の身体は理沙に対する怒りと母に対する怯えでガタガタと震えていた。
「イライラする・・・。ああ、イライラする・・・。セックスしたい。セックスしたい。セックスしたいの! セックスさえできればこんなイライラすぐに収まるのに!」
麻子は震える全身を両手で抱きしめ、その場にぺたんと座り込んだ。
震え続けるその身体は、麻薬患者の禁断症状のように見えた。ガチガチと歯を鳴らし、全身を震わせながらも麻子はしゃべり続けるのを止めなかった。
「でもお父さんが、男はみんな麻子の身体だけが目当てで集まってくる悪いやつらだって言ってた。決して近づいたり、身体を許したりしちゃダメだ。お父さんだけが麻子を心から愛してるんだよって。だから・・・どんなにセックスしたくなっても、長い間、ずっとずっと我慢してた。お父さんをがっかりさせたくなかった。・・・でも・・・私にはセックス以外、人に愛してもらえる取り得がない。この世に存在してる価値だってない。お母さんがよく言ってた。あんたは本当にダメな子だって。なんてバカで、役に立たないんだろうって」
麻子の心は、義父の身体と母の言葉に縛られ、支配されていた。
義父から愛してもらうためだけに身体を与え続けた少女。本来無償で注がれるべき愛情が、麻子にとっては身体との交換でやっと手に入るものだった。しかもそれは、利己的で不純で独占的で、とても愛情と呼べるものではない。しかし麻子にとっては、それだけが確かなものだった。誰も麻子の行為が間違っているなどと教えるものはいない。
母は麻子と夫との関係を知っていながら、見て見ない振りをしていたのだろう。麻子さえ与えておけば、生活も自分も安泰だったからに違いない。
しかしそれ綱渡りのような生活も、夫の死によって全てが崩れ去った。母の鬱積した思いが、幼い麻子に向かっていくのは必然の結果だ。理沙の目の事故も、それに拍車をかけたのだろう。
・・・幼い少女の日常は、そうやって過ぎていったのだ・・・。
麻子は自分の居場所を確保するために、生きていくために、自分の自我を殺すしかなかった・・・。
幽鬼のような顔と痩せ細った身体。ひらひらと美しく舞う真っ白いフレアースカート。2つは反発しあいながらも奇妙に相合わさって、麻子の語る物語によりいっそうの不思議さを与えていた。
「私ね、どうすればお母さんが私を愛してくれるのかを一生懸命考えたの。それで思いついた。そうだ。目が不自由になった理沙の面倒を見ればいいんだって。いつだってあの子の面倒をちゃんと見てれば、お母さんは私に優しかったもの。だから頑張った。お母さんに殴られないように、蹴られないように、いつもいつも必死で理沙の面倒を見てきた。理沙が笑えばお母さんも一緒に笑ったし、理沙が泣けばお母さんは私を叩いた。だからいつも理沙が笑っていられるように、理沙が気持ちよくいられるように、それだけを考えて生きてきたの。おかげで理沙は、明るくてよく笑う子になった。目は見えなくても、何も不自由がないように私がしてきたんだもの。そうね、理沙」
麻子はそう言って、階段の上に座り込んでいる理沙を見上げた。
理沙は泣いていた。泣きじゃくっていた。
サツキママの言うお姉ちゃんの原因とはこれのことなのか・・・。全てはこんな昔から始まっていたのか。それには確実に自分の存在も関わっている。知らなかった。そんなこと全然気付かなかった。ただただお姉ちゃんは、私を好きでいてくれて、愛してくれて、だから私を守ってくれるんだと思っていた。私はなんてバカだったんだろう。なんて無知だったんだろう。私の存在は、お姉ちゃんにどれだけの苦痛を与えていたんだろう。私を取り巻く環境と、お姉ちゃんのそれとはほとんど同じだったはずなのに、どうしてこんなにも違ってしまったんだろう。どうして・・・どうしてなの?
「理沙、何泣いてるの? 泣いちゃダメよ。泣いたら私がお母さんに叩かれる。お母さんが来ないうちに早く泣きやみなさい」
麻子はまるで、幼子に話しかけるように優しく言った。しかし理沙は泣きやまなかった。やめることができなかった。
泣きやまない理沙を見つめる麻子は、徐々に苛立っていった。手の甲をポリポリとかきはじめ、低いかすれた声で、とがめるように理沙の名を呼んだ。
「理沙・・・」
それでも理沙は泣きやまず、嗚咽はよりいっそう大きくなった。
麻子の苛立ちは次第に大きくなっていき、ただでさえボサボサの髪を両手でグシャグシャとかきむしり怒鳴りはじめた。
「泣きやみなさい理沙! 何をいつまで泣いているの!」
理沙はビクッと身体を震わせ、思わず顔を上げた。
麻子の身体は理沙に対する怒りと母に対する怯えでガタガタと震えていた。
「イライラする・・・。ああ、イライラする・・・。セックスしたい。セックスしたい。セックスしたいの! セックスさえできればこんなイライラすぐに収まるのに!」
麻子は震える全身を両手で抱きしめ、その場にぺたんと座り込んだ。
震え続けるその身体は、麻薬患者の禁断症状のように見えた。ガチガチと歯を鳴らし、全身を震わせながらも麻子はしゃべり続けるのを止めなかった。
「でもお父さんが、男はみんな麻子の身体だけが目当てで集まってくる悪いやつらだって言ってた。決して近づいたり、身体を許したりしちゃダメだ。お父さんだけが麻子を心から愛してるんだよって。だから・・・どんなにセックスしたくなっても、長い間、ずっとずっと我慢してた。お父さんをがっかりさせたくなかった。・・・でも・・・私にはセックス以外、人に愛してもらえる取り得がない。この世に存在してる価値だってない。お母さんがよく言ってた。あんたは本当にダメな子だって。なんてバカで、役に立たないんだろうって」
麻子の心は、義父の身体と母の言葉に縛られ、支配されていた。
義父から愛してもらうためだけに身体を与え続けた少女。本来無償で注がれるべき愛情が、麻子にとっては身体との交換でやっと手に入るものだった。しかもそれは、利己的で不純で独占的で、とても愛情と呼べるものではない。しかし麻子にとっては、それだけが確かなものだった。誰も麻子の行為が間違っているなどと教えるものはいない。
母は麻子と夫との関係を知っていながら、見て見ない振りをしていたのだろう。麻子さえ与えておけば、生活も自分も安泰だったからに違いない。
しかしそれ綱渡りのような生活も、夫の死によって全てが崩れ去った。母の鬱積した思いが、幼い麻子に向かっていくのは必然の結果だ。理沙の目の事故も、それに拍車をかけたのだろう。
・・・幼い少女の日常は、そうやって過ぎていったのだ・・・。
麻子は自分の居場所を確保するために、生きていくために、自分の自我を殺すしかなかった・・・。
2009年03月22日
5
麻子は陽平をじっと見つめ、ニヤニヤと笑みを浮かべた。
「わかった。そういうことか」
麻子はまるで、難解なクイズを解いた少女のように、ウキウキと明るい声で陽平に話しかけた。
「岩田君がどうして泣いてるかわかったわ。・・・仮にも自分の彼女って言われてる人が、こんなにも痩せて、こんなにもみすぼらしくなったことが悔しいんでしょう。こんな私、抱いてもつまらないと思ってるのね。でもお生憎様。こんな私でも欲しいって言ってくれる男の人は大勢いるの。・・・知ってるんでしょ? 私が今までしてきたこと。だから急に私を抱くの止めたんでしょ? でもね、どんなに痩せても私の身体は素晴らしいの。私のセックスはすごいの。本当はあなたにだってよくわかってるんじゃないの?」
陽平はもう、何がなんだかわからなくなっていた。麻子はいったい何を言っているのだろうか。どうしてそんなふうに考えてしまうのか。いくら愛しても、決してこの人に届くことはないのか。無性に悲しかった。大声を上げて泣きたくなった。
「なんで・・・」
陽平はポツンとつぶやいた。
「なんでそんなふうに考えるんだよ。どうしてわかってくれないんだよ。こんなに・・・こんなに愛してるのに・・・」
陽平がそう言った途端、麻子はケラケラと大きな声で笑いはじめた。異常さが色濃くにじむその笑い声に、理沙も由紀も目を見開き、息を止めた。
「ああおかしい! あんまり笑わせないでよ。愛してる? バカらしい。あるわけないでしょ?そんなこと。こんな私を、誰が愛するっていうのよ。ありえないこと言ってないで、もっと楽しいことしましょうよ。私の身体が欲しいんでしょ? 私とセックスしたいんでしょ?」
「お姉ちゃん!」
理沙がうわずった叫び声を上げた。麻子はそれにゆっくりと反応する。
「・・・何?」
麻子の瞳に射すくめられ、理沙は上手く言葉を発することができない。
「どうしてそんなこと・・・言うの? 岩田さんは、お姉ちゃんのこと思って・・・お姉ちゃんのこと」
麻子は顔に笑顔を張り付かせ、理沙に視線を注ぎ続けた。その表情はもはや神々しいと言ってさえよく、よりいっそうの恐怖を理沙に与えた。
麻子は呆れたように言った。
「だから笑わせないでって言ってるじゃないの。私のことを思って? ありえないでしょ? どうして岩田君が私のことを思ったりするのよ。バカバカしいこと言わないで」
麻子はスーッと息を吸い込むと、教え諭すように、そして誇らしげに語りはじめた。
「いい。この際はっきり言っておくわ。私のことを思って愛してくれる人は、お父さんしかいないの。お父さんだけが、私の心と身体、その全てを愛してくれたの。そりゃ最初は痛かったし、ヤダなって思うこともあった。でもそんなこと言ったら、唯一私を愛してくれるお父さんを傷つけることになる。だから私は、セックスしたくないなんて一度も言わなかった。どんな時でも、お父さんが欲しいって言ってくれたらそれに従った。その分お父さんは、本当に私を可愛がってくれた。そんなお父さんと私のことを、お母さんはいつも変な顔で見てたけど、結局何も言わなかった。お父さんと私は、血こそ繋がってなかったけど、本当の親子よりもずっと親密だったわ。愛し合ってた」
想像だにしなかった麻子の言葉に、理沙は立っていることができず、階段の手すりにすがり、ずるずるとその場にくず折れた。
まさかと思った。ありえないと思った。お父さんのことはほどんど記憶にない。理沙がたった3歳の時に死んだからだ。
お母さんはお姉ちゃんを連れてお父さんと再婚したのだと、遠い昔に聞いたことがあった。確かに血は繋がっていない。でもまさかお父さんと、まだほんの子供だったお姉ちゃんが? それこそありえないじゃないか。
お母さんは知っていたのか? 知ってて黙っていたのか? どうして・・・いったいどうして・・・!
誇らしげに語っていたはずの麻子の口調が、急に沈みこんだ。
「でも・・・唯一私を愛してくれたお父さんは、私が10歳の時に死んじゃった。だからもう、私を愛してくれる人はこの世にいないの。いるはずがないの。お父さんは私を愛してくれた。でもその分お母さんは私を嫌ってた。きっとお父さんが、お母さんより私を愛してたことが悔しかったのね。私はお母さんが大好きだったけど、お母さんは私を憎んでた。本当は、お母さんに私の身体をあげることができればよかったのよね。セックスさえできれば、すぐに私のことを愛してくれるでしょ? でもこればっかりは無理だったわ」
話しながら、麻子はゆっくりと階段を降りていった。歌うように、踊るように、まるで麻子は、童話でも語るように話して聞かせた。
不思議なリズムを持つその話し方は、なぜか内容の悲惨さや嫌悪感を覆い隠し、聞いているものをどんどんとその世界に引きずり込んでいった。
「わかった。そういうことか」
麻子はまるで、難解なクイズを解いた少女のように、ウキウキと明るい声で陽平に話しかけた。
「岩田君がどうして泣いてるかわかったわ。・・・仮にも自分の彼女って言われてる人が、こんなにも痩せて、こんなにもみすぼらしくなったことが悔しいんでしょう。こんな私、抱いてもつまらないと思ってるのね。でもお生憎様。こんな私でも欲しいって言ってくれる男の人は大勢いるの。・・・知ってるんでしょ? 私が今までしてきたこと。だから急に私を抱くの止めたんでしょ? でもね、どんなに痩せても私の身体は素晴らしいの。私のセックスはすごいの。本当はあなたにだってよくわかってるんじゃないの?」
陽平はもう、何がなんだかわからなくなっていた。麻子はいったい何を言っているのだろうか。どうしてそんなふうに考えてしまうのか。いくら愛しても、決してこの人に届くことはないのか。無性に悲しかった。大声を上げて泣きたくなった。
「なんで・・・」
陽平はポツンとつぶやいた。
「なんでそんなふうに考えるんだよ。どうしてわかってくれないんだよ。こんなに・・・こんなに愛してるのに・・・」
陽平がそう言った途端、麻子はケラケラと大きな声で笑いはじめた。異常さが色濃くにじむその笑い声に、理沙も由紀も目を見開き、息を止めた。
「ああおかしい! あんまり笑わせないでよ。愛してる? バカらしい。あるわけないでしょ?そんなこと。こんな私を、誰が愛するっていうのよ。ありえないこと言ってないで、もっと楽しいことしましょうよ。私の身体が欲しいんでしょ? 私とセックスしたいんでしょ?」
「お姉ちゃん!」
理沙がうわずった叫び声を上げた。麻子はそれにゆっくりと反応する。
「・・・何?」
麻子の瞳に射すくめられ、理沙は上手く言葉を発することができない。
「どうしてそんなこと・・・言うの? 岩田さんは、お姉ちゃんのこと思って・・・お姉ちゃんのこと」
麻子は顔に笑顔を張り付かせ、理沙に視線を注ぎ続けた。その表情はもはや神々しいと言ってさえよく、よりいっそうの恐怖を理沙に与えた。
麻子は呆れたように言った。
「だから笑わせないでって言ってるじゃないの。私のことを思って? ありえないでしょ? どうして岩田君が私のことを思ったりするのよ。バカバカしいこと言わないで」
麻子はスーッと息を吸い込むと、教え諭すように、そして誇らしげに語りはじめた。
「いい。この際はっきり言っておくわ。私のことを思って愛してくれる人は、お父さんしかいないの。お父さんだけが、私の心と身体、その全てを愛してくれたの。そりゃ最初は痛かったし、ヤダなって思うこともあった。でもそんなこと言ったら、唯一私を愛してくれるお父さんを傷つけることになる。だから私は、セックスしたくないなんて一度も言わなかった。どんな時でも、お父さんが欲しいって言ってくれたらそれに従った。その分お父さんは、本当に私を可愛がってくれた。そんなお父さんと私のことを、お母さんはいつも変な顔で見てたけど、結局何も言わなかった。お父さんと私は、血こそ繋がってなかったけど、本当の親子よりもずっと親密だったわ。愛し合ってた」
想像だにしなかった麻子の言葉に、理沙は立っていることができず、階段の手すりにすがり、ずるずるとその場にくず折れた。
まさかと思った。ありえないと思った。お父さんのことはほどんど記憶にない。理沙がたった3歳の時に死んだからだ。
お母さんはお姉ちゃんを連れてお父さんと再婚したのだと、遠い昔に聞いたことがあった。確かに血は繋がっていない。でもまさかお父さんと、まだほんの子供だったお姉ちゃんが? それこそありえないじゃないか。
お母さんは知っていたのか? 知ってて黙っていたのか? どうして・・・いったいどうして・・・!
誇らしげに語っていたはずの麻子の口調が、急に沈みこんだ。
「でも・・・唯一私を愛してくれたお父さんは、私が10歳の時に死んじゃった。だからもう、私を愛してくれる人はこの世にいないの。いるはずがないの。お父さんは私を愛してくれた。でもその分お母さんは私を嫌ってた。きっとお父さんが、お母さんより私を愛してたことが悔しかったのね。私はお母さんが大好きだったけど、お母さんは私を憎んでた。本当は、お母さんに私の身体をあげることができればよかったのよね。セックスさえできれば、すぐに私のことを愛してくれるでしょ? でもこればっかりは無理だったわ」
話しながら、麻子はゆっくりと階段を降りていった。歌うように、踊るように、まるで麻子は、童話でも語るように話して聞かせた。
不思議なリズムを持つその話し方は、なぜか内容の悲惨さや嫌悪感を覆い隠し、聞いているものをどんどんとその世界に引きずり込んでいった。
2009年03月15日
4
室内インターフォンのコール音が診察室に響き渡った。
陽平が疲れきった様子でノロノロと受話器を取り上げると、向こう側から戸惑ったようすの由紀の声が聞こえてきた。
「先生あの、お話中失礼します。今ここに・・・えっ?」
由紀が待合室で誰かと話をしているようだ。
「本島君? どうしたの?」
返事がない。どうしたのだろうと思っていると、突然受話器越しに由紀の大声が聞こえた。
「ちょっと待ってください。今は困ります! 先生は今・・・野村さん?!」
ブツッという音と共に、唐突にインターフォンが切られた。
野村? まさか麻子が来たのか・・・?
陽平の目の前には、いぶかしんだ様子の理沙が、膝に置いたバッグをもてあそびながら座っている。診察室の入り口はそのすぐ後ろにあった。陽平は慌てて立ち上がる。
「岩田さん? 何かあったんですか?」
「ごめん理沙ちゃん、ちょっと待っててくれる?」
今ここで、理沙と麻子を会わせてもいいものだろうか。麻子はパニックを起こすのではないか。それよりなにより、自分はもう麻子の治療をするのことはできない。麻子に対して、常に冷静でいることができないのだ。必ず私情が混じり、激したり大声を上げたりと、ただの恋に狂った愚かしい男になってしまう。今よりももっともっと、麻子の病状を進ませてしまう可能性すらある。どうしよう・・・いったいどうすれば・・・?
陽平が迷いと戸惑いの中にいるとき、突然コンコンというノックの音がした。
陽平が恐る恐るドアを開けると、そこには彼が会いたくて会いたくてたまらなかったはずの麻子が立っていた。
「麻子」
息を呑み、息を吐き、呟きと共に陽平は麻子の名を呼んだ。
麻子の様子は一変していた。頬はやつれ、髪はパサついて乱れ、目の下には濃いクマができている。落ち窪んだ瞳はまるで生気を感じさせず、亡霊か幽鬼のように恐ろしく見えた。
バサッ。
ゆっくりと立ち上がった理沙の膝からバッグがこぼれ落ちた。
麻子のドロドロとした視線が、陽平を通り越し音に向う。そこには両手で口元を覆い、息を呑んだまま立ち尽くす妹が立っていた。
「理沙・・・」
麻子はひと言そう呟くと、きびすを返して走り出した。
「待てよ、麻子! ・・・麻子!」
階段の途中で陽平の手が麻子の腕をつかむ。それは驚くほどに細く、弱々しい腕だった。どのくらいの間まともに食事をしていないのだろう。その痩せ方はまさに病的としか言いようがなかった。麻子は陽平につかまれた腕を振りほどこうとしたが、その力は小さい女の子のそれより弱かった。
「お姉・・・」
麻子が階段の上から自分を見下ろす理沙を見た。驚きと戸惑いと恐怖と嫌悪、その全てをはらんだ理沙の視線は、麻子に自虐的といっていい喜びの快感をもたらした。
「ふふふ・・・」
麻子は笑っていた。最初はニヤニヤと、そして次第にクスクスと声を出して笑いはじめた。
「なに? その目。言いたいことがあるなら言ったら?」
「お姉・・・ちゃん・・・?」
「そうよ。だから何?」
理沙の瞳から、次々と大粒の涙が溢れ出した。
悲しいとか、苦しいとか、辛いとか、そういうありふれた類(たぐ)いの涙ではない。麻子のその姿は、見ているだけで心をどん底にまで突き落とし、揺さぶる力をはらんでいた。
「どうして泣くの? 意味がわからない」
麻子は面白そうに言った。愉快で愉快でたまらない、そんな笑顔だった。
自分のせいだ。自分が麻子をここまで追い詰めたのだ。
陽平の胸はキリキリときしみ、目には激しい後悔の涙が浮んだ。
麻子の焦点の合わない視線は、次第にギラギラと輝きはじめた。
「岩田君までなに泣いてるのよ。変な人」
麻子は満ち足りたような笑顔で、心底楽しそうにそう言った。
恐怖と嫌悪に顔を歪めた由紀は、階段下に呆然と佇み、全身をブルッと震わせた。
陽平が疲れきった様子でノロノロと受話器を取り上げると、向こう側から戸惑ったようすの由紀の声が聞こえてきた。
「先生あの、お話中失礼します。今ここに・・・えっ?」
由紀が待合室で誰かと話をしているようだ。
「本島君? どうしたの?」
返事がない。どうしたのだろうと思っていると、突然受話器越しに由紀の大声が聞こえた。
「ちょっと待ってください。今は困ります! 先生は今・・・野村さん?!」
ブツッという音と共に、唐突にインターフォンが切られた。
野村? まさか麻子が来たのか・・・?
陽平の目の前には、いぶかしんだ様子の理沙が、膝に置いたバッグをもてあそびながら座っている。診察室の入り口はそのすぐ後ろにあった。陽平は慌てて立ち上がる。
「岩田さん? 何かあったんですか?」
「ごめん理沙ちゃん、ちょっと待っててくれる?」
今ここで、理沙と麻子を会わせてもいいものだろうか。麻子はパニックを起こすのではないか。それよりなにより、自分はもう麻子の治療をするのことはできない。麻子に対して、常に冷静でいることができないのだ。必ず私情が混じり、激したり大声を上げたりと、ただの恋に狂った愚かしい男になってしまう。今よりももっともっと、麻子の病状を進ませてしまう可能性すらある。どうしよう・・・いったいどうすれば・・・?
陽平が迷いと戸惑いの中にいるとき、突然コンコンというノックの音がした。
陽平が恐る恐るドアを開けると、そこには彼が会いたくて会いたくてたまらなかったはずの麻子が立っていた。
「麻子」
息を呑み、息を吐き、呟きと共に陽平は麻子の名を呼んだ。
麻子の様子は一変していた。頬はやつれ、髪はパサついて乱れ、目の下には濃いクマができている。落ち窪んだ瞳はまるで生気を感じさせず、亡霊か幽鬼のように恐ろしく見えた。
バサッ。
ゆっくりと立ち上がった理沙の膝からバッグがこぼれ落ちた。
麻子のドロドロとした視線が、陽平を通り越し音に向う。そこには両手で口元を覆い、息を呑んだまま立ち尽くす妹が立っていた。
「理沙・・・」
麻子はひと言そう呟くと、きびすを返して走り出した。
「待てよ、麻子! ・・・麻子!」
階段の途中で陽平の手が麻子の腕をつかむ。それは驚くほどに細く、弱々しい腕だった。どのくらいの間まともに食事をしていないのだろう。その痩せ方はまさに病的としか言いようがなかった。麻子は陽平につかまれた腕を振りほどこうとしたが、その力は小さい女の子のそれより弱かった。
「お姉・・・」
麻子が階段の上から自分を見下ろす理沙を見た。驚きと戸惑いと恐怖と嫌悪、その全てをはらんだ理沙の視線は、麻子に自虐的といっていい喜びの快感をもたらした。
「ふふふ・・・」
麻子は笑っていた。最初はニヤニヤと、そして次第にクスクスと声を出して笑いはじめた。
「なに? その目。言いたいことがあるなら言ったら?」
「お姉・・・ちゃん・・・?」
「そうよ。だから何?」
理沙の瞳から、次々と大粒の涙が溢れ出した。
悲しいとか、苦しいとか、辛いとか、そういうありふれた類(たぐ)いの涙ではない。麻子のその姿は、見ているだけで心をどん底にまで突き落とし、揺さぶる力をはらんでいた。
「どうして泣くの? 意味がわからない」
麻子は面白そうに言った。愉快で愉快でたまらない、そんな笑顔だった。
自分のせいだ。自分が麻子をここまで追い詰めたのだ。
陽平の胸はキリキリときしみ、目には激しい後悔の涙が浮んだ。
麻子の焦点の合わない視線は、次第にギラギラと輝きはじめた。
「岩田君までなに泣いてるのよ。変な人」
麻子は満ち足りたような笑顔で、心底楽しそうにそう言った。
恐怖と嫌悪に顔を歪めた由紀は、階段下に呆然と佇み、全身をブルッと震わせた。
2009年03月08日
3
診察室に入ると、理沙はペコッと陽平に頭を下げた。
陽平が最後に理沙を見かけたのは、陽平が中学生のころだった。あれからすでに20年以上の時が過ぎていたが、理沙は驚くほど変わっていなかった。まるで彼女の上だけには、時間の流れが止まっていたかのようだ。
理沙と麻子の持っている雰囲気は、姉妹だというのに驚くほど違っていた。でも、ほんの少し緊張しているように見える理沙の顔は、初めてここを訪れた時の麻子を彷彿(ほうふつ)とさせた。
「今日は突然お時間作っていただいて、本当にありがとうございます」
「そんなのいいから座って。ハーブティー淹れてもらったんだけど飲める?」
まだ緊張がほぐれない顔で、理沙は小さく「ありがとうございます」といった。
「理沙ちゃん、ちょっと緊張してる? 大丈夫?」
ソファに座り、理沙は照れたような笑顔を向けて、「病院の診察室には慣れてるはずなんですけど、ちょっと緊張してるかも。すいません」といった。
「精神科って、やっぱり雰囲気違うのかな。僕も白衣とか着てないしね」
「そのせいなのかな?」
理沙は手持ち無沙汰なのか、一度ソファの上に置いたバッグを取り上げて膝に置き直し、ハーブティーを一口飲んでフゥと息を吐いた。
「どう? 少しは緊張ほぐれた?」
「はい・・・」
理沙はまだぎこちなさが残る笑顔を陽平に向けた。
さて、まず何から聞こうか・・・と陽平は考えた。
どうしてここを知っているのか、それともなぜ自分に会いに来たのかを聞くのが先か・・・。どの順番で聞けば一番効率よく進められるだろうか。
あれこれ思案しながら陽平がハーブティーのカップをつかむと、理沙が唐突に口を開いた。
「岩田さん。お姉ちゃんはセックス依存症という病気なんですか?」
陽平は驚きのあまり手に持っていたカップを落としそうになった。
なぜそれを知っているのだろうか。純也に聞いた? いや、彼は麻子が何かの病気であることには気付いていたけれど、セックス依存症であることは知らないはずだ。では調べたのか? それとも・・・。
陽平の頭はめまぐるしく回転していたが、答えを導き出すことはできなかった。
「理沙ちゃん・・・どうして?」
「・・・実は1ヶ月ほど前、家に変な男から電話がかかってきたんです。それで・・・」
理沙はこの1ヶ月の間に起こったことを、できるだけわかりやすく、順番通りに喋ろうと心がけた。
陰湿な、ねっとりと絡みつくような声の男からの電話。その電話で麻子が銀行を辞めたと知ったこと。ひとりで銀行に行き、つかさと美鈴に話を聞いたこと。その日のうちに『紫頭巾』に行ったこと。噂になってしまった麻子の行動。麻子が陽平と付き合っていると知ったこと。
そして・・・自分で調べなさい、そうすれば心の目が開くからとサツキに言われたこと・・・。
「帰ってから、純也さんにも話を聞きました。純也さんは始め、私がショックを受けるだろうって思って、自分は何も知らないって言ってました。でも、最後はちゃんと話してくれました。それから私、いろいろと自分なりに調べたんです。サツキさんの言っていた原因ってなんだろうって。私小さいころから、ずっとお姉ちゃんに守られてきました。それこそ何から何まで、全てにおいてです。お姉ちゃんがいなければ、今の私はここにいません。それは確かです。・・・だから、私にできることがあるならそれをやりたいんです。お姉ちゃんの役に立ちたいんです。私に何か、できることはありませんか?」
理沙の話は、自分でも驚くほどのショックを陽平に与えていた。
理沙が全てを知っていたことがショックなのではない。麻子の病状が、仕事を辞めざるを得ないほど進んでいたこと。そして何より、自分だけが麻子の退職を知らずにいたことが、陽平を思いもかけないほどに打ちのめしていた。なぜ自分が、こんなにも大事なことを、妹とはいえ人伝えで聞かなければならないのか。
陽平は、自分がバカげた嫉妬をしているのだとわかっていた。同時に、自分はもう、麻子の主治医でいることはできないのだと思い知った。麻子に関してまるで冷静さを保つことができないのだ。
会社を辞めたことを自分に言わなかったからといって、それがなんだというのだ。こんな嫉妬はあまりにもバカげている。それを頭では充分理解しているのに、嫉妬心が消えることはない。
誰かを好きになるということは、人をこんなにも愚かな存在に変えてしまうのか。なんてバカバカしく、なんて醜く、なんて浅ましい・・・そして、なんて切ないんだろう・・・。
陽平は急に、麻子に会いたいと思った。どうしても今、麻子に会いたいと思った。
陽平が最後に理沙を見かけたのは、陽平が中学生のころだった。あれからすでに20年以上の時が過ぎていたが、理沙は驚くほど変わっていなかった。まるで彼女の上だけには、時間の流れが止まっていたかのようだ。
理沙と麻子の持っている雰囲気は、姉妹だというのに驚くほど違っていた。でも、ほんの少し緊張しているように見える理沙の顔は、初めてここを訪れた時の麻子を彷彿(ほうふつ)とさせた。
「今日は突然お時間作っていただいて、本当にありがとうございます」
「そんなのいいから座って。ハーブティー淹れてもらったんだけど飲める?」
まだ緊張がほぐれない顔で、理沙は小さく「ありがとうございます」といった。
「理沙ちゃん、ちょっと緊張してる? 大丈夫?」
ソファに座り、理沙は照れたような笑顔を向けて、「病院の診察室には慣れてるはずなんですけど、ちょっと緊張してるかも。すいません」といった。
「精神科って、やっぱり雰囲気違うのかな。僕も白衣とか着てないしね」
「そのせいなのかな?」
理沙は手持ち無沙汰なのか、一度ソファの上に置いたバッグを取り上げて膝に置き直し、ハーブティーを一口飲んでフゥと息を吐いた。
「どう? 少しは緊張ほぐれた?」
「はい・・・」
理沙はまだぎこちなさが残る笑顔を陽平に向けた。
さて、まず何から聞こうか・・・と陽平は考えた。
どうしてここを知っているのか、それともなぜ自分に会いに来たのかを聞くのが先か・・・。どの順番で聞けば一番効率よく進められるだろうか。
あれこれ思案しながら陽平がハーブティーのカップをつかむと、理沙が唐突に口を開いた。
「岩田さん。お姉ちゃんはセックス依存症という病気なんですか?」
陽平は驚きのあまり手に持っていたカップを落としそうになった。
なぜそれを知っているのだろうか。純也に聞いた? いや、彼は麻子が何かの病気であることには気付いていたけれど、セックス依存症であることは知らないはずだ。では調べたのか? それとも・・・。
陽平の頭はめまぐるしく回転していたが、答えを導き出すことはできなかった。
「理沙ちゃん・・・どうして?」
「・・・実は1ヶ月ほど前、家に変な男から電話がかかってきたんです。それで・・・」
理沙はこの1ヶ月の間に起こったことを、できるだけわかりやすく、順番通りに喋ろうと心がけた。
陰湿な、ねっとりと絡みつくような声の男からの電話。その電話で麻子が銀行を辞めたと知ったこと。ひとりで銀行に行き、つかさと美鈴に話を聞いたこと。その日のうちに『紫頭巾』に行ったこと。噂になってしまった麻子の行動。麻子が陽平と付き合っていると知ったこと。
そして・・・自分で調べなさい、そうすれば心の目が開くからとサツキに言われたこと・・・。
「帰ってから、純也さんにも話を聞きました。純也さんは始め、私がショックを受けるだろうって思って、自分は何も知らないって言ってました。でも、最後はちゃんと話してくれました。それから私、いろいろと自分なりに調べたんです。サツキさんの言っていた原因ってなんだろうって。私小さいころから、ずっとお姉ちゃんに守られてきました。それこそ何から何まで、全てにおいてです。お姉ちゃんがいなければ、今の私はここにいません。それは確かです。・・・だから、私にできることがあるならそれをやりたいんです。お姉ちゃんの役に立ちたいんです。私に何か、できることはありませんか?」
理沙の話は、自分でも驚くほどのショックを陽平に与えていた。
理沙が全てを知っていたことがショックなのではない。麻子の病状が、仕事を辞めざるを得ないほど進んでいたこと。そして何より、自分だけが麻子の退職を知らずにいたことが、陽平を思いもかけないほどに打ちのめしていた。なぜ自分が、こんなにも大事なことを、妹とはいえ人伝えで聞かなければならないのか。
陽平は、自分がバカげた嫉妬をしているのだとわかっていた。同時に、自分はもう、麻子の主治医でいることはできないのだと思い知った。麻子に関してまるで冷静さを保つことができないのだ。
会社を辞めたことを自分に言わなかったからといって、それがなんだというのだ。こんな嫉妬はあまりにもバカげている。それを頭では充分理解しているのに、嫉妬心が消えることはない。
誰かを好きになるということは、人をこんなにも愚かな存在に変えてしまうのか。なんてバカバカしく、なんて醜く、なんて浅ましい・・・そして、なんて切ないんだろう・・・。
陽平は急に、麻子に会いたいと思った。どうしても今、麻子に会いたいと思った。
2009年03月01日
2
『新宿メンタルクリニック』の受付の電話が鳴った時、陽平はちょうど午前の診察を終えてちょっとした休みを取っていた。
陽平が『紫頭巾』で麻子の話を聞いてから、すでに2ヶ月近くが経つ。最近麻子からの連絡が途絶え、全く会えない日々が続いている。早く麻子の診察をしなくてはと気ばかり焦るが、何もできないまま時間だけが過ぎていった。
「もしもしお待たせいたしました。『新宿メンタルクリニック』です」
由紀が電話に出ると、聞き覚えのない女性の声が聞こえてきた。
「あの・・・私、野村理沙と申します。・・・岩田先生はいらっしゃいますか?」
「はい。少々お待ち下さい」
野村・・・そういえば最近野村さん来てないなぁと思いながら、由紀は電話の保留ボタンを押し、診察室に繋がる室内インターフォンの受話器を持ち上げた。
「先生、野村理沙さんという方から、2番にお電話です」
「野村、理沙?」
「そうですけど」
「なんか聞いたことあるなぁ。野村理沙、野村理沙・・・野村・・・理沙?!」
受話器の向こうから、陽平の焦ったような息づかいが聞こえてきた。
「わっわかった。すぐ出る!」
ガチャ! っとインターフォンが切られた。そのあまりにも唐突で乱暴な音に、由紀は怪訝そうに受話器を見つめ、首を傾げた。
野村理沙って、麻子の妹じゃないか!
診察室で陽平はひとり焦っていた。
どうしてここがわかったんだろう。麻子が教えたのか? いや・・・麻子がセックス依存症になったことと、妹のことは少なからず関係がある。妹という言葉にすら過剰反応していた麻子が、理沙にここを教えるとは思えない。じゃあどうして???
何がなんだかわからないままに、陽平は電話の保留ボタンを押した。
「もしもしお電話代わりました。岩田です」
「あの・・・野村理沙と申します。野村麻子の妹です。突然お電話してしまって申し訳ありません。いつも姉がお世話になっています」
「理沙ちゃん、久しぶりだね。元気そうで安心したよ」
受話器の向こうから、理沙の戸惑ったような声がした。
「えっ・・・?」
「・・・目が見えるようになったんだってね。お姉さんに聞いたよ。それから結婚式、もうすぐなんだって? おめでとう」
「・・・姉はそんなことを岩田さんに?」
「僕とお姉さんは中学時代の同級生なんだ。理沙ちゃんのことも、昔何度も見かけたことあるんだよ」
「そう・・・ですか」
「で、今日はどうしたの?」
「あの・・・岩田さん、私と会っていただけないでしょうか。できたら結婚式より前に会っていただきたいんです。無理でしょうか?」
切羽詰ったような理沙の声。麻子と理沙がだいぶ長い間会っていないことは、この前純也から聞いていた。純也も理沙も、その原因がわからないと言っていた。しかし理沙から直接話を聞いてみたい。これは逆にいい機会なのかもしれないと陽平は思った。
「大丈夫だよ。理沙ちゃんはいつならいいの?」
少しの沈黙のあと、理沙の声がした。
「・・・今日は、ダメですか?」
その声は、ほんの少しだけ震えていた。
陽平が『紫頭巾』で麻子の話を聞いてから、すでに2ヶ月近くが経つ。最近麻子からの連絡が途絶え、全く会えない日々が続いている。早く麻子の診察をしなくてはと気ばかり焦るが、何もできないまま時間だけが過ぎていった。
「もしもしお待たせいたしました。『新宿メンタルクリニック』です」
由紀が電話に出ると、聞き覚えのない女性の声が聞こえてきた。
「あの・・・私、野村理沙と申します。・・・岩田先生はいらっしゃいますか?」
「はい。少々お待ち下さい」
野村・・・そういえば最近野村さん来てないなぁと思いながら、由紀は電話の保留ボタンを押し、診察室に繋がる室内インターフォンの受話器を持ち上げた。
「先生、野村理沙さんという方から、2番にお電話です」
「野村、理沙?」
「そうですけど」
「なんか聞いたことあるなぁ。野村理沙、野村理沙・・・野村・・・理沙?!」
受話器の向こうから、陽平の焦ったような息づかいが聞こえてきた。
「わっわかった。すぐ出る!」
ガチャ! っとインターフォンが切られた。そのあまりにも唐突で乱暴な音に、由紀は怪訝そうに受話器を見つめ、首を傾げた。
野村理沙って、麻子の妹じゃないか!
診察室で陽平はひとり焦っていた。
どうしてここがわかったんだろう。麻子が教えたのか? いや・・・麻子がセックス依存症になったことと、妹のことは少なからず関係がある。妹という言葉にすら過剰反応していた麻子が、理沙にここを教えるとは思えない。じゃあどうして???
何がなんだかわからないままに、陽平は電話の保留ボタンを押した。
「もしもしお電話代わりました。岩田です」
「あの・・・野村理沙と申します。野村麻子の妹です。突然お電話してしまって申し訳ありません。いつも姉がお世話になっています」
「理沙ちゃん、久しぶりだね。元気そうで安心したよ」
受話器の向こうから、理沙の戸惑ったような声がした。
「えっ・・・?」
「・・・目が見えるようになったんだってね。お姉さんに聞いたよ。それから結婚式、もうすぐなんだって? おめでとう」
「・・・姉はそんなことを岩田さんに?」
「僕とお姉さんは中学時代の同級生なんだ。理沙ちゃんのことも、昔何度も見かけたことあるんだよ」
「そう・・・ですか」
「で、今日はどうしたの?」
「あの・・・岩田さん、私と会っていただけないでしょうか。できたら結婚式より前に会っていただきたいんです。無理でしょうか?」
切羽詰ったような理沙の声。麻子と理沙がだいぶ長い間会っていないことは、この前純也から聞いていた。純也も理沙も、その原因がわからないと言っていた。しかし理沙から直接話を聞いてみたい。これは逆にいい機会なのかもしれないと陽平は思った。
「大丈夫だよ。理沙ちゃんはいつならいいの?」
少しの沈黙のあと、理沙の声がした。
「・・・今日は、ダメですか?」
その声は、ほんの少しだけ震えていた。